まだ見ぬ友人へ
38度以上の熱を出しながら、冬のソナタを観ていた。
そんな最中に書いていると踏まえて、何かあっても少々多めに見てくれ。
ああ、これ昔面白いドラマだと思ったんだよな、と思って見始めたが、昔とは違うことを思う。
僕が、変わったのだ。自分自身が経験を積んで変化すると、物の見方は変わる。
僕はこのドラマをはじめて観たころ、まだ愛するということを知らなかった。
「無償の愛」とはたどり着くのに時間がかかる、成長の果ての感情だ。
ドラマは男女の四角関係の恋愛ドラマなのだが、それぞれが違う「好き」で動いている。
少女漫画の意地悪キャラのような、チェリン。
彼女は「物のように」人を欲しがっている。ライバルのヒロインを陥れようとするし、意地悪な態度もとる。
愛する人であるはずの相手を騙す。
しかし、本人は「それもこれも、彼を奪われたくない一心で」と自分を美化している。
幼馴染のサンヒョクは、優しい優等生でいつもヒロインを気遣ってくれる。
しかしその優しさの裏で我慢を重ねるから、そのうち恨みがましいことを言いだす。
とにかく、ヒロインがよく責められる。
そしてよく泣く。
ヒロイン役のチェ・ジゥは、当時「涙の女王」と称された。
意地悪で高飛車な女、チェリンは真っ先に小細工していたことがバレてフラれてしまうのだが、四人に共通している点は「好きな人をいじめはしない」というところだろう。
心理的なと言い出せば、チェリンは愛する人であるはずのミニョンさんを人として尊重していない。これはまるっきり執着で、「この人が欲しい」という気持ちだ。
本人が幼いのだ。
サンヒョクもヒロインにフラれるとなると途中死に体になるが、それでも紆余曲折を経て彼らは成長していく。
この人はいい人、この人は成長していない人、という時間が止まった認識をしてはいけない。
ここが、このドラマのいいところだと思った。
それぞれが、互いに傷つけあったり思いやったりしながら、少しずつ成長していく。
「愛してなくてもいいから一緒にいてくれ」と言っていたサンヒョクも、結婚を目前にしながら本当に愛する人の元に行かせるためヒロインを諦める。
延々と周りに流されて優柔不断だったヒロインのユジンは、愛する人が事故に遭い命の危険に晒されたことで覚悟を決める。
今まで黙って泣いてばかりだったヒロインが、意思をはっきり持って、周りに止められても自分の本心で行動するようになる。
一番諦めが悪いのはチェリンで、やはり考え方が幼い。だが、元の動機が他のキャラ達とは違うのでそれも致し方ない。
「この人をとられたくない!」という気持ちなのだ。
運命で結ばれる、とはこういうことだろう、と思えるドラマだ。
当時、多くの人がこのドラマに夢中になったのもわかる。
意地悪役のチェリンでさえ、実際にいる恋人の陰口を叩いたり噂話をしたりしながら、馬鹿にして付き合っている女とは違う。
彼女の美点は、「好きな人に本当に夢中」であることだ。
彼を手に入れたい一心で、彼をバカにしているわけではない。
執着心の強い初恋という感じだ。
少しずつ、話は展開していく。
それぞれが、悩んだり苦しんだり傷ついたりしながらも、謝ったり許したりしながら少しずつ進んでいく。
この、謝ったり、許したり、が現実の関係にも必要なのだ。
自分の願望の世界に生きる人は、部分的にうまくいっていることをやれば、それ以外の部分は「あれは本当に思ったわけじゃないから」などと誤魔化してなかったことにできると思っている。
なかったことになる部分、なんてない。
このドラマの通り、起きたことは全部起きたことだ。
全てが「その人の動機」から起きているのだから、消えていい部分はひとつもない。
ひとつでも消えたら、その人が消えてしまう。
その人の精神があり、すべてが起きているのだから。
うまくいっている、うまくいっている、を繰り返し続けたら「成功」なわけではない。
