カテゴリー: 無料記事

毒親の子たちに再三言うのだが…

 親の認知能力が成長していない、ということをあまりにも人は簡単なことと考えている。

 毒親の子だと自称する人もまた「ナルシスト」なものだから、

 「本当にそう、私は傷ついていたのに母はちっとも気づかずに…。」

 と自分の世界に浸る。

 話はそこではない。

 親の言ったことが「正しいかどうか」を考えることそのものが間違いなのだ。

 親が言っていることは、あくまでも「親の脳内にある理想の世界の『こうなると良い』と自分は思う」なのである。

 こうすればいいんだ!

 あんなのは間違ってるからね。

 お前はこうだから…。

 その全て、ひとつひとつその全てが、現実を語っているのではない。一般的には「思い付き」と呼ばれるものだ。

 と教えても、どうあっても観点を変えられない。

 生まれた時から三歳児に育てられたようなものなのだ、と言われても、ピンとこない。

 僕はこれを不思議に思っていたが、よく考えてみれば「自分自身の視野がまだ狭いまま」なのだから、わかるわけがないのだと納得した。

 認知レベル的に言えば

 「お前は勉強ができないから、せめて愛嬌で男に好かれていくしかない。」

 という母の意見は…実際こうしたことを言われたことのある人がいるのだが、とにかくこのそれっぽく聞こえる内容は

 「お父さんが強くなって仮面ライダーになったらいいと思う!」

 と同レベルの想像力で言っているのだ、ということだ。

 「いいと思う」はあくまでも「お母さんはそうなってくれれば満足だよ!」の意だ。

 だからどんなにその通りになっても、次は出てこないしほったらかしなのだ。
 「で?この先は?」
 と子供は路頭に迷うのが当たり前。
 その通りになったものの…これが一体なんなのか?

 これは一体、なんのためなのか?
 ずっとずっと従っていると、何か良いことがあると信じ込んでいるのだ。

 そうではない。

 選んでいいのに、親が言った通りに「親の理想の世界」を作って安心させるために生きてしまっているのだ。

 「あーあー、誰か素敵な人が突然目の前に現れたらいいのになー。」

 と思い描いても、突然の美少女やイケメンはやってこない。

 そうだ!だったら…!

 「この子にそうなってもらえばいいんだ!」

 この程度の認識能力で言っているのだ。

 親は我が子ができた時、自分のやりたかったごっこ遊びを現実に叶えることができる。子供が人生を使って付き合ってくれるからだ。

 「親を恨んでいるうちは、まだ親に人生ら絡めとられている。」
 と、毒親についてのベストセラーで世界的に名を知られるカウンセラー、スーザン・フォワードは言う。

 その通りなのだ。
 憎んで恨んでいるうちは、まだ「親の脳内世界を信じてそこに居座っている」のだ。

 親の脳内の理想世界を変えてもらうために生きているのだ。想像の世界である。本人の自由自在なのに、何をしても変えてもらえるわけがない。

 「お母さん酷いわ!」

 と嘆いて走りだすと、そこに現れた人が救世主に見える。

 「お父さん!これでいいですか!」

 と夢を叶えて優秀になっていくと、自分は間違っていないのにあいつらはおかしい!と不満を抱くようになる。

 どちらもおかしいのは自分だ。

 三歳児が「お父さん仮面ライダーになって!」と言っても、お父さんは本当に強くなって仮面ライダーになろうとしない。

 精々、お父さんはプレミアムバンダイで大人向けのライダーベルトを買って真似っこするか、手作りコスプレ衣装を着てなり切るくらいか、その程度だ。

 「いつかなってあげるよ」と言っていても、

 それは、この子がなりたい姿なのだ。

 とお父さんはわかるから、こう言うだろう。

 「お父さん頑張ったけどなれなかったよ。お前はお父さんよりずっと勇気があって強いから、お前が頑張って仮面ライダーになるといい。」

 子供は「もうーお父さんしょうがないなあ!」と仮面ライダーになる特訓を始めるかもしれない。

 つまり、認知能力が育っていない、ナルシストのままという大人の言う事は、その程度の「世界観」の話なのだ。具体的に相手のことを考えて結論を出したわけではない。

 非現実の話をしているから子供は非現実の存在にならねばならず、そこで「疑似自己」という架空の存在を作り出すのだ。

 本人さえ責任を持てるかどうかと問われたら「だって…」と言い訳から入らなくてはならないような、あやふやな意見なのだ。

 この事実、確かにハッキリ言ってしまうと不都合な人々がいるだろう。
 だが、加藤諦三先生ではないが「そうなものはそう」なのだ。

 そうなものはそうなのだ。
 人間はそんなに理想的に成長するものではないし、「心理的に成長する」とは「仏教の悟りの道を目指す」と本質的に同じことを言っているのであって、自己実現とは解脱のこと、自己超越とは悟りの境地のことなのだ。

 そんなものは、心理的努力、つまり精神的鍛練を欠かさず生きてきた人でなくては、進んでいなくて当然なのだ。

 人に思い通りにしてほしい、自分の都合をわかって欲しい。
 これは自己実現、悟りの道とは正反対の退行願望である。

 故に、なんとかしてそれを叶える方向に向かう人は、苦しんでいる。
 諦めることこそ幸せへの道なのだ、傲慢に気に入らない人を悪に仕立て上げようとする行いは、争いしか生まず誰かが不幸になるのだ、とわからないのだ。

 そもそも、支配と服従しか知らない人は「諦める」の概念を知らない。
 「服従」のことだと思っている。それしかない世界が「自己中心的世界」だからだ。誰かが必ず悪になって叩きのめされる世界に生きている。
 人間が神をやっている世界だから、人間の気に入る気に入らないで「悪」が決まるのだ。

