嘘しか言わない人との無駄時間。お互いに時間の無駄。
相手は夢のような展開が現実に起きる!と期待するし
こっちは現実の相手を見ているからいつまで経っても何を考えているのかわからない
互いに時間の無駄にしかならない、最悪の結果を招きます。
今回は短いです!20分もないので是非聞いてください!
「生きる」をはじめる、自分を幸せにする自己教育のためのサイト
嘘しか言わない人との無駄時間。お互いに時間の無駄。
相手は夢のような展開が現実に起きる!と期待するし
こっちは現実の相手を見ているからいつまで経っても何を考えているのかわからない
互いに時間の無駄にしかならない、最悪の結果を招きます。
今回は短いです!20分もないので是非聞いてください!
女の夢、と言っても現実を生きない人たちの話だが、「これは女の夢なのだろうなあ」と思う形を現実にした人たちがいる。
それを見てこれが理想なのかと思うと、そこを目指している人たちは確かに沢山いたなと思う。
ママ活している人たちがそれだ。
一言で言えば、逆ハーレムだ。
大勢の男にちやほやされる。言い寄ってもらえる。
だが、自分は特別誰も好きにならない。
ベッタベタなハーレム展開にありがちなやつだ。
沢山の男にちやほやされたいのだから、特定の人など決められるわけがない。
ちやほやされながら、男を変えながら自分が憧れるデートもできるし、セックスもできるし、いつだって自分がやりたいことをやれるのだ。
「やってみたい」を形にしているのだ。
ただし、相手はいない。
特別な相手との関係ではなく、特別な相手がいたらやりそうなことをやりたいだけなのだ。
つまり相手はいらない。誰でもいい。
「特別なことが起きている感」が欲しいだけだから、相手は誰でもいい。仕事と同じだ。
これは人格なんて問題ではなく、真理と言ってもいいだろう。
騙されて生きる人には特徴がある。
・本気になったことがない
・自分は特別な存在だという設定で生きている
この二つを備えている。
騙されて生きる人は、騙されていることに気づいていない。
勿論騙されているのだから、自分では何もおかしくないと思っている。
そして騙され続ける。
たどり着かないゴールを目指しながら走り、向こうからやってくる幸せを待ち続ける。
これでもない、あれでもない、と出会うものを捨てて生きる。
そして妄想の世界にしがみつく。
まず、本気になったことがない、という点について何が問題なのかだが、本気になったことがないということは、他人が本気かそうでないかを「見分けられない」ということになる。
本気になった時、つまり自分の中で本気とそうでない時の違いを体験して、初めてその区別は可能になる。
だから本気になったことがない人は、他人が本気で言っていることと冗談で言っていることの区別もできない。
他人が本気かどうかは、自分で勝手に作ってしまう。
「そう思える」
それだけで世界を創造してしまうのだ。神のような存在だ。
勿論、自分に都合がいいことが起きているといかに決めつけたところで、妄想は現実にはならない。
事実、本気の人とそうでない人がいる。
だが当然「自分に都合がいいこと」を勝手に作り出したら、嘘をついている人も本気で言っていることになってしまう。
実際に起きてることは変わらないのだから、起きていることを「間違って判別する」ということは自分の未来に危険しか生み出さない。
それでも気分で起きていることを解釈して、自分の未来を暗闇に変えていく。
もし、本気で言われたことを嘘だと判定してしまえば、逆に嘘をついている人を誠実な人にしなくてはならない。
「都合のいい部分だけ本当のことにする」なんてことはできない。
人は本人自身が本気で生きているか、適当に生きているか、どちらかしかない。
適当に生きている人は適当に生きている自覚すらない。
自分が本気になったことがなければ、他人の本気もわからない。
「言ってるだけの人」と、「本気で言っている人」の違いがわからないのだ。
