今回は当たり前の善悪の判断についてお話します。
今回はクイズです。
最後に質問するので、即答してください。
いいですか。
即答です。
戦時中、多くの人が飢えて死んで行く世の中で、ある家族は家を失い、食べるものもなく、飢餓状態。
そこで、親は子供に食べ物を与えるため、近くの畑からこっそり野菜を盗んできて子供たちに食べさせた。
さて、問題です。
人様の畑から農作物を盗んだ親の行い。
これは悪行でしょうか。
即答してください。
あやふやではなく、理由も同時に答えてください。
答え。
先の行いは、善行です。
この判断を即できるよう、常に真理について考え、真の善行と悪行を見分けていくことが大切です。
即答できなかった人もいるでしょう。
それは僕たちが「盗みは悪いことだ」と記憶しているからです。
先の行いは「盗み」を行ってはいますが、それは一部のことであって、動機は「我が子の命を救うため」です。
ですから、社会的には犯罪になりますが、人の道としては善行です。
先の行いであれば「犯罪だから盗みはできない」として我が子を死なせる人より、盗みを働いてでも我が子を生かす人の方が人としては優れていることになります。
しかし、そこまで単純な話でもないのです。
先の話も条件がそろっていたらの場合です。
農家の畑から数人の家族が生きるために野菜を盗んだところで、誰かが死ぬほどのことにはなりません。
もし、それを盗んだら「他の人が死んでしまう大事な食べ物」であればそれは悪行です。
ほんの少し、多くあるところからこっそりいただいてきただけ。だからあれは善行として構わないのです。
盗みを働く時、親は罪悪感を乗り越えねばなりません。
自分が罪人になっても子を救おうとする親の気持ちがありますから、それは善行でいいのです。
そして実際の人間は飢餓状態になるとかなり動物的になっていくことがありますから、その時の状況も考えねばなりません。
他の行動でも基本は同じです。
自分が得をするため、欲を満たすため、誰かに気に入られるためなど、動機が他のものなら同じ行動も悪行になります。
僕たちはとにかく、偏見による差別的な判断をやめ、本質を見極め真理に沿った判断を心がけねばなりません。
なぜならば、そうしないと悪事を犯す人が世間では善人とされたり、善行を積む人が世間では罪人のように扱われてしまうからです。
常に、物事は本質を考えるよう、真理を見抜く訓練を心がけていきましょう。
様々な場面を考え、今のクイズのように友人たちと議論するなどを繰り返していれば、段々と本質を見抜く目が身についてきます。
今の社会では職業差別がありますが、それも自分の首を絞めることになります。
以前から引き合いに出すさる精神科医の話があります。
彼は、元々生理学的な医師だったのですが、自分自身がうつ病になったことをきっかけに精神科に通うようになり、医師だっただけに投薬内容やその治療方法に疑問を感じ自分で勉強して自力で回復しました。
そして精神科に転向し、無投薬の医師として活動するようになりました。
彼は講演でこう述べていました。
「医師なんて元々七割以上が収入一千万以上の富裕層ばかりなのだから、社会的弱者のことなんて本気で考えているわけがないんだ。」
彼は内側を見てそれを痛感したのだろうと思いましたが、堂々とそれを述べた勇気はすごいものだと思いました。
ちなみにこれについては僕も同感で、なんとなく僕たちは病院等のカウンセラーに「優しい人間性」など、母親のようなものをイメージしがちですが、現実にはやはり医師同様富裕層の人が多く、普通に高学歴エリートです。
せめて、大学に入った時点でみんなに愛される優しい性格の人でなくては、性格が悪い人は何をしても性格が悪いように、その職業についた途端に全員が「優しい人間性を備える」などという期待をしてはならないでしょう。
ただの偏見です。
勿論全員が全員ではないから、先のような医師がいるのですが、僕も心理に関わる人たちは陰口すごいなと思っています。
ただ、彼らは別に困らないですから。それも先の精神科医が述べていました。
弱者がいつまでも這いつくばっていようが、彼らは仕事がなくなるわけではないですから。
悪いのは彼らではなく、偏見で職業差別をしている人たちだとも言えます。
「母親なんだから、優しいものだ」
これも偏見です。一生にひとりしか知らないはずの母親なのに、なぜそんなことを言いきれるのか。
母親は子から見た時だけの立場です。自分から見た母親ひとりだけが「実際の母親」です。他を知ることはできません。
