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年賀状の話、ひどいことになった ~日記~

 年賀状にはかわいいキャラクターを描いてみようと思い、描いてみました。

 と言いたいところですが、馬を可愛く描くって難しいですね。他のものも可愛く描けるとは言わないですが、馬って難しいですね。

 試行錯誤の末、AIに手伝ってもらいました。

 僕が手書きで描いた絵を、AIが「芸術的に」仕上げてくれるという機能を使いました。

 結果こうなりました。

 なにこれ酷い。

 何が酷いって、多分元の絵でしょうね。

 元の絵よりは綺麗になってます。

 でもなんか綺麗にされたらされたで、なんか酷い。

 可愛い…かな…??

 これは、馬だとわかるのだろうか。

 なんとなくロバっぽく見えるのだが、馬に見えるのだろうか?

 芸術的でこれかよ。

 四苦八苦していて生まれてきたものがこれ。

 僕とAIのコラボレーションがまだイマイチなようです。

新年のご挨拶動画 ~YouTubeより~

 元旦からの様子など含めまして、新年のご挨拶申し上げます。

 本当に平和だなあ~と思いながら正月を過ごしております。

 僕の目標である「燃え盛る本能寺の炎で茶の湯を沸かせるような人」に近づけているな~と嬉しい気持ちです。

 世の中なんて自分一人でどうにもなりませんし常に問題はありますが、心穏やかに過ごせればとてもしあわせです。

 

 

ギフテッドが教える「バカな人が勘違いしていること」無料記事

 本当に賢いのはどっちなのか?

 珍しくギフテッドが教える、と銘打ってありますが、実は僕はバカが嫌いです。

 嫌い、といっても「憎い」という感覚ではないのです。

 僕は元々相当知能が高いです。そうなると、普通の人が腹を立てているような「バカな人」を見ていると、同じ人類にこんな人がいたんだ、自分も同じ生き物なんだ、と思うだけで悲しくなって絶望します。

 生きる希望が見いだせなくなります。

 そういう感覚です。

 わかっても黙っていることが殆どですが、最近、たまたま、ネットですごくとてもバカな人に出会って、絶望的な気分で神に救いを求めていたのですが、気を取り直して正月の準備もはじめられたので、忘れる前にお話ししました。

 今回お話したような内容は、僕は殆どわかっていても黙って生きています。

 こんなこと、言っても別になんの得にもならない、自分だけわかっていればいいだけの話だからです。

 一般的には、「みんながわからないことは黙っていた方が楽」なのです。

 みんながどう見ているのかなー、ここでの常識はどんなものかなー、と先に把握して、自分がどうすべきか決める。

 そんな風に生きています。やたら知能が高くても、周りに気を遣わないとやたら問題が起きるだけなので大人しくしていた方がいいのです。

 しかしこの勘違いをしている人は、何か納得がいかないまま争いの中にいる可能性があるので今回はお話しました。

 バカな人って、本当にバカなんですよ。いちいち勢いで押されていたらキリがないです。

 

戦争はみんなの幸せのために必要なのだ、とはじめて思った ~無料記事~

 戦争は良くないことだ、と誰もが思うでしょうし、僕も今までなんの疑いもなく、間違いなく戦争は良くない、人殺しは正義ではない、と思っていました。

 しかし、今日配信した動画で話している「死を自覚する」について考えていて、戦争はみんなが幸せになるために必要なんだと気づきました。

 戦争が終わって平和になった、と言われていますが、人々は昔より共同体感覚が薄くなり、自分のことばかり考えるようになりました。

 それもこれも、「死を覚悟する必要がないからだ」と気付きました。

 いつかは死ぬ、と自覚する。そんな社会ではありません。

 それどころか世間では「頑張っていたら、いつかもっと願望が叶う未来にいける」と思わせることばかり言われています。

 「平和のために戦争して勝たねばならない」

 これは矛盾しています。そう言いながら言っている人たちは戦争に行かないものです。

 そうか!と思い込んだ人たちが戦いに行ってくれるだけです。

覚えていますか?生徒・相談者の皆さん、今までどうもありがとう ~無料記事~

 うちに来て下さった生徒、また相談者の皆さん、覚えているでしょうか?

 今は便利なもので、過去の写真を振りかえって確認することも容易になりました。自動的に作ってくれるので、過去の「この日」を振りかえることができるのです。

 あまり便利すぎるのも好きではないのですが、これはいい機能だなと思っています。

 過去を振りかえると、いろんなことを思い出します。皆さんも過去の写真を見ると思い出すことがあるのではないでしょうか?

