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裏話は好きではないが、ある出版社での話~無料記事~

 裏話は陰口のようになるので、僕は好きではない。

 如何に人が見ないところで非道なことが起きていても、知らない人たちが表面上の一部を見て妄想しているならばそれはそれで本人たちの好き好きだ。

 実際に体験していないのに、何を言っても無駄なこと。

 そう思って「夢を壊さないように」黙っているのは、若い頃にメディアの世界に入った時からずっとだ。

 しかし最近、他の人たちが嘘をついてズルいことをしている時も、一人だけ同じことをせずに生きているある勇気ある科学者が、「意を決して言います」とこれまで黙っていたことを断言して述べていた。

 なんて勇気ある人だと思った。

 世の中は恐ろしいところだ。本当のことを知っている人たちが、黙っているからだ。

 アルベルトが言った言葉を思い出すが、僕も「黙っている」方だろう。

 まず最初は、何が起きているのかわからない。理解できない。

 僕の場合は自分の内面の変化や道理に沿っていないという理由で動くから、何かがおかしいと危険は察知できる。

 だが、殆どの人にはそれもできない。できたところでいいのかどうかはわからないが。

 ある出版社が最近話題になっている。

 良くない意味で問題になっている。

 ラジオに出ていた頃、僕の本がそこから出るはずだった。

 その頃も大変だった。色々問題が起きて、ご破算にはなったが原稿は今も僕が持っている。

 僕はもうこれでは生きていけない、と思っていたから、それを機にすぐさま教授の推薦してくるものを断ってやめた。

 ただ、その時の流れでやるはずもなかったことをやらねばならなくなり、今もその流れで苦しんでいる。

 彼の七光りで得たもの、ついてきたものは、恐らく悪しきものばかりだ。

 だから、彼を崇拝する人はいなくなって構わない、と以前述べた。

 それでいいのだ。悪しき因果の流れの中にいると、どうあっても敵を生み出し人から奪う。

 憎しみと嫉妬。それらが特に多く渦巻いているところだった。

あなたもやっていないか「餓鬼の種類」~無料記事~

 餓鬼の種類についてまとめておられた『やすらか庵』を紹介します。

 テレビでも紹介されたそうですが、千葉にある新しい方法で実践する寺院です。

餓鬼道とは

 僕がよく出会う、積み重ねてきた努力を無駄にしていく未来を破壊する餓鬼。

  • 悕望(きもう)餓鬼…貪欲や嫉妬で善人をねたみ、彼らが苦労して手に入れた物を奪い取った者がなる餓鬼。亡き父母のために供養されたものしか食せない。顔はしわだらけで黒く、手足はぼろぼろ、頭髪が顔を覆っている。苦しみながら前世を悔いて泣き、「施すことがなければ報いもない」と叫びながら走り回る。

 前世を悔いて泣き、の通り、親の行いについて嘆いてばかりの人。
 妄想ストーカー女子のみならず、僕の師もこれだなと思いました。
 何度少しずつ積み重ねても、自分の未来のために人の未来を使おうとする人に出会います。

 餓鬼は心の中から色々な種類のものが出てきますが、全く退治しない人は退治せずに生きています。

 業が深くなります。どんどん地獄の深いところに行ってしまいます。
 悪事は働いていいことはないのです。

 本当のところを言うと、親のことで嘆いている人には近寄らない方がいいのです。
 救いを求めている人たちはもれなく「たった今」地獄にいるだけの理由があるのです。
 僕も子供の頃に一緒になって親の不満を言い合う友達とは離れて、本当に楽しい日々を過ごすようになりました。

 本気で脱する人は、「そっちの輪」にはいない方がいいです。

 しかし僕も師の手前そんなことを言えたものではありませんでしたが。

 ちなみに全部精神の話ですから、餓鬼の話もそのまんまの意味ではないです。比喩として想像するとわかりやすいと思います。
 修行を積んでいくほどにその意味が理解できるようになります。

