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私をわかってくれる人、とは一体なんなのか?

 私をわかってくれる人、とはなんなのか?

 運命の人、とはどんな人なのか?

 実際に「適応障害」としか呼べない子供時代から、気づいて気づいて脱してきた僕が、多くの人が勘違いしている内容を説明しました。

 YouTubeより

 

 

恋愛・結婚、なぜいちいち破綻しているのか

 先日気づいてハッキリ言葉に変えられるようになったことです。

 是非皆さん真剣に考えてください。

 なぜこんなに恋愛や結婚で失敗して、相手を悪者だと思い込んでいる人が多いのか、何をしているのか、その理由がわかりました。

 「私をわかってくれる人」と、結婚しようとしている人が、失敗する人です。

 私をわかってもらおうとする、そして私をわかってくれる人を「特別な人だ」と思い込む。

 しかし、「わかってくれる」はなぜ起きているのか、何をしたらわかってもらえたと感じられるのか、それを自分でもわかっていない。

 自分で説明できない上に、自分にはどうしたらできるのかわからないことなのに、なぜか「わかってくれる人」という適当な存在が実在していると思い込んでいます。

 結論から言っておきます。

 「私をわかってくれる人」は自分にとって特別なわけでも、相手が自分を特別に思っているわけでもありません。

 偶然にも親が「私をわかってくれる親」であった人はいいとして、他人の中に「私をわかってくれる人」がいたとしても、それは何も特別な関係ではありません。

 子供を受け入れる親、他人を受け入れる人、これは「適応能力が高い人」のことです。

 自分以外の存在をそのままにして、自分が工夫し変化することで現実に対応できる人です。

 ですから、どんなに自分が我慢しようが頑張ろうが、親含め自分以外の誰も「適応能力を持つ人」に変えることは不可能だということです。

 自分が頑張った、我慢した、喜ばせた、すると、相手は様々な他人をそのままにして適応できる人間に変わった。

 親を変えたい人、他人を変えたい人がやっているのはこれです。

 一応確認しますが、理解できるでしょうか。

 自分がどんなに努力しても、相手の脳が発達したり、能力が開花したりすることはありません。

 相手自身が自分の意思で努力しないと、相手の能力は伸びないのです。

 適応能力は少しずつ育てていくしかないものです。特に、人間に適応していく場合は様々な人と知り合い、その中で考えて工夫して、自分自身が変化していかねばなりません。

 人はそれぞれ違います。

 それでも、それぞれの人とそれなりに楽しく会話できるようになるには、自分が様々なパターンのコミュニケーションを取れるよう、色々な顔を生み出すしかありません。

 勿論、「楽しく会話する」わけですから、自分自身も楽しくなくてはなりません。

 それなりにそれぞれと楽しくやり取りできるようになれば、集団生活の中でも自分が楽なのです。

 人とそれなりに楽しく仲良くなれると、相手が好きになります。

 仲良くないなら気になったことでも、気にならなくなります。

 好きな人なら気にならないのです。

 好きになれば、偏見も少なくなって行くのです。

 反対に、自分に適応させようとするのが、自分中心の世界から出ない人です。

 完全に自分に適応しながら、何をしても離れて行かない存在を求めます。

 つまり親です。

 どんなに適応能力がある人でも、元々知りもしない他人の本物の親になどなってくれません。

 親が他人に適応しない独りよがりな人だと、子供は自然なままでいても平気な人、自分に適応してくれる人を求めます。

 適応してくれる人がいると、こう思います。

 「この人は自分が好きなんだ」「この人は自分を受け入れてくれるんだ」「この人は自分と仲良くなりたいんだ」

 これが、本来であれば親に対して思うことであり、「自分は特別なのだ!」と思っていても事実そうなので問題ないのです。

 ところが、親が適応してくれない場合は「自分は要らないんじゃないか」などと自分の存在意義を疑うようになり、他人の中に適応能力が高い人を見つけてしまうと、「この人こそ自分の特別な人だ」と思い込んでしまうのです。