だから「まだ本気出してないだけ」の人は、確実に騙されていると言える。
そして自分を特別な存在だという設定で生きている人。
この場合は、当然自分以外にも特別な存在を生み出さなくてはならなくなる。
理想の存在だ。
だがそんなものはいるわけがない。いるわけがないので、身近で接する人たちはみな理想的ではない存在として近しくなればなるほど貶さなくてはならない。
現実に近しくなる人たちとは悉く破綻するしかない。
代わりに、遠くにいて直に接することができない人には理想の人が存在している。
知っているわけがないのに、表面だけ見ていれば理想的に思える人のことを「本当に理想的な人」と断定し、事実そうであるということにして生きていく。
勿論、近しい人たちとの関係が破綻するのだから、自分が実際に生きている人生では心通う関係などあるわけがない。
自分を特別な存在として生きるのだから、それなりの代償を負わなくてはならない。
それが「現実の自分の体験においては、重要な関係がすべて破綻する」という結果だ。
自分のことは、意識して作った部分や嘘で言っていることを「本当の私」としてキャラクター化する。
それと同時に生み出し続けるのが理想の存在だ。
勿論、自分だって親しい関係になればボロが出る。
だから互いに遠い存在のままで運命を感じる関係こそ「最高の関係」になる。
アイドルとファンの関係のようなものだ。
それが最高の関係となり、その関係を維持することで理想的な自分を保つ。
すべては、自分が特別な存在として成り立つために必要なことだ。
このように、道理で考えれば自分が獲得する代わりに捨てなくてはならないものは見えてくる。
そして遠くにいる存在のことなど実際にはわかるわけがないのだから、表面の見せかけを「本物だ」と思い続ける限り「騙されている」と言えるのだ。
メディアを鵜呑みにする人は、「メディアの裏側」と言っていればそれが裏側なんだと考える。
真実など「自分が知ることなどできない」という現実が理解できないのだ。
芸能人は商売でキャラクターを作っているのが当然の職業だ。
だから外側に見せているものは作っているキャラであって普通なのだ。
それでも、ファンを獲得するのが仕事なのだから、本人たちが勝手にやるわけではなくてもバックストーリーや設定は作られている。
夢を見せてもらえればそれでいいのがファンなのだから、別にアイドルが悪いわけではない。
そして自分を特別な存在だと思っている人は、特別な存在らしい解釈しかできない。
つまり、この世の主人公のような図々しい解釈をする。
「みんなが私に求めてばかり」
これが超がつくナルシシストの悩みだ。
みんなが自分に何かをしてほしがっている、という解釈しかできなくなる。
「みんなは私に理想の人になってほしいんだよね?」
これが当たり前だと思っている。
「一体私にみんな何を求めているの?!」
そんな風に嘆く。まず、普通の人間だと思っている人は死ぬまで言わないセリフだ。
僕もそんなこと恥ずかしくて言えない。相当自意識過剰でないと言えない。
私に、ではなく「何をしてほしいのか」は考えるが、「誰でもいい」と考えるのが普通だろう。
何かをしてほしい人の場合は、目的が「何か」の方なのだから、できれば誰でもいいのだ。
しかし特別な存在のつもりで生きている人にとっての「みんなの」理想の人は私、それしかない。
みんなに求められている主人公、みんなの中心。特別な存在、それが私。
だと思って生きているから、解釈が全部間違っていて、他人は何を言っても「わかってもらえない」ので腹立たしくなったりがっかりしたり、とにかく他人の期待には一切応えない人間になる。
他人との協力もできない。
神経症と呼ばれる人は、現実に接する他人を排除して生きながら、遠くにいる神経症者を守る役割をしている。
互いに「表面だけ」を見ることにより、互いを「特別な存在」として成り立たせる。
つまり、本当の家族や恋人、友人関係を犠牲にする道を選んだ人たちなのだ。
