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生成AI頼りにした子供たち、半数超が誤回答 ~無料記事~

 こういう事例もこれから出てくるんだろうな、と思ったニュース。

 昨年の話なのでご存知の方もいるかもしれません。

 詳細は以下の記事に書かれています。

中学1年生250人の半数超、理科の課題で同じ間違い…教諭の違和感の正体は生成AIの「誤答」 : 読売新聞オンライン https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/news/20240306-OYT1T50080/

 出された問題を調べるためにネットを使い、ネットの検索で出てきたAIが生成した回答(最近検索すると勝手に出てくるやつ)を参考にしたため、多くの生徒が間違ったというよりズレた回答をしてきたよという話なのです。

 こんなことがあるのか、と僕が驚いたのは、間違った内容であったことよりもAIが回答している内容は質問への回答としてもどこか違和感があるのに、自分の質問への返答だと思い込んでしまうとまるで会話しているかのように信じてしまうのだという点です。

 AIは海外でも問題になっています。

 自殺や他殺を助長してしまうやり取りをしたり、質問した人をネガティブな方向に引きずる流れを作っていくからです。

 実際に事件が起きて問題になっています。

 昨今ではAI無しでは次世代は語れない、AIを使いこなさないとこれからはやっていけない、そんな語り口調での呼び込みも見られますが、それ以前に自分で思考して判断する能力を先に延ばしていかねばならないでしょう。

 まだまだ出始めですが、気をつけねばならないと思うニュースでした。

 

死を考えて生きる ~無料記事~

 相変わらず具合が悪くなっている最上です。

 今回は、皆さんにも「死について」考えるきっかけになってくれればと思ってお話します。

 コロナでもインフルでもありませんでしたが、相変わらず具合が悪いです。

 咳のし過ぎでゲロ吐いたのは初めてです。

 元々身体が弱い僕ですが、こうしたものは生まれつきなので仕方ありません。

 指定難病というものにかかったこともありますし、生まれつきの体質みたいなものだから、死ぬまでうまく付き合っていくしかない、と現代社会では言われています。

 冗談でも気分でもなく、恐らく健康な皆さんほど寿命は長くないと思います。

 幼い頃は、病床で苦しみながら「なんで僕だけがこんなにすぐ病気になるのか」とメソメソ泣いていました。
 楽しみにしていた運動会にも出られないので、家の中で体操着を着て寝ていました。
 移動教室も僕だけ行かなかったから、またしても話についていけない。

 そんなことばかりでした。

 よく今まで、それでも割と普通のことをして生きてこられたと幸いに思っています。

 僕は子供の頃から死を考えて生きていますが、そのお陰で前向きになったと言えます。

 哲学者セネカが言う通り「死に方を決めれば生き方は決まる」のだと思います。

 僕が無かったものをいつまでも諦めずに親を恨む生き方をしていたら、今、僕を無視して親(僕の祖父母)を恨んでいる母親と同じになってしまう、と思い、生まれてくるのも知らなかった我が子のために生きることにしました。

 そう考えると、僕は今の娘のために前に進む人生を選んだと言えるのです。

 次の代にだけは、同じ苦しみを与えないように。それだけ考えて最初は生き方を決めました。

 僕にとっては戦国時代を生きてくれたご先祖様がいたことは、とても大きな意味がありました。友達に嫌われたらどうしよう…などと、心が傷付くことを恐れていた僕でしたが、その僕が、もし今ご先祖様と同じように命を捨てて戦わねばならなくなったら、その覚悟が決められるだろうか。

