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許すとは諦めること

 許すとは、諦めること

 許せないのは、何かしてほしいから

 相手に対してなんの期待もしなければ

 許せないことはありません

 見返りを諦める

 相手に期待しない

 この人はこういう人なのだ

 という事実を受け入れる

 残念でもがっかりでも、期待していたから傷つくのです

 なんの期待もしない

 なんの期待もしなくても、やりたい人は勝手にやってくれます

 一切が思い通りにならないのが当然であると諦めることです

 願望に執着しない

 傷つくことを言われたとしても、傷つくことを言う人なのだと諦める

 その人はそういう人なのだから

 自分を傷つけたい人なのだと受け入れる

 それが良い悪いではないのです

 この人はそうしたいのだと

 「そうしたくない」と言うならば、「傷つくことをした後でそうしたくないと言う人なのだな」とありのまま受け入れる

 「そうしたくない人なのだ」と現実を歪めない

 過去を消さない

 やった後に「やりたくなかった」と言っただけ

 ありのまま

 やった後にやりたくなかったと言う人なのだなと受け入れる

 ただそのまま

 何も変えない

 ただそのままに

 ただそのままにしておけば、自分を大切にしようとしている人はわかります

 大切にしようとしている人なのだな、と

 そして自分がどうするか

 どうしたいかなのです

 他人のことは、ただそのまま

 ただそのまま受け入れるだけ

 「そうなのだな」と

 

自分の周囲がどうなのかわからない人へ

 以前講座を受講された方からメッセージいただきました。ありがとうございます。

 「自分の親が毒親かどうか?」
 と心配になる人が実は結構います。

 そこで僕の見解と、どのように判断するために教えているのかを書きます。

 まず、毒親かどうか自体はどうでもいいのです。
 それが良いか悪いかではなく、自分の親が良い者だと誰でも思いたいものです。

 「今の自分の行動の原因」を知るために、過去を知ることが必要なだけです。

 多くの方は、親が毒親だと何か悪いことだと思うようですが、そこはどうでもよいところです。
 どう判断しても、現実は変わりません。気にすることはありません。
 だからこそ、外に出て行く度に親の教えに感謝し、親から羽ばたいていけるのです。
 教えられたとおりにしてきて、良かった。という現実が、自分の人生で起きるからです。
 子供の未来を思う親は、子供の未来に必要なものを先に渡しています。子供はいつまでも遊んでいたいわけですが、その時は我慢してでもいろいろなことをさせられるのです。
 やがて、わからない時にはやはり親の教えの通りにしますから、そのお陰で先に進めるという現実に遭遇するのです。

 何よりも、子供の頃だけではなくずっと子供の相談者として、導いてくれるものです。
 成長は「促す」ものであり、「指示する」ものではありません。

 自分の未来を考えてくれない親の場合、自分で考えればいいだけです。僕は正直、それで済むことなので他人の力を借りてうまくやっていけばいいだけだと思っています。
 僕自身がそうしているからです。

 親がわからなかったならば、自分が全部考えるしかありません。
 結果一人で考えるしかないのですから、そこについては子供の頃、考える力がないうちだけです。

 毒親や過去の分析は自分を知るため、嫌だったことが「いやだ」と感じられなくなった人のために、あるようなものです。
 元々何も疑問を持たず「良い」と思っていたものが、実際の感情とずれてしまうと、外に出て本物の感情で生きられなくなります。
 重要な点は、親が良いか悪いかではなく、嫌だったかどうかに気付くことです。
 親が良いことを言った、すると子供は嫌だと自覚しづらいのです。
 ですから、それは良いことではないのだ、と知ることで、結果「そうか、自分は本当は嫌だったんだ」と気づくことが必要なのです。
 それを促すために説明があるのであり、過去の解釈がどうなろうとその時の感情は変わりません。
 嫌なときは嫌だし、嬉しい時は嬉しい。そして過去はもう変わらないのです。