彼らは「夢を守るため」に生きている。
だから騙されて生きているというよりは、自分で選んでいるだけなのだ。
特別な存在だという設定を大人になっても維持できていることはすごいと思う。
特別な存在だという事実を「いつ知ったのか」を考えてみれば、先に結果を体験していないとおかしい。
最初は驚くだろう。ただの人間の子なのだから。
周りからの特別な扱いがあって、初めて「自分は特別なんだ」と思えるものだ。
例えば王族に生まれたなど本当に現実に「特別な存在」として生まれてはじめて「自分は特別なんだ」と思える。
それでも、実際には他国にも王族はいるから、王族に生まれれば似たような立場の人たちとの接点ばかりの人生になるから、「自分だけが」とは思えなくなる。
「自分だけが」ということは、もう「人間ではない」という結論に至るしかない設定なのだ。
「自分だけ」なのだから、他の人たちと同じであるわけがない。
あるわけがないから、現実に接する人たちはみな排除していくか、見下していくか、表面だけの付き合いを維持し続けるしかないのだ。
実際に特別な存在ならば、結果が先にある。
まだ結果が出ていないのにそれでも「自分だけが特別」と思い込めるのは、それを維持してくれる遠くの存在があってこそだ。
現実の体験はどうでもいいのだ。
というよりどうやら「実体験」と、見ているだけ、聞いただけ、のことが脳内で区別できない人もいるらしい。
実際に「体験したのか」を重視しているのが現実を生きている人だ。
知らないことは知らないとわかっているかどうか、それが大きな違いだ。
知らないことを知った気になって生きられる人は、頭の中の夢だけは維持できる。
素晴らしいことに、本人は死ぬまでそれを維持できる。
ただ実体験では意識の上で思っていることを実感していないから、様々なところに不調をきたし、ノイローゼになって生きるというリスクを背負うのだ。
僕がよく例に出す昔の仲間たちは、「本気と冗談の区別がつくやつら」だった。
目の前にいるから、本気かどうか区別がつく。
僕も本気で生きているが、相棒も本気で生きていた。
だから冗談が辛辣で、本気で生きていない周りの連中は冷や冷やしたのだ。
本気で生きていない人は、冗談はお笑い芸人がネタをやるように、子供にもわかるように言わないとわからない。
区別をする能力がない人間には、何を説明しても無駄なことだ。
ただ、本気で生きるためにはただの人間として生まれた自分にならなくてはいけない。
まだ特別な存在として生きている人は、特別であるからこそ、本気で生きることがなくてもやってくる幸せを待ち続けるしかないのだ。
今回、僕の考察を率直に書く。
おそらく、神経症者と呼ばれる人たちのほとんどは、知能が低い。
認知能力が低い、と言った方がいいのか、思考力が低い、と言えばいいのか、とにかく話して聞かせても何かを体験させても、気づくことができないようだ。
手遅れなのだろう。
このまま死んだらどうなるんだろう、と時々わくわくしてしまうのだが、最後に絶望もしないのではないかと思う。
認知症の老人のように、今何が起きているのかもよくわからなくなって死んでいくだけなのではないだろうか。
僕も酒に酔ったり、疲れすぎていて眠かったり、なんらかの正常な状態でなければ周りのことがよくわからなくなる。
あんな状態で通常時も生きているのではないだろうか。
どう見ても周りから見たら様子がおかしいのに、浮いていることすらわかっていない。
自覚がない。
そして集中力が著しく低い。
今ここにいて他人が存在していても、他人を気にしない。本当に幼稚園児のように。
他人の前で痴態を晒すことも気にしていない。
目の前にいれば自分と会話していなくても、他人の視界に入っている。
言葉に出さなくても周りから見えている。それも気にしていない。
「この話わかんないからいいやー」と思うと、突然下を向いたり考え事をしだしたりする。
