月: 2020年1月

ナルシストは何かをやっていない

 東京講座 「結婚に失敗して幸せになる人、そうでない人」

 2月16日の講座は、タイトルとはあまり関係なく「成功する人しない人、成長する人しない人、賢い人そうでない人」のような内容になる予定だ。

 賢い人は、失敗してより幸せになる。
 子供の教育についても少し触れる予定だ。子供を伸ばしていく教育が必要だからだ。
 意識しなくてもやれる人はともかく、ことチャレンジをさせなかった親の子は意識して努力しなくてはわからないことだ。

 餌を与えてきちんとした親の言う事を言っていればいい、結果できるようになれば良い、という教育が大変危険だ。子供の頃はともかく、手を離れて親の目が届かなくなった頃に問題がどんどん大きくなるだろう。行動力も行動範囲も大きくなった頃に。

 今回は東京駅付近で講座を行う。

 講座後に、希望者だけに食事をしながら話をしようかと思っている。
 この場所だと、僕は高確率でどちらにせよ椿屋に行く。
 僕が好きな、銀座花椿通りが本店の珈琲屋である。

 まだ考え中だ。
 とにかく思案しているが、そもそも僕は自分で言うのもなんだが最初から人と違う。

 何に困っているのかがわからない。

 確実に、僕はずっとやっている何かを殆どの人はやっていない。

 それだけは間違いない。
 外側から研究している人たちはいても、自分自身が研究対象で内側から確認できる人間は少ない。

 ただでさえ、対象者が少ない。
 内と外からの確認をすれば、より確実だ。
 なんとしても何かの発見をしなくては、日本は壊滅してしまう。
 日本の魂を失ってしまう。

 世界一の拝金主義国家と成り下がっている場合ではないのだ。
 敢えて僕たちが誇りを失うように教育されてきている。

 なんとしても方法を編み出さねばならない。

 ひとつ、さっき風呂に入っていて気付いた。

 ナルシストとそうでない人は、明確にわかる。

 ナルシスト、つまり「自分のことしか考えていない」人は、というよりは「その状態の時は」と言った方がいい。どうせ成長する前の話だ。

 誰もがそのような時期はある。

 ただ、悔しさ惨めさを味わって育った人は、そこから脱せない。

 その状態の時は、あり得ないことをやっている。

 「自分がどんな様子だったのか、自覚がある」のだ。

 例えば

 「あの時私は優しく笑っていた」

 「あの時私はとても驚いた顔をしていた」

 など。

 自覚などあり得ないことを自覚している。

 勿論、本当に自覚できているわけではない。
 それは

 「という顔をしたつもり」

 というやつだ。ごっこ遊びのあれだ。

 自分が人前でどんな表情をしていたかなど、自覚できていたらただのなりきりだ。

 演じた、ということだ。本物ではない。その顔を作ろうとしていたのだから、意識がそっちに行っている。

 例えば僕が「笑顔を向けるといい」と言ったとする。

 「笑顔を向ける」の意味が分かる人は、相手に対して優しい気持ちを抱くようにする。

 笑顔は気持ちの結果である。顔だけ作ったら不自然だ。

 それは「作り笑顔」というもので、自然な笑顔とは全く違う。

 結果から言うと、張り付いたような笑顔になる。

 ハンコで押したように毎度同じ顔をする。

 どんな状況でも「これが笑顔」と本人が意識している「毎度同じ顔」をする。

 しかし、更にナルシストは「優しい気持ちを持って」と言われたら、「今私は優しいことを考えている」とまた自覚する。

 だから「媚びた態度」になる。

 「優しい」という気持ちは、本質的なことの表現だ。

 その時により何が優しいのかは違ってくる。

 今、目の前の人の幸せを願うようなことを考える。
 この人がうまくいくといいなとか、この人が楽になるといいなとか、色々だ。その時に応じて、そして考える本人によって、その内容は様々で他人が確認できることではない。
 どんな優しいことを考えたのか、それは本人しか知らない。

 相手に対して愛情を持って接したならば、表情は自然とその通りの気持ちを持った顔になっている。

 それが本物だ。自然な表情だ。
 優しさだけではなく、怒りでもなんでも、とにかく自然な表情は違う。

 神経症者が感情と一致した表情をするのは、不機嫌な時だけだ。

 だから人の印象には不機嫌な顔が残る。
 不自然な顔と不機嫌な顔。

 自然な表情は印象に残る。本物は強い刺激を生む。

 だから感情を爆発させたならば、その顔だけが相手の印象に残る。
 意図的にどんなに「優しく見せよう」と努力しても、最後に感情を爆発させれば相手の印象は「怒ってばかりの人」だ。