 「これを言っているのか!こういうことか!」

 僕はその瞬間が好きです。

 最近世間を見ていて多いと思う餓鬼はこれです。

  • 食法(じきほう)餓鬼…名声や金儲けのために、間違った説法を行った者がなる餓鬼。飲食の代りに説法を食べて、身体は大きく、体色は黒く、長い爪を持つ。人の入らぬ険しい土地で、悪虫にたかられ、常に泣いている。
  • 無食(むじき)餓鬼…自分の権力を盾に、善人を牢につないで餓死させ、少しも悔いなかった者がなる餓鬼。全身が飢渇の火に包まれて、どんなものも飲食できない。池や川に近づくと一瞬で干上がる、または鬼たちが見張っていて近づけない。
  • 殺身(さつしん)餓鬼…人に媚びへつらって悪事を働いたり、邪法を正法のごとく説いたり、僧の修行を妨害した者がなる餓鬼。熱い鉄を飲まされて大きな苦痛を受け、餓鬼道の業が尽きると地獄道に転生する。

 悪事を働く人は、修行して生きている限り接して近しくなろうとするとすぐにわかります。

 普段から悪事を働かないようにしていると、その人と行動を共にするだけで普段と違うことが起き始めるのです。
 「修行の妨害」が一番困りますね。一緒に精進していけるならば一番いいのですが。

 貪瞋痴。

 貪る心、怒りの心、そして無智の心。

 これは気をつけねばならないことの基本ですが、すぐに怒りをむき出しにして怒鳴る人や人を決めつけてかかる人、悪人を生み出す正義の人など、とにかく近寄らない方がいいのです。

 困ったことに、世俗で生きていればどうあっても悪事を働いて生きねばなりません。

 自分だけ精進していても悪事に巻き込まれていくこともあります。

 そんな時のためにも、普段から善行を積んでいた方がいいのです。

 悪しき流れに乗って苦しくなってきた時は、その問題をなんとかするより善行を積む、人に心からの施しをする。

 そうすることで、心も落ち着き不安も解消していきます。

 悔しいから仕返ししたい!と思うことがあると思いますが、自分自身が普段から善行を心がけて生きている限り、もし大変な目に遭うことがあっても相手は勝手に地獄に落ちていくのでとにかく間違った道を進まないよう、精進の道を行った方がいいのです。

 ホームページの方では今日配信しましたが、実は僕は心理学で説かれていることは実践しておらず、仏の道の行いを重視しています。

 元々そのように教育され、幼い頃から精進するよう生きていましたので、たまたま人に説明しやすいものがあったので勉強してきましたが、自分自身は目が覚めたのもお釈迦様のお陰、ご先祖様のお陰だったので今も先祖代々の教えと仏の道を大切にしています。

 西洋で生まれてきた人間性心理は、根っこのところが日本人の根源とは異なります。

 今見ていても、精神医療系の知識がどんどん増えてきたせいで差別や争いが起きています。

 僕個人は、仏の道ほど安心できるものはないと思っています。

 お寺や宗教のことではなく、ブッダの説いた「仕組み」の方が大切です。

 実践していれば疑うことはありませんが、知識だけ持っていても仕方ないことです。

 それについては人間性心理も同じで、知ったところで元々の人格が変わったわけではありませんから、精進のために使わなければ結局はいじめをしたり何かを奪ったり、自分が名声を得るために使ってしまうのです。

 誰の教えに従うかを考える時、まず真実であること、つまり自分自身も実践してみて確認できることが重要です。

 そして説いている本人が実践して精進していないと、教えの内容を誤解しますから間違ったほうに進んでしまいます。

 世の中に都合のいい楽園もゴールもありません。

 社会的成功と本当の幸福は真反対と言ってもいいくらい違う方向性のものです。

 欲しい欲しいで生きているうちは、もっともっと手に入らないと幸せになれないと思うかもしれませんが、心からの善行を一度でも実践してみれば「幸福とはこれのことか」とわかるでしょう。

 そんなわけで、ホームページの方には「一度でいいから真の善行を」というお話を配信しました。

 僕は幼い頃から慣れ親しんできたから余計なのかもしれませんが、お釈迦様の教えほど心が安心するものはないなとつくづく思っています。

 皆さんは僕をどう見ているかわかりませんが、僕も少しずつ勉強して新しい道を切り開いている最中に呼ばれ、ラジオに出たことで流れが一変してしまいました。

 「こうしなくてはならないのだ!」という師の言葉に一旦は従ったものの、とにかく思い通りにしたい何かがあるのだとわかり、悪しき流れの中にいると気づいたのですぐに離れていきました。