起きたものは起きた。消すことはできない。事実をもみ消したいのは、人を好きになったわけではないからだ。理想の展開を体験して一人でよがりたいからだ。
起きた現実を受け入れずに進むドラマはない。
現実を無視して恋人をいじめているような人間は、このドラマの意地悪役チェリンの足元にも及ばない。
チェリンは執着心は強いが、ストレートに怒るし、泣く。そして謝る。
だからこそ、フラれて泣きじゃくる姿に同情もしたくなる。
素直さは大事なのだ。
周りを自分の道具にしてしまう人は、現実に起きていることを無視する。時間を止める。
だからドラマのわき役にもなれないのだ。
このドラマに居場所がある人は、それなりの人だろう。
今、このドラマを観て、僕のように昔とは違う感想を持つ人も多いかもしれない。
時間が随分経ったから。
たとえ、愛されることがなくても、あの人が元気で生きていてくれればそれでいい。
ヒロインの愛の力が目覚めてから言うセリフだ。
当時はわからなかったが、今回はこのシーンを観て、この瞬間にヒロインの愛する力は覚醒した、と思った。
無償の愛の力だ。
それぞれが、自分の執着を捨て、愛する人の幸せを願い苦しみを受け入れる。
そこに愛の力がある。
自分の我を通して、愛する人を苦しめたくないと思うのだ。
自分が嬉しくても、相手の笑顔が無くなったら意味がないのだ。
自分のことしか考えない人ならば、自分を愛せという圧力をかけるために言うのだろう。
「愛してたら相手の幸せだけ考えるよねえ」と。
支配だ。これは愛でも恋でもない。
少なくとも、このドラマに出てくる四人は全員恋をしている。
僕も今では愛を知っている。
たとえ自分が何かをしていると相手が気づくことがなくても、見えないところに僕がいたと相手が一生気づくことがなくても、それでも相手のために何かできるならばそれでいい。
あの人が、元気でいてくれて、笑顔であってくれればそれでいい。
自分が愛されることがなくても、二度と会うことがなくとも、それでも構わない。
無償の愛とは、そういう気持ちだ。
それまでの恋愛で体験したどれとも違う、初めて知る感覚を僕は知った。
本当に、無償なのだ。見返りなどひとつもない。
それでも構わないのだ。
他人を操作するために心を閉ざして生きる人は、心の中に誰の居場所も作らない。
だから常に孤独なのだ。
目に見える形で安心できないと、常に不安なのだ。
「愛とは形」
それが、誰にも心を開かない人だ。形ある証拠を見せられないと、それが一般的に誰が見ても「良いこと」でないと、信用もできないのだ。
自分に愛がないから。
かつて、愛する人に説教されたことがある。
小言と言ってもいいのかもしれない。
その様子を見て、こんなにも愛してくれる人がいるなんて、と僕は感動した。
彼女の愛を感じた。
「僕は頑張ってるのに、批難した!」などと思わない。思うやつもいるだろう。
その時点で、僕に愛を受け取る力がなかったら、「僕のことをわかってくれない」と彼女を恨んだかもしれない。
真実の愛は、消えることはない。
心の中に残る。
いつまでも、思い出として残る。
その思い出に支えられて生きていける。
愛はなんの問題もなく、傷付くこともなく、育っていくことはない。
苦しみの果てにある感情だ。
僕も散々言い合いをした。
だが、結局はお互いに好きだから、最後には仲直りできる。
相手を苦しめたくないという気持ちが互いにあるから。
自分だけの欲望を満たそうと互いに思っていないから。
「この人が好き」なのだ。
だから、言動を制限するようなことはしない。
おままごとがしたい人は、先に話し合いをする。
既に恋人同士になっていても、男が女がと何が正しいのか決めようとする。
普通はどうだとか、私の友達はみんなどうだとか。
「女っていうのはね」と教育しようとする。そして理解して望むことをやろうとしてくれるのが、「好きになってくれた人」だと思っている。