 その場を脱して次の境地に行く、ということができないのだ。

 僕は早々に今生で幸せになることを諦めたが、諦めることで全ては手に入ってくると経験して知った。
 来世のために生き、今生を諦める。それが幸せへの道だ。

 反対方向に向かっていくと、末期には葛藤することから完全に逃げ、自分が今不満なのにそれを正当化するために生きることになる。完全に諦めて、他人を同化させることで自分をよりあやふやな存在にしていく行為だ。

 だが、親の脳内に暮らしている人はわからない。
 従っていれば、言うとおりにしていれば、あれやこれを手に入れれば幸せになると思い込んでいる。

 「お前はこういう子だから」

 そんなものはまだ「誰にも」わからないのに、最初に決めつけてくることがおかしい。

 「ごっこ遊びの役なのだ」

 と気づかなくては始まらない。

 我慢しなくてはならなかった、不満を抱え続けなければその通りの人間で生きられなかった時点で、「そんな人間ではない」のだ。

 「そうだよ!なのに酷いよね!」ではない。

 「お父さん仮面ライダーになんかなれないのに、あの子が決めつけてくる!」

 と怒っているようなものなのだ。

 ちなみに僕は、あるアメリカ人と知り合った際に「やたら物を壊してしまう」のがなぜかと聞かれて

 「たぶん、寝ている間に改造されて仮面ライダーになったんだと思う。」

 と言って大爆笑されたことがある。
 だが、子供が「仮面ライダーになりたかったの?」と聞いてきたのでこう言った。

 「なりたかったんじゃない。俺が仮面ライダーなんだ。仮面ライダーとは、子供たちにどんな時も希望の光を照らし続け、子供たちの未来を守るために戦い続ける、大人そのものなのだ。」

 仮面ライダーは精神でなるもの。武士と同じ。
 お前も精神の向上を忘れることなく、強くなれ。

 と教えた。本来親は、子供を守り、育て、導いていく役目である。

 しかし、ナルシストの親は逆に向かっている。
 子供に守ってもらい、安心させてもらいたい。親子が逆転しているのだ。

 だから子供は子供時代を体験しないまま、「これでいいの?」「次は何したらいいの?」と不安なままで仮面ライダーのふりをしている。本人は何をやらされているのかすらわかっていない。

 「もっとこうなって!」
 「そうじゃなくて!」
 「なんでできないの!」

 そんな不満を「批難」と解釈しながら、

 「一体何がいけないんだろう…」

 と落ち込んでいる。

 落ち込むことですら、ない。と気づかねばならない。

 子供がやって欲しい仮面ライダー役を本物のようにできなくても、落ち込むことではない。

 そんな生易しいものではないのだ。
 「認識できていない、自分の世界しかわからない。」ということは、もっと深刻なことなのだ。

 そう、例えばこれを聞いた大人が、これを聞いても
 「でもみんなは…」
 と言いたくなるくらい、認知能力が育っていないとは、恐ろしいことなのだ。

 「ちょっとまって。どういうこと?」

 もっと真剣になった方がいいのだ。

 完全に勘違いしているのだから。最初から。人生始まったその時から、頑張っても頑張ってもうまく行かないのは、感情的になって親の世界に一緒に閉じこもっているからなのだ。

 子供は親に対する執着が強い。
 それが全く満たされず欲求不満のままだから、その執着から離れられなくなっているのだ。

 この世には当たり前のことしか起きない。

 だから当たり前に起きないことを「もっとこうやって」と言ってくる子供相手に、現実の人生など使ったら大変なことになるのだ。

 「じゃあ、今までの俺の人生は……?」

 と泣いても悔やんでも悔やみきれないほど、絶望的な結果になってしまうのだから。

 

 「一体俺の何がいけないって言うんだ!」

 と、言いたくなってくる。
 そう、それ、それが子供の頃に聞いていたやつだ。

 「お母さんはこんなに頑張ってるのに!あんたは何が気に入らないの!」

 はー、とため息をついてさめざめと泣く。
 そして罪悪感を抱いた子供は「お母さんを泣かしてしまった…」と不安になって

 「ごめんなさい、お母さん。」

 と母親に屈するのだ。
 私はお母さんを悲しませる、悪い子なんだと思い込む。
 そして母はそれを聞いて涙をさっと止めてにっこりする。

 「いいのよ、わかってくれれば。」

 良かった、お母さん笑ってくれた。
 その不安から脱した安心感を、「良いこと」と勘違いする。

 その世界から、脱せない。

 それが毒親の子なのだ。

 

 そして僕は思う。
 いい加減気づけ。と。

 これに気付いて理解している数少ない人間がどう頑張って教えても、「親の世界」を拡大化するために生きている兵隊が多くて困ったものなのだから。
 どんどん悪化してきている。全体の退行に向かうスピードは加速している。

 最後にどうなるか考えてみるといい。
 自分の正しい世界には、誰かが迫害されて誰かが服従する未来が待っているのではないかと。

 共存の道は、支配と服従の道ではない。
 なれたらいいなではなく、なろうとすることで心は地獄に落ちていくのだ。

裏切られる人は選ばれている

 僕の母は、僕だけをターゲットにして昔から裏切ってくる。

 昔から僕にだけ嘘を言ってくる。
 僕だけを犠牲にしようとしてくる。

 「一番優しい子がいじめの対象に選ばれる。」

 と加藤諦三先生は著書に書いていた。

 その通りなのだ。

 許せない!悔しい!なぜそんなことを…!