 「一体何をするつもりで少しずつ進んでいたんだっけ」と思い出せないほどなのです。

 十年も前に沢山書いていたメモや発見したことの図を開いて、「まったく違う方に進んでしまった」と自分で驚いたほどです。

 いつもいつも、とにかく「心からみんなの幸せを願っているだろうか」と自分の心に問いかけて行動するようにしています。

 色々なことを編み出しては配信したり教えたりしていますが、とにかく自分自身の行いは心の中が大事です。

 「悪者をやっつける」なんてことは考えずに、辛いこと悲しいことがあっても怒りより慈悲の心を生み出すため、善行を積んだ方が遥かに早く救いの道が開かれます。

 どこまでいってもブッダに敵うものは無しだなと僕は思っています。

 物質的なものしかない世界を生きている人は、社会で起きることと心の中を混同していますが、心の中は心の中、物質的な世界ではとにかく生きていければいいのです。

 生きることは苦。

 最初から楽な人生で始まったわけではないはずです。

 精進する仲間と共に生きられるならば、今生も捨てたものではないと思うのですが、皆さんはいかがでしょうか。

殆どの人が心を無視している社会

 皆さん、気になりませんか。

 今の社会はこれでもかというほど、人の心を無視しています。

 安心や欲を満たすことを売りにしたもの。そして形あるものを作るだけ。

 心の中、精神世界についても注目されているようでいて、そんなことはないと気づいていますか。

 「何が正しいか」

 そんなことばかりになりました。

 社会で正しいとされることが、仏の道のような正しさを持っていることはありません。

 皆さんは、自分の心の世界を見たことがありますか?

 自分の心の中から生まれてくる想像、妄想、感覚的に感じる欲の衝動など。

 それらをよく確認し、向き合ったことがあるでしょうか。

 仏教において内観と呼ばれる瞑想です。

 僕は子供の頃からやっていますが、内観によって内面の動きはよくわかります。

 貪瞋痴について以前少しお話しましたが、この三つの悪趣により心の地獄から出られない人が増えました。

 ひとつ問題として挙げられる理由に、社会の構造がそうなるしかない構造になってしまっているからです。

 テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老も、「日本で生きていくためには心を鬼にして働かなくてはならない」と述べていました。