 適応能力が高い人といれば、どんなコミュ障も他の人といる時より遥かに楽しくうまく会話できている「ような気がする」ものです。

 それを「仲良くなれている」と感じるのです。

 自分は何も変わっていません。自分をどんどんアピールしていい気分になるだけです。

 その自分にさえ適応してくれる他人が、稀にいます。

 僕はそのチャンスを一度でつかみ取り、親離れしていきました。

 しかし、僕の場合は稀で、殆ど場合は本物の親のように扱ってしまうようです。

 反省しない、後悔できない。

 自分にとっては「いい話」ですから、相手の存在さえ無視し続ければそのまま何も傷つかず恥もかかずに生きていけるのです。

 成長する時は傷つくのが当たり前ですが、その痛みを恐れて乗り越えない。

 そしてせっかく適応してくれた他人を蔑ろにし、自分自身は相手から適応する能力を学ぶこともなく、自分一人のストーリーの続きを生きていく「特別な主人公」となるのです。

 人に適応すれば、それなりにどんな人とも楽しくやっていけます。

 ただし、それは「深い関係ではないから」です。

 僕がよく例に出す妄想恋愛ストーカー女子ですが、もしそこまでの性格でなくとも万が一告白されたら断りました。

 なぜならば、「生理的に無理」だと思う人だったからです。

 しかし、そんなことは思っても言えば傷つくことです。

 相手を傷つけることは言葉にする必要はありません。

 ちなみに、何が無理かと言うと、率直に言って「不潔、不衛生」だと思ったからです。

 僕が思う基準は、僕自身が普段どうであるかで決まります。

 みなそれぞれ自分が普通だと思う衛生観念の元で生活しているものです。

 その基準が違いすぎる人だったので、友達として楽しくやっていくことは可能でしたが、恋人になることは無理でした。

 そしてそんなことを我慢してまで、相手が勝手に好きだと思い込んだという理由でお付き合いなどするものではないし、したくはないです。

 これを読んでいる人が女子ならば、あなたが目の前にいるとき

 「話している分には面白いけれど、ちょっと身だしなみや行動において、だらしなく不潔な人だなと嫌悪感を抱く男」

 を想像してください。

 僕の場合はそんな感じでした。ただ、顔や態度に出したら相手は女子なので傷つくと思い、そこは考えないようにして会話の方だけ考えていました。

 僕は相手と親しい関係ではありません。僕が個人的にどう思うかなど、相手には関係のないことであり、余計なお世話だからです。

 大体、他人といれば必ず気になることはあるものです。

 「そんなことしない方がいいのに」と思ったり「そんなことするの?!」と驚いたり。

 しかし、それは口には出さないもので、自分自身が気にならなくなるよう変化するものです。

 妄想恋愛ストーカー女子の場合は、「その状態が気にならない人間に僕自身がなりたくない」と思ったので、無理でした。

 人格の問題もありますが、それ以前の話です。

 ただ、そうしたことは誰も言わないものです。

 気になるから親しい関係になろうとしていないのですから、それでいいのです。

 別に悪口を言うわけでも、嫌うわけでもありません。

 それが適応というものです。

 必要な範囲で人と仲良くしていければいいのです。

 運命の人のような特別な相手は、最初から違うのです。

 特別に憧れる存在は、運命の人ではありません。

 「自分と似た人」が運命の人です。

 表面では違うタイプでも、本質が似ている。

 道徳性や哲学において、考え方が似ているのです。

 自分と似たようなことを考えている人だから、コミュニケーションにおいても察することができるのです。

 口に出さなくても、何を言わんとしているのか、何を考えているのか、わかるのです。

 驚くほど気が合う人が、稀にいます。自分に似ているのです。

 そして、重要な点は「その時点で自分を好きになっていないと、相手を好きになれない」ということです。

 自分を嫌う人は、運命の人といながらその相手といがみ合っています。

 自分を嫌いなのだから、似たような人といると「嫌な部分」が気になって、それを変えたくなるのです。

 また、自分が「この人がいい」と思う人がいても、その相手を自分に似た人に変えようとします。

 人間は「似た者同士」で寄り集まるものです。

 自然なままの二人が出会い一緒にいれば段々と互いを知るほど好きにもなれます。

