皆さんは、今年どんなクリスマスを過ごしているでしょうか?
時には必要はなくとも過去の思い出を振り返り、自分の気持ちを確認してみてはいかがでしょうか。
こと争っては人と破綻している人は、言葉のやり取りや思い通りにならない怒りや憎しみばかりを抱えますが、振り返ったら「そんなに憎い人なら楽しいことなんてあったはずない」のに、普通に楽しい時間もあったなんてことにも気づくでしょう。
「そこまで許せないほど、酷い人だったのか?」
大体、他人を思い通りに動かそうとすればどんな人でも憎くなるのは当たり前です。そんなことできるわけないですから。人間を相手に「思った通りにしてもらい続ける」なんて考えていたら、「あるわけない」のですから、腹が立つに決まっています。
幸せに「してもらう」と思って不幸なまま生きている人は、最終的には諦めるしか道はありません。
しかし、どうせ諦めて自分で自分の道を歩くならば、あの人ともっと仲良くしておいた方がよかった、と思える人がいないでしょうか。
病んだ人は自分が病んでいるのに、健全な人が分析するための物差しを振りかざします。
そんな真似をして自分だけ優位に立たせ続けるから、いつまで経っても自分は病んだままなのです。
病んだ人は他人が病んでいるなんてことは、わかりません。自分が病んでいるのですから。
病んでいる人はどんな人も気に入らなくて普通です。自分が矛盾しているならば、どんなに健全な相手も自分に合わせてくれる相手も、みんなおかしく見えます。
どんな人も酷い人に見えてくるのが「病んだ目で人を見る人」です。
しかし、酷いとか酷くないなんてことは、「これまでは普通にもらえたものがもらえなかった」などの場合に思うことです。
「私の期待に応えない」など、何様のつもりの不満かと言えるほど、傲慢極まりない不満です。
私は期待して尽くした。私はそう思えた。思わせたのは相手が悪い、期待通りにしないのも相手が悪い。
とにかく「私は犠牲を払って損した!」と思っているのです。
その「損ばかりの人」は、明日死ぬとして、振り返ってみた時に、こうして自分の過去の写真を見ても「いいことはひとつもなかった」と言えるでしょうか。
他人が自分のために何かしてくれることも、義務ではないのです。
自分のために何かしなくてもいいのです。親だってしないことを、他人様がわざわざしてあげる義務はないのです。
何を言おうが、相手はやらなくてもいいのです。
してくれること自体を「当たり前」だと思っていれば、もらえたものにケチをつけてはどんどん欲張るようになるでしょう。
自分がしてあげたことで、相手は幸せになれたのか?誰かに、また自分に、それをしてほしいと望んでいたことをやったのか?
自分の望みを叶えてもらいたいならば、相手が望んでいたことをやらねばなりません。
本当に、相手は自分がしてあげたことを誰にもしてもらえなくて、不幸な人生を生きていたのでしょうか?
それがご機嫌を取って迎合することであっても、相手は誰にも迎合してもらえない、ちやほやしてもらえないことで不満を抱えて生きていたのでしょうか。
自分がしてほしいことを他人にしてあげて優越感に浸るという、ただの独りよがりではないでしょうか。
そして、あなたの人生は過去を振り返っても「嘆くほど人並外れて酷いことばかりの人生」でしょうか。
死は、突然やってきます。
それは明日かもしれません。
その時に振り返るのは「これまで」の思い出だけです。
ですから、これまでの思い出を時にはもう死ぬと思って最後に振り返るつもりで振り返ってみてはいかがでしょうか。
自分の今に必要なもの、これからすべきことを考える時は、「これまでの人生」を振りかえることも大切です。
僕も、いつ死んでもいい準備をして生きていようと心がけています。
こうして振り返ってみるといろんなことがありました。困ったこともありましたし、苦労ばかりだったなと思います。
それでも、僕は「この僕」としてあの家に生まれたというのに、十分子供の頃には想像もできない幸せを体験したと嬉しく思っています。
生徒、相談者の皆さん、今までどうもありがとうございました。
僕ももうじき50という年になりますから、人生は終焉と心得て、死に向かって進んでいきたいと思います。