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雑談ワークショップでの話、長時間ありがとうございました~無料記事~

 昨夜、雑談のワークショップを行い、超長時間に及びましたが大変有意義な内容でした。

 大変有意義だったのですが、皆さん確実に役立てて欲しいところです。

 自分中心の視点で生きていると、「嫌いな人から離れられない」と説明しました。

 「嫌いな人にも好かれたい」

 このように加藤諦三先生も説明されている状況が、僕にはピンと来ていません。

 違う視点で生きていましたから違うものに見えています。

 しかし、ある生徒の話を聞いていて「これだな」と思った話をしました。

 僕がかつて見たことがある、クラスメイトの話です。

 本人が相手の性格が良いと思っているわけでもなく、「え、ズルい」などと思いながらも、なぜか傍から見ていると「仲良くしたがっているのは本人のように見える接し方」をしているのです。

 当時の僕は「あの子の何がそんなに好きなのかなー」と思っていましたが、どうやらそれが

 「嫌いな人にも嫌われたくない人」

 だったようで、昨日こんな感じだったよと僕が説明しましたが、皆さん身に覚えがあるようでした。

 僕もその時は全員がクラスメイトだったので、その子を助けました。

 喧嘩など売らなくても、戦わなくも、向こうから出ていくものです。

 ハッキリした態度でいれば、自分に従う子を集めて我が物顔でいる馬鹿者は勝手にいなくなります。

 僕は何かの行事のために話しかけられて、ものの数分で「こいつ、性格悪いな」と思った子なのに、なぜかその子をちやほやしている子がいる。

 それが気になったので、「あの子はそんなにいいところがあるの?」と聞いたため、発覚した話です。

 「本当はあの子性格悪いって思ってるけど、仲間外れにされるのが怖くて誰にも言えない」

 そんなやつがいるのか…と不思議に思ったものです。

 自分が性格悪いと思ったならば、接しないものではないのか。

 別に争う理由もないので気にはしないとしても、我慢して仲良くしている必要はないのに。

 そう思うのですが、そうなっている理由があります。

 ひとつは、「ナルシシスト」。自分が中心の世界を生きています。これは最悪です。

 僕もたまたまクラスメイトだったので助けましたが、立場上仲間でもないならば助けないです。

 遠くから見ていて「あんな奴とでも仲良くしたい奴はいるものだ」と思うだけです。

 その時は、「人はよく知らないとわからないものだ」と丁度相棒と出会って思っていたところだったので、なんとなく気になって聞いてみただけです。

 僕が「なんだこいつは」と思った奴でも、何かいいところがあるからああして慕っている奴がいるのだろう、と思ったのです。

 しかし、その友人他、性格が悪いそいつに群がっていた「気の弱そうで受け身な子たち」には共通の問題がありました。

 「自分で決められない」

 だから、勝手に決めたい奴が君臨していたのです。

 「あの子が嫌だ」

 そこまではいいのです。その先です。

 自分がどうしたいのかも決められないのです。

 意思のない集団でした。

 本当に仲間になるためには、仲間が「見つかる」前から単独で存在していられなくてはなりません。

 たとえ友達がいなくても、「こいつと仲良くしたくない」と思ったら一人でいられる精神が必要です。

 そうすると、自分と本当に「似たような連中」が見つかった時に、自然と仲間になります。

 結局、その子は助けた後で、僕について来ようとしたのです。

 正直、その子は僕の仲間には入っていけないタイプでしたが、僕はあちこちに仲間はいたので

 「もう大丈夫だろ、あとは自分たちでやれよ」

 と一時入っていた「支配されていた子たち」の輪から出て行こうとすると

 「待ってよ、一人だけズルいよ」

 と言い出したのです。

 僕は「もう嫌な奴はいなくなったんだから、後は自分でやれよ」と言って離れて行きました。

 別にクラスメイトでなくなるわけでもないのに、いつもいつも集団になっていないとその子はダメだったのです。

 「友達になりたいなら、自分から人には話しかけろ」

 そう言って僕はいつも通り「仲間が沢山いる一匹狼」になりました。