 状況に応じて、何が優しいのかは違う。
 だからその時その時の状況を把握し判断する、「状況把握能力」が必要になる。

 神経症者は、これが無いらしい。

 「他人の望みに対して独特の鈍感さがある」と表現した学者がいた。

 簡単に言うと「人の望みがわからない」だ。

自分がどんな表情をしていたのかなど、記憶していたらおかしい。自覚して作るものではないのだから。

 表情は気持ちに応じて自然に作られるものだ。意識して自分で作るものではない。

 だから気にしても仕方ないし、気にしたら不自然になる。

 その時心の中にある感情に応じた表情しかしないから、別に気にすることはない。

 心の中だけ保っていればいい。後は勝手に自然に動く。

 心が優しければ、自然といつも笑顔になる。
 だから自分が心優しいと思えるならば、それこそ何も気にしなくて良い。

 自分に酔っている状態とは、自分で自分を見たがっている状態だ。

 自分で自分に演技して見せているのだ。

 自分を喜ばせるためにやっていると言える。他人は喜ばないのだから。

 「他人の目にどう映るか気になり過ぎて、見せることに必死になってしまった結果、自分で確認することになってしまった」

 ということだ。

 だから正確に言うと、他人の目は気にしていない。気にしているのは自分の目なのだ。

 ナルシストなのだから、自分にどう見えるか気にしている。

 そして一人で安心している。

 「私は今優しかった」

 と自覚できている。
 他人がどう思ったかは気にしていない。

 他人と一緒に他人になって、優しい私を確認したのだ。

 だからこの手の不満が出てくる。

 「あんなにしてあげたのに!」

 「私は優しくしたのに!」

 こんなことを自覚している時点で、もうおかしい。
 が、自覚しているだけに悪口を言うことにかけては堂々としている。

 「私は優しい人だった」という安心感があるのだ。

 普通、対象者に嫌がられて優しいとは思わない。

 するとこうなる。

 「あの人おかしい!優しい私に優しくないと言った!」

 私って優しいでしょ?ほら!こんなに素敵な笑顔!

 と意識しながら顔を作るから、こういうアホな結果が生まれてくる。

 言っていることがおかしい。

 あの超絶不自然な表情を見て、なんとも思わないものか、と僕には思えるが、実はそうではない。

 ナルシストと関係を続けられるのも、またナルシストなのだ。

 なぜか。

 ちょっと想像してみて欲しい。

 マジで、いいから脳内で想像して欲しい。

 あなたが誰かに対して、印象を良くするためにこういう笑顔を作るぞ、と意識して顔を向けたとする。

 それを想像してみて欲しい。

 

 

 ほら。

 相手の反応が気になるだろう。
 そして相手がどういう様子だったのか、わからないだろう。

 何を話していたのか、聞いてないだろう。

 だから相手が何を考えていて、何を求めているのか、人の気持ちはまったくわからないしその時の様子もわからない。

 だが、ひとつだけ確実にわかるのは「私の期待に応えた反応が返ってきたかどうか」だ。

 そこだけのために生きていると言っても、過言ではない。

 「私は素晴らしい人になれたつもりの私に対して、皆がどんな反応を見せてくるかを確認するだけの人生」

 を送っている。

 これを互いにやっていたとする。

 するとどうなるか。

 互いに相手の表情も様子も考えていたことも、全くわからない、ということだ。

 ところがまた問題がある。
 これはあくまでも「相手に良く見せようとしている時」に起きることだ。

 となると

 確実に良い関係っぽく続くのは「社交辞令的な関係」に限られる。

 日常を過ごすなどとんでもない。いくらなんでも意識していつづけることはできない。
 だからちょっとした時間を過ごす程度の関係のみ作るのが望ましいだろう。

 それしか作れないだろうから。

 後はうまく行きそうになっても、長時間共に過ごすようになったらすぐ破綻だ。

 他人といて疲れないわけがない。

 そして、そうなると今度は力関係が生まれてくる。

 よりナルシストで、より自分に自分を良く見せたい方が勝つ。

 結果、幸いなことに「支配されてしまった方が相手の様子を良く見る」ことになるのだ。

 ダンプされていた人の唯一の希望と言えるかもしれない。

 人の様子を見ている可能性が高いので、問題に気づく可能性も高い。
 この関係は何かがおかしい、と気付く可能性が最も高いのは、支配されてしまっていた人だ。

 相手がナルシシズム全開で自分を正当化して酔っている時の様子を、確認している可能性がある。

 ここでもし「こんなに酷いことをされている私」と酔っていたら、どうにもならない。

 というわけだ。

そもそも、自分が他人に好意を持たれる時の理由など、自覚できているわけがない。好きになるのは他人なのだから。

 「なんで自分を好きになったんだ…」

 と思うのが当たり前だ。他人から見た自分など自覚できないのだから。

 表情は自分の肉体だから、「笑顔になってから気づく」可能性はあるが、まず意識しない。

 今楽しいから笑った。嬉しいから笑った。それが自然なことだ。

 覚えているのは「楽しかった!」だ。

 