 当時のご先祖様は、「上杉謙信に嫌われたらどうしよう」なんて心配しなかったはずです。

 子々孫々のために生きよと命じられるのが我が一族でしたから、ご先祖様も僕たち子孫のために生きてくれたはずです。

 僕もいつまでも愚図愚図言わずに、覚悟を決めて生きねばと思いました。

 いつかは死ぬからです。

 死を考えると、自分が何を残したかを考えるようになります。

 他人からもらっただけなら、僕が死んだら他人から減る分が無くなるだけです。

 自分では傲慢にも「~してやった!」と言い張っていても、それが本当に人々にとって必要なものだったのかどうか、それすら考えたことがないとわかりません。

 世では「愛されなかった時どう生きるか」の方ばかり注目されますが、それよりも「愛された時にどう生きるか」の方が重要だと思います。

 親に愛されなかった子が愛された時。

 それは、「自分を中心にした世界に付き合ってもらえた時」です。

これは子供と同じ状態です ~無料記事~

 内容的には幼児教育的なことになりますが、これは子供の状態だ、と覚えておいてください。

 子供は「自覚」ができませんから、なんでも言われた通りに復唱しています。

 「君は誰?」と聞かれた時に、もし僕が「もがみゆうき」と言ったとします。

 その時に「誰」と聞かれたから、自分の名前を言っただけならば、それが子供の状態です。

 「本当にあなたは最上雄基なの?」

 と聞き返されたら、なぜか不安になります。

 え?だってそうでしょ?僕はもがみゆうき、なんでしょ?

 こう思うのです。

 「そうなんでしょ?」

 これが自覚のない状態です。

 親に教えられたから、自分の名前はそれだから、だからそうなんでしょ?

 そういう名前をつけられたから、そうなんでしょ?

 これでは、ただ自分の名称を述べただけです。まだ名付けられただけで、名乗れる状態ではありません。教えられたことを覚えただけなのです。

 「あなたは誰?」と聞かれた時、僕は僕の個体名を教えるのではなく、僕自身が答えなくてはならないのです。

 「僕は、最上雄基です」

 こう名乗った時、間違いなく「そうだ」という確信をもって言っている。それが自分を自覚している人です。

 どこが違うのか?

 子供の場合は、名前を教わったので「そうなんだ」と鵜呑みにしているだけです。

 決められただけ、なのです。

 自覚をしている場合は自分でなっているのです。

 「ならなくても決められたんだから、そうなってるでしょ」

 こう思ってはいけません。それは間違いです。

 それでは、決められたらなんでもなれることになってしまいます。

 言われたらなんでもならなくてはいけなくなります。

 決めてなるか、ならないか。選ばなくてはなりません。

 他人はそう言っても、自分では「なった覚えがない」ならまだなっていないのです。

 なんだそれは?と思う人が大多数かもしれませんが、これがないと本物にならないのです。

 「そうか、僕はその名前の人間として生まれてきたんだ。」

 そのように自覚し、

 「では、最上雄基になって生きよう」

 と、自分で心に決めて、はじめて僕自身が最上雄基になった、と言えるのです。

 自覚しているのとしていないのでは、大違いです。

 自覚していたら、僕の言う事は本当に僕の言うことでなくてはなりません。

 自分ではなったつもりが無いならば、名前だけ名乗っていても自分が述べることは他人の受け売りでもいいのです。他人の真似でいいのです。

 名前だって決めてもらったのでそう言っているだけで、自分ではなろうとも思っていない「勝手に決められた名前」ですから、自分の名前ではないのです。

 名を受け容れないのは、生きることを拒否しているからです。

 特に親を恨む人は自分になりません。

 「我」が満足するまで、誰かにちやほやされたがります。

 ひとしきり満足するまでちやほやされて、周りの人たちに「どうか最上雄基になって生きてください」と懇願されたらその人間として生きてやってもいい、というくらいの態度です。