 そう称したのは僕の相棒です。どこに行っても仲間はいるけれど、いつも一人でいる、と言われたことがありました。

 フラフラと猫みたいに気まぐれなのに、寄ってくると犬のように懐く、と言われ、そう見えるんだなあと思ったものです。確かにそうではあるのですが。

 その時は深く考えもしませんでしたが、助けてあげた「意思のない子」は結局「不安に勝てない」のです。

 場をシラケさせる発言をする奴がいても、気まずい空気に堪えられないからつい慌ててフォローしてしまう。

 そんな子でした。

 「喧嘩になったらなったで、面白い」とは思えない子です。

 優しさではなく、自分の不安から慌ててフォローするのです。

 一見「好意があるかのようにも見える」のです。

 もし、その子が「自分の意思で誰の仲間になるか」を決められる子なら話は全く違っていたでしょう。

 見ていると、何かある度

 「えーん、えーん、どうしよう」

 そんな風にオタオタする子でした。

 もうひとつ大事な点があるのですが、支配してあたかも人気者のように振舞う子より、オタオタしている子の方が面倒な雑用をこなし、きちんと働いているのです。

 ちなみに僕は、「どっちにも属したことはない」です。

 その状況にある皆さんは、その中でもめ事をなんとかしようと考えていると思います。

 しかし、輪に入らない奴は、最初からものすごく遠い蚊帳の外から見ています。

 その中にい続けてなんとかしようとしているのは、自分が中心の世界を出られないからです。

 「私」を主人公にした世界だと思っているからです。

 自分を中心に、全ての人の機嫌を良くしようとする。

 能動的になっていないから、接している全ての人のご機嫌を取ってしまうのです。

 そして、そこに「助けに来てくれる誰か」を待っているのです。

 現実的に脱する方法を述べるならば、「その輪に入りそうにもない奴らの仲間になる」です。

 自分が、その仲間になれる「単独でいられる人間になる」ことです。

 クラスメイトには、人を見下した態度のやつもいました。

 自分の方が上かのような物言いと態度なのです。

 僕はその態度で来られた瞬間、即物申しました。

 昨夜、丁度そんな場面でどうするか、の話をしました。

 「なんだてめえその態度は、同じクラスメイトの仲間に何偉そうな口効いてんだよ」

 そんな風に即物言うので、怖いと思われることもありましたが、僕たちは「仲間を平等に大事にしている」ので、その枠からはみ出して支配しようとする輩を絶対に許しませんでした。

 その代わり、対等に尊重し合う仲間たちの友情や結束は強いのです。

 そして偉そうにマウント取りにきた奴は、物申した瞬間態度豹変です。

 ある子は急に縮こまって言いました。

 「私、家で一番上で、いつも下の子ばかりと接しているから…」

 三人姉妹の長女だった子がそう言いました。

 そこで「そうか、じゃあしょうがないね」なんて優しく言いません。

 「ここはてめえの家じゃねえ。俺たちはお前の弟でも妹でもねえ。勘違いしてんじゃねえぞ。」

 そんな風に、親切に教えてあげると「あ、うん、ごめんね」と謝って、なぜかその後滅茶苦茶僕に気を使ってくるのです。

 ご機嫌を取ってくるのです。

 別に要らないですけど、小者だからそんなものです。

 その時、別に僕だけがいたのではないのです、他に数人のクラスメイトがいて、皆で話していた場面なのです。

 なんでもない雑談をしている最中だからと言って、冗談ならまだしも友達を見下すような態度を取って、ただで済むと思っているなら大間違いです。

 恐らく、それがハッキリ言う、ということなのでしょう。

 「ふさげんじゃねえぞ」とその場で言えない。

 言うほどの必要がない関係性であるならば、「なんだこいつは」と嫌悪感を持ったとしても、放っておけばいいのです。

 先に書いた「助けてあげた子」の話でも、結局自分がアイドルかのように振舞っていたやつは、対等にしか扱ってもらえなくなった途端、仲間に入ってこれなくなって勝手にいなくなりました。

 昨夜、結局自分が「傲慢だから」離れられないのだという説明をしましたが、そこについては長くなるので今はやめておきます。

 本当に長時間に及びましたが、僕もそれなりに話して観察してきた方たちが相手でしたので、それぞれの「会話の癖」についても指摘し、何をどうすればいいのかというところまで昨夜は説明できました。