そこに自分の期待があっただけです。自分を生んだ人ならば、その人は自分の母親です。
冷酷だろうがなんだろうが、それが「実在の母」です。
期待に応えていないことを、ひどいと嘆くのは間違いです。事実は最初からそうなのですから。
弱者が集まるところに、偽善や虐待が蔓延するのも大昔からです。
中世ヨーロッパでも、慈善活動は貴族が「いいことしてますアピール」するための手段のひとつでした。
自分たちがガメるから貧しい人たちが山ほどいるのに、おかしな話でしょう。
しかし、大衆は「何が起きているのか考えない」ので、それがわからず目の前に食べ物をくれる貴族が現れたら「なんて優しい人だ!」と感激してしまうのです。
そのくらい、目先のことしか考えないのが人間なのです。
そうなると、たまに僕のように「全体像を見ようとする人」が出てくると、権威ある人にとって邪魔なことも理解できるでしょう。
大衆は、自分で判断せず人に聞くのです。その際に自分より強い立場にある「自分に理解できない誰か」に無条件の信頼を寄せ、判断をしてもらうのです。
「どうなんですか?」
と答えを聞いて、その人の判断が「真実」だということにして生きるのです。
「あなたの判断ですよね?」
と問われても、自分の判断ではないと答えるでしょう。
「あの人が言ったのでそうだと思った」
これが残念ながら愚かな大衆というものです。
あの人が言ったならば、思ったのはあの人でしょう。
更に言えば、言っているからといって思っているわけではない、と言えます。
寧ろ、言っているからこそ思っているとは言えない、と言えます。
それを言うと何が起きるか?
言った本人が正しい人になり、誰かが間違った人になり、聞いた人が答えた人の都合のいい人間としてこれから動いてくれるでしょう。
そこまで考えるのです。
その発言によってこれから何が起きるのか。
言っている内容なんてどうでもいいんです。
何をしようとしているのかの方が重要です。
あの人が悪いことしてますよ!あの人に騙されないでください!
と言いまわっている人がいたら、どう考えてもたった今その人が他人を洗脳しようとしているでしょう。
そんなことを誰のためにしているのか?
常に、善行とは自分の身を捨てているものです。
自分の身を守るためにやっていることは、どんなに正しい理屈を引用してこようが善行とは言いません。自己執着でしかないのです。
その場面を見て、すぐにそれが理解できるかどうかは、自分自身が間違いないと確信する道徳性を身に着けているかとうかにかかってきます。
そして他人の身になれること。
何をしている人がいても、自分がこの人だったならば、と想像するのです。
善行とは自分の身を捨てて行うこと、と言いました。
よって、最初に出した問題の話も、親が自分の身を捨てて子を守ろうとした「善行である」と判断できるのです。
人間は人間が考えた理屈の世界でばかり考えますが、自然の摂理で考えたら親が子の命を守ろうとしているのは至極当然で自然なことです。
そして、もし最初の話で野菜を盗んだ親を社会が罰するならば、その社会的制裁は「悪行」と言えるのです。
とはいえ、そのために叙情酌量などが用意されているのですから、今は人の命を簡単に奪う判断がされるようになりましたが、そんなことをしている世の中で生きている僕たちには、きっといつか罰が降るでしょう。
今の社会は人を殺す判断をします。それは僕たちの身にも責任として圧し掛かってきます。
私刑なんてことをする人たちもいます。その人が生きている社会の流れに生きている僕たち全員に、彼らの悪行のツケは必ず回ってきます。
自分さえ良ければ、自分さえ悪いことをしなければいい、と考えないことです。
それは結局「自分はあんなことしないけど、あの人たちは悪い人だから罰していい」の世の中につながっていくのです。
善行も悪行も、その全てが僕たちが生きる社会の一部ですから、僕たち一人一人ができることは、できるだけ善き流れを生み出しその流れの中にいるように心がけることくらいでしょう。
善行を積む人には慈悲の心があります。
役に立たないからあいつを捨てる、という冷酷さはありません。
なぜならば、善行を積むためには必ずなんらかの罪を乗り越えねばならず、その時に抱えた罪悪感は乗り越えると同時に他者への慈悲の心として生まれ変わるからです。
少し難しかったでしょうか?
普段から考えていないと難しいかもしれません。
最初に述べた通り、今では道徳の授業が行われないようですが、その分友人と、家族と、哲学的なことについて話し合って本質を見る目を養っていきましょう。