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我慢と恨みの仕組み

 恨みはどこから来るのか。

 色々な理由があるが、我慢していると本人が思った時に恨みが発生するのではないだろうか。

 個人ではなく、政治的な動きを見ながら考察している。と先に前置きしておきたい。

 正直、個人のことについて僕はそこまで気にしていない。
 大きな動きの中の一部としか捉えていない。

 個は集団になれば力を発揮するが、個のままなら大したことはできないからだ。

 我慢と恨みの連鎖が起きているのだなと現在他国間で起きる問題を見ていて思う。

 子供は親に我慢させられたと感じているが、その我慢はどこからやってきたのか。

 親は我慢していないのか。
 勿論している。子は親を恨みやすいが、恨んだらそこで終わる。

 恨んだ人は人生で最初に乗り越えるべき問題から出られないまま、終わっていく。

 親への恨みはどうでもいい。
 僕はそう考えている。
 神経症は親子関係から始まるが、別の言い方をすればそこから出ることができなかった、親を好きになることも関心を持つことも、親を大切にすることもできなかった人だとも言える。

 「最愛の人に対する最大の憎しみ」だっただろうか、そんな葛藤を乗り越えなくてはならないと言われている。

 それは確かにそうだろう。

 僕は早くにそこは乗り切ったので、人類に対しての考察として更に先を考える。

 親に~してほしかった。ここを終わらせて「なぜ親はあんなことをしたのだろうか?」と考えていく。
 最後には政治に辿り着く。

 政治は政治だが、過去のことなので一般的には歴史と呼ばれる分野まで思考を広げなくてはならない。

 兎に角、常にどこかで流れをせき止め、自分だけが得をしたい、欲を満たしたいと「自分の働き以上に欲を貪っている個体」がいる。

 自分の働きに応じたご褒美しか得ないのが当然だ。
 だが、あれこれと正当化する理由をつけては一人で何十人、何百人前と欲を満たしている個体がいる。

 一般的に贅沢と呼ばれる行為に見えても、それを必要とする人がいる。それ相応の立場にいる。それ相応の役目や働きをしている場合だ。

 必要以上に贅を尽くしている個体がいれば、他で不満が爆発するのは当然だ。

 想像力があれば、人のことを考えられれば、誰かに働かせて得をしようと思えない。
 そして何よりも、他人から奪おうと思わない。

 奪うならば、得をしている人、働き以上に贅を尽くしている人から奪おうとするだろう。

 結局は贅沢したいだけ。何もできないと低い自尊心を持つ人ほど、他人が生み出したものを欲しがり、他人のものを真似して持っては「自分にもできた!」と思い込む。

 もっともっとと物を集めたがるのだ。

 他人が持つものを持っていないから価値がないと思い込んでいる人は、他人が持つものを持った時には持たない人を見下す。

 そこに絶対的な価値があると思うから、人間を持つものと持たないもので差別するのだ。いじめる側が逆転しただけの支配関係だ。

 子供は親が好きなものかと思えば、そうでもないらしい。

 親を親として見ていない人もいる。

 親がくれたものに対して、無駄に使うことは罪悪感を伴う。

 親が犠牲となって得たものだと知っているからだ。

 他人は違う。だから他人からはいくらでも吸い上げる人がいる。

 他人からももらったら他に回していくものだ。

 次はあなたの番だよ、と教えも物も、回していくものだ。

 広げていくと言えばいいだろうか。

 お前と俺、と区別していたいのは、張り合いたい人だ。
 みんなで幸せになろうとしない。

 そうした個体は、自分だけ、と吸い上げていく人に不満は持てない。
 より社会的に上の立場になった自分がやっているのだ、と思えば、吸い上げられることにも耐えて当然だ。