 と悲しくなるかもしれないが、何度となく裏切ってくる母を見ていて僕はその理由がわかった。

 かつてのストーカー女子も、僕だけに酷い裏切り行為を行った。

 他の人にはしない卑劣な真似をして、他の人には言ったこともない酷いことを言う。

 どこまでも追ってきて、執拗に嫌がらせをする。

 無関係なところでも、あることないこと他人に吹き込み、なんとしてでも知らない人たちも僕を「酷い人間だ」と思うように仕向けてくる。

 なぜそこまでするのか、まともな神経ならば考えられない。

 自分をどん底まで嫌い、自分を完全に捨てきった人は「信用してくる人が怖い」のだ。

 「好かれたい」とは言っても、同時に「信用されたくない」のだ。

 心から信用されることは、自分を裏切り他人を裏切る人にとって最も恐怖することなのだ。

 「信用に足る人物かどうか」は自分が一番よくわかっている。

 嘘をついている人間は、自分を疑う人間といると心地良い。

 心から信用されると、居心地が悪いのだ。

 好かれたいのに心から信用されたくない。矛盾している。

 だから一生涯、誰にも好かれることはない。

 好きになってくれる人は心から信用してくる。だから嫌い。怖い。

 疑ってくる人は自分を嫌っている。だが安心。

 疑われるに相応しい人間だと自分で自覚しているから、疑われているのは嫌でも信用されるよりまだ安心なのだ。

 どうしても、心から人を疑えない人がいる。

 僕は自分の教室にそうした人を連れてくる。

 心根が悪に染まらない人。優しさが強さに変わらないと、甘えと共に自滅していってしまう。

 毒親の母は、自分を一番信じて何度でもくっついてくる子をいじめる。

 どこまでも自分を信用しようとしてくる子を、一番いじめる。

 最も居心地を悪くする子。自分を信用してくる子。

 だから何度でも傷つけて、これでもかこれでもかと苛め抜く。

 そのうち「もうお前なんか信用するか!」と子供が嫌って来れば「ほら、やっぱりあんたも私が嫌いなんだ!」と自己憐憫に浸り、当然の結果を利用して「私はやっぱり愛されない」と嘆く。