 僕は恐らく、他人から見たらモテていたのかもしれない。だがそんなことを考えたこともない。

 いちいち言ってくる女がいて、そうなのかなと考え始めただけだ。

 気にしろと言ってきたが、そんなことを自覚して動くようになったらただの嫌な男になるだろう。愛されない女子のアドバイスはさすが愛されない男になることばかりだった。

 当然だ。本人がこうすると良いと思っていることを実行した結果が、その人なのだから。

 僕自身はそんなことをしない方が良い、と思っていることばかり「やった方がいい」と勧めてくる。

 だが、自分のされたこと、その時の気持ちを思い出すと僕にとっては良い思い出ではないことが多く、やはりそんな良いものではないと思える。

 他人から見た自分のことなど、わかる人間はいないのだ。

 他人から見た自分は、他人の反応から予測するだけだ。

 「優しい笑顔を向けたのに、相手の反応が悪い!」

 と思ったならば、自分の顔がどこかおかしかったと思うのが当たり前だ。

 また、相手の様子をよく見ていなかったのだと思うのが普通だ。

 こうして自分を次々知っていき、そのうち自覚しようとしなくなり、自然に近づいていく。

 自分を見ようとしないから、今に集中できる。

 様子は把握できるし、人の気持ちもわかる。他人の表情がわかるようになる。

 相手の表情や気持ちを読んでいる人は、相手の様子に合わせて自分が自然に動く。

 だから相手と共鳴するようになり、相手が安心する。

 相手のことを無視して「私の様子を良くする」ことを考えている人は、相手の調子に合わせることなく一人状況に不一致な表情で自分に酔っている。

 だから「張り付いたような表情」になるのだ。

 相手の様子に合わせて動くことが一切ない。

 これには当然、自然な人ほど気づくのが早い。

 自然な人と自然な人は、互いに共鳴するように動く。

 だから安心する。

 自分に全く共鳴せず、固まったように動かない不自然な人に何か違和感を覚える。

 これに何か不安感を覚える。だから自然な人ほどナルシストに靡かない。魅力など感じない。

 逆に「こういう顔をしてほしい!」と願っている同じくナルシストは、「良かった!笑ってる!」と喜ぶ。

 互いに自分のことばかり考えているから、最初のうちは作り笑顔同士で良い関係になれたと誤解するのだ。

 「こうなって欲しい!こうなって欲しい!」

 と念じるように他人を見ているからだ。

 親のせいでとか他人のせいでとか、辛く苦しいことはわかる。

 だが、それ以前の大きな問題を抱えている人もいる、ということだ。

 コミュニケーション能力が欠落している。

 自然な表情同士で連動するように共鳴できないのだから。

 なにせ、あれに一体感を感じるというのに、自分が顔を作っていたら話にならない。

 表情に反応するのだから。

 と、そんなことを風呂に入りながら考えていた。

 この手のことは毎日のことだが、毎度考えていただけで終わる。

 「こんなこと、いちいち話すことなのかな…」

 と思うからだ。

 そして僕自身は、やりたいことが沢山あるので「まあいいか」とすら思わずに、別のことを始めてすっかり忘れてしまう。

 「そういえば昨日、何か考えて書こうかどうしようか迷ったんだけどな…」

 と。

 メモでもした方がいいのかなあー、なんて考えながら、「まあいいか」と忘れてしまう。

 そんなことより東京ドイツ村の楽しみ方を考えねば、と。

 そんなわけで、なんだかんだ教室に通い続けている人が一番話を聞いてる。

 話をしながら、僕が思い出したり思いついたりするからだ。

 面倒くさがりで困ったものだと思う。

 僕は面倒なことが嫌いだ。

 どうせ頭の中に入っているから、いつでも取り出せる。

 頭脳と心はいつでも一緒にあるから、消えることはない。

 そんなことより、一体何が足りないのだろうか。

 脳内ですべき何をせずに、生きてしまっているのだろうか。

 無意識に問題を抱えていたならば、意識に持ってきて正す必要がある。

 僕は逆に、無意識に行っているどれが必要なのか探すために、自分の無意識を意識に持ってくるよういちいち確認している。

 何かが足りない。

 何かをやっていないのだ。

僕を必要としてくれた人

 「雄基はいつか遠くに行っちゃうと思ってた。」

 と言われた。
 行かないで、とか、捨てないで、とか、よく聞いたセリフだ。
 どういう観点なんだ、と昔から思っていた。

 初めて聞いたのは二十歳くらいの時だが、強烈な怒りがこみあげてきたのを覚えている。
 何にそんなに腹が立ったのかその時はわからなかった。