 非常に、低レベルな戦いを世界的にやっていると思う。

 しかしながら日本は侍の国。
 我が身を捨てて志に生き、仲間と共に切磋琢磨し自己鍛錬に励む国民の国だ。

 このままでよいわけがない。

 生きていけるのに人を見て羨み、より贅を尽くしたいなど凡そ侍の持つ感覚ではない。

 他人と比較して他人の持ち物を羨む人が実際には沢山いるというが、本当にそうだろうか。僕は信じない。

 何か深い考えあり、人に見えないところで精進しているのが日本人だ。

 それが侍と言うものだ。

 一見して遊んでいるように見えても、それには深い意味がある。
 敵を欺くにはまず味方から。
 いい年をして本当にただ遊んでいる人がいるわけがない。

 実際には、誰にも知られないように何かをしているものだ。

 誰にも知られないようにするものだから、誰も知らないのが当然だ。そのような人は、おそらく五年、十年経った時に成果を見せてくれるだろう。

 だから一見してわからないことをしている人も、気にすることはない。

 精神分析はともかく、個人的にはそう考えている。
 なぜならば、精神分析を含む心理学はドイツが先陣を切ってくれたと言える分野だが、僕は日本人だからだ。

 日本は島国で、鎖国をしていた。彼らとは違う。

 サイコパスなんて言われるが、実際にはそんな人がいるのかどうかと僕は思う。

 ただ個人的に恨みがあった人が、誰かをひどい悪魔にしたかっただけではないだろうか。

 僕個人の考え方と、精神分析学的な結論はだいぶ違う。

 一応どちらも書かなくてはならないし、引き合いには出すが、実際に日本人の中にそんな人はいないだろうと僕は思っている。

 どうせ確認などできないのだから、好きに考えていたほうがいい。

 心の中は恨みや憎しみでいっぱい。
 人を見張っては他人の持ち物を羨んだり奪いたがったり、気に入らないやつを傷つけて喜んだり。

 そんな人間がいるわけがない。それでは悪魔だ。
 人間の中にそんな部分があっても、それが全部ならば人間ではない。だから人間の中にはいない。

 だからこそ、全体の動きを見ていて考える。

 この国全体が我慢しているならば、この国が何かに屈して我慢しているということだ。

 また、この国の中に自分だけと吸い上げている個体がいるということだ。

 なぜだ、と考える。
 何か理由がある。すべてに。

 何が起きているのか、常に考えている。

 「お前が悪いんだからなんとかしろ!」

 という意見が論外なのは当然だとして、そうした個体が多く発生していることについて、原因を考えている。

 僕はとにかく、黒船来航したとき実際には何があったのかを考えている。
 おかしい、と思えることがあるからだ。

 物差しとして自分の一族という確認可能なものを持っている。
 事実あったとわかっているものがあるのだから、そこを基準に考える。

 この物差しを持つ人を確認する方法を、一部だが知った。
 照らし合わせて集めていく必要がある。

 言われていることは言われていることでしかない。

 実際に社会に出ると、社会の裏側を知る。

 僕など大したものではない。社会の多くを知らない。
 誰もが学ぼうとすれば学べるものすら知らない。

 経済学者、社会学者、政治学者、様々な分野の学者に加え、実際に体験している人、政治家になったわけではない。

 表向きと実際のところが違うのだから、表面に出している部分から考察していかねばならない。

 少なくとも、実際の歴史と残される歴史が違うことは、子供のころから知っている。

 沖縄の人たちなどは、それを痛いほどよく知っているので最も社会の正しいなど信じないだろう。

 日本人は急に正しいと思うことが変わった。

 なぜ?