 そこにいるからには、いるべき態度や話し方をしているものです。

 違うやり方で話せるようになったら、自然と離れるべき相手から離れ、仲良くなれる相手と仲良くなっていくでしょう。

 受け身でいると、「こっちの人は優しいからいいけど、こっちの人は酷い」の状態で固定されます。

 そして、「誰か助けて」になってしまいます。

 そこで「輪の中に入って助け続けられる人」は、どちらにせよ「輪の中の人」です。

 「自分もあっちの世界に向かってここから出ていく」ができて、いじめの世界を脱していけるのです。

 いじめが無い輪、があります。

 そこにいじめの世界を広げようとしないのです。

 被害者も、いじめの輪にいる人です。

 本当に「最初からいじめなんて無い世界」に生まれ変わりたいならば、一人で脱していくのです。

 僕が今まで出会った「妄想恋愛ストーカー女子」も、本人がいじめをしていたとしても、本人も漏れなくいじめられてはいました。

 ただ、そこから脱しないのです。

 僕も自分の仲間になるならば守ることはできますが、いじめる人たちの仲間になっている人なのでどうにもできません。

 助けるべき立場にいないからです。

 「自分に害のない、仲間になってくれる人たち」の見分けがつき、かつ「この人たちと生きていける人間になる」と決められれば、家の中でいじめにあっていても一人で出ていけるのですが。