 物乞いのような立場で僕と付き合っていたのだということに、腹が立ったのだろう。

 恵んでやる付き合いなどない。そんなことをするほど落ちぶれた人間だという扱いに腹が立つ。

 自尊心が低い人と付き合った時、最も腹立たしいのはそれだ。

 「僕が人を利用したり支配する人間だと信じて疑っていない。」

 言う事を聞けば良い、と思われている。
 つまり僕が「女に言う事を聞かせて喜ぶ男だ」と思っているということだ。

 そのような事実は無いのだから、別れるしかない。
 僕ではない、そのような目的を持った別人だと勘違いしているから「好き」と言っているのだ。

 全くの人違いなのだから、喧嘩になろうが離れるしかない。

 やたら役立とうとするのも、僕が女を利用して嬉しい男だと決めつけてかかっているからだ。
 喜ぶことをしていると信じているから、「あんなにしてあげたのに」が始まる。

 この現実には毎度憤りを感じる。愚弄されているのだ。

 最初からその事実だけは、全く疑っていないのだ。

 だから僕は、何もせず一緒にいてくれる人が好きだ。

 何もしなくても、一緒にいるだけでいい人が好きだ。

 結婚は特に何もしない関係だ。
 特別なことは何もしない。家族になるだけ。

 つまり、初期のメンバーと同じこと。
 家族というものは変らない。
 だが、選んだメンバーで作るのが、結婚だ。
 ただ一緒に生活するだけ。最初と同じだ。

 立場が違うだけだ。
 子供の役から、伴侶の役になる。

 僕の愛した人は、何もしなかった。

 ただ話すだけ。それでも一緒にいてくれた。

 他の女子なら「それはおかしい!」とでも怒り狂って言いそうな、いつもの僕の考えや構築した理論を話す。

 「わかったか?」

 と聞くと

 「全然わかんない!むずかしい!」

 と素直に言った。「じゃあ…」と表現を変える。
 あれこれ考えてはいる。「こういうこと?」と何度も聞いて来る。

 「やっぱりわかんない。そんなことより、あなたなんでそんなこといきなり思ったの?」

 と疑問を投げかけてくる。

 「それは、さっき、あれを見ていた時に思ったんだ。きっとこうじゃないかなって。」

 僕も正直にそのまま言う。するとこんな反応をした。

 「やっぱりあなた、どっかおかしいわ。そんなこと普通思わない。」

 「そうか、まあ、大抵の人間から見たら天才はおかしく見える。気にするな。」

 「気にしてないわ。」

 「そうか。」

 そんな会話だった。彼女となら喧嘩にならないが、他の女子は僕を批難することが多かった。

 「私をバカにした」と言い出す。

 彼女は面倒になると話を変えた。

 「もう、難しい!そんなことより、ねえ聞いてよ。」

 と話したい話をした。
 僕も聞いてもらったから、彼女の話も聞いた。

 ただそれだけで良かった。
 好きだから。
 互いに好きな相手ほど、何にもしなかった。

 好きじゃない相手なら、常に何かしなくてはならない。
 だが、好きならば、何もしなくてもいい。

 どこにも行かなくとも、特に何にもしなくても、ただ話しているだけで良かった。

 恋人ができただけ、それも自然に。だから互いの人生も生活も何も変わらない。

 ただ話して、抱き合って、それだけ。

 「こんなとこ行ってみたいね!」

 と話していても、それも話しているだけ。
 一緒に話しているだけ。
 話しているだけで、もう十分だった。

 僕はただ一緒にいて欲しい、と思う相手はできる。
 だが、大抵は一緒にいるだけなんてことは、してもらえないのだ。

 そこまで好かれることはない。

 なかなかない。そこまで「信用してもらえない」からだ。

 一緒にいるだけでいいわけがない、僕が何かをさせるために一緒にいるのだ、と疑われるからだ。

 ただ話を聞いてくれて、ただ思うことを言ってくれる。
 そんな素晴らしい女性には、まず滅多に会わない。

 だから彼女は今も特別な人なのだ。
 寧ろただ話しているだけでは、うまく行かないことが殆どなのだから。

 常に疑われているから、何を言っても「批難した」と突っかかられる。

 思うことが言えない。
 彼女は違った。

 「なにそれ」
 「へんなの」
 「知らないけど、そうなんだ」
 「わかんない」

 ただ思う事を言ってくれた。
 信用してくれた。

 バカにして言うのではない。そこに蔑んだ感情は籠らない。

 ただ思っただけ。素直に言っただけ。

 友人の中で最も一緒に特別なにもしなかったのが相棒だ。
 恋人の中では彼女だ。

 その代わり、話していた量と質は断トツだ。

 ただ一緒にいてくれるだけの人が、一番貴重なのだ。
 なぜならば、それは最も特別な関係になる人しか、許されないことなのだから。