 それぞれが自分の親に、またその親に聞けばいい。

 誰かのところで、いきなり変わったのだ。

 元々、日本は世界的に見れば様々なものにおいて弱小。
 自分たちが持つものを手放せば最悪なことになる。

 僕も過去に、自分たちの誇る伝統技術を古臭いと馬鹿にして西洋のものばかり欲しがってはいた。

 今になって、それが間違いだったとよくわかった。

 目に見えたものではない、とよくわかった。

 日本だからこそ発達できた部分があるのだ。
 それを手放してはならない。

 真実が簡単にメディアで公表などされない。
 何かが伝えられたら、実際には何があったのかと考える必要がある。

 そしてなぜ、今これが流れてきたのかを。

 心の仕組みがわかっていれば、見当はつく。
 だが、わかっただけではどうにもならない。

 どうするか方法を考え、実行する必要があるのだ。

 おそらくは、まだ自分では考えたことがない人もいるのだろう。
 他人に言われたことの寄せ集めで生きているというか、背景があり結論があるとわからないというか。

 「どうしてこうしたの?」
 「だって誰誰がこう言ったから。」

 自分の考えは何もなく、「他人が自分の一部だ」と思っている。

 自分以外の人たちで自分の今後を決めるのだから、気に入る人だけ残す方に躍起になるだろう。

 このような状態のまま、大統領にだって上り詰めるのだから人間は恐ろしいものでもあるし、面白いものでもある。

 「大統領がこんなに大変だと思わなかった。」

 と就任後のトランプ氏。

 だが、素直な日本人は他人が言ったことには不満があっても従うし、自分たちのためを思って権威は何かを決めていると信じている。

 親も信じないのに、なぜ他人がそこまでしてくれると思うのか。不思議でならないがそれもまた良い子の条件なのだろう。

 素直に自分の気持ちを認めないものだとは聞くが、そんなに長い間我慢はできるものだろうか。

 自分でも自分がカッコ悪いとかみっともないとか、情けないと思う発想は勝手に出てくるものだ。

 そんなものが止められるわけがないのに。

 自分が自分の気持ちを評価すれば、都合のいいことしか見なくなるだろう。

 感じているものを言語化せず、いつまでも「私は私がわからない」を続けていくしかない。

 望ましい自分しかいない!と思い込むためには、我慢して実際とは異なる自分のふりをして生きるしかないだろう。

 なるほど、自分に我慢させ、自分への憎しみを他人への恨みに変えるのだろう。

 その恨みを利用して、大きなものを動かし、より大きな力で恨みを晴らしたい人の力になるのか。

 どっちもどっちと言うか、やはり同じ方向性の人たちしか一緒にはなれないのだ。

 個の恨みは集まり、もつと上にいる個の恨みのために使われる。

 エネルギーの流れを考えると、やはり人間はたった二人なのだろう。

 物質的にはたった二人の一部なのだろう。面白い。

 家族の時点で、右手と左手が喧嘩して体をばらばらにしていくようなことが起きているのだから。

 天の父はどう見ているのだろうか、などと考えてしまう。

言えないから辛いのだ

 何でも言える相手など、親くらいしかいない。

 だが、そのうち親にも言いたくない内容の悩みが出てくる。だから辛いのだ。

 生まれた家の中の問題は、外には出せない。
 言えない。だから辛いのだ。

 自分の家の問題は自分たちで解決しなくてはならない。
 人様は関係ない。

 そして自分の家の問題を外に出してしまうということは、一家全体の中身を社会にさらしてしまうということになり、一家そのものの社会的な評価を下げてしまうことになる。

 「うちではこんなひどいことがあるんだよ!」と言いふらしてしまえば、他人はそれを聞いて面白おかしくまた言いふらす。

 自分たちにとってマイナスにしかならない。
 他人は他人。人のことは所詮他人事だ。どんなに気の毒であっても、自分の子供のように心配はしてくれない。守ってもくれないし、「あの家はそういう家なんだな」で終わる。

 親切な人は何かあれば手を貸してはくれるだろうが、それでも自分の家族を捨ててまで人の家の誰かを助けない。

 何よりも、自分の親の格や家の名誉を下げることを、普通はしない。親の悪口を言いふらせば、「そういう親の子だから親の悪口を言いふらすんだよね」と納得されるだけだ。

 人になかなか言うことはできないから、辛いのだ。
 余程信頼して、口外しない人でなくてはなかなかそんなことは言えない。後から人に言ってしまうかもしれない人ならば、そんなことは言えない。