 いじめられている人たちがわかっていないのは、本当の仲間は「自分たちが思う以上に仲間を大事にする」ということです。

 嫌になったらやめるとか、気に入らなくなったら見捨てるとか、そんなことはないのです。

 絶対に裏切らない。

 ひとりひとりが責任を持って、自分の心の戦いに打ち勝って「仲間を守っている」のです。

 仲間と生きていける人たちの輪には「排除される人」はいません。

 まず、人が存在していて、そこからみんなでどう生きていくかを考えます。

 よって、何がダメだから見捨てる、はないのです。

 普通はどうするものだとか、強要して何かをさせるなんてことはないのです。

 我慢すれば必ず嫌になります。言いがかりをつけられれば相手は敵意を持ちます。

 全員が素直に、正直に、誠実に。

 それが最低限守れるから、いじめのある輪で重要視されていることなど「どうでもいいこと」なのです。

 大事にしているものが全く違うのです。

 本人が誰もいじめない人になれば、必ず脱していけるでしょう。

 しかし、「私が主人公」の視点で考える限り、自分自身も人に失礼な真似をしているのだと気づくことすらないのです。

 「自分の方が傲慢なのだ」と自覚すれば、寧ろいじめてくる人となど、簡単に離れて行けるのです。

 僕も長い人には本当に長い時間をかけて、個々に特徴を捉え、いじめられ続ける原因を特定しています。

 「自分が何か悪いことをしたんじゃないか」

 そう思ってつい威圧的な人に屈服してしまうようなのですが、その視点を変えていけるよう力を尽くしております。

 「自分がダメだと、排除されるんじゃないか」

 この不安が全くない世界にいくには、そうなものはそうなのだ、と何が起きるかわからなくても堂々としている勇気が必要なのです。

あなたが不幸にした人

 自分が不幸になっている時、自分が不幸にしている人がいないか振り返ってみましょう

 あなたが不幸にした人は

 あなたが願望を叶えさせた人です

 願望など叶わないのが当たり前で、自分から現実の世界で他人に願望を叶えさせにいけば、叶えてもらったとしても相手は苦しむことになります

 その後、自分のせいで困ってしまうでしょう

 だからこそ、最初に意思確認や、頭を下げてお願いすることは人を尊重する意味でもとても大切です

 何を理由にしようが、自分の望みを強制的に叶えさせるなどあってはならないことです

 口で言わずに罪悪感を煽ったり、そうしなくてはならないかのように思わせるなど悪質極まりない行いです

 ハッキリと、「〇〇してください!お願いします!」と伝えなくてはなりません

 情動で煽って人を動かし自分の欲を叶えるなど、正に悪魔の所業です

 そのあってはならないことをした人は、自分自身が更に苦しむことになります

 そして、そのまま相手を助けることなく見捨てた人は、その後更に苦しみます

 特に願望を叶えさせた相手を悪者にして優越感に浸る人は、これから更なる苦が必ずやってきます

 他人に願望を「叶えさせた」ならば、相手はその後苦しむのは当り前です

 それは親子の間でも起きることです

 親の「ご機嫌を取る」と言うのは子供の側からの話であって、実際には親が自分の願望を叶えさせ続けるから子供が苦しみ続けるのです

 解放されたい子供は外に救いを求めますが、これが二の舞の始まりです

 誰に苦しめられたとしても、他人に救いを求めて他の人がしてくれないことを当然のようにやらせてはなりません

 何があっても人の意思を踏みにじっていいわけではありません

 人を使い捨てて生きる人は、自分が助けて欲しい時は人に救いを求めます

 しかし自分が楽になったら、自分のために苦しみを抱えた相手を救いません

 今、自分さえ良ければいいからです

 心の地獄に落ちている人は、「自分が責めた誰か」に何かをやらせて、楽になった過去があります

 自分の気分を他人に何かさせることで解消したのです

 今まで出会った人達を尊重して扱ってきたかどうかは、今の自分の心の世界に反映されています

 人を使い捨てる人は自分さえ楽になれば、あれこれ理由をつけて人を見捨てても「いいこと」にしてしまいます

 自分がそれをいいことにしてしまったので、自分に対して同じことをする人にはいつまで経っても

 「わかってもらおう」

 とするのです

