真剣に生きていなければ幸せになどなれない ~無料記事~

 僕が欲しかったのは「仲の良い愛のある家族」でした。それは僕の個人的な目的でしかありません。

 最低限、今生一度きりの道を生きるのであれば、金や地位なんてものは元々あるものがなければ手に入らないものですし、それくらいは手に入れないとこの人生が生きる意味も感じられないものになる、と思ったので、その目的を持って生きてきました。

 しかし、今こうしてたまたま僕が珍しい人格だと発見していただき活動を続けていると、殆どの人は「不幸になるために努力しているだけ」だとよくわかります。

 これからのすべての努力は、不幸を維持するためにやっているとしか言えないのです。

 いつか幸せになるために、と夢見ていますが、夢を見ている時点で現実を見ていません。

 親に不満がある、我慢して生きねばならない家庭だった、ということも原因のひとつではありますが、それ以前に「真剣に考えていない」という本人の責任でしかない原因があります。

 どんな境遇に生まれても、真剣に考え、本気で生きることは誰でもできます。しかしその最低限の努力をしていないのです。

 どんなに失敗しても、間違うことがあっても、真剣に生きていないなんてことは生きる上では愚の骨頂です。

 僕は自分が本気で考えて生きていますし、仲間や皆さんに対しても同じく本気で考えて解決策を見出そうとしてきました。

 しかし、本人が真剣に考えれば必ずわかることさえ考えないならば、他人が何をどうしてあげても無駄です。

 僕たちは現実に本当に生まれてきました。

 今生は一度しか生きられません。

 誰かに「過去に起きた出来事」を知ってもらい、似たような体験がある人に共感してもらう。

 これになんの意味があるのか。なんの意味もないことはありません。

 「不幸を維持するために必要」なのです。

 僕は子供の頃に不幸を共有できる友達がいましたが、その友達とは離れるのも早かったです。

 僕はその子になりたいわけではなく、その子の家にも生まれたくありませんでした。本当に、可哀想になるほど尋常ではない環境でした。

 しかし僕は、愛のある家庭の中で生まれてきたかったのです。

 ならば、いつまでも愚癡を言って嘆いている時間はないのです。

 生まれたくてもそんな環境に生まれなかった。

 これははじまりでしかなく、人生自体はこれからの自分の生き方で決まるからです。

 幸せになりたいのは僕自身なのに、その僕がこれ以上ない努力をしているのは当たり前のことです。

 応援して力を貸してくれる他人がいるならばそれは幸運なことであり、誰だって自分が幸せになりたいのですから、本来は赤の他人である僕のために自分の分を削って与える必要などないのです。

 僕は最近、老いを実感しています。もう若い頃のような集中力がありません。それでもまだ生きるのですから、精進はしなくてはなりません。

 時折、未来について真剣に考えます。自分自身によく問いかけ、二度と後悔のないよう慎重に道を選びます。

 親離れせずに生きている人は、もう自分を好きになることはありません。

 それは不可能だからです。

 なぜか。

 それを一度考えてみてほしいのです。

 一言で言うならば、「時間がズレたから」です。

 頭を使ったことがおそらく「全くない」人がこの世には存在していると思います。パッと考えてすぐに「わからない」と結論を出すのは、「今まで聞いたことがない」からです。

 わかる=知っている、つまり記憶のことを「わかる」だと思っているのです。
 わかる=納得した、ではないのです。

 真っ新なところから自分自身で理論を構築するために、頭の中で組み立てて考えてきたことが、おそらくですが、一度もない人間がいるのだと思います。僕はそうであったことがないので、あくまでも「おそらく」ですが、子供の頃から本当にまったくそのような思考をしたことがない人間も存在しているのだと思います。
 それでは奴隷にならない方がおかしいです。

 僕は子供の頃から必死で考えてきました。とにかく真剣に考えてきました。

 僕には頼りになる親がいませんでした。だから僕は僕自身の人生についても、真剣に考えねばならなかったのです。

 母親しかいないのに、その母親が「僕のことを真剣に考えていない」とわかっていたからです。

 聞けば答えは返ってくるにしても、適当に答えるだけの人でした。
 ならば、僕は本気で考えるしかないのです。