 誰でも自分の親を他人に悪く言われたくはない。
 だから悪口を言っても他人は同意はできない。

 人の親の悪口は、一緒になって言えない。
 大変だね、可哀想にね、とは言えても、心の中で思っていることはさすがに言えない。

 それがわかっているから、言えないのだ。

 人に言えないから、過ぎて解決したことしか人には話せないから、人は悩むのだ。

 子供は親になんでも相談する。しても構わない。

 だが、例えば同性の友達との問題を恋人には言えない。

 あっちの問題はあっちの問題。
 そんなことを話されても、恋人は困るから。
 友人関係は友人関係。恋愛関係は恋愛関係。別々のものだから。

 何よりも、人に悪く思われたくないから言えない。
 友人のことを悪く言う人間だと思われたら、恋人に幻滅される。だから言えない。

 友人のことを悪く言う人間になりたくないから、言えない。

 仕事のことを恋人に言えない。
 家庭の中に持ち込めない。

 恋人にも家族にも、外での役目があるから。
 自分だけが外で活動しているわけではないから。

 本当に困ったとき、夫婦なら相談もできる。
 だが、職場での嫌なことを家の中でグズグズと愚痴れない。家族だって色んなことがあるのに、気分が悪くなるから。

 せっかく家族でいるのに、ここでは安心な場所なのに、家庭が嫌な場所になるから。

 悩みの殆どは、人には言えない。

 自分が抱えた問題だから。
 現実的に解決すべき相談ならば人にもよりできるが、心の問題については人には言えない。

 気分の問題。気持ちの問題。

 そんなことを話されても、他人にはどうにもできないから。

 聞いてくれるだけでいいから、とお願いすることはできるが、相手が嫌かもしれないし、聞く義理もないから。

 話を聞いてくれるだけなら簡単だとは言えない。

 聞きたくもない話を聞かなくてはならないのは、苦痛だから。

 だからこそ、親しい友人と、恋人と、家族と、他での辛いことに耐えて今この場所とこの時を大切に過ごす。

 辛いことは辛いことでしかないし、苦しいことは苦しいことでしかない。

 だが、会えばいつも笑っているような友人たちがいる。

 楽しい話ができる友人がいる。

 いつもいつも暗くいつもいつも問題を抱えている人といれば、人は嫌な気分になる。

 誰もが辛いことを抱えているが、それは自分で解決すべきことだから言えないし、顔に出せない。

 みんなも他での時間があるから、言わなくとも何かいつも抱えているのだから。

 そんなことは、言わずもがなでわかっているから。

 夢の楽園に生きている人はひとりもいない。

 全員同じ社会に生きている。

 だから何もない人はいない。

 自分の辛さだけ人前で出すわけにはいかない。

 相談をすれば聞いてくれる友人がいて、愛してくれる恋人がいる。

 他での問題をこっちにまで持ってこない人たちがいる。

 この、自分との関係を大切にするために、他では何もないような顔でいてくれる人たちがいる。

 「お前といるのだから、そんな話はしたくない」

 と思ってくれる人たちがいる。

 悩みなど、余程打ち解けて心を許されない限り、話してはもらえない。

 気を許して安心してもらう相手になることは、とても難しい。

 聞いてくれれば誰でもいいわけではない。

 人は相手を選ぶ。

 信頼されて、心を許してもらえなくては何も話してはくれない。

 今抱えている問題がない人などどこにもいない。

 どこにもいないのだ。

 どこにもいないが、信頼されていないならば何も言ってはもらえない。

 気を許している人の前でしか、人は弱さを出さない。

 そして常に信頼できる人が近くにいるわけではない。

 そんな時は、心の中にいる友人や恋人、家族や仲間を思い、自分で自分を励ましていくのだ。

 問題を抱えていない人など一人もいないのに、神経症者は自分一人が問題を抱えていると思い込んでいる。

 と言ったのは、アドラーだったと思う。