 我は、誰でもありませんからね。親もいなければ子もいません。

 自分でならない限り、なんでもない誰でもない、何ともつながりのない存在です。

 自分が生まれた存在として生きると決めた時に、初めて「この世界」とのつながりを持ちます。

 勝手に決められた繋がりはあっても、自分の意識の中には誰との繋がりもない、という状態の人は現代社会では多いです。

 ただし、自分にならないと、自分が元々受け継いでいる力は使えません。

 意識してやることで、自分の力を使うことができます。

 意識しないうちは、真似事でしかありません。

 自分がやった時、自分がやるから自分の力が使えるのです。

 意識の存在は誰でもありませんから、名前もありません。

 親の子であるのも名前がついているのも、「肉体だけ」であって、心の中にいる私は関係ありません。

 外から見えないのが「私」ですから。

 その私が、肉体とセットで生きることにするか、気に入らないので肉体を奪って生きるか、それは勝手に決められます。

 自分の人生、名前がついた「誰か」の人生は、意識の自分が生きようとしてくれない限り、見捨てられた存在になるのですが、親を恨んでいる人にしてみれば、自分が自分の人生を生きないこと自体が仕返しにはなるのです。

 自分を育てて後悔しなくてはならない、損したと思わなくてはならない事態ですから、それだけでも十二分に仕返しにはなるでしょう。

 うちの母も死ぬまで仕返しをして、死んでも周りをがっかりさせるということに成功しました。

 とはいえ、心の中にいたあれは僕の母ではないので誰なのかは知らないんですけども。

 とにかく、子供は自分の名前を「与えられたものだ」と思っています。

 古い言い方をするならば、名を与えられただけでその名を名乗ることができる人間にならないと、名に縛られたり名で操られたりするので、自由に生きることはできないのです。

 最低限、自分の名は名乗れる人間になった方がいいでしょう。

 もし、自分の意思で生きようと思うならば。

いま、マザコンが熱い ~無料記事~

 今の世で求められている人、それはマザコン。

 仕事ばかりやっている優秀なマザコン。そんな人が求められている。

 マザコン好きな女子は、すぐにわかる。

 心の中では既に母親になっているから、保護者くらいしか言わないことを言う。

 心の中の立場で人は物を言う。だから心の中でどのポジションにいるかはわかる。

 人が悩みやうまくいかない時の話をすると「そんなの自分が悪いんでしょ」と早速母親の立場で物を言う。

 友達。恋人。対等な関係であれば「本人が悪いかどうか」など決めないし、考えもしないからそんな言葉は出てこない。

 子供のように面倒を見てもらう立場の人が言われることだ。

 そうでなければ、たた貶すだけになる。

 相手の責任を取ってあげるから、守ってあげる立場だからこそ、そんなことが言える。

 友達や恋人は、「役目が違う」からそんなことは言わない。

 面倒を見なければ一人で決められない男はモテる。

 嘘!そんなバカな!と思うかもしれないが、本当だ。

 傲慢な男がモテる。自尊心が低い女は傲慢な男が好きだからだ。

 オーストラリアでインタビューを続けるYoutuberが、「日本特有のぶりっ子女子」についてインタビューしていた。
 「これをすると可愛い」というぶりっ子ポーズは、外国の人には説明しないとわからない。漫画の真似事、昭和アイドルの真似事みたいなポーズだから、元ネタを知らないとわからない。

 上目遣いに男を見て、目を見開く。

 という説明をきちんとした上でオーストラリアの街ゆく人にインタビューしたところ、こんな答えが返ってきた。

 「傲慢な男なら嬉しいんじゃないの?」

 すごい。ズバリ言い当てた、と驚いたものだ。

 「俺がしてやるよ」と恩着せがましくしてくる男は、そういう女が好きだ。そうでなければそのポーズに靡かないからだ。

 マザコンが好きな人は、人に指図したがる。

 「あなたのために言ってるのよ」と言いながら、相手自身が考えてやるべきこと、仕事のことまで口を出す。どこにでもしゃしゃり出ていく。

 保護者になりたい。

 そんな人が沢山いる。

 聞けば「そんなことはない」と言うが、それは体裁であって実際にやっていることを見ればすぐわかる。

 説明より、現実に何をしているかだ。

 そして、責任の所在がわからない、冷静な判断か下せない人が好き。

 過去の話をいくらでも話しながら、感情的になりながら相手を責める。相手は関係のないことなのに、自分が過去にどんなに辛い目にあったか、どんなに辛い人生を歩んできたか、相手が知らない時のことを感情的に話して相手を責める。