 社会で生きるために嘘をつき、媚び諂い、人をバカにして良しとする。

 心の地獄に暮らしながら貪るために生きていく。

 何も考えずに「社会的に普通に生きていく」ならば、勝手にそうなっていくでしょう。

 なにせ、社会では道徳性など守らなくても誰も罰することがありません。

 心の中では何をしていても、表面の言動さえ立派に見せていれば誰も気にしないのです。

 しかし、心の世界は自分だけが見ることができる世界です。

 皆さんは心の中を見たことがあるでしょうか。

 自分自身の心の世界を、くまなく観察したことがあるでしょうか。

 是非心の中の、誰も見ることができない自分だけの世界をよく見てください。

 自分にだけ与えられた「思い通りにできる世界」は心の世界だけです。

 心の中に思い浮かぶことを無視し、または気にすることなく生きているようでは、せっかく与えられた「自分のための世界」が滅茶苦茶になってしまいます。

 心の世界を見ることなく、自分自身で統治することなく生きている人は、心の世界を外側に作ろうとします。

 外側が心の世界に見えてしまうのは、自分の心の中の世界と向き合わないからです。

 内側から生まれた感覚を外側のせいにして生きていくことになります。

 全ては自分の中から生まれてきています。

 心の中がどんな世界になっているのか、勝手に思い浮かんだり感じたりする自分だけの世界は、今どんな世界なのか。

 もっと自分の心に関心を持ってあげてください。

 自分を大切に、と言いながら物理的なことばかり考える世の中になりました。

 しかし、心の世界はとても大切なものですから、無視することなく見て欲しいと思います。

殺意が湧いてくる、という話~無料記事~

 親を殺したくなった、本当に強い殺意が生まれていた

 そんな自分が怖くなった

 という話を聞いて、「思った」だけならばそれは自然現象なので気にすることはないと教えました。

 人の生き血を啜るような輩はいます。

 僕は妄想恋愛ストーカー女子に出会った時、最後には殺すことを考えていました。

 向こうは頭の中に1人で思い描いている妄想のゴールがあるのですが、頭の中の世界に行ける他人は存在しません。

 現実にやっていることはなんの意味もなく、相手が現実を体験しながら妄想に近づいていると錯覚し続けたいだけなのです。

 そのために、これから先、生きていけないというくらい迷惑を被りました。

 嘘ばかりつくからです。

 普通に考えて、自分の頭の中に描いている「妄想」のゴールが現実にやってくるなんてことはあるわけがありません。

 こっちは出会う前から先のことを考えて生きているのですから、言っていることが嘘であればいきなり未来が無くなります。

 約束をしても破る。何度でも嘘をつく。

 その度に真実かのようなふりをする。

 本当であればこっちはそれでいいのですが、最初から嘘。

 嘘をついて話を合わせて、これから未来に進むかのように僕に思い込ませたら、自分の頭の中のゴールに近づいていく、というわけのわからないことを考えている人でした。

 脅して付き合っている時点で「おかしい」とわからないのです。

 「彼氏」という役職のようなものがあると思っている人でした。

 何をしても「理想のゴールにつかない」とわかったら、そのうちもういいやと投げ出していくのです。

 何をしても自分の頭の中の理想になどならないのは、当たり前です。

 理想のゴールに行くならば、最初から自分が何もしなくても、自然に何もかもが理想のゴールに向かう流れに決まっています。

 自分が脅して誘導しているのに、頭の中の世界に着くわけがないのです。

 そんなふざけた遊びに付き合っていて、出会う前から考えていた未来の計画が何もかもダメになりました。

 一緒に決めていたことをいきなり投げ出して逃げるのです。

 当時は本当に悩んでいたし、困っていたし、ノイローゼになっていました。

 最後には覚悟を決めて、どうしようもなかったらもうあの女は殺すしかない、と思っていました。

 このままじわじわと殺されていくならば、正面切って勝負するしかないと思っていました。

 「最も強い武士は、死ぬまで刀を抜かない武士」

 これはうちの一族の教えですが、

 「もし刀を抜く時は、死を覚悟すること」

 という続きがあります。

 人の命を殺める覚悟をするならば、自分も死ぬ覚悟をしなくてはならない。

 そのため、僕は怒りをぶつけることなく、最後まで話し合って解決していく道を選んでいました。

 しかし、相手は「この人は何しても怒らない」と思っているのです。

 そんな人間がいると思っている奴がいることを知りませんでした。

 何しても怒らない人を求める人の方がおかしいです。

 争いは良くないです。仲間と争うものではありません。