 勿論、全員何かの問題を抱えて常に悩んではいる。

 仲間が十人いるならば、ひとりひとりと個々に信頼関係を結んでみればわかる。

 それぞれ他の仲間に言えない悩みを抱えているから。

 十人いても、本当に信頼されなくては話してもらえないとわかるから。

 何もない人はいない。

 一人もいない。いるわけがない。

 「言わないから悩みがないんだ!」と思うのは、信頼されていない人だけだ。

 信頼もしていない人だけ。

 人は話をする相手を見る。

 この人に話したら、馬鹿にされそう、軽く扱われそう、頼りになる意見を言わなそう、無責任なことを言いそう、人に言いふらしそう、陰で悪口言われそう、後から何か言われそう………そんな風に、信頼できないと思える人には人は本当の悩みを話さない。

 この人に話したら、親身になってくれそう、大事に扱ってくれそう、頼りになることを言ってくれそう、口が堅そう、陰で悪く言わなさそう、馬鹿にしなさそう、気持ちをわかってくれそう、後に引きずらなさそう………そんな風に、安心できそうならば人は悩みも話す。

 それらを、なんとなく、普段のその人の言動から感じ取る。

 「この人に話しても、なんの解決にもならなそう。」

 そう思われている人は、誰にも何も言われない。

 何よりも、自分の問題を自分で解決できず、いつも愚癡や悩みばかり抱えてくる人は最も頼りにされない。

 するわけがない。

 信頼されない人は何も言ってもらえない。

 言ってもらえないが、信頼されない人ほど人が話したくないのに話を聞き出そうとする。

 人は話したくないことを無理やり聞き出されると傷つく。

 そんなことすらわからない人は、自分がただ安心するために人を傷つける。

 頼りにならない。

 信頼もできないし、安心もできない。

 だから必要とされない。

 大変だ大変だと言っている人は、信頼されない。

 自分だけが大変で、言わない人は何もないのだと本当に思い込んでいるから。

 何もない人はいない。

 相手の生活や、普段を想像すれば容易に理解できることだ。

 きちんと努力して想像すれば。

 だが、一人の世界が好きな人は、他人の気持ちを想像して理解したら、負けだと思っている。

 どちらかしか生き残れない世界が好きだから。

 ふつうは、一人しかいない場でなくては、個人的欲求は捨てる。

 二人いたら、自分一人の目的など持ち込まない。

 自分一人だけの欲求は、一人で満たすものだ。

 誰かがいないと満たせない欲求は、すべて諦めるものだ。

 それはただの願望。

 願望を要求化したら、叶っても全部ごっこ遊びで現実に起きたことにはならない。

 自然に一致しなくては、現実とは呼ばない。

 人を操作するために何かする人は、願望のために行動してそれが実現すると勘違いしているのだ。

 「私は~したのにあの人は~したくれない!ひどいよね!」

 まだ、この世界に他人がいると知らない。

 ひどくはない。

 毒親はよくこれをやる。

 自分と連動する人など一人もいない。

 子供ころは勘違いして「この世界に自分だけ特別な存在としているのだ」と思い込んでいる。

 だからどんな親の子もひどいひどいと不満は持つ。
 まだ他人が自然に勝手に動いたこと以外を、「現実に起きたとは呼ばない」と知らないから。

 「ひどい!」「おかしい!」なんて存在しないと知らないから。
 「これが現実だ」と受け入れる時に、誰もが体験しなくてはならないショックだと知らないから。

 それが当たり前で、そのショックを全員が乗り越えていくのだと知らないから。

 だからこそ、自分がどうにかなればなんとか他人が動くのだと思い込んでいる。

 自分が人に合わせて動いた「つもり」だから。
 実際にはそれが「操作」と呼ばれる行為だと知らないから。

 「怒られるから仕方なくやった」は子供のうちならしょうがないことだと言えるが、大人になって、または他人に対してやったら「相手のご機嫌を取るための操作」だと知らない。