この「常にすぐ台無し」の姿勢で生きながら、意識して何かすれば他人に好かれたり尊敬されるとさえ思っている。
どうやら、現実に起きている部分を「自分が意識できた部分だけ」と認識しているようだ。
すべて起きている。
他人に何も言われなくても、全部見えているし、起きている。
確かに幼児の頃は「黙っているからわかんないんだ」と思ったものだが、さすがに大人になってそんなことはないとわからないのだろうか。
自分が最初から一人で生きていることもわかっていないらしい。
自分がストーリー性を持たせた人生は、自分が体験したことを解釈して作り出している自分しか知らない創作世界だとわかっていない。
人間は体験を積み重ねるとそれをストーリー化して記憶していくが、それはあくまでも自分中心に作り出した「私主人公の物語」であり創作物でしかない。
起きたことはただ事実のみ。ストーリーなんてない。
事実にはただの経緯があるだけ。感情的に作られる経緯など存在しない。
「どっちのストーリーが正しいか」でもめている人がいるわけだが、こっちが話していることもこっちが自分と同じように作ったストーリーだと思っているらしい。
僕には僕の人生があり、自分中心に考えれば確かにストーリーはある。
だがそれは時々振り返る時に経緯に沿って思い出すと感情が起きる程度の話であり、事実とは関係ない。と自覚している。
僕にとっては~だ、という「解釈」はあるが、それは口に出してはいけないことも多いし、必要性がない。
だから自分だけの中に存在させている。
解釈は「僕が作った想像の世界」でしかないからだ。
そして解釈は確実に僕中心の世界の見方になるから、他人には関係ない。
自分の解釈世界を話して聞かせて注目されたい人が沢山いるが、僕は恥ずかしいから逆に話したくない。
いちいち話さなくてはならないなら、解釈などできない。そんなことは一切言いたくない。
口に出すのは言ってもなんの問題もない、どうでもいいことくらいだ。ネタ程度にしかならない。
そうしたことが殆どの人にはわからないらしい。
大丈夫か、人生、と心配になるが、手遅れでもいいんだ、そのまま死んでいく人が沢山いるんだから、と仏教について学んでいると安心する。
手遅れなら手遅れで、不幸なままなら不幸なままで、それもまた人生なのだ。
どう考えても自分が思っていることを考えれば、自分だけ人間じゃないだろ、というのにも気づかない。
どう考えてもそれじゃあ辻褄が合わなくなるだろ、とわかることなのに不可能な未来を目指す。
解釈の世界を生きていれば、人生は途中で終わる。死なないで終わる。
そんな馬鹿な、じゃあお前今生きてないんだな、ということになるのに、それも自覚できない。
僕は元々高知能者として生まれている。
だから自分の理解力が「普通」だと思っていても、他人にまったく理解されないことが殆どだ。
そのうち言うのが嫌になって、一人で考えるだけになった。
どうせ説明したところで理解できない、だからたまに理解してくれる人がいるととてもうれしい。
そんな存在に出会うことは滅多にない、と昔からわかっている。
正しいか、間違っているか、でもめている人とは違う。
今説明している内容を理解してもらえないのだ。
言わんとしていること自体を理解してもらえない。
今ここに書いているようなことだ。
自分で言っていることがおかしいのに、それに気づいていないというのはふざけているのかなんなのか、と思ってしまう。
知能の差はここまでの違いを生むのか、と絶望的になる。
物事の表面しか見ていないのに、知った気になっている。
人の表面どころか、一側面の表面だけしか「見られない」のに、簡単に人を判断する。
その判断は「解釈に過ぎない」ということすらわからない。
僕はもうラーメン屋になろうかなと思ったりする。
色々嫌になってくるし、バイクのバッテリーも上がったので本当に面倒くさいことばかりだ。
僕は自分の解釈や感情的な好き嫌いで、人の扱いを変えない。