 良いか悪いかで判断し、良いなら好き、悪いなら嫌い、これこそ、社会の基準で自分のものを判断することです。

 親が嫌いな子供はいません。
 自分が愛されていないのではないか、と不安にはなっても、子供はどんな親でも親が好きです。

 最愛の者に対する最大の敵意

 と呼ばれます。
 子供は親に完璧を求めるため、誰もが敵意を持ちます。しかしそれは反抗期に外に出ていくために必要な原動力ですから、とにかく自然な感情はすべて必要なものです。

 親に嫌なことをされて、嫌と自覚できなくなると困ります。

 僕は子供のころから母がどうしてこんな意地悪をするのか、なぜ嘘をつくまでしつこいのか、と疑問でした。

 されて嫌かどうかは僕がわかります。
 その嫌だと思う事にも意味があり、自立を促す親のすることは後から理由がわかります。親がいないところでの成功をもって、「あの時のものはこういう意味だったんだ」と後からわかります。

 嫌なものは嫌に決まっています。
 やられた自分が一番わかっています。
 嫌なものは嫌です。

 そして僕の母の場合は、言うとおりにしても良いことがない、僕自身がやりたくないことばかりでした。
 正しい教えもありますが、その中に悪意がありました。言い方や態度に悪意があるのです。

 それ自体は「そうでしかない」ので、良い悪いの問題ではありません。

 「なぜ母親が我が子にこんなことをするのか」を考えました。

 親もなんの問題もなければ、子供をかわいがるでしょう。

 しかし、親自身も愛されずに育ったり、また社会の圧力に負けたり、他人からの迫害にあったり、様々な目に遭います。

 僕たちは親に大変甘えていると思います。
 親だって人間なのですから、いつでも完璧に子供の望むようにはできないということを、理解しなくてはなりません。

 親が正しいか悪いかに固執し始める時は、他での関係がうまくいかなくなった時です。

 人は退行に向かう時、必ず過去に責任を求めます。
 ですから、毒親育ちの人が外でうまくいかず、原因にたどり着くと親子問題から離れなくなることもよくあります。

 表現を変えれば、自分の人生を生きるのは自分だけであり、自分の人生は今とこれからのものですから、親の教えは必ず「間違う」と言ってもいいです。

 親が憎しみをぶつけてきていたならば、原因はほかにあります。

 子供の役割は、愛されたかそうでないかを問題にするより、なぜ親がそんなことをしなくてはならなくなったのかを考えることだと思います。

 僕の親も毒親ですが、その理由は僕以外のところにあります。
 親が倒れて子供に寄りかかってきたら、子供は原因に気付きバトンを受け取り、未来に向かって走るものです。

 僕の考えでしかありませんが、親に如何に酷いことをされても、その親が他からの原因によって自分を大切にすることもできなかったのだと知れば、子供は立ち上がるものではないでしょうか?

 僕は人生前半は親の敵討ちのために外に出てしまったようなものなので、敢え無く自分が倒れることになりました。

 何を受け継ぐべきなのか、よく考えました。

 そして今、社会の問題そのものを考えるに至り、少し疑問があるので書いておきます。

 その昔士族であったかどうかは、今に関係ありませんが、あります。
 例えば、家そのものが「何を知っていたか」です。

 皆さんは、例えば戦争は金儲けのために一部の人が起こしているだけのものだと知っているでしょうか?
 また、資本主義は基本お金だけのために動いているので、社会で良いとされるものの形をしていても、見えないところでお金が動いていると知っているでしょうか?

 更には、言われている歴史に嘘があると知っているでしょうか?