 しかし、我慢して装っている者同士が一緒にいても、互いに「自分はこんなにしているのに」と文句を言い合うだけになるのです。

 どちらにせよ「似た者同士」であることには変わりないのです。

 適応していく、という能力自体を、僕は自分に適応してくれた友達から体得しました。

 言葉で言うのは簡単ですが、出来るようになるためには自分を受け入れ適応できる人を相手に、自分に対してどう対処して接するか実際に体験して体得していくしかありません。

 僕は既に母親に適応し性格が歪んでいましたから、体得している人様とのやり取りを通じて、適応する術を身に着けるしかなかったのです。

 最初からないものはどうにもなりません。

 親は変えることもできませんから、能力だけ人様から体得しなくてはどうにもなりません。

 それを他人にもやろうと思って今まで「手本を見せ、体得させる」というやり方を実践してきましたが、誰もやりませんでした。

 別に他の人でも構わないのですが、僕自身も様々な人に適応する能力がある人を見つけることは難しいので、最初からわかっている相手から体得した方がいいと思っていました。

 例えば「知らないことに対する反応」を、相手のやり方を見て実践で学びます。

 僕の場合は「なんでも知っている人」になりたかったので、知ったかぶりをするか、知らないなら会話に参加しないか、そんなやり方でした。

 そこで、友達とのやり取りを通じて「相手のやり方を見て盗む」のです。

 技はそうやって他人から盗んで体得するものです。

 真似っこしてパクるということではありません。本質的なことを見極め、自分が何度も実践して身に着けていくのです。

 僕は誰にでも適応する自信があります。

 クラスの全員に話しかけて全員と仲良くなる実践をしたことは、以前にもお話しました。

 様々なタイプに適応していくためには、努力が必要です。

 それが「面倒くさい」と思って「向こうから適応してくれる人いないかな」と受け身で生きているのが、面倒を見てくれる他人を求める人です。

 しかしそれでは、誰とも「深い関係」にはなれません。

 適応してくれる人に対して自分も適応していかねば、親しくなることはできません。

 おんぶに抱っこの関係にしかなりません。

 自分自身が体得すればどこに行ってもそれなりにやっていけますが、相手ありきの関係しか作れないようではどこにいってもうまくいきません。

 何よりも、「私をわかってくれる人」がいればしあわせになれるという間違った考えで生きてしまいます。

 「私をわかってくれた!」ということは

 「相手は適応能力が高い!」ということでしかないのです。

 僕は母に対しても、自分が全面的に適応していくことで乗り越えていきました。

 母は最期まで誰にも適応しない人でしたが、僕が適応するからなんとかなったのです。

 「自分だけ特別な存在」という夢を諦められない人は、その他大勢が仲間に思えませんから、共同体感覚も生まれません。

 周りにいるのは「仲間ではない」という認識だからです。

 さて、皆さんはどうでしょうか。

 「自分をわかってくれる人」さえいればなんとかなると思っているならば、考えを改めた方がいいです。

 もし見つけたところでその人にだけ特別依存して、他の人がしてくれないことを色々してくれても最後には裏切られたとか、期待外れだったとか、妄想でしかない不幸に見舞われるからです。

 自分を受け入れ、人を受け入れ、自分を好きでいられるよう生きていれば、運命の人には必ずいつか出会います。

 その時のためにも、「こんな人がいてくれたら自分は好きになれる」と思う自分で生きていくことが大切なのです。

貴族化された格差社会になるのは当然のこと~無料記事~

 今の社会は貴族化した人たちが一強となり、格差が広がる社会になりましたね。

 しかし、よく考えたら当然だと思いました。

 今、外国から日本を守ろう的な方向性で動く人たちも、殆どが明治新政府が作ったかつての大日本帝国を良しとしています。

 その日本は、江戸の日本ではありません。

 王政復古した日本のことです。

 フランスで言うと、王朝時代のものです。

 フランスは市民革命により王政を排しました。しかし、その後一度短い間、やはり王政復古により元に戻っています。そしてまた市民革命により現在のフランスの元となる形になりました。