 自分に許したことは、人にも許さなくてはなりません

 「私だってやられたんだ!」

 そう言いながら、無関係な人に自分を助けさせよう、気分を良くさせてもらおうとした人は、自分に同じことをした人を受け入れ続けるしかなくなります

 本当に開放されるためには、自分を支配し今の自分を窮地に陥れた誰かと同じことをせず、同じことをしたら自分が求め続けているように

 「困らせた相手を救いに行く」

 これしか方法はないのです

 それだと自分が悪いことになってしまう!酷い目に遭ったのは自分なのに!

 私は可哀想な目に遭ったから、救ってもらえて当然なのだ!

 と思う人は、責任の求めどころ、つまり自分を救う人が「困らせた人ではないのはおかしい」とわかっていません

 困っているならば、困らせた人に責任を取らせるしかありません

 無関係な人は助けなくてはならない義務がありません

 責任もありません

 困っているところを無関係な人に助けてもらう

 それどころか、ただの自分の願望を他人に叶えさせたならば、その責任は自分でとらなくてはなりません

 幸せになるためには「願望を叶えるしかない」と思っている人がいますが

 生きて幸せになるためには、困らないように生きる、未来を考えて生きるのが現実的なやり方です

 ここは夢の世界ではないので、頭の中に思い描いた願望を現実を生きる他人に叶えさせたら他人は困るに決まっています

 他人の願望を叶えてやって、それで相殺しようとする人もいますが、「人の願望を叶えるなど相手の幸せには関係ない」のです

 相手に願望を叶えさせる、自分も願望を叶えてあげる

 それが「お互い幸せになる方法」ではありません

 願望など叶わないと諦めて、当たり前に「必要な協力」をしあいながら、自分のことは自分で考え、決め、他人に対しては「お願いする」

 断られたら「諦める」

 最初からそのように付き合わねばなりません

 都合よく途中から部分的に「正しいこと」をやって、自分はやったという嘘も当然ですがまかり通りません

 誰を騙しても誰を見捨てても、心の世界では必ず見張り番がいますから、それで心軽やかに安心して生きていけることなど決してありません

 あなたが不幸にした人がいるならば、償いをしなくてはなりません

 その時、心の世界の「絶対的に正しい私」はいなくなりますが、現実の世界で必要な償いをしていけば、必ず現実は味方になります

 実在の人間の味方になって生きていけない人は、現実を敵に回して「想像しただけ」の話を鵜呑みにするような自分をよく見てもいない人に「都合のいいこと」だけ言ってもらい生きるしかないのです

 この人生は本物です

 生きてひとつくらい、どうなるかわからない未来に勇気を持って進まなくては、自分自身の道は切り開けません

 人を蔑ろにする人は、自分が悪者にされる、悪口を言われることには物凄く敏感なのに、人のことは平気で悪者にしたり悪口を言ったりして喜んでいます

 一緒にいる時には相手に好意的かのように見せていた人が、見えないところに行ったら相手をバカにして大喜びしているのです

 人を見下して喜んでいるような人間が、人が犠牲を払ってしてくれたことに感謝もせずに生きていれば地獄に落ちて当然です

 僕は最初の一回で、自分のために犠牲を払って付き合ってくれていた友達を助けるため現実に出ていきました

 自分に都合のいい世界を続けようとしていたら、今も地獄を彷徨っていたでしょう

 他人の犠牲は想像をしないとわかりません

 自分がやってあげた分は想像などしなくても体験しているからわかりますが、他人に苦労をわかって欲しいと求めながら、他人が払った見えない犠牲は無視する

 そんなことをしている人間が、誰と共にいようが「本当に美しい心ある関係」など作れるわけがないのです

 なにせ、自分がどこから見ても「美しくない」のですから

 成長しない人は、反省と後悔をしません

 幸せになりたいならば、自分が苦しめている人がいないかを考えてみましょう

 人を苦しめている人は、必ずすぐにこう思うでしょう

 「そうだ!あいつは私を苦しめたのにそれがわかっていないから、地獄に落ちて当然だ!」

 この態度で生きている人、反省ができない人がいつまで経っても地獄にいる人です

私をわかってくれる人、とは一体なんなのか?