 自分が被害者だと思っているその行為こそ、「人を操作する行為」だと知らない。

 そのうち、「親も自分と同じ人間なんだ!」とわかる。

 気づく。

 その時、自分が何をしてきたかに気づくのだ。

 人の気持ちなどあると思ったことが無い。

 親も人の子。

 自分と同じ。

 子供も人の子。

 自分と同じ。

 全員が、常に問題を抱え、悩み、苦しみ、それでもこの世界を生きているのだ。

 辛い気持ちを乗り越え、それでも今、この人が一緒にいてくれるのだからと心を奮い立たせ、辛く長い道のりを歩いていくのだ。

 人生は重き荷を背負いて、遠き道を行くが如し。

 最後までこの重き荷を背負って生きていくのが、それぞれの運命なのだから。

楽しい学生生活

 卒業を控えた子供が言いました。

 「この学校に入ってよかった。今年は一番楽しかった。友達もたくさんできて、面白いこともうれしいこともいっぱいあった。誕生日プレゼントもたくさんもらって、驚いた。」

 日々、僕の真似をするように一緒にカードを買いに行ったり、友達にこうするんだと教えてきました。
 「今日はすっごい楽しかった!」と興奮して話をしてくることがよくありました。

 「今日は超良い日だったから、話をきいてほしい!」と言っては、僕に今日の超楽しい話を聞かせてくれました。

 「人に良くしてもらっていない人は知らないが、人に良くしてもらっているように見える人は、その前に自分がひとりひとりに良くしているのだ。」

 そう教え、ひとりひとりに心配りをするように教えていました。
 実行してくれていたようで、今年は本当に沢山の誕生日プレゼントをもらってきました。

 「くれる子によって色んな特徴があって、すごく嬉しい。」

 と喜んでいました。

 そんな楽しい一年を終え、卒業も近づきました。

 「今のうちにやり残しのないようにってみんなで色んなことしようって話してる!」

 みんなでやる楽しい企画をあれこれ話している我が子にこう言いました。

 「あれもこれもって思うけどな、後から必ず「あれもやればよかった」と思うんだよ。だから時間を無駄にしないで、どんなことでもやれるうちにやった方がいい。俺も相棒たちとよく考えたら殆ど何もしてなかった。話をしているだけのことが多かったから。」

 するとこう聞いてきました。

 「今はすごく楽しいって思ってるけど、後からああすればよかったって後悔したりするのかな。それってその時はわからないけど、知らないだけでそんなに最高じゃなかったってことなのかな。」

 心配になるのかよ!と思いましたが、こう答えました。

 「心残りが出てくるのは、その時が楽しくないからじゃない。どんなに楽しくても最高でも、後から必ず「もっとこうすればよかった」は出てくる。最高だったからこそ、あの時に戻りたいと思うし、もっとこの時間が続けばいいのに、終わらなければいいのにと思うものだ。今の自分ならば思いついても、その時の自分は思いつかなかった。その時に今のありがたみに気づくことはまずない。俺もあの学生生活が、あの友人たちがどれほど特別で素晴らしい仲間だったのかその時は全く考えなかったし、知らなかった。後になって「あれは特別だった」と価値に気づくから、もっとこうすればよかったと思う。そのくらい最高だったということだ。

 最高に幸せならば、後からやり残しが見つからないわけではない。

 最高に幸せだったからこそ、もっともっとやりたいことがあったと思うものだ。

 だから今、残り僅かな時間にできる限りのことをしろ。

 全部はできなくても、あれだけやったから十分だと満足できるくらいに、今しかできないことをどんな小さなことでもやっておけ。」

 それを聞くと安心して、「わかった!やれるだけやる!」と意気込んでいました。

 今日は友達とここへいく、明日はこれをやる。

 そんな話を最近よく聞きます。

 子供には今しかできないことがある。今のうちにやった方がいいとよく思います。

 過去には卒業のお祝いとして友人たちも呼んで食事会を予定していたことがありましたが、当日になり友達とみんなで食事に行こうという話になったけど断ったと聞き、行かせました。