 自分の利己的な欲を捨て、仲間と共に生きるならば共に分かち合っていける道を模索する努力をするのは当り前です。

 しかし、こっちが憤っていても冷静に対処していれば相手は図に乗ります。

 どこまで行っても図に乗るだけで、こんなどうしようもない女がこの世に存在したのかと思ったくらいです。

 僕も人間ですから、普通に傷ついたり憤ったりはします。

 しかし、相手も人間ですから、わざとではないと信じるしかありません。

 それが仲間というものです。

 なんでも気づくわけでもないし、何でもできるわけではありません。

 しかし全く相手の身にならない人間もいます。

 僕にとって戦いは「殺す」しかありません。

 それ以外に戦う道はないと思っています。

 だから戦いたいとは思いません。僕も死にたくありませんから。

 自分が死ぬ覚悟をしなくてはならないのですから、慎重になります。

 全力を尽くしてどうにもならなかったら、殺すしかない、と思って「死ぬ気で」なんとかしました。

 相手は軽いノリで生きていますから、自分を殺す覚悟をするほど僕が怒りを感じていたと思っていないのです。

 怒鳴りつけて暴力を振るわないと、「怒っている」とはわからないのです。

 怒る=怒鳴る、暴力を振るう

 幼稚園児のように怒らないと、怒っているとは思わないのです。

 それは知性のない生き物がすることです。

 僕が一番悩む時なのです。

 もう殺すしかないのだろうかと思う時です。

 最後まで話し合いをして、相手の身になって考える。それは当り前として力は尽くします。

 共により良い解決の道を模索していくのは当然だと思っています。

 しかし彼女は本当に異常でした。

 彼氏、という立場になったら、彼女が好きなもの、という「義務化」をしていました。

 脅して付き合っても、付き合ったからには「彼女を好きでなくちゃダメ」なのです。

 そして彼氏は彼女が好きなものだから、「普通は彼氏がこうする」と彼女が思う夢を叶えてくれるものだと思っているのです。

 僕はその女に出会い、オタク女子が嫌いになりました。

 大嫌いにはなりません。なぜなら、僕が好きだった恋人もオタク女子だったからです。

 それまでいいイメージを持っていました。妄想恋愛ストーカー女子に出会って、悪いイメージになりました。

 「人によるのだ」ということがわかりました。

 それでも良いイメージには変わりませんでした。

 それまではオタク男子にも女子にも、いい友人たちがいたお陰で悪いイメージは一切持っていませんでした。

 実際の体験が、それまでの体験で作られた偏見を壊すことになりました。

 本当に恐ろしい体験をしました。

 脳内で一人で思い描いている妄想を「実際の体験の中で楽しむ」ために、人が生きていけないほどの迷惑をかけても、自分は忘れたかのように平気で生きているのです。

 現実に力を合わせて生きていけば、普通にまともな道をいけたのです。

 しかし、彼女の中では「私が主人公で、夢みたいなことが本当に起きる体験」でなくては駄目なのです。

 人の未来を壊していく恐ろしい女です。

 理想の恋愛に出てくる主人公の女は、こんなに性格が悪いやつなのかと驚くばかりです。

 理想の漫画のストーリーに出てくるヒロインが、こんなに性格が悪いことはないでしょう。

 はじめから、脅して付き合うなんて展開のどこが理想的なのか。

 本当に生きていると恐ろしいことが起きます。

 恐ろしい人間がいます。

 自分のために世界があると思っていて、遊び気分で「この人が運命の人かも!」なんてふざけた妄想を楽しんで現実を蔑ろにしているのです。

 それも、「何度でも諦めずに妄想を現実にしようとする」のです。

 話になりません。

 自分がそんな遊びをしていても、現実に接していた他人にはこれからの未来があるのです。

 生きた他人の人生を壊すような真似をしても、平気で今も生きているのです。

 地獄に落ち続けることになるでしょう。

 僕は偏見は良くないと思っているので、出会った時にもう驚きはしましたが、傷つくようなことは言いませんでした。

 好みの問題で言うならば、絶対に御免だとは思いました。

 しかし、相手も人間です。女性です。もっと大事にすべきと思っていました。

 どこかの誰かにとっては彼女もお姫様です。両親にとっては大事な娘です。

 全ての人が尊重されなくてはなりません。

 しかし、彼女は全ての人を尊重して扱うほど、人を大事にする人ではありませんでした。

 人の身になったことが一度もない人でした。

 本当に恐ろしい体験でした。

 そのような体験があれば、殺す覚悟もします。

 その後も思ったことはありました。

 子供の頃は、もっと猟奇的な想像をしていましたし、我慢していれば誰でも殺意くらいは生まれてきます。