 僕自身もうまくいかない、と思うことが人生において多々ありますが、そんな時必ず何かを知りません。
 何かを勘違いしているか、何かを知りません。

 理由がわかれば、あらゆる「ひどい、わるい」は無くなるものと僕は考えています。

 社会のことについて、本日から四連続で有料会員向けですが、このような流れで動いている、と現代社会について説明した記事を配信します。

 僕は母が何によって倒れたかを知ると、「僕がなんとかしなければ」と思いました。
 子供とはそのようなものだと考えています。
 また、代々親から同じことをされていたと気づき、僕は子々孫々のためこれを食い止めねばならないと考えました。

 「こんなに嫌な目にあわされているのに、それでもお母さんに可愛がられたいんだから、僕はお母さんが大好きなんだなあ。」

 と思ったのが、10歳ころの話です。

 「あんな性格の人に好きになってもらおうとしているのは、子供の僕くらいだよ。僕はなんて良い子なんだろう。」

 と思いました。

 僕自身は、正直あまり感情的に物事を考えないので、思い通りにしてくれない、ならないことに長く悩むことはありません。

 「なぜなのか?」がわからないことで悩みます。
 または「どうしたらいいのか」で悩みます。

 自分を知り人間を知れば、他人は怖くありません。
 向こうが怖がっても、こっちは怖くありません。

 嫌なことは嫌と言っていれば、相手を憎むこともありません。

 僕は現代社会に対して少なからず責任を感じています。
 その昔何があって今に至ったのかを考えれば、幕臣の末裔たちは「なんとかしなくては」と強く思うでしょう。

 ひとつ言えることは、今の日本人は元々の日本人ではありません。
 自分たちを恥じて別のものになろうとした結果です。

 それは僕たちにはあらがうことのできない、そして外には形に出てこない、もっと大きな力が原因なので、個々を恥じることもありません。

 多くの人が勘違いし、また気づくことがないのは当然のことであり、気にすることはありません。
 しかし、少なくとも「疑問を持ちながら生きてほしい」とお願いします。

 人はうまくいかない時に、逃げに入るとすべてに結論を出します。
 葛藤から逃げないことが大切です。

 どうしてだ、なぜだ、と悩み続ける。葛藤は成長すべき時に起きるものですから、悩み続けることから逃げないことです。

 敵ができてしまうのは、葛藤から逃げた結果です。
 葛藤から逃げなければ、敵は生まれません。

 僕は根本的に人間は善であるという考えで生きています。
 何か悪事に向かう時は、それなりに「人間として理解可能な理由」があると信じます。

 僕自身が長いものにちっとも巻かれたくない人間なので、確認できないことに従いません。
 その生き方は大変困難ですが、それは現代社会の今の話であって、これからの日本がより多くの可能性や道筋を選べるものとなるよう、尽力したいと考えています。

 確実に言えることは、僕たち仲間が争う必要はない、ということです。

 最も恐ろしいものは「社会の大きな力」であって、個々の人間同士は必ず仲間になり得るものなのです。

 ここで今ズバリ書くことは控えますが、日本人は全体がある一時から「自分がいけないんじゃないか」「言われたとおりにしなくては」と思い込むようになりました。

 この闇を先に引き裂いてしまうことが先決ではないか、と僕は考えています。
 社会全体でではなく、気づける人だけでも気づいていき、少しずつ納得の連鎖を起こすことが可能なことかと考えています。

 また、僕自身と似た考え方の元に、日本に必要なものを次々発信している認知科学者の苫米地英人博士に感謝しています。

 彼が極一部の優れた研究者の一人として、日本代表で新しい研究に取り組むことを心より応援しています。

 今自分を外と比較してしまう人たちは、とにかく「今は知らない希望があるから、諦めないように」と伝えたいと思います。

 悪いか良いかではありません。
 そうなものはそうなのです。

 そしてその全てに、理由はあるのです。

 僕もできるだけ早く、そして必要なものを発信していけるよう、努めたいと思います。

 自分自身が社会の基準と比較して、上か下かを気にしているようならば、既に認知の世界を支配されています。
 社会の優劣は関係なく、良し悪しに関係なく、自分の親や家族、故郷を排除などしたがらないものです。

