誰にもわかってもらえない、のは普通のこと ~無料記事~
「誰も私をわかってくれない」と嘆く人は世界中にいるそうですが、それは普通のことです。
私、という存在に関心など持ってくれる人にはなかなか出会えないです。
自分は大衆の中のひとりですから。
クラスメイトの中の一人。部員の中の一人。生徒の中の一人。職場の社員の一人。店員の一人。
など、自分自身も他人に対してそのような目で見ているはずです。
「この人は私をわかってくれる人だ!」
人間に関心を持っている人に出会うと、そう思えるでしょう。でも私に関心がある、のではなく、人間に関心があるだけです。
個別に人を見ている人は、それぞれ「中身の違い」を理解します。だから「私」を区別して見ていることで、「私をわかってくれる」と感じられるのです。
しかし、そのような人にすら出会うことは稀です。
元々親しい関係として存在している「他人」などいません。だからそれが普通です。
そもそも「私をわかってくれる人」が存在していると勘違いしているのです。
自分は人を品物のように見ているのに、他人は私を特別な存在だと認めてくれる。そんな期待をしています。
そして自分は期待した通りではなかった、となると、相手を要らなくなった道具のように捨てるのです。
人として人を見ていないのです。
ただ、生き方の違う僕でも、やはり「誰にもわかってもらえない」と思うことはしょっちゅうです。
妄想恋愛ストーカー女子のような人たちは、夢の中から出てこないように一人の空想世界を生きています。
彼女たちの場合は、脳内に「わかってくれる人」という存在がいて、それが現実に現れるのを待っているだけ。僕のように現実に出会った人とやっていきたい人とは正反対です。
いま、ここで話していることすら理解してもらえない。それが常です。
なんでもない趣味の話なら楽しく話すことはできます。
なんでもない関係なら楽しくも過ごせるでしょう。
しかし、互いに相手に関心を持って理解に努めるなんてことが、人生で一体何度起きるか。
生まれた時に存在した「特別な立場の人」さえくれなかったものを、与えられる人に人生で出会う事自体奇跡的です。
自分と一緒に生きていて幸せになれるのは「この人は私のことをわかってくれる」と心から感じてくれる「相手」です。
自分が相手を受け入れることで、相手が「他の人とは違う」という体験を実際にしてくれて、可能になることです。
それも、自分では選べません。相手がどう感じるかなど、相手にしかわかりませんから。
少なくとも、自分と一緒に生きようとしてくれる人がいるならば、自分が相手を受け入れてあげられた時だけです。
相手を拒否する時は「私をわかってくれ」となるのです。
「私をわかってくれ、認めてくれ」は、認めてくれない、受け入れてくれない人に対する姿勢です。
最初からその姿勢で接しているならば、もう「拒否された後」なのです。
要は、最初から終わった相手だと思って接しているので、自分は相手を受け入れてあげる必要がないのです。
何も起きていないうちからその姿勢で接するのは、言いがかりをつけているに値する人を貶める接し方です。
無礼なことなのです。まだ何もしていないのに、自分にとって「酷い人」かのように扱っているのですから。
嫌っているわけでなくても「嫌っている人」として扱われる。
それが相手にとってどんな気持ちになることか。
そうした人の気持ちを考えて接する。それが相手をそのまま受け入れていく姿勢です。
これから先はどうなるかまだわからないならば、相手を受け入れる姿勢で接するのです。
それも「なんとかして自分に認められたい」という相手ではありません。自分は他人ですから。
ただ相手を知っていくだけでいいのです。理解して「そうなんだ」と知っていくだけです。
想像し、相手の気持ちになり、実在の相手をくっきりと存在させられるように、理解していくのです。
そしてもし、「こんなにわかってくれた人はいない」と相手が感じられたならば、自分は相手の中で特別な存在になっているかもしれません。