 嫌われることをして「やっぱりね!」は無いと思うだろうが、そうしたことを繰り返すのだ。

 自分を嫌う人は、誰かをいじめては誰かに信用されにいく、の繰り返しなのだ。

 自分を信じる子供は、自分が過去に見捨てた「無意識の自分」に見えるのだ。

 追ってくる自分。外からやってくる自分。

 それが怖い。

 「どうせ私なんか嫌われるんだもんね!」

 と自分を見捨てた。

 だから人をバカにして、疑って、他人を批難していると楽。

 罵って人を傷つけていると楽。

 見捨てた自分はこの世から消したくなるのだ。

 信じあう人、前向きな人、好きになってくれる人、信用してくれる人、自分自身で生きる人、それら全部を消したいのだ。

 「どうせ人間なんてこんなもんだよねー!」

 それが神経症者の目指す幸せな世界。

 天罰覿面。既に心の中では地獄に落ちている。

 人を信用する人はまともだ。

 裏切られても傷つけられても、まともに真剣に考えて、やり直そうとする。

 何がいけないのか考え、きちんと信頼を積み重ねようとする。

 それが仇となるのだ。

 正直、他人は選ばなくてはならない。

 心根が悪に染まった人は、もう手遅れだ。

 自分をこの世から消すために生きているのであって、自分探しをしているなら何百倍もマシだ。

 神経症者は過去を消したい。

 親と繋がりを持たず、心理的に孤立したい。

 消えていきたいのだ。

 僕の母もそうである。

 「もう昔のことなんかいいじゃないか。」と家系のこと、子供たちのこと、何も考えずに完全に孤立した人間の群れとして、誰とも繋がりなくロボットのように生きていきたい。

 自分がどうやって生まれてきたのか、なんのために生まれたのかも知らずに。

 何も考えずにただ餌を食って死ぬだけの家畜になりたい。

 思考せず、言われたことにただ従い、よくわからないまま何も感じることなく死んでいきたい。

 生から逃げた人間は、死も迎えられない。

 生きることも死ぬこともできない。

 永遠の地獄を彷徨う。

 昨日、「生と死は同じものなのだ」と気づいた。

 悟った、と自覚した。

 人は気づきにより悟りを得ていく。

 僕は菩薩の修行中なので、これから気づくべき段階を時々確認している。

 菩薩五十二位というものがある。

 その段階について書かれたものを、生徒のひとりが持ってきてくれた。

 お寺の人である。難しい言葉で書いてある仏教の経典の教えを確認して、今の言葉でわかるように説明する。

 今はまだここまでしかわからない、と確認する。

 これから悟るべき段階も確認している。

 故に「これか」と思った。

 生と死は似て非なるものではない。

 同じものなのだ。

 ここを今書くと長くなりそうなので、今は書かない。

 だが、それによりひとつ新しい案が生まれた。

 見捨てた自分を我が子に見て、何度でも裏切る親。

 わざわざ傷つけてくる親。

 その親が最も地獄の業火に苦しむものは何か。

 「裏切っていることを信用しない」だ。

 自分を裏切らなくては存在させてもらえなかった。

 だから自分を見捨てた。

 逆に、自分を裏切ると存在させてもらえない。これが必要なのだ。

 と思いついた。

 裏切る自分は、存在を消されていく。

 他人の脳内に存在できない。

 いることを信じてもらえない。

 かつてのストーカー女子はこう言っていた。

 信用されると居心地が悪くなってくる。

 嘘を言っているから。

 騙して心の中で馬鹿にしているのに、心から自分を信用し、心配し、力になろうとしてくる。

 段々怖くなってくるのだ。

 今まで親にもそんなことをされたことがない。

 なぜ信用してくるのか、「嘘を言っている自分が一番怖くなってくる」のだ。

 人を信用できる人は、最初から「人間」という存在を信用している。

 自分自身が人間であり、信用に足る人物だと自覚しているからだ。

 つまり、自分を好きな人だ。

 どうあっても自分を好きな人同士しか、相容れない。

 信用する者と裏切る者では、関係は続かない。

 信用する者を裏切れば関係は破綻する。

 信用する者を裏切った人は、同じく裏切ってくる人と一緒に自分を信用する人を「悪にしてしまう」ことで自分たちが「善い人たちだ」と思う事にするのだ。

 人を信用できる人は、他人を排除しなくても生きていける。

 だが、自分を裏切った人はなんとかして何者かを排除し続けなくては生きていけない。

 僕は子供の頃から、母と対立し、戦ってきた。

 母は僕が子供の頃、どこでどう育っていたのかすら未だに知らない。

 その頃僕は、仏教の教えの元で絶対的道徳心を養っていた。

 善とは何か。ずっと考えながら生きている。

 「これでいいと思う」と平気で人は言う。大それた問題についても軽々しく口にする。

 「では、それは善と呼べるのか?それは一体なんなのか?」

 と問われたら、自らの結論なのだから当然その理由を述べなくてはならない。

 述べられなくてはおかしい。自分が言ったのだから。

 禅問答のように、人は最後には問われる。

 「お前の人生は善であったのか。」

 何が正しい悪いと言っている人は沢山いるが、では、それが善なのかと問われたらなんと答えるのだろうか?

 「その答えにみな従っても、責任を取れるのか。」

 「その答えは、真実なのか。」

 「その答えは、人々をどこに導くのか。」

 人は成長し、親となり、導き手となる。

 子供をはじめ、後からついてくる人々を導いていく存在だ。

 選ばなくても勝手に選ばれる。

 大人になった時、年下はみな自分についてくる。

 親になった時、子供は自分を信じてついてくる。

 その時、自分自身がどこに人々を導いていくのか。

 「カウンセラーとはなんだと思うか?」

 と昔、問われたことがある。

 僕は当時こう答えた。

 「人生に迷う人々を導いていく導師でなくてはならないと思う。」

 目先のことでしか接点はなくても、相手の魂がどこに進み、この先の人生をどこに進めていくのか、理解した上で魂を押し上げてやる導師でなくてはならない。

 だからこそ、自らは更にその上にい続けられるように、日々精進していなくてはならない。

 人の魂の行く末を左右する、重大な役割だからだ。

 気を楽にしたのが一瞬で、その安心が退行の安心であっては地獄に導いてしまう。

 生きるという恐怖に直面しなくては、死に向かえない。

 根っこのところでは悪に染まり切れない人も、どこかで傷つけられて醜い顔になっている時がある。

 醜態を晒し生きる人を、憐れに思う。

 そして憎しみを捨てた方が良いと思う。

 恐らく、悪に染まり切れない人はいつまでも罪悪感に苦しむ。

 どこかで人のことをつい可哀想に思ってしまうから、また騙される。

 本当の善について理解すれば、罪悪感を持つことなく騙す人を遠ざけられる。

 その道理を、どう説明すればいいのだろうか、と日々考えている。

 僕の母は、人を裏切って傷つく姿を見るのが好きだ。

 自分を見捨てた人は、自分を見捨てた頃の自分の姿を何度でも見たいのだ。

 他人を使って。

 傷ついて悲しむ様を、苦しむ様を、それを見て「私悪くない」と言い張ることで自分から逃げるのだ。

 目の前にあの頃の自分を作り出す。

 そして自分はその自分から逃げる。

 自分を見捨てた人は、何度でも何度でも、人生を終わらせるその時までこれを繰り返す。

 恐ろしい話だが、本当だ。

 無意識の自分は追ってくる。

 乖離したその時を何度でも再現するのだ。

 それも自分と自分の心の中の戦いなのに、外側でわざわざ争いを巻き起こすのだ。

 自分の人生の友人関係を、恋愛関係を、結婚関係を犠牲にしてまで。

 そして最後にはもう一度繰り返す。

 我が子を相手にそれを繰り返し、もう一度人生は再現される。

 我が子の人生で、死して尚繰り返される自分と同じ人生。

 これが輪廻転生。親は自分の前世なのだ。

 心理学ではこの途中まで、既に解明されている。

 もし、目の前の誰かを「自分が」傷つけていることに気付き、「目の前の人はあの時の自分だ」と気づき、相手を受け入れることができたならば、自分が親にしてもらいたかったことを自分自身がしたならば、そこで人生は救われる。