 「わかってなくてごめんなさい」

 罪悪感にすぐに駆られる、責められたらなんでも自分が悪いと思う考えなしの人が好き。

 感情に煽られると道理を無視する人が好き。

 母親になりたいから、相手より強い立場になるのが好き。

 いつだって母親になりたい。

 だから、同じ状況で恋人なら全く違う観点で考える時にも、母親になって考える。

 相手の面倒を見て、相手がどうするかを決める立場になる。

 つまり、まだ中身が幼稚園児みたいな男が好き。

 しかし既に大人になっていて、社会的にはちゃんとやっていけるけれど、心理的には依存相手が必要となっている人が好き。

 自立している人は依存させない。依存は一方的にできるものではなく、共依存になるしかないからだ。

 心理的に自立していくよりも、共依存関係を求めるのだ。

 ドSの女王様みたいな人たちだが、本人は自分を頼りない、可愛い女子くらいに思っている。

 意識してやっているところは自分が望む女子をやっているからだ。

 相手がわかってくれないから、傷ついたから、など理由をつけて豹変する。

 感情的になった時もそれが自分だと認めない。

 極端なまでに女らしい、可愛らしい、犠牲的献身を払う女子も少なくない。

 だが、中身はドSだ。当たり前だ。

 サディストの女王様は、そもそもバランスが取れない人なのだからそれが普通なのだ。

 ずーっとサディストなわけではない。

 両面を持ち合わせているのが普通なのだ。

 だからどちらも極端なのだ。片方は理想的なまでに素晴らしい女子になっても、片方は破壊的なまでに恐ろしい女になる。

 これがたまらなく好きな人がいる。

 「いつかはきっとわかってくれる!」と相手を追いかけたいタイプだ。

 たった今は問題があるれど、ヒステリーを起こした時に言われたことを治せばなんとか変わると考える。

 「素敵な女子」部分を諦められないのだ。

 それは「演じているだけ」なのに、不自然さがわからない。

 「こんな人がいてくれたら…」という妄想が元々ある人しか惹かれない。

 健全な精神の人たちは情緒が安定している。

 泣いたりわめいたりせず、普通に冷静に話す人が好き。

 感情的になって責める人も嫌い。盛り上がってドラマチックになる人も嫌い。

 「普通でいい」からだ。

 ものすごいドラマチック展開は必要とせず、現実的に、計画的に進んでいく方が好き。

 不安になることはやりたくないのだ。

 マザコン大好き女子たちは、とにかく男にしつこく絡む。

 そしていじける。

 愛されたい女子は、相手に嫌われたくない。

 だが、マザコン大好き女子は「保護者」になりたいから全く目的が違うのだ。

 自分無しでは生きていけない男が好きなのだ。

 今を明るく生きている人は嫌い。

 既に目的があるから嫌い。明るく楽しく、健全になど生きていきたくない。

 そんなことない、と口では言うが、実際にはやっていない。

 そんなことないなら、今の生き方をとっくにやめている。

 僕はマザコン好きには全く心惹かれないが、恐らく、母親の体験も父親の体験も、乏しいからだろう。

 恐らくだが、普通に両親がいた人には何か響くものもあるのではないだろうか?