自分を嫌いになれないように、「なぜこうなっているのか」の経緯を、つまり過去を、私語りで全部教えようとする。
それをやれば、恋愛感情そのものが消えていく。異性としての意識がなくなる。
それがわかっていない。
なぜそうなのか、と後から理由を説明されたら魅力を感じるわけではない。
あまり知りすぎると、興味や関心がなくなる。
「情報で人を選ぶ人」はよくそれをやるが、それは「情報で品物のように選んでほしいから」でしかない。
自分自身がそうしているからだ。
本当に誰かを好きになるとは、そうした打算的な気持ちではないのだ。
寧ろ、得することなんてない関係。
それでも、ただその人といたいのだ。
どこか素晴らしい場所にデートをしなくても、豪華なプレゼントがなくても、全く関係ない。
ただ、その人の何かに対する反応や、感想や、考え方や、表情や、今あるその人の何もかもが、好きなのだ。
別れる時は、身を斬られるような痛みと共に、内面にある半身を失わなくてはならない。
体に風穴が空いたような感覚になる。
それでも、愛は消えない。
思い出も、愛も、消えることはない。
何よりも、愛し合うことによって成長した自分自身に誇りを持って生きていける。
この自分自身が、なぜ今の自分になれたのか。
それを考えれば、必ずそこに愛し合った人がいる。
本当に愛し合う時、相手も自分も自然体で付き合っている。
だからそのあとに、もし自分を罵倒して貶めてくる女に出会っても、今の自分を守っていける。
「あの人が愛した自分」であるからだ。
今ここで自分を罵倒する女に気に入られなくても生きてはいけるが、もし目の前の女に気に入られるために自分を曲げてしまい、愛する人が自分を見限るならば生きていけない。
自分を傷つけないように、自分の未来を考えて、本当に大事にしてくれた人がいる。
反対に、自分を傷つけ、貶め、利用しようとしてくる人がいる。
表裏一体なのだ。
僕を罵倒していた女が他ではどうであっても、少なくとも僕の中では、受け入れてくれた人と、苦しめてきた人だ。
本当に愛する能力がある人は、何かをしても恩着せがましくしない。
自分自身が自分の意思で、覚悟を決めて生きているから。
気高い精神があるのだ。
自分が何かをしてうまくいかないことがあっても、それで相手を罵ることはない。
そこには愛があるから。
うまくいかないと後から文句を言う人は、相手を操作するために我慢していただけだ。
それまでの優しさが表面上だけだったと発覚するのは、上手くいかなかった時だ。
本当に好きであったならば、上手くいかない時こそ次の段階にいくべきチャンスなのだ。
喧嘩になるならば、その時に素直になってより心を通わせることができるのだ。
期間でいえば、短い時間だった。
それでも、時間は問題ではない。
そこで僕は本物の愛を知った。
愛する能力は一人で育てることはできない。必ず相手がいて育っていくものだ。
望んだ展開にならないなら、いいや、と諦められるならば、本物ではない。
博打をしているわけではない。
愛は常に能動的なものだ。
他人と比較して、手に入りそうなら愛するなんてことはない。
実際には、「うまくいきそうな相手を選ぼう」とする人も多い。
だが、「うまくいった相手」が好きではないならば、愛としての意味はない。
形の上でうまくいっても、自分自身が相手を愛していないのだから。
「愛してない人との結婚がうまくいった」
こんなおかしなことになる。
ドラマの中で、ユジンとチュンサンは自分たちが愛し合っても親に反対される。
二人が愛し合っているだけでも奇跡のような出来事なのに、更に親に認められ、他人に賛辞され、世間的にも理想の形にして…と欲張ってばかりで、結局中身など忘れてしまったような人もいるだろう。
形の上でもうまくいくから、この人を愛する、と望んだ通りにできるわけではない。
