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愛ある世界は心の中でいくもの

 愛ある世界に生きたいと思っている人の多くは、他人に何かをやらせて「自分が満足する世界」を作らせようとしている。

 これが、現代社会における「愛の勘違い」だろう。

 心理学者フロムは「現代社会人は愛するということについてあまりにも軽く考えている」と指摘しているが、先日の上野の講座では「現代社会人はセックスをファーストフード化している」など、最近の世界の哲学者たちの考えを紹介した。

 愛がない殆どの人は、話し合いによってこれからどうするかを先に決め、話がまとまったら「これから愛ある関係を作れる」と思っている。

 話し合って何が正しいのかを先に決め、これからは決めた通りに行動する。

 それで実行しながら「こんなことが起きるんだ」「今こうしていてとっても幸せ」と感じるだろうか?

 何よりも「何も考えずにただ嬉しい、楽しい」という実感を得られるだろうか?

 本当に実感する時は、何も考えていない。

 感情は内側から湧いてくるだけだから、言葉に変えて考えているわけではない。

 心から感じて、その感覚を体験しているだけなのだ。

 話がまとまってこれから「うまくやる」内容が決まってしまったならば、その後はただ嫌々つまらない時間を過ごすしかない。

 しかし、自分の脳内を他人に作らせて安心したい人は、そのように話し合いで他人が動いてくれると満足するのだ。

 「それでいいんだ。ちゃんとできてる。」

 そして一人で思うのだ。

 自分はちゃんと愛ある関係を作ることができている。と。

 この時の感覚が、愛ではないとわからないのだ。

 とにかく「形を作ること」が大事だから、なんとかして口論で勝って「自分が正しい、これが愛なのだ」と他人をやりこめて言う事を聞かせれば満足なのだ。

 形だけに生きる人は、形が失われたら全ておしまいだと思っている。

 しかし本当におしまいなのは、自分自身の中に愛がないこと、自分の中に他人を支配して生きようとする心しかないことなのだ。

 「いい人」は話し合いで決まると思っている。

 だから自分が否定されないよう、自分は正しいのだと言い張りたがる。

 「正しい形」にすることが目的なのだ。そうなれば、うまくいっていると自分が思えるからだ。

 「うまくいっている証拠づくり」をしているだけなのだ。

 その証拠づくりで失敗したことを愛の失敗だと思っているが、それ以前の問題だ。

 僕は「愛の才能」というものはあるのだと思う。

 僕たちは自分自身の中に起きる感覚のどれが愛と呼ぶのか、友情と呼ぶのか、そもそも名前の区別は人間が作ったものなのだから、実際のところは感覚を感じて「これだ」と区別しているわけではない。

 自分が感じているものがなんなのか、他人に見てもらうことはできない。

 確認するのは自分でしかない。

 「親に愛されなかったせいで、愛がわからない」と言う人がいる。

 愛なんてものは感じるものなのに、心の中まで親が動かして教えてくれていると思っている。圧倒的な親への依存心を持ち続けている人だ。

 では、「愛はどうやって渡されるのか?」と問われたら、人に不満を述べている割には何も答えられない。

 不満を述べているのだから、その反対のことが説明できなくてはならない。

 他人を批難しながら「ではどういう場合がうまくいっていると言える状況なのか」が言えない。または、本人の説明通りであると他人はただの奴隷であり、自分だけが満足して終わるという正に「愛がない関係」になってしまうのだ。

 人間関係が破綻してきたわりと多くの人が

 「自分のことばっかり考えちゃってる!」

 と嬉しそうに言う。

 また私は私のこと考えちゃってる!