 僕は「何をしているのかわからない」のだ。

 ただ、冷静に考えても立場がおかしいことを言っているから、相手が何になりたいのか、僕を息子にしたいのだということもわかる。

 最初から全否定で来る。

 僕の生き方が間違っている、自分のような女こそ本物の女だ、と思えるようにまず言い合いをする。

 相手の考え方を変えるように責めて争って、そして相手が屈服した時は考え方が変ったのだから、自分を素敵な女子だと認めざるを得ない、と思っている。

 そういう、マゾっぽい男との関係を「素敵な恋愛」と呼んでいる。

 女子が好きな男に嫌われたら傷つく。だが、母親だから傷つかない。寧ろ怒りや恨みが生まれる。

 恩着せがましい母襲来だ。

 「こんなにしてやったのに!」

 「あんたがあんなこと言うからでしょ!」

 息子を責める。

 僕を可哀想だと思って母親になりたいのかは知らないが、わりと多い。

 男を相手に母親みたいな態度で接することを、本物の女子は「恥ずかしい」と思う。中身も乙女ならばの話だが。

 「自分が悪いんでしょ!」なんて母親のように説教する自分を、やりたくない。

 好きな人の前では、どういう自分でいたいか。

 異性としての顔は自分で生み出してその役になるものだ。

 だが、母親になりたい人もいるのだ。お母さんが好き過ぎる。

 だから、最期には必ず母親を肯定する。母親が言っていたから、母親が正しいと思う、なんとかして「母を素敵な人だとみんなにわかって欲しい人」なのだ。

 生憎、自分の母親さえ素敵だと思えず、早くに見限った僕は全く羨ましい限りとしか言えない。

 
 誰の気持ちを考えて、誰の身になって自分を客観視するかは自分で選べる。

 自分が好きで、この人の気持ちになってあげたい、この人の気持ちを知りたい、と思った人の身になって真剣に想像する。

 その時、自分の中の自分像を捨てる。

 理想の自分を捨てて、誰を選ぶか。

 誰もが好きに決められる。

 自分が、想像する側だからだ。

 人の身になって真剣に現実的に想像する時、「自分がどう見られているのかが怖い」という恐怖を乗り越えなくてはならない。

 それでも、「あの人の気持ちを理解したい」と思えた時に、人間は自分の「理想の自我イメージ」を捨てる。

 僕にとってその相手は、自分から自分の苦労話を押し付けて気持ちをわかれと言ってくる母親ではなかった。

 僕は自分を肯定的に受け入れてくれる人たちの「求められてもいない相手の気持ち」を考えた。

 相手の気持ちがわからないと、共に生きられない。

 仲間となる人を選ぶのは自由だし、親は変えられないが他人は好きに選べる。

 誰の気持ちを想像するかは好き勝手に選べるから、「他人は素晴らしい」と思った。

 自分が共に生きたい相手に認められるよう努力すればいいのであって、共に生きたくない、寧ろ変わって欲しいくらいの母親に認められる努力などする必要がない。

 そんな努力をしたら、僕が母親を認めていることになってしまうのだから。

 マザコン好きな人達は、僕のような人間が嫌いで、否定してくる。

 その人の母親に僕が似ていないからだ。

 気持ちをわかってもらえるのは、自分の母親でなくてはならない。

 自分が受け容れている人だから、大事な人は母親なのだ。または父親なのだ。

 なんと美しい親子愛か、とは思うが、何をしても親なら許されて、正しいと思えなくても選んでもらえるなど、人の道としてどうなのかと思う。

 親が正しいと思えず、かつ親だからと言って子供に虐待している親を許して甘やかしてはいけない、と僕は思うが、みんな許すのだ。

 親はすごい存在らしい。

 親に認められるために生きるということは、親とは違う人達を否定して生きなくてはならないということだ。

 今後、生涯生きていく相手を選ぶのに、そんなに簡単に、親だから、という理由で選んでいいのだろうか。

 後になって誰かが救いに来るなんてことはないし、そもそも生きている今の軌跡こそが人生そのものなのに。

 母親には散々傷つけられたとは思うが、同じ傷つくなら「この人のためなら仕方ない」と思える相手がいい。

 幸せになって然るべき行いをした人は誰か。

 自分の立場で決められることだ。

 自分が誰を受け容れていくかで、自分の中の裁きが下る。

 僕は鞍替えが早かった。

 どの道、魂は親子ではない。肉体だけの話だ。

 自分の道は自分で進むものなのだから、母親の真似などしたくはない。

