日記。
心血を注いできたと断言できる神経症の完治だが、成功したら涙を流して自分が感動するんじゃないか、と思っていたが案外そんなことはなかった。
そんなに感情は強く動かないし、「ああ、やっと終わった」「長かった、疲れた」という感覚だ。
ただ、じわじわと感じるものがある。
「やっぱり俺はこういう方がいい」と思った。
完治した人は、自分でもこんなものなのかと思う程度なのだが、確実に視点は変わった。
認知能力は上がった。賢くなった。
自分の変化は自分には「経緯がある」ので、実際には自分の変化に感動などしない。
「周りで起きること」に感動したり驚いたりするのだ。
だから、自分が変化せずに生きている人は周りに喜ばせてもらおうとばかりしていて、自分が変化して「他人の手をいちいち煩わせない自分」になろうとしないのだ。
やっと、この俺が天才であるとわかったか。
と、聞いたが、もう疑いようもないだろう。
天才は理解されないから天才なのであって、誰にもわかってもらえなくても結果を出すのだ。
自分が正しいから結果を出すのではなく、そうなると「知っている」からそうなっただけだ。
ただ、信じる人はいない。少なくとも神経症の人は僕を信じない。
神経症の人は、僕だけでなく何も信じない。
社会的に名のあるものを崇拝、盲信はしても、事実、今自分が体験している本物だけは信じない。
自分が体験したら、それを誰かに説明してもらわなくてはならない。
自分ではなにひとつ判断しない。他人に教えてもらいながら生きていく。
だが、誰にも認められなくても誰も肯定しなくても自分の決断で進めなくては、自分の意思とは言えない。
他人が認めないから、世間が間違っているというから、だから間違いだと判断するならそんなものは最初から自分の意思でもなんでもない。
結果は出たが、僕はそれをどこかで認めてもらう気もない。
僕が、見たかったのだ。
確認したかったし、一度は間違いない成功を自分のやり方で成し遂げなくてはならなかった。
僕がそうであったように、他の人も同じ材料を持ち合わせたら目が覚める、と確認したかった。
そして確認した。
外から見たかった。他人から見たらどう変化するのかを。
普通、になった。僕から見たらそんな感じだ。
洗脳されていた独りよがりな人が、まともになった。
世間で目的とされているところと、僕が目指しているものは違う。
僕は、「自分の存在、自分の命が大切なものなのだ」と自覚し、これからは自分の力を、命を、大事に使おうとするようになってほしかった。
「他人との違いがはっきりわかるようになった」と本人は言っていた。
人間は一度変わってしまうと、もう過去の感情は持たない。
今の自分の感情しか、湧いてこない。
よって、同じ親、似たような場面でも、今までのように腹は立たない。
もう視点は変わっている。成長したのだ。
だが、僕が教えてきた多くは「その後の段階の話」なので、これから先もある。
これからは本人の体験が変わっていく。新たな苦を体験し、新たな喜びを感じることになるだろう。
時々もう無理かもしれないと思ったし、こんなことをしたら批判のリスクは確実にある、とも思ったが、間違いなく必要なことのためなので、それでもやってきた。
森田先生のように、我が一族にかつての力が残っていればできることも多かったのにと思った。
森田先生もかつて独自に療法を考案した時は、保険も効かないのに多額の治療費を取り、家の中に住まわせ掃除などの雑用をやらせている、と悪意ある見方をされて批判にさらされたらしい。
西洋医学を崇めている「現代社会の人々」には受け入れがたい、「日本らしいやり方」だった。
精神医療は根本が西洋のものだ。療法も理論も、何もかもだ。
日本人は今や西洋人の真似事をして、いかに西洋人に近づけるかという民族になった。
自分たちを捨てた。その報いが今だ。
自分たちが元々持っていたものを捨てたことすら、気づいていない。
僕はその「元々持っていたもの」を自覚させ、意識の上での繋がりを持たせた。
それは僕が天才だからやれているのではなく、元々我々一族が培ってきたものがあるからできることだ。
幼児期から僕がやらされていたことが、修行なのだと自分では知らなかった。