 それを他人に話して見せている、そのたった今も独りよがりなのだ。

 このような人は、愛する才能がないのだと思う。

 これが愛かどうか、これが信じるということかどうか。

 そう自分自身に問いかけた際に、自分にとって都合のいい答えを出すために自分の感情を無視する。

 もし、今自分が○○と思っていることになれば、相手が喜んでその後の展開がうまくいくかもしれない…。

 そんな風に形の流れを作りたい人は、自分の心を平気で無視して「うまくいきそうな流れ」を生み出すために感情を捨てる。

 それを繰り返した人は、正に天罰覿面といった感じだが感じる力自体が無くなっていく。

 他人をどれだけ操作しようとして生きてきたのか、それもまた積み重ねによる努力なので、一朝一夕どうにかなるものではない。

 マイナスに向かう場合は「鍛錬」と呼ばれることはないが、ある意味ではそれも鍛錬であり、感情を感じる力を失い、頭の中に妄想を作り出す能力が身についていく。

 感情は自分でどうにもならなくなり、他人の前で感情をそのままむき出しにして、心の面倒を見てもらおうとする。

 それが幼児のまま大人になった人だ。

 周りをどう動かすか、他人に何をさせるか、そんなことを「考えなくてはならない立場」はない。

 その立場に応じて必要なことがあるのに、形だけ適当に作ったり、肩書だけで関係を作ったり、そんな行いを長い間続けていれば、愛する能力など育たない。

 勉強もせずに東大を受験して受かると思う人はいない。

 学力がないと受験はできても合格はできない、と誰もがわかる。

 しかし愛については、自分自身が愛する能力がなかろうが、人を信じることができなかろうが、自分自身さえ自分を好きになれなかろうが、「素晴らしい誰か」に出会うことができたら、間の苦労をカットしていきなり「最後にたどり着く最高の愛」が得られると思っている。

 自分の心がどんどん変化して、より人を受け入れ、心から愛を生み出すことに成功してきた段階がないのに、「そんな自分でも全て受け入れてくれる誰か」に出会えたら、それで「愛し合う関係だ」と思っている。

 愛というものについて、恋愛や夫婦の本質についてさえ、「私はそうじゃないと思う!」と持論を持ち出して自分にとって都合のいいことが「真の愛の本質」と言い切る。

 「正しい人になりたい」人なのだ。

 だから、「自分が言っていることが正しいと他人に認めさせることができたら、他人は正しいことをやらなくてはならなくなる」と思っているのだ。

 「支配する権利」があると勘違いしているのだ。

 自分が言っていることがどんなに正しくても、他人が自分に「従わなくてはならない義務はない」とわかっていない。

 それが、関係性を理解しない人だ。

 「皆で正しいものが何かを決めて、それに従って全員で正しいことをする世界にしたい!」

 と思っている人が今の社会には多い。

 それが愛を知らない人たちであるが、そもそも「愛」が欲しいと本当に思っている人さえいない。

 自分自身が「こんな風になったらいいなー」と思い描いている妄想があり、その妄想を具現化するために生きているだけなのだ。

 その気持ちが愛か?

 「たった今、自分の内側から湧いているこの気持ちが愛なのか?」

 それを、自分に都合のいい話にしたい人は、そうでなくても関係なく「これが愛だと私は思う!」と言い張る。

 言い張っても他人にとってそうなるわけではないが、私は私が正しい人になるために、「これが愛だ!」と言い張る。だからその人だけは、自分の決めたことに従い、それが愛だということになった世界に生きていくことになるのだ。