 人は完全に自分を捨てる時、解離させてきた、自分を捨てさせた親とそっくりになる。

 時に「お母さんが正しいと思う!」と親の言ったことを自分の言葉として使いながら、親を味方にして他人を排除にかかる。

 これでもう、自分は完全にいなくなる。

 もう完全に逆向きになり、虚勢を張って生きていくことになる。

 さよなら自分。

 親に嫌われた自分なんか、要らない。

 例えそれが本当に存在していた自分であっても。

 親に好かれない自分ならば、消えていい。

 親を恨んでいる人は、どこまでも親に人生を絡めとられていく。

 憎しみで生きるということは、その反対を目指すということだからだ。

 方向は親が決めている。

 原動力が憎しみである。それが地獄に落ちる人の運命だ。

 親の後ろから追手がくる。

 その後ろから、そのまた後ろから。

 その姿を、僕は子供の頃に見た。

 母の後ろには誰かいた。

 これは!と気づいた。

 そういうことなのか!と。

 自力でなくては、助かることはできない。自分にしかできないことがあるから。

 自分を動かすことは自分にしかできないから。

 僕は当時まだ子供だったので、ゾッとした。

 つまりこうやって人は代々、呪われていくのかと。

 父は完全に母親に取り込まれており、一般的に言うどうしようもないマザコンだった。

 自分を見捨てた人は、傷つけても平気な子供が欲しい。

 そうなって欲しいのだ。

 平気なふりをしてきたから。

 自分と同じになって欲しい。

 だが、自分と同じになって冷酷になった子は、嫌いなのだ。

 自分と同じだからこそ、安心するが嫌いなのだ。

 心の中で冷酷な子をバカにしているのだ。

 自分と似ているから。

 いじめのターゲットにされた子は、選ばれた。

 死ぬまで迫害される役に選ばれた。

 だが、絶望することはない。

 同時に神に選ばれた。

 いじめられる子に選ばれたのは、何度でも人を信用しようとするからだ。

 何度でも人を信用しようとする心は、神に選ばれた証だ。

 だから自分を嫌ってはならない。

 神に与えられた運命を捨て、自分を見捨てた人間に「排除する役」として選ばれたということは、真に愛され愛する人として選ばれた証なのだ。

 絶対的な道徳心だけは、決して捨ててはいけない。

 必ず心根に善が宿っている人に出会うことになるから。

 神に愛されたのだという自信を持って、堂々と迫害されればいい。

 傷ついて悲しむと、相手は「責められた」と自分を批難するかもしれない。

 傷つくことも許されない、悲しむことも許されない。

 裏切れらても信用しろと要求される。

 信用しなくていい。

 真実を見ればいい。

 「この人は自分をいじめていたいだけなのだ」と。

 僕は裏切る人を存在させない。

 信じない。

 「全て自分のために自分のことをきちんと考えた上でやってくれている。」と信じる。

 そう信じると、必ず離れられる。

 「相手はこれが自分の喜ぶことだと心から信じていたのだが、それは相手の誤解なのでさよならしてあげる必要性がある。」

 という結論に達するからだ。

 嫌がらせじゃない、批難じゃない。

 心から自分の身と未来を案じてくれたからだ。

 気に入らないから叩いているわけではない。

 そんな酷いことをするわけがない。

 そんな冷酷で意地の悪い嫌な人間であるわけがない。

 心から、自分のことを思ってしてくれた結果。

 だがそれは自分には必要ないものだった。

 もう申し訳ないので、一緒にいてはいけないのだ。

 こんなにも自分のためを思って尽くしてくれるのだから、申し訳ない。

 とても一緒にいるわけにはいかない。

 そんな母親みたいな真似を、他人にしてもらうわけにはいかない。

 自分が至らないから、なんとかしてあげたいと思う優しさで必死になってくれるのだ。

 決して自分が気に入ることをさせたいなどという、下心ではない。

 自分が気に入るようにさせたいなんて、相手は微塵も思っていない。

 そんな品性下劣な人間ではない。

 そう信じるのだ。

 そして他人ならば離れていける。

 自分の認識の中に存在させない人は、現実にも存在できない。

 裏技のようなものだと考えていい。

 人は無意識の問題を外側に作りだすものだ。

 つまり意図的に「こうなっているのだ」を認識の中に作り出せば、その中に入らない存在は現実に離れていく。

 「こうなっている」を軸に道理を通していくと、実在しないものは消えていく。

 実在するならば、残っていく。

 だからこそ、「自分はそんな人間じゃない」と相手にわかってもらうために、自分を不当に批難する人と一緒にい続けてはならないのだ。

 その人と現実に一緒にいるためには、その通りになっていくしかないのだから。

 それが親子から続いているならば、誰と離れてもその関係は何度でも作られていく。

 気づくまで永遠に終わらない呪い。

 それが前世の業と言うものだ。

 人を呪わば穴二つ。

 自分を正当化するために、不当なこじつけで誰かを悪者にすれば

 実際には自分を裏切っていない人を裏切り者にすることで関係を断つ。

 そしてその後もその人は、「正当化した架空の自分」が存在すると自分自身に思い込ませ続けるために、相手を知らない無関係な人たちに、もう自分とも無関係な相手のことを「自分の脳内にいた架空のその人」だと思わせ続けなくてはならない。

 皆が自分の嘘を信じてくれて、存在しない誰かのことを「いるように思わせ続けてくれる」ことでなんとか精神と今の自分を保つのだ。

 実在しない都合のいい人間を「存在することにしてしまった」

 最初は「親」

 次は「自分」

 そして「他人」

 最後には、誰も残らない。

 実在の人物など一人もいない世界で、生きていくのだ。

 現実に存在するわけもない、子供じみた空想のメシアがいつか現れると、心のどこかで当て込みながら。

みんな、私生活では何をしているのだろうか?

 僕は今こうしてインターネットを利用した活動をするわけだが、色々と思考錯誤している。

 そこでふと気になったのだ。

 僕はあくまでも仕事なのでこうして書き物をしているが、勿論日常でこんなことはしない。

 人に「こういうものなんだよ」と教えるからには、そこに「僕の経験上そうだと思った」なんてあやふやではなく、根拠がある。

 そういう個人的に思っただけのことは「僕はそう思うなあ」程度で収めるもので、他人に「こうなんだよ」と教えることではない。
 そこまで教えたいならば、教える立場になれるようにそれなりに知識を身に着けていかねばならない。

 好き好んであれやこれやの学術をやりたい人はそんなにいないと僕は思っている。

 どうしてそう思うのか?と聞く人がいるが、個人の口から出てくることは「個人的に思っただけのこと」だと勘違いしているのではないだろうか?
 それとも、本人はそんな無責任なことを平気で人に言ってまわるのだろうか?