 私をわかってくれる人、とはなんなのか?

 運命の人、とはどんな人なのか?

 実際に「適応障害」としか呼べない子供時代から、気づいて気づいて脱してきた僕が、多くの人が勘違いしている内容を説明しました。

 YouTubeより

 

 

恋愛・結婚、なぜいちいち破綻しているのか

 先日気づいてハッキリ言葉に変えられるようになったことです。

 是非皆さん真剣に考えてください。

 なぜこんなに恋愛や結婚で失敗して、相手を悪者だと思い込んでいる人が多いのか、何をしているのか、その理由がわかりました。

 「私をわかってくれる人」と、結婚しようとしている人が、失敗する人です。

 私をわかってもらおうとする、そして私をわかってくれる人を「特別な人だ」と思い込む。

 しかし、「わかってくれる」はなぜ起きているのか、何をしたらわかってもらえたと感じられるのか、それを自分でもわかっていない。

 自分で説明できない上に、自分にはどうしたらできるのかわからないことなのに、なぜか「わかってくれる人」という適当な存在が実在していると思い込んでいます。

 結論から言っておきます。

 「私をわかってくれる人」は自分にとって特別なわけでも、相手が自分を特別に思っているわけでもありません。

 偶然にも親が「私をわかってくれる親」であった人はいいとして、他人の中に「私をわかってくれる人」がいたとしても、それは何も特別な関係ではありません。

 子供を受け入れる親、他人を受け入れる人、これは「適応能力が高い人」のことです。

 自分以外の存在をそのままにして、自分が工夫し変化することで現実に対応できる人です。

 ですから、どんなに自分が我慢しようが頑張ろうが、親含め自分以外の誰も「適応能力を持つ人」に変えることは不可能だということです。

 自分が頑張った、我慢した、喜ばせた、すると、相手は様々な他人をそのままにして適応できる人間に変わった。

 親を変えたい人、他人を変えたい人がやっているのはこれです。

 一応確認しますが、理解できるでしょうか。

 自分がどんなに努力しても、相手の脳が発達したり、能力が開花したりすることはありません。

 相手自身が自分の意思で努力しないと、相手の能力は伸びないのです。

 適応能力は少しずつ育てていくしかないものです。特に、人間に適応していく場合は様々な人と知り合い、その中で考えて工夫して、自分自身が変化していかねばなりません。

 人はそれぞれ違います。

 それでも、それぞれの人とそれなりに楽しく会話できるようになるには、自分が様々なパターンのコミュニケーションを取れるよう、色々な顔を生み出すしかありません。

 勿論、「楽しく会話する」わけですから、自分自身も楽しくなくてはなりません。

 それなりにそれぞれと楽しくやり取りできるようになれば、集団生活の中でも自分が楽なのです。

 人とそれなりに楽しく仲良くなれると、相手が好きになります。

 仲良くないなら気になったことでも、気にならなくなります。

 好きな人なら気にならないのです。

 好きになれば、偏見も少なくなって行くのです。

 反対に、自分に適応させようとするのが、自分中心の世界から出ない人です。

 完全に自分に適応しながら、何をしても離れて行かない存在を求めます。

 つまり親です。

 どんなに適応能力がある人でも、元々知りもしない他人の本物の親になどなってくれません。

 親が他人に適応しない独りよがりな人だと、子供は自然なままでいても平気な人、自分に適応してくれる人を求めます。

 適応してくれる人がいると、こう思います。

 「この人は自分が好きなんだ」「この人は自分を受け入れてくれるんだ」「この人は自分と仲良くなりたいんだ」

 これが、本来であれば親に対して思うことであり、「自分は特別なのだ!」と思っていても事実そうなので問題ないのです。

 ところが、親が適応してくれない場合は「自分は要らないんじゃないか」などと自分の存在意義を疑うようになり、他人の中に適応能力が高い人を見つけてしまうと、「この人こそ自分の特別な人だ」と思い込んでしまうのです。