 という話を、ある生徒にもしていたところです。

 何かを「思い浮かべる」のは、不可抗力です。

 それは無意識に自分が思っていることに気づくために必要なものなので、それがどんな内容であっても恐れるものではありません。

 心の中から生まれるものがどんなに恐ろしいイメージであっても、自分の心の訴えなのですから聞いてあげなくてはなりません。

 今回は物騒な話になりましたが、殺意も早く自覚していれば制することはできます。

 「殺したいほど憎くなっている」と自覚すれば、死ぬ気で脱することもできるでしょう。

 僕も今は怒りもありません。

 怒りや憎しみを持つ土俵にいた時は、まだ今より未熟でした。

 相手を心から憐れに思える程度には僕も成長しました。

 彼女に出会うまでは僕も女子に対して期待する気持ちがありました。

 現実を知って一切願望を持たなくなったので、それはそれで幸いでした。

 これ以上ないほど酷い人に出会えば、「期待していい存在ではないのだ」とわかるようになります。

 一切期待しなければ、より現実を直視し本物の相手を見て接することができます。

 「諦める」しかない相手に出会うことは、時に必要なのです。

 信じられないほど不誠実で冷酷な人間に出会えば、誠実さや思いやりが如何に大切で価値のあるものか知ることができます。

 当たり前だと思っていたことに、如何に大きな価値があったか。

 僕はいつもいつも、辛い時は過去の仲間たちに心の中で助けてもらっていますから、本当に感謝しています。

 「殺す」なんて聞くと物騒に思えますが、じわじわと殺されることもあります。

 そのまま我慢して死んでいくのを待つだけの人生ならば、そのくらいの覚悟をするのも不思議なことではありません。

 人生には、時に死ぬ気で戦い、死ぬ気で努力して這い上がらねばならない時があります。

 「いると思わなかった人間」がこの世にはいますから、痛い目に遭う度により成長して強くなるしかないのです。

今は信じた通りになる ~無料記事~

 自分が何を信じているか、それにより未来が変わります

 あり得ないことは信じているつもりでも、心から信じていません

 自分に都合がいい願望は信じているのではなく、思い込もうとしているだけです

 信じられないから思い込みたいだけの時は、信じられる形を外側に作らねばなりません

 現実逃避をするために、他人を動かさなくてはならないのです

 しかし、他人に言う事を聞かせても、誘導して望んだ形の行動をとらせても、どこまで行っても信じていないものは信じられません

 「こんなに頑張っているのに!」

 他人が思い通りにならないから嘆くのは、自分がどこまで何をしてもらっても今も未来も信じることができないからです

 常に疑っているのです

 信じていないからです

 信じていれば、形の上で何が起きても信じていられます

 信じるとは、わからないものをわからないままで信じることです

 「絶対にこうなる!」と思い込もうとしている時は、今は疑いです

 どうなるか見張っていなくてはなりません

 形の上でどんなことが起きるかにより

 「ダメだった!」

 と嘆かなくてはなりません

 疑っていれば、常にこれから何が起きるか他人を監視しなくてはなりません

 信じたいけど信じられない、だから私が私の望んだことを信じられるように、他人が信じられることをしてくれ

 こんな滅茶苦茶なことを望みます

 信じられないのは自分のせいです

 思い込もうとしていることを「信じている」と勘違いしている人がいます

 信じるとは、結果によって左右されるものではありません

 最初は親を信じなくてはなりません

 今更言いにくい話なのですが、僕は母を裏切ってもいないし、母の敵にもなっていません

 僕の母なので必ず何か理由があるはずだ、こんなことをしたくてしているわけがないのだ、と信じました

 信じていたので、その通りになりました

 現実を生きる道は、どうなるかわからない未来に向かって走り続ける道です

 常に未来はわかりません

 わからなくても、確信を持って信じればその通りになります

 「毒親の子」は、親を信じられないようですが、それは「自分の思い通りに動けば愛されているのだ」と思っているからです

 子供が好きでも、子供が心の中で望んだとおりのことなど親にはできません

 望んだことが起きなくても、自分が理由で動いているわけではありません

 親も他の人も、自分を理由に動いている他人はひとりもいません

 自分が何をしても、自分を理由に動いているわけではありません

 自分が動かせている他人はひとりもいません

 自分が動かしているのは自分一人です

 最初からです

 子供はそれがわからないため、自分が他人を動かせていると勘違いしています