 日本は王政復古により、フランスの革命前に戻ったような国です。

 以前僕も内容的なことを考え、昔の貴族社会に戻っていると述べたことがあります。

 事実、中身はそうなっています。

 一般庶民も、階層のようなものを感じたり、勝ち組負け組、生まれ育ちという形ある何かでランク付けされていると感じたりしています。

 日本は戦争に負け、不可思議な状態になりました。

 絶対王政の元、国民は国王に忠誠を誓って生きる国。それが大日本帝国です。

 日本国民は天皇の忠実な僕なのです。

 その国にもう一度戻そう、としているのが、美しい日本を取り戻したい人たちです。

 だから、今の左翼的なと言われる人たちにも種類はあるものの、僕などの場合は保守的な方だと思いますが、実際王政の復活を望んでいるわけではないので、立場としては庶民の側に立っているのです。

 そんなに単純な変化で今にいたっていないので、冷静に順序を考え、事実起きていることを見て頭の中で組み立てていく必要があるでしょう。

 以前、坂本龍一さんがデモが起きていた日本を見て「フランス革命を見ているようだ」と述べ、その発言について賛否があったものですが、冷静に考えるとそれは当たっていると思いました。

 今の日本が王政の国だからです。

 僕としては、日本を大事にするかどうかは当然日本を大事にするとして、やり方として王政をもう一度完全に復活させ明治に戻ることよりも、国民が作る国にした方がいいと考えています。

 江戸時代は世界的に見て稀な時代です。

 武士の高い道徳性あっての社会でした。問題は色々あったものの、武士の美徳があって成り立っていたと言えます。

 その頃に戻ることはもうできないかもしれませんが、それでも王政時代に戻るのは日本にとっては退化にしかならないと思います。

 西洋の王族たちは今も生き残って権力を握っています。

 姿形を変えても、同じように支配しています。

 日本も前明治新政府である自民党がかじ取りをしています。

 美しい日本になろうとすればするほど、貴族化された社会になるのは当然なのでしょう。

 極端な保守派になる人たちは、権威に対する憧れが強いです。

 国民にランク付けされた方が嬉しい人たちなのです。

 かつて、フランス国王は手を触れて病を治す神の力を使える、ということになっており、そのための儀式があったそうです。

 他所の国だと「そんなわけない」と思うかもしれませんが、その「神の力」を持つ人は日本にもいますし、日本人も深く考えることなく、豪華絢爛なものを見せられればそれを誰が作ったかも考えることなく「あの人はすごい人なんだ」と思っています。

 自分たちがすごいものを見たいのだから、そのために労力を使ってせっせと働くしかないでしょう。

 その力を集めて誰かを持ち上げて、見たかった美しい姿を見せてもらい、その姿に憧れ続けて生きていくのです。

 私は特別な存在、と思って生きている人は、他人の中に「特別な存在」を作りたがります。

 自分が特別であるためには、この世には特別な存在が必要になるのです。

 特権を持つ人たち、金持ちや贅沢ができる人たち

 そのような貴族的な人達に存在してもらえるから、自分も特別だと思い込めるのです。

 他人の中にいてくれないと「きっといつかは」の夢が見られないからです。

 どこを見ても、自分と似たり寄ったりの庶民がいるよりも、自分たちが貧しくなっても「特別なものを見たい」と思う。

 日本人は、そういう傾向が強いと思います。

 苦しいから憧れの存在がいるのではなく、憧れの存在にいてもらうために苦しまなくてはならないのです。

 もし、日本で革命的なことが起きたとしても、慌てる必要はないと思いました。

 フランスは再度王政が復活しても長続きはせず、もう一度市民革命が起きて今に至っています。

 日本はどこの国とも同じではありませんから、王政がなくなっても国民は自分たちで考えて生きていけると思います。

 美しい日本、という言葉を使う時、よく富士山などがイメージとして使われます。

 しかし、言葉の意味は漠然としていて、何を指しているのかもよくわからないままみな口論になっているのです。

 せめて、自分が何を意味してその言葉を使っているのか、互いに説明できなくては議論もできないでしょう。

 もう一度王政を復活させたい人たちが、実際存在しています。

 またお国のために生きて死ね、の時代に戻りたいのです。

 それが「日本人としての名誉ある生き方」と信じている人たちもいるからです。

 皆さんがどういう思想で生きているかはわかりませんが、それぞれが思うところはあるでしょう。

 僕はいちいち口論するよりは、自分の目的とする社会を作るために尽力した方がいいと思っています。

 なんとなく文句を言って庶民同士で争う暇があるならば、右にしろ左にしろ、自分たちの思想の良さを知ってもらうにはどうしたらいいのか、その形を作るためには今の自分に何ができるか、現実の努力をして少しずつ形を積み上げていく方が現実的と言えるでしょう。