 家でこういう予定だから、と断ったのだと聞き、集まってくれたみんなに謝って行かせました。

 「友達との思い出は、今しか作れない。今、友達と行った思い出の方が、遥かに大きな宝になるから、気にせずに行け。」

 あの時大人たちはどうしたかな、と思い出せません。
 どこか予約していた気もするが…と。

 みんなと一緒がいい時もある。
 友達との思い出はかけがえのないものになる。

 それを知っているから、子供にもそれを作らせようとするのだなと思います。

 親にどんなに怒られても、僕は友達を優先しました。
 それでよかったと思っています。

 本当に素晴らしい、輝ける日々は、後から必ず生きる糧になります。

 自分がどこにいくのかは自分が決めること。

 「俺もお前たちといくよ!」

 と光に向かう友人たちと同じ方を目指し、足を引っ張る親を振り払ってそんなことはないかのように、みんなと共にいました。

 過去なんてどうでもいい。

 今、ここにいる仲間と最高の時間を過ごしているから。

 俺のことを気遣って、優しくして、守ってくれて、喜ばせてくれなくていい。

 なんの気も使わなくていい。

 知らないものに気を使うなんてことがどれほど大変な苦労か、親にやらされていて知っているから。

 「今日はどうする?」

 「これやってみたくね?」

 「今から行くけど、お前も行く?」

 他愛もない。本当に他愛もない。

 特別すごいやつなんて誰もいないし、理想的なやつも一人もいない。

 「お前ってほんと馬鹿だよなあー」

 「お前に言われたくねえよ!」

 「前から思ってたけど、こいつ頭おかしいよな。」

 「……」

 「なんで笑ってんの?あ、俺が笑われてんの?」

 「なんで来るんだよ、お前邪魔なんだよ」

 「そうだろうと思って、嫌がらせで来てるんだよ」

 「性格わる!」

 「いいや、性格は悪くないが、単にお前が嫌いなんだ」

 こんなものはただの言葉のじゃれあいで、本気っぽく言うから面白いとみんな思っていました。

「お前いつ抜け出したの?よく出られたな。」

「いい場所があるんだ、教えてやるよ。」

 しょっちゅう学校を抜け出していました。

 全員で追試。全員で呼び出し。全員で掃除。

 くそ真面目女子にも叱られる。

 「どこ行ってたの!またさぼったでしょ!」

 でもそんな女子も良いところはありました。

 「お前この弁当自分で作ったの?すげーな!小細工上手なんだなー。」

 「小細工っていうな!なんか褒めてない!」

 「褒めてる!すんげー細工。!いーなー弁当。こんなの作ってもらったことない。」

 「じゃあ、今度また作ってくるよ。どれ食べたいの?」

 と言って、本当に弁当を作ってきてくれたのに、その日の昼にサボっていていなかったと、後から激怒されて結局怒られてばっかりでした。

 怒りんぼ人形みたいな女子も、優しいところはありました。

 よく漫画を貸してくれた女子は、考えさせることを言ってくれました。

 「高学歴で高給取りでイケメンがいいとか、女も男のこと品評してできるだけいいやつ選ぼうってするけど、あれって結局種の存続のためにできるだけ優秀な精子が欲しいってことだと思うんだよね。」

 こいつ…精子いいよった…女子なのに…
 その時は、それしか頭に入らなくてよく考えませんでしたが、「男もそうじゃないの?できるだけ生命力強そうな女に種残そうとしてるんじゃないかな。人間って結局動物だから。」そんなことを言われ、考え始めました。