僕が子供の頃に普通なら嫌がる子だったにも関わらず、優しくしてもらった経験があるからだ。
その苦しみを僕も体験しなくてはならない。
誰かにしてもらったことは、自分も同じようにお返ししていかねばならない。
それもまた修行だと心得ている。
だが、世間は思うより知能が高くない。
平均値を考えても僕はとびぬけているから、仲間などいるわけがない。
かつての知能指数など本当の知能の高さとは関係ないのだが、僕は実際知能が高いので孤独が友達でなくては生きてもいけない。
知能は確かに教育であげられる。
うちの娘を見ていてそう思う。娘は賢くなった。僕の話をいつも聞いているから、考え方も変わった。
母の元にいたらこうはいかなかっただろう。ただ感情的になって物事を見るようになっただろう。
それはまあよかったのだが、周りに合わせてしか伸びないのが人間だ。群れている人たちはもう今見えている範囲に存在する程度の知能にしかならない。
まして「自分に合わせさせる人」は人を馬鹿にはしても賢くはできない。
自分中心の世界を生きている母を僕は早くに見捨てた。
この人と一緒に生きていると、自分まで恥ずかしい人間になると思ったからだ。
自分と母のやり取りが、まるで幼稚園児のようなものだと小学生の頃に自覚した。
だから格好つけて悲壮感に浸ることも無くなった。
恥ずかしいからだ。
そんな妄想の悲劇は瞬時に終わった。
その分、居たたまれないどころか死んで人生をやり直したいほどの恥を感じた。
その時も「これが一生続くわけではない、他人にとっては今まで見ていたのだからとっくにわかっていたことだ」とじたばたしながらも苦痛に耐えて乗り切った。
当初は、みな人間なのだからと思っていた。
だが、人間はみんな僕と同じではない。
恥ずかしいと感じるためにも、それなりの知能の高さが必要だ。
それすらないなら、どうしようもない。
情けない、みっともない、恥ずかしい。
それを自覚できるのは、それなりの知能と、そしてそれなりの自尊心があってのことだ。
自分を高く扱っていないと、自分を情けないなんて思って叱咤できない。
他人を軽んじて意地悪をしても、なんにも感じない人は自尊心が低いだけでなく知能も低い。
これを見てほしい。何をしているように見えるだろうか。
友達とスマホで何かを見て楽しそうにしている。
もしこの二人が、嫌っている友達のSNSを見て馬鹿にして笑っているのだとしよう。
馬鹿は、もうはっきり馬鹿と書くが、馬鹿はSNSの友達のあら捜しをしてネタにして、ここにいる友達と一緒に相手が悲しくなったり恥ずかしくなったりする罵りの言葉を言いまくると嬉しい。
馬鹿にしながら相手が傷ついている様を想像できるから、優越感に浸れてうれしい。
いじめをする人は他人に恥をかかせて喜ぶ。
他人が恥をかいて傷ついていると、嬉しいのだ。
それが馬鹿だ。
馬鹿ではない人は、そんな真似をしている自分、今こうして客観的に二人を見ているわけだが、それが自分であっても写真を見ている第三者のような目で自分を見る。
SNSの友達をネタに、友達と一緒に馬鹿にしている人になりたい。
友達に恥をかかせて楽しむのが、良い友達だ。
そんなことは誰も思わないだろう。
実際、もしやっている本人に「あなたはそんな人になりたいですか?」と聞いても「そうなるために頑張りたい」なんて言わないだろう。
努力してなりたい姿でないのは確実だが、なのになっている。
なりたくないなら、ならないだろう。
簡単なことだ。それなのになっている。
それで「自分が嫌い」なんてどの口が抜かすか。
お前が嫌いなのは笑いものにしている友達ではないのか?
それで「こんなことをしてしまう自分だけど、それには理由があるから好きになってほしい」と言う。
じゃあ、まずその自分を今のままで好きになったらどうか?
貴様は自分がまずくて食べられない料理をなんとかおいしいと言って食べてくれる人を探すなら、もっと美味しい料理を作った方が早いことさえわからないのか?