 

 

 

自分を美化するために他人を迫害する時~いじめの根本~

 有料会員向けの記事に「ちょっとエッチなのか、エッチなのか」のAI生成の画像を載せましたが、それを踏まえた上での職業差別等、迫害やいじめの根本の話です。

 少し前に乙武さんの話を聞いてから色々考えていましたが、僕たちは多くのことを「無視して」生きていないか、考えねばならないと思いました。

 僕自身の経験から「見下げ果てた根性の自分」との向き合い方を後半30分以降に話しています。

 無知は罪であると自分自身でもつくづく思います。

 いじめ、迫害の根本のお話です。

https://youtu.be/GlqleG5f8OY

妄想恋愛ストーカー女子について、人によりすごい想像してそう!という話 ~無料記事~

 妄想恋愛ストーカー女子の話を書くじゃないですか、僕が

 先ほど有料会員向けに話した「愛する努力」の話を録音していてふと思いました

 人により、すごい想像してそうだなと

 意地悪したり相手を責めたりしている人は、すっごい険悪なやり取りを想像してそうだなと思いました

 そんなことはないです

 彼女がもし戻ってきたとしても、何も困ることのないよう周りの人達にも悪いことは言っていません

 そして一緒にいる時も、相手はこっちにできもしないことをしてほしいようでしたが、付き合ったという形になれば責任がありますから、出来る限りのことはしていました

 当時は内面的に成長していない人とか、親離れしていない人とか、そんなこと知らなかったんですよ

 普通に扱っていました

 それから、目の前で必要なことは言っていましたから、陰口を叩くこともなかったですね

 少なくとも僕は

 本人のせいでもありますが、この人は誰にも大事にされてこなかったなと思いました

 彼女自身は、「今までこんなに大事にしてくれた人は雄基しかいない」と言っていました

 別に険悪なやり取りをしていたわけでもないです

 彼女の母親に「彼女が子供の頃のことから色々悩んでいるようだから、話を聞いてあげてほしい」とお願いしたこともあります

 色々問題を起こす度にこっちは大変でしたが、それでも見捨てることなく面倒を見ていました

 それは立場を考えれば当然のことですが、僕がどうしても難しいと思えるのは普通に付き合っていたわけではない点です

 とはいえ、自分ができる限り大事にしてきたのは当然と考えていましたので、別にそれについては言う必要もないと思っていましたが、口を利かないとか相手を罵るとか、そんな争いをしたことはないですよ

 言うまでもないです

 相手が人である以上、何があっても真剣に解決するために理解し合う努力をするのは当然です

 何があっても仲間の立場である以上、仲間として扱います

 奇行とも言える言動を見ていて、この人は寂しいのだなと思っていましたから、そのうち素直になるかと思って大事にはしていました

 実際には何も起きていないのに、段々と疑いや執着が強くなってきてどうにもならなくなりましたが、そのあと彼女が精神科に通うようになったりして、人格的に問題が発生しているのだと知りました