 適応能力が高い人といれば、どんなコミュ障も他の人といる時より遥かに楽しくうまく会話できている「ような気がする」ものです。

 それを「仲良くなれている」と感じるのです。

 自分は何も変わっていません。自分をどんどんアピールしていい気分になるだけです。

 その自分にさえ適応してくれる他人が、稀にいます。

 僕はそのチャンスを一度でつかみ取り、親離れしていきました。

 しかし、僕の場合は稀で、殆ど場合は本物の親のように扱ってしまうようです。

 反省しない、後悔できない。

 自分にとっては「いい話」ですから、相手の存在さえ無視し続ければそのまま何も傷つかず恥もかかずに生きていけるのです。

 成長する時は傷つくのが当たり前ですが、その痛みを恐れて乗り越えない。

 そしてせっかく適応してくれた他人を蔑ろにし、自分自身は相手から適応する能力を学ぶこともなく、自分一人のストーリーの続きを生きていく「特別な主人公」となるのです。

 人に適応すれば、それなりにどんな人とも楽しくやっていけます。

 ただし、それは「深い関係ではないから」です。

 僕がよく例に出す妄想恋愛ストーカー女子ですが、もしそこまでの性格でなくとも万が一告白されたら断りました。

 なぜならば、「生理的に無理」だと思う人だったからです。

 しかし、そんなことは思っても言えば傷つくことです。

 相手を傷つけることは言葉にする必要はありません。

 ちなみに、何が無理かと言うと、率直に言って「不潔、不衛生」だと思ったからです。

 僕が思う基準は、僕自身が普段どうであるかで決まります。

 みなそれぞれ自分が普通だと思う衛生観念の元で生活しているものです。

 その基準が違いすぎる人だったので、友達として楽しくやっていくことは可能でしたが、恋人になることは無理でした。

 そしてそんなことを我慢してまで、相手が勝手に好きだと思い込んだという理由でお付き合いなどするものではないし、したくはないです。

 これを読んでいる人が女子ならば、あなたが目の前にいるとき

 「話している分には面白いけれど、ちょっと身だしなみや行動において、だらしなく不潔な人だなと嫌悪感を抱く男」

 を想像してください。

 僕の場合はそんな感じでした。ただ、顔や態度に出したら相手は女子なので傷つくと思い、そこは考えないようにして会話の方だけ考えていました。

 僕は相手と親しい関係ではありません。僕が個人的にどう思うかなど、相手には関係のないことであり、余計なお世話だからです。

 大体、他人といれば必ず気になることはあるものです。

 「そんなことしない方がいいのに」と思ったり「そんなことするの?!」と驚いたり。

 しかし、それは口には出さないもので、自分自身が気にならなくなるよう変化するものです。

 妄想恋愛ストーカー女子の場合は、「その状態が気にならない人間に僕自身がなりたくない」と思ったので、無理でした。

 人格の問題もありますが、それ以前の話です。

 ただ、そうしたことは誰も言わないものです。

 気になるから親しい関係になろうとしていないのですから、それでいいのです。

 別に悪口を言うわけでも、嫌うわけでもありません。

 それが適応というものです。

 必要な範囲で人と仲良くしていければいいのです。

 運命の人のような特別な相手は、最初から違うのです。

 特別に憧れる存在は、運命の人ではありません。

 「自分と似た人」が運命の人です。

 表面では違うタイプでも、本質が似ている。

 道徳性や哲学において、考え方が似ているのです。

 自分と似たようなことを考えている人だから、コミュニケーションにおいても察することができるのです。

 口に出さなくても、何を言わんとしているのか、何を考えているのか、わかるのです。

 驚くほど気が合う人が、稀にいます。自分に似ているのです。

 そして、重要な点は「その時点で自分を好きになっていないと、相手を好きになれない」ということです。

 自分を嫌う人は、運命の人といながらその相手といがみ合っています。

 自分を嫌いなのだから、似たような人といると「嫌な部分」が気になって、それを変えたくなるのです。

 また、自分が「この人がいい」と思う人がいても、その相手を自分に似た人に変えようとします。

 人間は「似た者同士」で寄り集まるものです。

 自然なままの二人が出会い一緒にいれば段々と互いを知るほど好きにもなれます。

 しかし、我慢して装っている者同士が一緒にいても、互いに「自分はこんなにしているのに」と文句を言い合うだけになるのです。

 どちらにせよ「似た者同士」であることには変わりないのです。

 適応していく、という能力自体を、僕は自分に適応してくれた友達から体得しました。

 言葉で言うのは簡単ですが、出来るようになるためには自分を受け入れ適応できる人を相手に、自分に対してどう対処して接するか実際に体験して体得していくしかありません。

 僕は既に母親に適応し性格が歪んでいましたから、体得している人様とのやり取りを通じて、適応する術を身に着けるしかなかったのです。

 最初からないものはどうにもなりません。

 親は変えることもできませんから、能力だけ人様から体得しなくてはどうにもなりません。

 それを他人にもやろうと思って今まで「手本を見せ、体得させる」というやり方を実践してきましたが、誰もやりませんでした。

 別に他の人でも構わないのですが、僕自身も様々な人に適応する能力がある人を見つけることは難しいので、最初からわかっている相手から体得した方がいいと思っていました。

 例えば「知らないことに対する反応」を、相手のやり方を見て実践で学びます。

 僕の場合は「なんでも知っている人」になりたかったので、知ったかぶりをするか、知らないなら会話に参加しないか、そんなやり方でした。

 そこで、友達とのやり取りを通じて「相手のやり方を見て盗む」のです。

 技はそうやって他人から盗んで体得するものです。

 真似っこしてパクるということではありません。本質的なことを見極め、自分が何度も実践して身に着けていくのです。

 僕は誰にでも適応する自信があります。

 クラスの全員に話しかけて全員と仲良くなる実践をしたことは、以前にもお話しました。

 様々なタイプに適応していくためには、努力が必要です。

 それが「面倒くさい」と思って「向こうから適応してくれる人いないかな」と受け身で生きているのが、面倒を見てくれる他人を求める人です。

 しかしそれでは、誰とも「深い関係」にはなれません。

 適応してくれる人に対して自分も適応していかねば、親しくなることはできません。

 おんぶに抱っこの関係にしかなりません。

 自分自身が体得すればどこに行ってもそれなりにやっていけますが、相手ありきの関係しか作れないようではどこにいってもうまくいきません。

 何よりも、「私をわかってくれる人」がいればしあわせになれるという間違った考えで生きてしまいます。

 「私をわかってくれた!」ということは

 「相手は適応能力が高い!」ということでしかないのです。

 僕は母に対しても、自分が全面的に適応していくことで乗り越えていきました。

 母は最期まで誰にも適応しない人でしたが、僕が適応するからなんとかなったのです。

 「自分だけ特別な存在」という夢を諦められない人は、その他大勢が仲間に思えませんから、共同体感覚も生まれません。

 周りにいるのは「仲間ではない」という認識だからです。

 さて、皆さんはどうでしょうか。

 「自分をわかってくれる人」さえいればなんとかなると思っているならば、考えを改めた方がいいです。

 もし見つけたところでその人にだけ特別依存して、他の人がしてくれないことを色々してくれても最後には裏切られたとか、期待外れだったとか、妄想でしかない不幸に見舞われるからです。

 自分を受け入れ、人を受け入れ、自分を好きでいられるよう生きていれば、運命の人には必ずいつか出会います。

 その時のためにも、「こんな人がいてくれたら自分は好きになれる」と思う自分で生きていくことが大切なのです。

貴族化された格差社会になるのは当然のこと~無料記事~

 今の社会は貴族化した人たちが一強となり、格差が広がる社会になりましたね。

 しかし、よく考えたら当然だと思いました。

 今、外国から日本を守ろう的な方向性で動く人たちも、殆どが明治新政府が作ったかつての大日本帝国を良しとしています。

 その日本は、江戸の日本ではありません。

 王政復古した日本のことです。

 フランスで言うと、王朝時代のものです。

 フランスは市民革命により王政を排しました。しかし、その後一度短い間、やはり王政復古により元に戻っています。そしてまた市民革命により現在のフランスの元となる形になりました。