念のため教えておきたい。
普段の僕は、この程度では済まないほど大変な毒舌だ。
高校時代は仲間からも「口から毒を吐く」と言われていたほどで、言葉でバッサリ切り捨てる抜身の日本刀とあだ名されていた。日本刀の名前で呼ばれていたこともある。
かつては顔色ひとつ変えずに次々毒を吐くことで知られていたが、僕は毒など吐いているつもりではない。
ただの事実だ。
相棒も僕に負けず劣らずの毒舌で、僕たちが二人で話しているのを目の前で見ていると「怖い」とよく言われたものだ。
相棒と電話していると母には「誰と喧嘩していたの」と聞かれたものだ。話していただけなのに。
そんな過去があるので「天才児たちは毒舌」という特徴を知り、安心したものだ。
今は僕も大人になったので、柔らかい物言いを獲得することに成功した。
成功したのだが、時々溢れる才能のようにこぼれ出てしまうこともある。
これでも8割は抑えて話しているが、だからこそフラストレーションが溜まってしょうがないのだ。
思考のスピードに対して話すスピードが追い付かないほどなのに、殆どの人は僕より思考のスピードが遅い。
だからものすごくものすごくゆっくりにしか進まない。
「とっとと決断しろ」
と言って刀を突き付けてもいい時代ではない。
全員切腹の覚悟をさせればいいだけじゃないかとさえ思う。
それで以前からほぼ修行と言える森田療法を推奨している。
いつもいつも、「みんなはお百姓さんなんだから」と子供の頃に教わった通りに考えるようにしている。
僕はよく「それでも武士の家の人間か」と怒鳴りつけられたが、みんなは違う。だから仕方ない。
人に甘えて生きている人は、そもそも正しいことなんて聞いたところで自分に理解する能力がないこともわかっていない。
僕は自分の知能が落ちていないか普段から気にしているし、落ちないように努力もする。
思考が定まらない状態になっていないか、注意している。
そのための鍛錬があるので教えていても、誰もやらない。
誰が何をしても、自分の馬鹿が直るわけではないのに、馬鹿だからそれがわからない。
今、必要な賢さすら持っていないのだから、まずそこを鍛えなくてはならない。
成長どころか、停滞するためにも努力が必要なのにわかっていない。
人生において、何度も「死ぬ気の努力」をしたことがある。
だが、人生に不満を述べる人たちは本当に死ぬ気になって努力するという時期をまったく過ごしていない。
敵が生まれてしまうのは、「最初から自分が他人に何かをさせる気でいるからだ」と説明してもわからない。
誰が正しいとか悪いとか、いちいち他人と議論している。
つまり、誰かの奴隷になって生きるつもりしかないのだ。
自分で自分を支配していないのだ。
他人の表面の行動だけ見て、望むとおりに少しずつ動かして、「いつか自分の期待する展開になってくれる」と妄想している奴がいる。
馬鹿もここまでいくと、手がつけられない。
少しずつ望むとおりに進むようにしているのだから、どんどん状況は悪化しているのであって、表面で起きていることは「存在しない今」でしかない。
知能は、それなりの近さでないと話が通じない。
思い通りに動かせているぞ!なんて本気で思える人間に、今起きていることはやらせていることだから起きているわけではないなんて理解できない。
何よりも、妄想しかない人の頭の中には現実の方が存在していない。
だから妄想が消えたら「世界が消える」ような感覚になる。
完璧に妄想だけで作った世界を生きているのだから、妄想の未来を諦めることは現実を諦めることと同じになるのだ。
だが、いち早く僕は妄想の世界を消した。
そんなことあるわけないからだ。なにせ、僕がわかっているのだから。
未来なんてわかるわけがないのに、僕がこうなると想像して進もうとしている。その時点で一人で作っている妄想だとわかる。
周りを見ていないから、みんなが何を考えていて実際には何が起きていたのかをまだ知らない。
まだ何も知らないのだ。
自分のことを何も見ていない聞いていない、状況すら把握していない他人。
それが他人から見た時の僕なのに、何をどうやって注目されて好かれるのか。
そんなことは無理だ。
おそらく、ある程度の認知能力の高さがあれば、こうした説明を聞いただけで脳裏にちらちらと過ぎる疑問や不安が生まれて、考えずにはいられなくなる。
だが、馬鹿の真骨頂は「直らないこと」だ。
「でもさあ」
これが始まる。結論を出せないようにすぐにこれが始まる。
「でもさあ」
でも?何に?何に対して「でも」なのか?
