琉球について思うこと ~無料記事~

 最近は琉神マブヤーを観るのに忙しい僕だが、沖縄、琉球について思うことがある。

 日本では、愛国を叫ぶ人たちが「沖縄も日本なんだから」と言う。

 しかし、自分たちが外国に同化されることは断固拒否している。

 自分たちだけが「崇高な民族」であり、正義であり、そして自分たちの仲間に迎え入れていることは善いことだが、自分たちが他国に仲間の一部として迎え入れられることは尊厳を傷つけることだと考えている。

 矛盾しているが、本当にそう思っている人が結構いるのだ。

 正直、日本より琉球の方が優れた部分は多々ある。

 特に現代において精神面で言うならば、沖縄の人たちの方が遥かに健全な発想の元に生きていると言わざるを得ない彼らの常識がある。

 ひとつに、やたら他人と張り合って勝つことにこだわらないこと。

 平和を大事にする精神が強く、自分たちの生き方を大切に思っていること。

 適当であることを悪いことと考えないこと。

 長寿大国と呼ばれ続けている沖縄だが、健全で朗らかで、そして親しみやすい民族性がそれを可能にしているのだろう。

 常識を1本化したい我々の方が、遥かに知性が欠けている。

 僕は勿論長く続く武家の人間であるからには間違いなく日本人というか、本土の人間なのだが、こうした怪しげな愛国心を持つ人を見るにつけ、図々しい話だと思う。

 自分たちだけが正しい、優れていると驕っているのだ。

 だったら、その生き方を自分自身が守り、自分が尊敬される人になればいい。

 人間は言葉で言ってもそのとおりにしない。

 行動を模倣して生きている。

 だからこそ、言葉で正しいことなど教えてもらおうとせず、行動を見て自分を知り、行動を見て体得した方が確実なのだ。

 日本の愛国者たちには、沖縄の人たちが自分たちに都合の悪いことを言っていると、なんでも「彼らは騙されている」と言い出す人たちがいる。

 自分たちが言っていることを鵜呑みにすれば、それは正しいことなのだ。

 こんな真似をしていて、地獄に落ちないわけがない。

 本当に、かつての日本人、武士たちはここまで他人を侮辱しなかった。自分たちが誇りを大事にしていたからだ。

 だが今の日本人の多くは、自分を侮辱し誇ることもなく、代わりに他人を侮辱して他人を正して生きようとする。

 己と向き合うことすらしない。

 以前、アイヌの方にも会って少し話を聞いたことがある。

 彼らもかつては日本人に差別されて大変だったようだ。

 僕の知り合いにもアイヌの血が入った人がいるが、「顔が似ている」と別のアイヌの人に出会いはじめて知った。

 これは民族の顔の作りなのだと知った。

 今の感覚で言うと、なかなかの美形だ。

 沖縄の人たちも美しい顔立ちをしている。はっきりとした目鼻立ち。快活な雰囲気が感じられる容姿をしている。

 僕は最悪日本が消えても、彼らに生き残ってほしいと思っている。

 できるだけ「いい方」が残った方がいいからだ。

 善き精神を持つ人々が生き残った方が、後のためになる。

 もし自分が悪しき方であるならば、後のために自分が滅んだ方がいい。

 我々より遥かに悲惨な目にあった人たちがいる。

 彼らが報われず誰が報われればいいというのか。

 自分は自分が善き行いと思う道を進むしかないが、僕は子供の頃から悟りの道を往くと決めているから、今その道を進んでいくことに迷いは一切ない。

 俗世を生きながら精進していくにはどうすればいいのか、というのは、子供の頃からの課題であり、模索しながらその時その時考えて判断してきた。

 神経症というものを知り、自分の心とまったく向き合わず、己と戦わない人がいると知った。

 自分の内から湧いてくるものを無視しながら生きているのだ。

 これで不安にならないわけがない。

 それでも生きていけるならば、沖縄の人たちのような精神が必要だ。

 彼らも毒されてきてはいるが、何が悪いのかと言えば、この大きな流れを作っているのはやはり「自分たちが正しい」と思い込んで生きている、「なんでも欲しいものは手に入れよう」とする人たちが原因だ。

 嫌だ嫌だと言いながらも我慢して従う人たちも同じだ。

 意思を持たないくせに我慢して不満だけ溜め込んで、自分を尊重しろと求める。

 その「尊重」が、自分の気が済むようにしてもらう、なのだから、どうしようもない話だ。

 僕自身も、こうして現実を生きているのだから、その都度その都度、自分の決めた道を逸れないよう注意している。

 心の平和を失ったら、何もかもおしまいだ。

 楽できて安心、なんてことはありえない。

 他人を妬み恨み、他人をバカにして生きる人間など心の中が平和であるわけがない。

 友人や恋人、そして伴侶に子供さえも犠牲にして、自分一人満足しよう、安心させてもらおうなど凡そ人の心を持つ人間がすることではない。

 子供を下敷きにして生き残ろうとする、石川五右衛門のようではないか。

 共に力を合わせて持ちつ持たれつ、何があっても人の尊厳も守る。

 常に、その姿勢で生きるのが当然だと思うが、切って貼ったように、他人や状況を変えるためにだけ、一般的な道徳性を持ち出す輩がいるのだ。

 本当に、心から思う。

 よくそんな姿勢で生きていて、死ぬまでたった一人だというのに平気で生きていけるな、と。

 別に羨ましくはないし、悔しくもない。

 真似したくはないし、別にどうでもいい。

 正してくれなくても構わないし、別に自分が目指すなにかではない上に、他人なのだからそれは本人の自由だ。

 神経症の人は、生涯孤独に生きる道を行く人だ。

 これから誰に出会ってどんなに良くしてもらっても、常に心は孤独で、誰にも心を開くことはなく、そして仲間もいない。

 そんなことは自分が今していることを考えれば、当たり前だ。

 他人の前で二心を持つ人間が、仲間を欲しがるなど嘘八百でしかない。

 本音である「思い通りに動いてくれる人間がほしい」は言葉にするには憚られるから、そのように言い換えているだけだ。

 なんと姑息なことか。

 マブヤーを見ていて、久々に沖縄のことを思い出していた。

 あそこにいれば「一切の妄想をせず、今を生きる」は簡単にできるのではないか、と思っていたが、生憎そういうわけでもないと知った。

 「ありのまま物を見る」ということ自体、していない人が多いらしい。

 人間にできるわけがないことをしているのに、自分で気付かないのだろうか。

 どうやら、僕は本当に最初からまったく人と違うらしく、なぜそのままなのかはわからない。

 「普通はこうするものだから…」と思って行動した自分について、自分で気づいた。

 なんでそんなことを、僕はわかるのだろうか。

 その時、自分が神だと思って生きていることに気づいた。

 人間ではないと思って生きているから、他人はみな下に見えた。

 神の真似をして生きていると、どんどん傲慢になる。

 人として生きる方が遥かに心豊かになれる。

 人間として生まれたならば、人間として生きる。それが一番なのだ。

 他人のことは、勝手に妄想してもわからない。

 本当のところは、疑うことなく、決めつけることなく、必要な時は相手に正直に聞くか、お願いするか、確信を持てる方法で確認するしかないのだ。

 そして、わからない時は、わからないまま。

 相手がどうであるかは自分の心の行いに合わせてしか信じないから、自分自身の心を清く保つことが最重要事項なのだ。