 自分が何かすると動くから、自分が動かしているのだという感覚で生きています

 勿論そんなことはありません

 親は親で、他人は他人で、それぞれ自分とは関係のない過去や理由があって動いています

 自分が説得したり装ったりすることで動いたと勘違いしているのは、他人の存在を認めていないからです

 自分が何も思わなくても他人は存在しています

 何も求めなくても、何も考えなくても、自分などいなくても、他人は存在しています

 まず先に他人全てをそのまま存在させてから、何が起きているのか把握しなくてはなりません

 周りを確認する前に、願望を押し付けていくのは幼児の常です

 しかしそれでは他人も自分の面倒を見切れません

 自分に何をしてもらったところで、相手が相手のやりたいことをやったわけではないのですから、他人を操作するために何かをしても無駄なのです

 自分が他人を喜ばせることをしたら、それは自分の行動です

 相手が相手自身のやりたいことをやったわけではないのです

 相手が相手の意思でやりたいことをやるターンが存在していないのが、「他人がいない世界に生きている人」です

 確実なことがあるので、覚えておいてください

 親を恨むとバカになります

 生まれて最初に「表裏を知る存在」が親ですから、自分とは関係のない理由があるのだと考え親を信じて存在を排除せずに始めなくては、「自分として生まれて来られない」のです

 親を信じられない人は、人間そのものを信じられません

 どんなに自分に好意的で善良な人に出会っても、必ず疑います

 最初から疑っていて、信じるために相手を操作しようとします

 信じられないから、「信用するために望んだことをしろ」と要求しているのです

 疑っているなら最初から関わらなければいいのです

 「証拠を見たら信じてやる」

 こんな態度で人と接しても、相手にとっていいことは何もありません

 無条件で自分を疑ってくる「赤の他人」に信じてもらうために証拠を見せる必要などありません

 本人の思う「無条件ではない理由」が、「私の親や過去に理由がある」なのですから、他人にはとばっちりもいいところです

 親も普通の人間です

 子供の願望に合わせて作った極悪人のような親は、子供の心の中にだけいる存在です

 親を手足のように動かせると思い込んでいるから、余計に憎たらしくなるのです

 何よりも、親を裏切って親の子として生きていないから、絶望的に孤独になるのです

 神経症とは餓鬼のことです

 日本人が使っていた表現で言えば、簡単なことでした

 餓鬼は親の子ではありません

 子供として生きるのを「迷っていて親の子にならない鬼」です

 生まれた子供の身体を勝手に使って、命を与えた存在を裏切っている親の敵です

 餓鬼にならないように人の子として生きるよう教育するものなのですが、放置して餓鬼を育ててしまっている家が多いようです

 家族は崩壊します

 心の中で周りを伺っていて、いつまで経っても生きようとしない鬼が裏切るからです

 家の中に悪人を作り、外に出て味方を集め家族を破綻に導きます

 そんな真似は子供はやりません

 しかしそれが餓鬼というものです

 分け与えられた命を親を殺すために使う、一族を崩壊させる地獄に生きる鬼です

 知恵がつき始めた頃に、なんでも知った気になって偉そうに周りを評価して神様の真似事をするようになりますから、その時に倒してしまわないと、一族の汚点となる存在に育つでしょう

 親を信じて生きねば、自分を好きになることは不可能です

 親は悪魔で自分は天使、自分の問題は親のせいで、親の問題は親のせい、祖父母は悪魔じゃない

 このように矛盾したことを考えるのが、「自分が世界を回していると思っている人」です

 自分を中心に全ての存在が成り立っていると思うから、このような理解になるのです

 縦軸と横軸の理解ができていないのです

 この餓鬼を叩きのめしてしまわないと、子供は人の道を進めません

 ただ人の命を食い尽くして殺していくだけです

 

 そして信じれば信じたなりに、思ってもみなかった人情ある未来が待っているでしょう

 親が敵になっているならまだしも、子供が敵になっているのでは話は全く変わってきます

 僕の母は敵のような真似をして僕をいびり倒していましたが、僕は母の敵にならなかったので人の道を往けました

 そして最後には、母も後悔を口にしていました

 当たり前のことです

 人間ならば、その時どんなに鬼のような所業をしていても、我が子を虐待していて満足して生きているわけがないのです

 してはならないことは、決してしてはならないのです

 ならぬことは、ならぬものです

 餓鬼になってはいけないのです

 人の命を与えられたならば、生まれた命の持ち主として生きていけばいいのです