 今の立場を考えれば、何をすべきかは決まってくる。

 僕自身も「なぜそんなことがわかるんだろう?」と疑問に思ったから、心理も精神分析学も学ぶところとなった。
 教える人たちは時間や労力や金銭を費やしてその知識を得て、教えるようになっている。

 知りたいならば同じことを学べばよい。

 「なんで?」と聞く人に以前は説明したが、同じ知識のベースがないのに「なんでそう思うの?」と聞いてくるのだ。呆れたものだと思った。

 僕がどうしてそう言っているかを知らねばならないのではない。

 それが必要な人が得ればいいだけだ。

 勉強をしたことがないのか、子供が聞いているのか、よくはわからない。

 同じ知識を得たいのかなんなのか、言っている意味もよくわからないが、日本語として立場や言葉の使い方も間違っている。

 根本的に勘違いしている人も多いのではないだろうか?

 この社会の理想が「良いか悪いか」を論じているつもりで話している人がいるように見える。

 そんなものは「論じる必要がない」ので論じない。

 「そうなった」は「そうなった」でしかない。

 そこから生まれてくる社会的現象、またなぜそうなったのかは知る必要がある。

 更に、その環境下の中でどう生きるか、自分にとって何が「良い」のかは各自考えて決めることだ。

 社会の理想自体は何が良いか悪いかなど、論じる必要もないほど全員がわかっている。

 必要な人だけ、やりたい人だけたまたまそれに沿った生き方をする。

 それだけのことだ。

 今の日本は昔と違い、自由に選べるようになった。

 「こうするのが良いこと」と決められてそれに従うわけではない。

 良いものも変わったが、各自考えて選ぶ時代となった。


 社会の理想はそのままただ知るだけだが、その中で各自考えて選んだそれぞれの理想の人生がある。

 それは当たり前のはずなのだが、個人が社会の理想が良いか悪いかを論じ(もう決まっているのだからそんなことをする必要はないのに)、更には良いことになったら社会の理想の方に従うものだと勘違いしているのではないだろうか?

 大昔と同じだと思って、勝手に従われても社会は責任を取れない。

 そんなものは勝手に自分で選んだだけなのだから、「従ったのに!」なんて言いだすのは我儘もいいところだ。

 「選べるようになった」のだから。

 その分、選択できるもの、自力でやれること、沢山増えた。

 考えなくても「こうできたらいいなと最近は言われているよ」という形はある。

 それがいいなと思う人はそうなればいいし、それは選べないまたは選びたくないならば選ばなくてよい。

 社会の理想は「どうしてそうなったか」知るだけだ。

 自分が決めたのではないのだから、必要性あってそうなったんだよな、ということはわかる。それだけだ。

 「ふーん、そういう社会になったんだな。」

 で、自分はどうしようかなあーと考えれば良い。

 正に自分で切り開く人生。

 そうした点では、自由度が高くそれぞれの才能や個性を発揮できる世の中になった。

 それぞれがバラバラにしていいだけに、違う人もいるからあれこれ言ってくる人もいるだろう。

 そんなものはなんでもないことだ。

 自分がそれぞれ選んだのだから、違うものには「それがいいとは思わない」のは当たり前だ。

 同じものを良いと思うならば、同じものを選んでいる。

 または「いいなあー自分もそうしたかったなー」と思うだろう。


 だからなんなのだ。

 と不思議に思う。


 個人の思想は自由だが、自ら人に話しかけて個人に対して発言したり、個人の意見を使って意見したりするならば、下手なことはできない。

 例えば、Twitterならば一人でつぶやいているうちは自由だが、誰かの発言に対して意見するならば目の前にいても堂々と言える程度の内容である配慮が必要だ。

 マナーというものがわからない人が「ネットなら誰かわからないから好きにできていいよね!」と言っていた。

 別に見たくないならば見なければいいから、確かに一人で何を言っていても構わないかもしれない。

 だが、対象者がいるのにそんなことをしていいわけがない。

 その人が言うには「もし相手が怒ったとしても、ネットから消えれば平気だから」なのだ。

 何が平気なのか。

 「自分は何も危害を加えられない」という意味なのだ。

 つまり、危害を加えたくなるようなことを、その人はやりたいと思う人なのだ。

 そして危害を加えたくなるようなことを人にしたいが、やる一方で隠れたいということなのだ。

 もっと単純化すれば、一方的に安全なところから人をいじめて嫌な気分にさせたい、ということだ。


 その場では「そうなんだ」と聞いているが、勿論それっきり接しなくなった。

 そんなすごいことを言いながら、「いじめって隠れてするのがいいよね!」と思って接しなくなっても、相手も気にしないだろう。

 そもそも、そこまでして他人を批難したり監視したりするために労力を費やす理由はなんなのか?


 先に書いた通り、僕は仕事だからやっている。

 Refreherぷらすの方には、どこまで何を書こうかなと考える。

 受け売りの教えなどどこに行ってもあるのだから、学んだことから生み出した独自のものでなくては僕がやっている意味がない。

 変な人は「誰誰が言っていることは正しいか間違っているか」を討論したがる。

 討論なんかできるわけない。

 変な恋人は、「一般的に言われているこれが正しいか間違っているか」を討論しようとする。
 それを最初に言った本人がいないのに、無関係な者同士で討論になるわけがない。