そこからの持論展開は正に地獄のワンダーランド。もう生きた人間が手出しできる世界ではない。
そんなホラー紛いのアミューズメントパークに暮らす人間になりたくはない。
いつもいつも、一体どうすればいいのか考えている。
少し試しては、難易度が高すぎるのだろうかと考える。
家の中に修行がないなんて、聞いたことがなかった。
そんな家もあるなんて知らなかった。
子供の頃から夜な夜な写経をして札を書いていた僕には、呪詛すらスピリチュアルではない。
そして、そんな個々のことはともかく、こんなぬるま湯に日本人を漬け込んでいるからには、誰かがこの大衆を利用したがっているのだなとは思う。
僕は生き延びなくてはならない。
生存している家畜ではなく、人間として生き残らなくてはならない。
武士の一族として生き残らなくてはならない。
だが、殆どの人はもう手遅れなのだろう。
誰にも聞かずにたった一人で修行し続ける。
それができないならば、自分だけの人生など生きられるわけがないのだ。
でも、だって、の口答え。
これが許してもらえたのかよと思うが、本当に驚くほど甘やかされてきたのだと思う。
厳しい厳しいとみな言うが、特例を除いては殆どが甘やかされている。
ただ、それが大多数になると「甘やかされた」という自覚すらできないのだろう。
日本全体を馬鹿にしていくための作戦としか思えない社会は、現に日本人を堕落させ、家畜のようにしてしまった。
気づく人だけでも気づかないと、これから内部崩壊していくだろう。
その時に争いに参加することなく、既に別の枠を生きていないと幸せに生きていくことなどできない。
読んだだけでちょっと怖いニュースの話です。
BBCニュースより
【ミラノ・コルティナ冬季五輪】 スキー・ジャンプ男子選手、スーツ対策で性器に注射との報道 会見で質問出る
冬季オリンピックの話題です。
選手が陰茎に注射を打つことで股間の高さを拡大し、スーツ面積が広くなるようにしている、との話。
「スーツの表面積は1センチでも重要だ。表面積が5%大きくなれば、より遠くまで飛べる」。国際スキー・スノーボード連盟(FIS)のスキー・ジャンプの男子競技ディレクター、サンドロ・ペルティレ氏はそう話す。
そうなの?1センチでそんなに違ってくるものなの?
スキーのスーツ規定はとても厳しくなっているそうで、今回話題の注射は問題にならないのか?という話なのですが、意外なニュースに驚きました。
それ以前に、注射するの怖くない?とも思いましたが、この話からすると単純に「陰茎が大きいと有利」ということになるんじゃないかと。
しかし、肝心なことは「股の高さ」のようなので、これもまた難しい話だなと思いました。
どちらにせよ、この記事を見て
「そんなことが関係あるのか」
と驚いた次第です。もしそうなら日本人は不利じゃないか!と思いました。
こんなニュースを見てしまうと、つい股間に目が行きそうですね。
オリンピック競技はどれもほんの僅かな差で勝ち負けが決まりますから、見ている方はどっちでもいいように思えることでも、とても厳しくチェックされているんだと知りました。
夏季に比べると盛り上がりがいまいちになりがちな冬季のオリンピックですが、皆さんは観戦するのでしょうか。
スター選手が出ないとあまり話題にもなりませんが、スポーツは常に思いがけないことが起きますから、案外夢中になるかもしれませんね。