 考え始めるきっかけをくれた友人たちは、本当によく考えていました。

 なぜか、相棒たちのことはこんな風に思い出せなくて、ただ可笑しかったことを思い出しては「あいつほんと馬鹿だよなあ」なんて思うだけです。

 今も心の中にいるからなんだなと思います。

 娘にひとつだけ言いつけてあります。

 「神経症の男連れてきやがったら、ただじゃおかねえぞ!心理的に健康な男連れてこなかったら、結婚なんか許さないからな!」

 世の中はどうなるかわからない。
 今金持ってるとか、学歴があるとか、逆に何を持ってないとか、そんなもので選ぶな。
 どんな窮地になっても諦めない、この人なら絶対になんとかすると信じられるような、生命力の強い男を選べ。

 何よりも、そんなものは自然発生だから、友達を大事にしろよ。

 何がなくても彼氏がいなくても結婚できなくても、仲間がいれば、なんとかなるから。

 「うん、わかった!」

 そして今日も、子供たちは学生時代の思い出を作りに行きました。

サイトは統合されました

 サーバー移転、ドメインの変更に伴い、旧Refresherと旧最上塾オンラインは統合され、Refresherぷらす 最上雄基公式ホームページとなりました。

 有料会員の皆さんには、メンテナンス期間の日数分、有効期限を延長させていただきます。

 旧アドレス→https://refresher.info
 新アドレス→https://www.refresherblue.com

 ドメインは.infoから.comへと変更されます。

 同時に行うことが多くあり、まだ粗もあると思いますが大目に見ていただければ幸いです。会員の皆様方に心より感謝申し上げます。

 ところで、皆さんは自分が何を志とし、社会において自分が何と共に進み、何と対立しているかを自覚していますか?

 「私はきちんとやっています!」と理想に従い認めてもらいたい側は、社会においては一部の企業の味方です。きちんと、の内容は、外側で決めてもらったものであり、社会ではなく企業に有益なものだからです。社会的に必要なものの皮をかぶせても、本質的には企業に有益なようにできています。
 資本主義社会では当然のことでしょう。従うかどうかは個人の考え方であり、そのシステム自体は批難することでもありません。賛同する人がいなければ成り立っておりませんから、大勢が生き方により賛同を示した証です。

 僕の立場は、自分で生き方を決めたい多くの庶民層の味方であり、生まれながらの優等種だけが生き残るという考えに、僕は賛同致しかねます。

 僕は幼い頃より教えられた「侍の在り方」である、「労働者こそ国を支える最も大切な人たち」という考え方に賛同しております。

 僕自身の目指すところを、この機に明確にしておきたいと思いました。

 現在は個人にとっては必要性が無い目標に、目指すものを一本化しそこに倣わせていくことで一部が全体から吸収していく仕組みが成されます。
 現在、富裕層でない人々もこの優等種だけが生き残る考え方に賛同し、権威や金銭、能力での優越を最も重視し、それが手に入るか手に入らないかの競争をする生き方を選んでいます。

 「褒めてもらいたい」人は、存在価値を感じるために最も強い力の指示に従わねばなりません。
 多くの人が強い力に生きる道を決めてもらうことを選びましたから、資本主義の定石通り今後戦争に行くであろうことは現状を見ても予測できます。
 しかし、全体がこれを押し上げる限りその行先は皆が目指した方向です。

 僕は全体の一部でしかありませんから流れを止めることはできませんが、大きなうねりの中で最後の時まで楽しんで、自分の判断で生きていきたいと考えております。

 どういう生き方をしているかが、何に賛同しているかを示しているからです。

 今後も僕は書き続け、また話し続ける所存ではありますが、皆さんも本質的なことについてよく考えながら活動していただきたいと思います。

 社会や他人にとって自分ほど小さくどうでもいい存在はありませんが、自分にとって自分ほど大きな存在はありません。

 社会の流れは自分の未来に密接に関わる問題であり、自分自身の在り方もまた社会の一部です。

 自分自身しか自分のことを重要に、真剣に考える人はありませんから、各々が自分について深く考えていただきたいと思います。