 他人が言った他人の経験上の正しい、または他人に必要性あって良いとしたものを、全く関係ない人と討論して、関係まで決裂する。

 余程その一般的思想を教えた人の大ファンだとしか、言いようがない。

 最初から「自分の意志なく何かに従って生きるのが大前提」なのだ。

 つまり、他人の褌で相撲を取る気しかないのだ。

 何か勘違いしてるんじゃないの?と思った。

 他人がなんと言ったかはいいとして、自分はどう思うの?という点だ。


 これが「良いと思う」は実行前、それなりに人生を生きたら「これが良い方法だった=正しい」「これは失敗する方法だった=良くない」の結果となる。

 人生の前半は、言われていたこと、または考えたことが実際にどのような結果になるのか実践する時期だ。

 実践してみてどうだったのかは、それぞれバラバラの人生を歩むのだからそれぞれが結果を得ている。

 バラバラの環境下で違う人がそれぞれの欲しいものを得るために進んだのだから、違う方法を取ることも当然だ。

 そして欲しいものが違うならば、考え方や良いとすることが違うのも当然だ。

 違うものが欲しい人と、方法の討論などできない。


 更に最近思ったことがある。

 好きな人に好きになってもらうこと自体は簡単なことだ。

 相手の気持ちや背景や状況、相手側の全てを正確に見極め、その中で自分が「良い作用」をもたらす存在になれば良い。

 好きになってもらうために自分の背景や気持ちを語る人がいて、それをナルシストと呼ぶのだがそれは「自分のことを好きな相手に対して、どうしたらもっと自分があなたを好きになれるか」を説明しているに過ぎない。

 さすがナルシストと思える。

 「してほしい」ことを「してあげたい」と思って欲しいわけだが、それ以前に「なんとかして好かれることをしてあげたい」と相手が既に望んでいる必要がある。

 あまりにも自信満々なわけだが、必死で説明しても正当性を主張しても、どうあっても向こうがなんともしてくれないならば、単に「そこまで相手が自分に好かれたいと思っていない」だけだ。

 自信がないと口にする人の方が、自信がある行動を取る。

 本当に自信がない人は、相手に好かれるように行動する。


 あなたが人を好きになるときに、自分のことを考えてくれて、自分の状況や気持ちに対して良い作用をもたらす人を好きになるだろう。

 あなたの状況や気持ちを無視して、向こう側の状況や気持ちを説明して「~してくれ!」と求めてくる人は迷惑でしかない。

 とても簡単なことだ。

 好かれたい、と言いながら、「~してほしい!」を前面に押し出す人がいる。


 「好かれる」ことを捨てた人だ。

 また更に、「好き」だから「~してくれる」というマニュアル人間もいる。

 実際に向こうから好きになられた時は、色々なことをしてもらえるかもしれない。

 だが相手の考えや発想、そして状況があるから、「こうしてくれたら嬉しいな」なんてことをしてもらえることはまずない。
 相手なりに何かをしてくれるものだ。

 勘違いしている人は、「モテたら望んだことをしてもらえる」と思っているのだろうと思う。

 オーダーを聞いてくれる召使ができたのではない。

 好きになられたのだから、相手が「してあげたい」と思ったことをしてくれるだけだ。

 その「してあげたい」が自分の「してほしい」にピッタリ合う人が、相互性が成り立った人だ。

 してあげたい と してほしい の場合は、行動するのは「してあげる側」となる。

 故に、「してほしい側」は何もできないのだ。自然に任せるしかない。

 「してあげる側」としては何かしてあげられるが、それはやりたい相手にのみだ。

 してあげたくない人にはしてあげない。

 行動はする側に選ぶ権利があるのだから、してほしい人に一切の選択権はない。当たり前だ。


 自ら要求してしまったら、それは「してもらえたこと」ではなく「やらせたこと」になってしまう。

 僕も色々と女子からプレゼントをもらったことがあるが

 「これ欲しかったんだ!」

 なんてものをもらったことは、数えるほどしかない。

 十回に一回も起きない。自然にしていればそんなものだ。

 ただ、「思ってもみなかった嬉しいこと」はある。

 うまく行く恋愛において「嬉しいこと」は全て「思ってもみなかったこと」だ。


 自分が「この人が好き」と人を好きになったのだから、相手が考えてくれたことは嬉しいことが殆どに決まっている。
 その人が好きなのだから。
 人格が好きなのだから、その人がしてくれることは嬉しいことばかりだ。