 大事にした時間を重ねれば重ねるほど、要求も疑いも大きくなるという正反対の思考をしていました

 僕自身が争いを起こさないので、あくまでも相手と仲良くするためには努力しますが、最後まで心から相手のことを思う気持ちを持って接してはいました

 ただ、彼女はきちんと話しあったはずでも、突然嫌がらせにきたりはしましたので僕にもどうにもなりません

 どんなに大事にしてもどうにもならないのはしょうがないです

 相手も好きにならない人に対しては素直になどならないです

 自分が本当に愛されたならば、相手も素直になります

 ちゃんとうまくいきます

 「俺を好きにならないなんて酷い!」とはさすがに思わないですね

 そんなもの、本人の勝手ですから

 どんなに大事にされたところで、素直になりたいとは思わないならしょうがないでしょう

 とにかく「親離れしていない」ということがわかって、ああどうしようもない状態なのかとわかりました

 子供の頃の自分を思い出せるからです

 一応、恋人の関係として一緒にいましたからね

 形だけかもしれませんが、言った以上は責任を持っていくしかないですね

 僕の方がちゃんと真剣に接していて、向こうの方がごっこ遊びだったという話です

 本気にならないのはしょうがないでしょう

 本人にとって大事なことなら真剣になりますよ

 一緒にいる時に普通に楽しく過ごしていた時間もありますが、それはネタにならないのでわざわざ書かないです

 楽しくするのは自分の努力ですからね

 離れるまできっちりと、最後の時まで嫌な気持ちを持つことなく、誠心誠意努めたと自負しています

 だから平気で書いているのです

 憎んでいたら例に出すこともできないですね

 僕の知り合いで彼女を知る誰一人として彼女を嫌うことがないようにはしています

 僕を大事にしないことは社会の罪ではないので、彼女が無関係な人に迫害されるような酷い真似はしないですよ

 個人の関係の問題であって、当事者以外は関係ありませんから

 そういうことは、言うまでもない「普通のこと」です

 ただ、先ほども書きましたが、「愛する努力」について話していて、「ひょっとしたらなんかすごい想像してる人もいるかもなあ」と思ったのです

 恋愛関係は密室の関係ですから、それぞれ自分が恋人に対してどう接するかで想像するでしょうね

 相手がどんな人であっても、いい思い出になるよう努めるのは当然です

 怒りや憎しみを乗り越え、相手の身を案じるのが恋人というものです

 お互いにそうできた時に、偶然うまくいくだけなのです

 万が一彼女が戻ってくることがあっても、なんら変わることなく僕は飯を作って出すでしょう

 最後まで普通に話している関係でしたから

 彼女は「特別大事にされる関係」を自分が何をしようが続けてくれないと嫌な人でしたから、単純に「物理的に無理」なだけです

 相手が困らないようにするのが良い付き合い方ですし、自分が困らないようにするのも自分の役目です

 だから無理や我慢は禁物なのです

 相手が自分に無理してほしい我慢してほしいと思っている時点で、相手を疑っているのですから

 相手は自分を大事に思っているはずだから、無理や我慢をしない方がいい、素直に正直にいた方がいい、と信じられないと、恋人同士にはなれないです

 お付き合いを無理強いされた時の僕の気持ちもわからない人はいると思います

 「好きなら相手が我慢することをさせたくないはずなのに、何度言っても聞いてくれないのはなぜなのか?」

 通常と正反対だから、意味がわからないのです

 とにかく、行動の何もかもが「本人が望んでいると言っていることと正反対」でした

 それじゃあ続けるほどにどんどん嫌になるのが目に見えていますからね

 僕には想像がつかないですが、恋人や夫婦でもお互いにすごい意地悪している関係もあるのではないでしょうか

 こればかりは、密室の関係なので他人にはわからないことです

 ただ、相手を大事にし続けていればそのうち大事に思えてきますから、はじまりはどうであれ恋愛関係になっていた人はみな大事に思っています

 いつも説明している通り、言い訳する、こっちを責めてくる、何かを無理強いする、誤魔化す、嘘をつく、など、通常あり得ないことばかり起きましたから、彼女の行動通りになっていっただけです

 素直に正直に接していれば、こっちはそれで構わなかったのですが

 しかし先ほども書いた通りで、人は好きな人にしか心を開きません

 何か他の意図があったにせよ、とにかく「運命の人ではない」という感じの理解をしていくしかないのです

 何が正しいかよりも、こうしたことについては自分の思い出の中でどう解釈されてどう残って行くかの方が、未来のためには重要なことだと思います

 僕の感覚では「仲良くなりたくても、してくれない人」という感じの人でした

 これまで経験してきた仲間たち、親友たちのように、ただ正直に素直に接してくれることがなかったので、「この人は僕と仲良くしていきたいほどには好きにはならなかったのだ」と理解しています

 それまでは「付き合ったら僕に対して素直になったり甘えたりしてくるのは当然だ」と思っていたので、この関係は一体何がしたいんだと理解できませんでした

 誰もがそうではないのだ、と知りましたし、最初から「付き合うことが困難な人」もいるのだと知り、今はこんなことをしている次第です

 みんなが自分に素直になり、うまくやっていけるといいなと思う気持ちは今も以前も変わりません