 しかし、人間は大抵別れの時、終わってから、どうにもならなくなった時に過去を振り返ります。

 その時に後悔してもどうにもならないので、なんでもない時に過去を振り返って「今までの道のり」を実感した方がいいと思っています。

 そんなわけで、過去のクリスマスの日を遡って確認してみました。

このケーキは娘が作ってくれました。2年前、はじめてつくった時です。

 これは東京にいた頃です。毎度ワンパターンな食事をしていますが、大事なことは「楽しいかどうか」です。
 毎年なんだかんだ楽しくやってきました。

まだうちにこのことりがいました。元気にしてるかなー。
みんなに協力してもらったツリーです。ラッキーのふくろうでかい!
みんな覚えてるかなー?
教室の日に生徒とクリスマス飯!「食事」を最も大事に、とずっと教えてきました。

 皆さんは、今年どんなクリスマスを過ごしているでしょうか?
 時には必要はなくとも過去の思い出を振り返り、自分の気持ちを確認してみてはいかがでしょうか。

 こと争っては人と破綻している人は、言葉のやり取りや思い通りにならない怒りや憎しみばかりを抱えますが、振り返ったら「そんなに憎い人なら楽しいことなんてあったはずない」のに、普通に楽しい時間もあったなんてことにも気づくでしょう。

 「そこまで許せないほど、酷い人だったのか?」

 大体、他人を思い通りに動かそうとすればどんな人でも憎くなるのは当たり前です。そんなことできるわけないですから。人間を相手に「思った通りにしてもらい続ける」なんて考えていたら、「あるわけない」のですから、腹が立つに決まっています。

 幸せに「してもらう」と思って不幸なまま生きている人は、最終的には諦めるしか道はありません。

 しかし、どうせ諦めて自分で自分の道を歩くならば、あの人ともっと仲良くしておいた方がよかった、と思える人がいないでしょうか。

 病んだ人は自分が病んでいるのに、健全な人が分析するための物差しを振りかざします。

 そんな真似をして自分だけ優位に立たせ続けるから、いつまで経っても自分は病んだままなのです。

 病んだ人は他人が病んでいるなんてことは、わかりません。自分が病んでいるのですから。

 病んでいる人はどんな人も気に入らなくて普通です。自分が矛盾しているならば、どんなに健全な相手も自分に合わせてくれる相手も、みんなおかしく見えます。

 どんな人も酷い人に見えてくるのが「病んだ目で人を見る人」です。

 しかし、酷いとか酷くないなんてことは、「これまでは普通にもらえたものがもらえなかった」などの場合に思うことです。

 「私の期待に応えない」など、何様のつもりの不満かと言えるほど、傲慢極まりない不満です。

 私は期待して尽くした。私はそう思えた。思わせたのは相手が悪い、期待通りにしないのも相手が悪い。

 とにかく「私は犠牲を払って損した!」と思っているのです。

 その「損ばかりの人」は、明日死ぬとして、振り返ってみた時に、こうして自分の過去の写真を見ても「いいことはひとつもなかった」と言えるでしょうか。

 他人が自分のために何かしてくれることも、義務ではないのです。

 自分のために何かしなくてもいいのです。親だってしないことを、他人様がわざわざしてあげる義務はないのです。

 何を言おうが、相手はやらなくてもいいのです。

 してくれること自体を「当たり前」だと思っていれば、もらえたものにケチをつけてはどんどん欲張るようになるでしょう。

 自分がしてあげたことで、相手は幸せになれたのか?誰かに、また自分に、それをしてほしいと望んでいたことをやったのか?

 自分の望みを叶えてもらいたいならば、相手が望んでいたことをやらねばなりません。

 本当に、相手は自分がしてあげたことを誰にもしてもらえなくて、不幸な人生を生きていたのでしょうか?

 それがご機嫌を取って迎合することであっても、相手は誰にも迎合してもらえない、ちやほやしてもらえないことで不満を抱えて生きていたのでしょうか。

 自分がしてほしいことを他人にしてあげて優越感に浸るという、ただの独りよがりではないでしょうか。

 そして、あなたの人生は過去を振り返っても「嘆くほど人並外れて酷いことばかりの人生」でしょうか。

 死は、突然やってきます。

 それは明日かもしれません。

 その時に振り返るのは「これまで」の思い出だけです。

 ですから、これまでの思い出を時にはもう死ぬと思って最後に振り返るつもりで振り返ってみてはいかがでしょうか。

 自分の今に必要なもの、これからすべきことを考える時は、「これまでの人生」を振りかえることも大切です。

 

 僕も、いつ死んでもいい準備をして生きていようと心がけています。

 こうして振り返ってみるといろんなことがありました。困ったこともありましたし、苦労ばかりだったなと思います。

 それでも、僕は「この僕」としてあの家に生まれたというのに、十分子供の頃には想像もできない幸せを体験したと嬉しく思っています。

 生徒、相談者の皆さん、今までどうもありがとうございました。

 僕ももうじき50という年になりますから、人生は終焉と心得て、死に向かって進んでいきたいと思います。