恐らく、かなり高い知性がないとできないことなのだろう。
と思えることの中でも、とても大事なことがあります。
仏教における無明、無知を脱していること。
どういうことかというと「わからない」がわかることです。
僕もわからないがわかりますが、例えば子供の頃、「誰にも愛されない」と嘆いた時、
「愛されたことがないのに、愛が何かわかるのか?僕は愛なんてどんなものか知らないじゃないか」
このように、自分で気づいたことです。
わからないことがわからないと、知るために行動できません。
自分がわかっていない、ということすらわからない人は、知った気になって行動し、いつまで経っても苦しみを増やし続けるのです。
自分が知っていることと知らないことの区別もつかないまま、誰かが何かをすれば解決する、と思い込んで、正に無駄な努力をし続けるのです。
わからないものを無理やりわかるものに変えようとすると、バカになります。
わからないものは、わからないままにしておくのです。わからないのだから、わかることはできないのです。
頭の中に保留にしておくべきものなのです。
判断しない、そして何もしない。
わからないものはわからないまま。
人間は何もかもを知ってから行動できるわけではありませんが、もし、わからないものがあっても行動するならば、何があっても責任を取る覚悟はしなくてはなりません。
最初から知りもしないことなのだから、決めつけて行動する限りその決めつけが間違いだった時に責任を取らねばならないと覚悟を決めた上で行動しましょう。
特に、人の決めつけ。
誰かを悪しき存在かのように決めつけて、かつ、他人にそのように思い込ませた時。
ありもしない罪でその人は今後人にどのような目に遭わされるかわかりません。
自分の都合で考えた相手の存在は、実際にそうなのか定かではありません。
勿論、懸命な方も公平な方も、きちんと相手の事情も聴いてからでないとなんとも言えない、と他人から聞いた話については思うでしょう。
しかし、世の中はそんなに賢く冷静な人ばかりではありません。
知りもしないのに更に噂をバラまいて喜ぶ、邪心で生きる人もいます。
そんな時、現実の想像力があれば考えるのです。
自分が人に話したことは、相手の脳内にも記憶されます。
そこから、更に相手は話を膨らませたり、誤解して理解したりしている可能性もあります。
しかしその人が他に行って話す時、必ず「あの人に聞いたんだけど」と自分に責任を持たせる形で話をするでしょう。
つまり、自分が責任を取らなくてはならない場がどんどん、どんどん増えていくのです。
拡散です。
拡散される時、それぞれがあなたに責任を持ってもらえるので気軽に話します。
噂ばかりしているような人間は、当然人に責任を押し付けます。
そうなることくらい、予測した上で、その噂が広まれば誰かが相手を迫害したり、もし自分が被害者のように見せかけていたならば、正義のつもりで相手に危害を加えにいくかもしれません。
その際も「あの人のためにやった」と責任を押し付けてくるでしょう。
それら全てが、最初に人のことを決めつけた自分の責任です。
自分は話して、聞いてもらって、それで満足かもしれません。
しかし、話した言葉は自分を離れ、自分の責任で広まっていきます。
そのようなことは「当たり前のこと」として理解し、その上で、何を話すか「判断」しなくてはなりません。
皆さんが過去に話したことも、自分で忘れていても他人が覚えているでしょう。
勿論、過去にあなたがしたことはあなたの責任です。
これからすっかり忘れた何年も先に、あなたに責任を求められることがあるかもしれません。
とはいえ、何があっても責任を取れるくらい適当な話や悪意ある決めつけはしていないならば、恐れることはありません。
わからないものはわからないのですから、感情で現実を想像し、それが存在するかのように人を洗脳し、現実に他人の行動を変え続けたならばその後の世界に対して責任があります。
その話を聞かなければ起きなかった他人の行動が、必ず起きたはずです。
その行動の先にある流れも全てあなたの責任です。
自分が存在さえしなければ、その行動さえとらなければ、起きなかった全てがあなたの責任です。
それが、存在している責任の重さです。
大それたことに聞こえるかもしれませんが、そんなことはありません。
逆にあなたの話がきっかけとなり、後から相手がお礼を言ってきたとします。
「あの時のあなたの話のお陰です」
その場合はどうでしょうか?同じことです。
その場合も、その後の相手の行動は相手の責任だから自分は関係ない、と思えるでしょうか。
因果は必ず巡ってきます。
今、不幸で生きている人は、今のように考えた場合悪行を重ねていることでしょう。
自分の目の前で起きないことも含めて考えねばなりません。
自分の前で何かする時だけではなく、自分の言動から相手が他にいって何をするかまで自分の行動の責任です。
または、自分のお陰かもしれません。
一体どんな因果を紡いでいくのか、それは自分次第です。
その巡りによって、自分に幸も不幸も、心の中ではすぐに巡ってくるでしょう。
それから、嘘の話は信じると認知が歪みます。
あなたの話が嘘であった場合、起きてもいないことが起きていたことになってしまいます。
同時に、その事実があった場合、起きていることが起きていなかったことになります。
表裏一体なので、存在しないものを存在させた時、存在するはずのものがその人の世界から消えます。
小さなことに思えるかもしれませんが、それは洗脳です。
洗脳された人は、存在しない人が存在する架空の世界を生きることになります。
その一点だけで、他の全てが歪んでしまいます。
つまり嘘を信じたせいで他で起きる問題があったならば、それもあなたの責任だということです。
毒親の洗脳が子供の人生全てを変えるほど多大な影響を与えるように、あなたの洗脳も他人の人生を変えます。
因果関係を考えれば、何が起きるかの予測はできます。
少なくとも、過去に他人に言われた言葉に苦しむような人は、自分が適当な言葉など言わないものだと僕は思っていますが、実際にはわかりません。
高い知性とは、学力のことではありません。
今説明したようなことが、確実に考えられる観察力や思考力、判断力など、トータルの頭脳の能力です。
知性なくして人間は幸福に辿り着けません。
与えられた教科書以外でも、自分の人生というたったひとつの実体験を無駄にしないよう、深く考え続ける必要があるのです。