 日本は王政復古により、フランスの革命前に戻ったような国です。

 以前僕も内容的なことを考え、昔の貴族社会に戻っていると述べたことがあります。

 事実、中身はそうなっています。

 一般庶民も、階層のようなものを感じたり、勝ち組負け組、生まれ育ちという形ある何かでランク付けされていると感じたりしています。

 日本は戦争に負け、不可思議な状態になりました。

 絶対王政の元、国民は国王に忠誠を誓って生きる国。それが大日本帝国です。

 日本国民は天皇の忠実な僕なのです。

 その国にもう一度戻そう、としているのが、美しい日本を取り戻したい人たちです。

 だから、今の左翼的なと言われる人たちにも種類はあるものの、僕などの場合は保守的な方だと思いますが、実際王政の復活を望んでいるわけではないので、立場としては庶民の側に立っているのです。

 そんなに単純な変化で今にいたっていないので、冷静に順序を考え、事実起きていることを見て頭の中で組み立てていく必要があるでしょう。

 以前、坂本龍一さんがデモが起きていた日本を見て「フランス革命を見ているようだ」と述べ、その発言について賛否があったものですが、冷静に考えるとそれは当たっていると思いました。

 今の日本が王政の国だからです。

 僕としては、日本を大事にするかどうかは当然日本を大事にするとして、やり方として王政をもう一度完全に復活させ明治に戻ることよりも、国民が作る国にした方がいいと考えています。

 江戸時代は世界的に見て稀な時代です。

 武士の高い道徳性あっての社会でした。問題は色々あったものの、武士の美徳があって成り立っていたと言えます。

 その頃に戻ることはもうできないかもしれませんが、それでも王政時代に戻るのは日本にとっては退化にしかならないと思います。

 西洋の王族たちは今も生き残って権力を握っています。

 姿形を変えても、同じように支配しています。

 日本も前明治新政府である自民党がかじ取りをしています。

 美しい日本になろうとすればするほど、貴族化された社会になるのは当然なのでしょう。

 極端な保守派になる人たちは、権威に対する憧れが強いです。

 国民にランク付けされた方が嬉しい人たちなのです。

 かつて、フランス国王は手を触れて病を治す神の力を使える、ということになっており、そのための儀式があったそうです。

 他所の国だと「そんなわけない」と思うかもしれませんが、その「神の力」を持つ人は日本にもいますし、日本人も深く考えることなく、豪華絢爛なものを見せられればそれを誰が作ったかも考えることなく「あの人はすごい人なんだ」と思っています。

 自分たちがすごいものを見たいのだから、そのために労力を使ってせっせと働くしかないでしょう。

 その力を集めて誰かを持ち上げて、見たかった美しい姿を見せてもらい、その姿に憧れ続けて生きていくのです。

 私は特別な存在、と思って生きている人は、他人の中に「特別な存在」を作りたがります。

 自分が特別であるためには、この世には特別な存在が必要になるのです。

 特権を持つ人たち、金持ちや贅沢ができる人たち

 そのような貴族的な人達に存在してもらえるから、自分も特別だと思い込めるのです。

 他人の中にいてくれないと「きっといつかは」の夢が見られないからです。

 どこを見ても、自分と似たり寄ったりの庶民がいるよりも、自分たちが貧しくなっても「特別なものを見たい」と思う。

 日本人は、そういう傾向が強いと思います。

 苦しいから憧れの存在がいるのではなく、憧れの存在にいてもらうために苦しまなくてはならないのです。

 もし、日本で革命的なことが起きたとしても、慌てる必要はないと思いました。

 フランスは再度王政が復活しても長続きはせず、もう一度市民革命が起きて今に至っています。

 日本はどこの国とも同じではありませんから、王政がなくなっても国民は自分たちで考えて生きていけると思います。

 美しい日本、という言葉を使う時、よく富士山などがイメージとして使われます。

 しかし、言葉の意味は漠然としていて、何を指しているのかもよくわからないままみな口論になっているのです。

 せめて、自分が何を意味してその言葉を使っているのか、互いに説明できなくては議論もできないでしょう。

 もう一度王政を復活させたい人たちが、実際存在しています。

 またお国のために生きて死ね、の時代に戻りたいのです。

 それが「日本人としての名誉ある生き方」と信じている人たちもいるからです。

 皆さんがどういう思想で生きているかはわかりませんが、それぞれが思うところはあるでしょう。

 僕はいちいち口論するよりは、自分の目的とする社会を作るために尽力した方がいいと思っています。

 なんとなく文句を言って庶民同士で争う暇があるならば、右にしろ左にしろ、自分たちの思想の良さを知ってもらうにはどうしたらいいのか、その形を作るためには今の自分に何ができるか、現実の努力をして少しずつ形を積み上げていく方が現実的と言えるでしょう。