 最初は親そっくりの自分を守るために他人と争いになりそうだったが、本当に守るべきは「この自分」なのか、考えた。

 自分が自分を気に入らなかった、だから捨てられた。

 誰かを守るために戦うのはカッコいい。

 だが、誰を守るかにより、納得がいかない結果になってしまう。

 自分が守ったくせに。

 だから、納得がいかないのは自分の間違いでしかない。

 母親の言う事を聞いて他人に認められたいと思うのは、最初から母親を自分の仲間として受け入れているからだ。

 母親に寄り添い、母親を受け容れてくれる人を増やしたいのだ。

 だから似た者同士が集まる。

 文句を言っても、結局は仲良し、ということだろうか。

 本当に嫌なら我慢などしない。

 性癖なのか、僕の母も突然のご機嫌みたいなことはあったが、その程度で普段の暴力的なヒステリーを忘れることはできなかった。

 あの性癖は、元々我慢して作られた人格でないと持てないものだ。

 自分も普段から我慢して、人の言うなりにならないと、受け入れられない人だ。

 口で何を言うかではなく、「いま、誰と共に生きているのか」でその人の道は決まっている。

 まずは、自分自身。

 その己こそか共に歩んでいく、全ての自分を知っている仲間なのだ。

知能の差・あなたはこれが理解できているか? 無料記事

 悩んでいる人たちと接していて、認知能力の差があまりにも激しいと思ったので、これから書くことをどれだけ理解できているかを確認してみてください。
 考えたこともない、という場合は、生きる上で必要になるので自分自身の中で自覚できるまで考え続けてください。

・立場による関係性と、内面による関係性の違いが理解できているか

 クラスメイト、生徒・先生、同僚、先輩・後輩、上司、店員・客、などは立場の関係性。獲得するための条件さえ揃えば誰でも即獲得できる関係で、変化することはない。主に特定の目的のため、契約的な合意により獲得される。卒業、退職、などにより目的が失われると関係性も失われる。内面的に良好であってもそうでなくても関係性そのものを変えることはない。他者の介入により作られることもある。

 友達、恋人、などは情による関係性。各々の自発的努力により、心の相互性が成立した際にのみ形作られ獲得できる関係。内面的な努力が必要で、内面的成長の糧となる。主に立場の関係性における接点から作られるが、立場の関係性において良好な関係が築かれた際に、並行して変化しながら作られる。立場の関係性が失われ接点が無くなっても、内面的に育ったものが失われることはない。契約的または支配的な理由で形だけ似せて作られていることもあるが、その場合は立場の関係性であり情により作られた関係性ではない。立場の関係性であった場合は、立場が失われると情による関係性が残ることはないが、どちらの場合も接点を失った際の情により心の中に残る関係性が決まる。接点が失われても本人の内面的成長により変化する場合がある。

・「私」という存在はいない、と理解しているか

 「私」という存在はこの世に実在せず、自分は常になんらかの関係性により対象者から見た立場の「私」以外の存在になっている。故に、自分は常に他者と接する際には立場上の存在の自分に能動的に「なって」いなくてはならない。
 また、親という存在は自分との関係性による立場でしかなく、自分が見ているのは自分から見て親にあたる人間の一側面であり、存在そのものではない。自分を中心に作った世界では、自分との接点で自分にとって望ましいことが起きたか起きないかで他人がどんな存在かが決まってしまうが、それは自分の心の中を映し出した世界であり、事実ではない。

・気持ちは心の中にあるものであり、形にすることはできないと理解しているか

 心の中は常にあり、言葉は心ではないので語ることはできない。人間は嘘をつくことができるので、言っていることがそのまま思っていることではない。また、気持ちは口に出さない時に育つ。過去に恨みを抱え我慢して報われようとする人は、我慢して犠牲を払うことで恨みを育てる。愛情や友情も同じく、忍耐による行動を繰り返すことで育つ。自分の中にある感情は自分しか育てられない。

 これらを全て理解し、現実の人生において実践していることで自身の内面に安寧をもたらすことができます。
 上記のものは全て冷静に思考していけば自覚可能なことですから、確認や自覚のために役立てていただければ幸いです。