僕は小学生の頃に既に知能が高かったが、その思考になるように幼児期に既に鍛錬を積まされていた。ちなみに、姉はその鍛錬を積んでいない。
だから僕の方が賢い。母は手遅れだった、と言われたらしい。
今、目が覚めた人は今度こそ僕の話を聞いて理解できるようになった。
これから益々賢くなるだろう。
なぜ、現代社会の人たちが「なにかになろうとしているのか」を既に本人も理解しているし、本人は既に自分が誰なのかを自覚したから、もうなにかになろうとすることはない。
そんなことは「したくない」だろう。
自然にそうなるのだ。
自分の力を持って、人のためにできることがあればしたい、と自然に思う。
それが、成長したということだ。
マズローの理論に照らし合わせて言うならば、欲求の階層は段階が上がり、利他的に生きる喜びを知れる段階まで来た。
そういえば、僕もその昔、自分が変わったら自分が感動するような何かが起きると思っていたものだ。
だが、自分自身については「常に理由がわかる」ので、特別大きな感動などなかった。
ただ、過去を振り返り自分が何をしていたのか「他人に何をしてもらっていたのか」を自覚すると、強く実感するものはあった。
沢山の人に与えられて今に至っているという実感が生まれ、自分のこれからを無駄遣いしてはいけない、と心から思った。
心の中では「感じ入る」ものがあるのに、形の上ではいつも通り何事もなく、大きな何かがあるわけではなく、ただ、自分の胸の内だけで今までにはなかったものを感じるのだ。
やはり、本物はこうでなくては、と思った。
世間に認められてちやほやされるのではなく、誰もに見えるところで何かをしているのでもなく、その逆。
漫画だってそうだ。
いちいち脇役皆に見せびらかして認めてもらって成功、幸せ、なんて主人公がやることではない。
人知れず、ここにいる「当事者」しか知らない。
だが、世間では聞いたこともない、見たこともない、「教えられた誰もがやっているのと同じこと」をしているわけではないのに、どんなところに行っても体験しなかった結果が出る。
この方が感動じゃないか。僕はこっちのほうがいい。
西洋かぶれの貴族どもよ、見るがいい。
これが日本が培ってきた力だ。
毒親の子、は、毒親の子ではなくなり、今までとは違う家庭の子になった。
生まれ変わった。これでいいんだ。
遥か彼方からの繋がりを意識の上でも自覚すれば、今度こそ肉体に刻まれた能力を覚醒させられるだろう。
ここまで結果を出さなくては、目が覚めた本人だって僕を信じはしない。
そして驚くだろう。驚いていた。
ここまで先のことを見越して、あの、何年も前にやってきた頃からずっとずっと必要な材料をあの手この手で差し込んでいったのだ。脳内に。感覚に。
だが、この方法は、二度三度できるものではない。
なにせ僕が、どうしても見極めて行かねばならないのだから、僕がいないとできない。
少なくとも目が覚めた本人は「場を用意する方は大変なのだ」と理解することができた。
そして人生を、残りの寿命をもう無駄にはしない。
そういう生き方ができる人に変わった。
俺はもう疲れた。どの道もう同じことはできないと思っていたし、これを最後にしようと決めていた。
この一回を成功させて、何が足りないのかもよくわかった。確認できた。
しかしこれは、誰もが教えられるものではないだろう。
少なくとも、教える方は自分を自覚している必要があるし、たった今、金や地位のために自分都合で動いているようでは駄目だ。
自分の存在を遥か昔からの繋がりで自覚している必要があるのだ。
今回はたまたま、色んな条件が重なってうまく行った。
社会ではひとりひとりの人生など知ったことではない。他の人たちだって似たようなものなのだから。
だが、本人にとっては重大なことだ。
本当に、気づいてよかった。
やりきったせいで、もう僕が死んでしまうんじゃないかと思うほど、確実に間違いない、と成功を確認した。
神経症は治る。治った。
過去は書き換わり、本人の情緒も安定した。
出口の無い暗闇をふらついていた魂は、やっと出口にたどり着きのろのろと這上ってきたのだ。
「思ったのとは違う」ので、本人も不思議な感覚だろう。
これが、「本物」なのだ。