何もかもが理想通りにいくわけではない。
それでも、心は自由だ。
心で何を思い、誰を愛するかは自由に決められる。
心と体は必ずしも一致して動けるとは限らない。
心とは裏腹のことを口にすることもある。
心でやりたいことをできないこともある。
それでも、感情は自然現象だから、誰にも止められないのだ。
自分が傷ついても、この人を守りたい、と思ったことが、君にはあるか。
その人を守るためならば、誰に何を誤解されようがどう思われようが、どうでもいいのだ。
どんなに頑張ってよい子にしたところで、文句を言うやつは言うし、陰口を叩くやつは叩く。
それは本人の人間性でしかないから。
だったら、せめて自分が望んだ通りに自分を動かしたいと思わないか。
せめて、自分自身がこれで良かったと確信できる、自分でありたいと思わないか。
理想のゴールや形が残らないからといって、僕は自分が愛した人を愛さない方が良かったと思ったことは一度もない。
永遠の世界など、どこにもない。
僕たちは生まれてから刻一刻と死に近づき、徐々に変化し、やがて衰えてこの世から消えていく。
その経緯の中で、起きてから最後まで残らないという理由だけで、誰かと愛し合う経験がない方がいいなんて僕は思わない。
いきなりそこにたどり着くわけではない。
チェリンのような執着の恋愛があり、サンヒョクのような初恋の憧れもある。
その時その時、自分が欲したものがあり、その時その時自分の判断で動き、傷付き、失敗して、その経験から学び立ち上がり、真実に近づいていくのだ。
傷つく覚悟をするには、人を好きになる必要がある。
好きな人の心を守るために勇気を出すくらいできなくては、ヒーローにもヒロインにもなれないだろう。
自分程度の小さな人生の中で、世間に知られることもなく起きている小さなドラマの中でくらい、主人公として振る舞った方がいい。
覚悟を決めると、人は化ける。
別人のように。
それがその人自身の魅力だ。
それをいつまでもそばで見ていたいと思う、そんな気持ちもあるのだ。
熱で苦しんでいる最中にこんなドラマを観たからか、多少感傷的になったようだ。
とりあえず、僕は真実の愛を知っているから、それを知らないみんなにも体験してほしいと願っているのだ。
その愛、一度きりの体験でさえ、自分の人生を支えてくれる。
そのくらい、愛の力は偉大だ。
憎しみや恨みなど、ものともしない強さがある。
君にもぜひ、その強さを体験し、支えにできるようになってほしい。
いわゆる毒母であった僕の母も、最後には素直に詫びて多少なりとも素直に物言うようになった。
僕が恨みも憎しみもなく、母への愛を持って生きたからだ。
愛は憎しみを超える。
恨みを振り払い、幸福へとたどり着くには愛の力を携えていくしかない。
僕はそう確信している。
今は全く分からない人もいるだろう。それはそれでいい。
僕は人を憎んでいた時もあるから、そうした人たちもまた、当時の僕の仲間として見ていられる。
だがそれは、決して素直な気持ちではないはずだ。
意地を張って一生の宝となるような友情や愛を、自ら捨てることはない。
何よりも、恨んでいる時より、愛している時の方が、気分がいいのだ。
君も自分自身が気分よく生きられるよう、嫌な感情を携えて進まないでくれ。
そしてもし、君が愛のために傷ついて進むときあらば、勇気ある君を僕は応援している。
その勇気が、君自信を輝かせるだろう。
では、君も風邪には気をつけたまえよ。
僕もまさかこんなにひどくなるとは思わなかった。
なんだか段々若くもなくなってきたようだから、これからは気を付けるとしよう。
まだ見ぬ君の友人
最上 雄基
追伸…誤解しないでもらいたいのだが、真実の愛も簡単に手に入るものではない。どんなものでも、自分自身の努力と積み重ね無くして得られることはない。生涯手に入れることができない人たちの方が、遥かに多い。たとえば僕の両親のように。