 自分の持ち物は、愛着という特別な感情があるものですから。

 不要なメディアをあまり見ないよう。
 選んで必要なものを得るということを、日々心掛けてください。

 今体験する現実こそ、あなた自身の人生です。

会話でのコミュニケーションはここに注意

 久々にYouTubeにもアップしています。

 会話でのコミュニケーションの常識とは。

 話は相手のことを考えて、「相手のためにするもの」ということ。

 自分のために自分が話したいから勝手に話していいわけではありません。

 タダで自分の話を聞いてくれる人なんて、お母さん以外いませんよ。

 友人なら友人で、誰でも話す内容程度に限られます。

 相手にとって得が何もない、知りたい聞きたい、役に立つ、何も利がない話なんて他人に聞かせるものではありません。

 自分が話したいことを聞いてくれるなんて、そんな親切は暇を持て余した人かうわさ好きの人、または自分について関心があり自分のことを知りたい人、相手は限られます。

 話を聞くくらい!

 と思う人は勘違いしています。

 聞き手が一人なら、話したい人が何人もいたらどうするのでしょうか?

 夜のお店のお姉さんだってお兄さんだって、お金を払っているから話を聞いてくれるのです。

 自分の話が相手に対してそんなに得する、聞きたい話だと誤解してはいけません。

 他人が自分の話なんて聞きたいわけがないのです。

 役に立つ何かでも盛り込まないならば、誰も聞きたくありません。

 注目を浴びたい人たちは、自分に関心を持ってもらえていると錯覚しながら接してもらうために、社会の注目を浴びれそうなあれこれを必死でくっつけているのですから。

 自分が話したい話は「きいてもらえる?」とお願いする立場で。

 どうしても話したいならば、お金を払ってお店にいくか、またはカウンセラーの元にでもいくか、まともに信頼関係ある「お互い様」の友人や恋人に聞いてもらうしかないのです。

 しかしどちらにせよ、聞きたくない話を聞かせることなど無理なのです。

 「話を聞く」ということ「話をする」ということ。

 どれほど難しいのか思い付きを話している人にはわかりません。

 ものすごく集中力を要します。

 本人が一方的にいい気分になる話のために、無駄な労力を使う人などいません。

 話を聞かせる、話をさせることは、「多大な集中力を要する頭脳労働をさせているのだ」と踏まえたうえで、互いにきちんと意志の疎通が図れるよう、一回一回を無駄にしないこと。

 生きているうち、一緒にいるうちしか、伝えることも聞くこともできないのです。

 一方的なコミュニケーションばかり取っていたら、目の前にいた人のことも

 「きっとこうに違いない!」

 「絶対こうに違いない!」

 「多分こうだと思う!」

 なんて、馬鹿なことを後から言わねばなりません。

 目の前にいたのだから、何を考えてどう思うかくらい、確認していなければ一緒にいた意味なんて何もないのです。

 目の前にいるから確認できるのです。

 相手が自分と理解し合いたいと努力しているうちだから確認し合えるのです。

 目の前にいるときに互いに意志も気持ちも確認せずに「きっとこうに違いない」のまま生きているなんて、生きていないのも同じです。

 いるから確認できるのです。

 死んだらすべておしまい。

 別れて会うこともなくなったらおしまいです。

 「きっとこうに違いない」は現実に出会うまでの話。

 実際目の前に相手がいたら、言葉でも言葉でなくても、実際のところはわかります。

 決めつけではなく「こうだったんだ!」という確認もなしに、他人と接したなんて言えません。

 それでは現実には誰とも出会っていないのと同じなのです。

 実際にコミュニケーションが取れるということが、どれほど大きなことなのかさっぱりわかっていない人がいます。

 そのような人が、我が子のことでも「こんな子だと思わなかった」と言います。

 一体誰と接していたのやら。他人が実在した意味、まったくありませんね。