 愛の才能は、恐らく誰にでもあるものではない。

 愛の才能は感じる力の才能だ。

 想像力、共感力などが合わさって生まれる能力なのだから、生まれた時から才能がある人とそうでない人がいてもおかしくはない。

 感じることを無視できる人は、この才能は恐らくない。

 例えば、今僕がこう書いている内容を読んで、自分も愛する才能がある人になりたいから、自分も才能がある人たちと同じであると人に説明するのが、才能がない人だ。

 口先の説明で理屈を作り、他人に言い聞かせて信じてもらえたら「本物になった」と思えているのだ。

 この現実の世界で、言葉だけで詐欺師のように生きているのだ。

 他人を支配したい、という気持ちが強すぎる人は、愛することはできない。

 元々、目的が支配だから、今の話題が恋愛であっても、仕事であっても、とにかくその不満の内容は「他人が思った通りに動かなかった、動いてくれない」なのだ。

 それが本人にとっての不幸なのだ。

 なぜならば、その人の元々の目的が「支配」だからだ。

 他人が言う事を聞いてくれると思ったのに、言う事を聞いてくれなかった。

 それだけが嘆くべき内容なのだ。

 しかし、その内容では自分が美しくなれない。

 だから、今自分がしている行いさえ「これも愛だと思う」と言い張る。

 自分が同じようにされた時には、それは支配だと言うのに、自分の場合は愛だと言い張る。

 要は、内容などどうでもいいのだ。

 言葉の上でどういうことになっているのかが、本人にとっては最も重要なのだ。

 つまりは「感じることはどうでもいい人」であり、愛の才能はない、とわかる。

 愛の才能がない人は、成績のつかない世界が理解できない。

 話し合って、何が正しいのかを喧嘩することなく冷静にまとめて、互いに納得しながら「ちゃんとやる」のが思いやりや愛だと思っている。

 それが、うまくいっている関係だ、と本当に思っているのだ。

 そのような関係を体験した時に「何かがおかしい」「これが愛だろうか?」などの疑問が、何も起きていなくても沸き起こってくる、それが「感じることができる才能」だ。

 なにも問題が起きているわけではないけれど、何かが違う、とわかるかどうかだ。

 率直に言って、指摘することは簡単だ。少なくともわかる人ならば。

 うちに来ているある人は、病院のカウンセリングに通っていた。

 何のせいなのか本人もわからないが、具合が悪くなり、とにかくノイローゼになっていて苦しんでいた。

 自分の家族がうまく行っていない、毒親なのだとすら思っていなかったが、その頃に僕のところに相談に来て、最初の一回で僕に「親子の関係に問題がある」と指摘されたという。

 そんなことを思ったこともなかったという。自分の家は寧ろうまくいっている普通の家族だと思っていたらしい。

 今になって、僕がやらせた方法で無意識にあった「本当に求めていたもの」に気づいた。

 病院ではほとんどが「傾聴」らしいが、あれは相当共感力がある人でなくてはできないものだ。

 本人曰く、本当に思っていないけど「そうなんですね」と言っているだけ、聞き流しているだけ、時計を見て話しをまとめにかかってきた、などありありとわかるという。

 共感するためには、相手の身になる必要がある。

 話を聞くだけではわからないから、自分自身が人生において成長の道を進み、沢山の感情を体験し、更に知識も体験も受け入れてきた人も、沢山いなくてはならない。

 想像するためには想像する材料が必要なのだから、口で言うだけなら簡単だが並大抵の努力でできるものではない。

 僕は完全に介入型で、実体験を通じて本物の感情を育てるやり方を取っている。

 僕自身が人を全く憎まない自信があるから、今の方法を取っている。

 しかし自分の人生の中で、クラスの全員にひとりひとり話しかけてひとりずつきちんと人を知るということを学生時代から行ってきたり、人を知る努力は散々してきている。

 自分自身に嘘をつかない精神修行なども積んできている。

 他人の気持ちに共感するためには、内面的な努力が必要不可欠だ。

 そんなに簡単なものではない。やり方を聞いてできるものではない。

 心の中で本当に同じ気持ちになれないと、内から湧いてくるものを感じながら言葉を発し、相手が「わかってもらえているんだ」と感じることはできない。

 愛には共感力は不可欠だ。

 妄想力が強い人は愛する能力がない。

 育てるのはどちらかにしかならないからだ。

 その力は、東大に合格できる学力を身に着けるように、コツコツと積み重ねて身に着けていくしかないのだ。

 体験したことのない感情を沢山体験して、「全てを愛によって変換する力」が身につかなくては、誰一人愛することはできない。

 愛の無い親は、子供がしたことを形で評価する。

 場合により悪い子になる。

 愛のある親は、子供が何をしても愛によって解釈できる。

 どんな場合でも悪い子にはならない。そこに愛があるから。

 その違いは、優劣の差のようなものではない。

 まるで別世界の話なのだ。

 その世界の境界線は自分自身が心の中で超えていくものであり、形の上で何かを作るわけではないのだ。

 しかし、現代社会にはあまりにも愛を知る人が少なく、それに気づく人すら殆どいない。

 愛を知らない人が「愛を与えてくれる人」を求めるが、そんなことは不可能なのだとわからない限り、真の愛を感じることはできないだろう。

 感情は自分の中で循環しているものであり、他人の言動など本当は関係ないのだと、せめてそこさえ理解できれば自ら幸せになる道も見えてくるだろう。