 自作自演で何かを「やらせている」人は、実際のところ相手が自発的に何かをしていたら、どんな恋愛になったのかすらわからないのだ。

 ただ、今まで思い描いていたことが起きたか起きないかということしか考えない。

 だがそんな人に限って、「こんな人がいたらいいなあ」と思う異性とはまるで違うのだ。


 当然な気もするが「私の理想になってよ!」と、誰かに求められたい人はまずいないだろう。

 理想の人を探している時点で、誰の理想の人にもなれないのは当たり前だろう。


 こと人間関係においては、相手が何をしてくれそうな人かできそうな人かはどうでもいいのだ。

 「自分でも何かしてあげられる人」が自分に合った人なのだ。

 自分がしてあげることを嬉しいと思う人。

 自分の性格が好きな人。

 今のままの自分でいいと言ってくれる人。

 それが最高だと思う人は多くいるだろうが、つまり自分自身が相手に対してそうなれる場合が良い関係になる「可能性がある」のだ。


 この人がしてくれることが嬉しい。

 この人の性格が好き。

 今のままのこの人でいい。

 と思える相手が自分の好きになる人であって、偶然にも相手もそう思ってくれたならば、両想いということになるのだ。


 ロマンの欠片も無い人は、両想いを「操作して作ろう」とする。

 乙女チックな夢も見られない人だ。

 不安になったりドキドキしながら待つということはない。


 どうなるか一切わからないから夢があるのであって、「どうしたら思い通りにしてくれるか」なんて一人の時間に画策し始めたら、恋愛ではなく戦争だ。

 もっと平和な関係の方が好きな人は、そんなことはしない。

 後から疑われたりバレたりしたら争いの種にしかならないようなことを、仲良くしたい人はしない。


 勿論のことだ。

 これから仲良くしていきたい、愛し合いたい人を相手に、今後バレたら困るようなことは、自ら作り出さないものだ。

 人が気になるのは過去だが、それは過ぎたことなのだからしょうがない。

 ただ、出会ってから「ばれたらまずいこと」なんてしないのは当然だ。

 もし相手と本当に仲良くしていきたいならば、の話だ。

 そうでない場合は、その限りではない。


 人は本当の目的を自らに誤魔化すことで、自分がやろうとしていることとやりたいことを勘違いして生きるものなのだ。


 自分がやっていることと、「こうなりたい」と言っていることが矛盾している。と子供の頃に気付いた僕は天才だったのかもしれない。

 かもしれないが、僕が思うにそれは考えれば誰でもわかることだと思う。

 「僕はこうなりたいのに」

 ならば今までの自分の行動は、本当にそうなれると思える方法だろうか?

 真剣に考えるだけで直していける、うまくいくことだ。

 本当にこれから得られるものを得たい人は、真剣に考えるだろう。


 僕の場合は呆れたことに、真剣に自分自身の行いをどうするかなど、欲しい欲しいと願っているわりには全く考えなかったのだ。


 きちんと真剣に考えれば、大抵のことはなんとかなっていくものだ。



 僕はよく「みんな自分の人生を大事にしてほしい」と言う。

 本当にそう思っている。

 僕も私生活は私生活で、問題も多々あるが楽しみもある。

 私生活では楽しいことは沢山あるのだが、「これは何かの役に立つだろうか」と考えて時々ブログに書いている。

 人の役にも立たないことは、いちいち見せるものではない。

 特に誰かとの思い出や、自分自身の楽しい時間のことは、人に教えたら減るのだ。


 大事なもの、良いものは、そっとしまっておいた方がいつまでも良いものとして育っていってくれるのだ。
 好きな人との関係でも、愚癡を言いたくなることはある。

 だが、なんだよ、全く!と不満に思うことがあっても、好きだからそんなこと他で口にはしない。


 好きだから目の前でしか言わないのだ。

 好きじゃなかったら、目の前で不満など言えない。

 嫌いな人の不満なら、他で言えるから気にならない。


 好きな人に不満が出てくるから悩むのであって、それでも好きだから結局は考えた末素直に相手に言うのだ。

 すると、こうして書きながら脳裏に思い浮かぶ過去の映像に、それだけで胸が温かくなる思い出ができるのだ。

 好きな人の悪口だけは他人に言えないなと思う。


 好きだからだ。

 好きな人を本当のことを知りもしない人に悪く思われたくないし、それを思わせるのが自分でありたくない。相手にとって害ある存在になりたくない。

 好きな人を遠ざけることになるから、相手を孤立させたくない。
 そんなことをしてしまって、孤立した相手に救いの人が現れたらあっと言う間に消えてしまうだろうから。

 好きな人を嫌いだと他人に思われたら、他人がどんどん悪くなる方に押し上げてくれて、周りはそれを自分が望んでいると勘違いしながら、別れの方に手を貸してくれるかもしれないから。

 周りが練った作戦を実行してしまって、もし駄目になったら後悔してもしきれないから。


 全部自分で決めて実行したのでなければ、失敗した時に後悔するから。


 だから人生そのものも、後悔したくないので自分で決めて実行するのだ。

 「自分の話」と言う噂話だけを聞いた、相手を知りもしない他人が考えた方法を実行し、そして愛する人と破綻していったら目も当てられないなと思った。

 当然そんなことは経験がないが、もしそんなことになったらどうにもならないなと思った。

 うまく行きたかった意中の人はいなくなる。
 協力のつもりでやってくれた友人などにも不満は言えない。

 仕方ないので「それでよかったふり」「そうなりたかったふり」をして生きるのだろうか?

 そんなことになりたくないが、そもそもそんなことまで考えなくても常に自分で考えて実行してきている。

 だからいいのだ。人生は。

 本当に愛する人との関係や思い出は、失うこともないのだから。

嫌いな人とも離れられない ~自己肯定できない人~

 人間は体験したことしか、心から確信することはできない。

 目の前にいる人がどんな人か、それは体験することでわかる。

 説明でわかる現実はない。

 相手がどういう人なのかは、体験でわかる。

 説明はいいので、体験だけ考えてみよう。

 自分自身はその相手と一緒にいて、どんな体験をしたか。

 体感した感覚だけ思い出してみよう。

 その体感に沿った付き合いになっていただろうか?

 僕は体感では「怖い」と思う女子に、なぜか恋愛関係を求められることが多かった。

 相手は僕が相手を好きだと勘違いしているので、向こうの体感は「怖い」ではないのだろう。

 序盤から「怖い」と思って警戒したいような人ほど、なぜか好かれていると勘違いする人が多かった。

 「好かれている」と勘違いすると、相手は途端に怖い人になった。

 「どうしたら許してもえるだろうか」と思うので、気を重くしながら相手が一通り満足してくれるようにすることが殆どだった。

 そもそも、大人になっても「突然好きになる相手」がいると思っている人がいる。

 僕は突然好きになったと言う人に警戒する。

 一目惚れは、自分自身の願望や理想の投影である。

 現実に体感を重ねることでしか、人は安心することもないし好意を高めることもない。

 「いきなり降ってわいたような幸せ」が欲しい人がいるのだ。

 その気持ちはわかるが、現実にそんなものがあると思える方が不思議だ。

 現実だ。

 これまでの経験から考えても、自分自身を考えても、そんな夢物語が現実に起きるわけがない。

 と思えるのが、現実を生きる人である。


 目の前の人とのやり取りで実際に体験したことが全てだ。

 現実を生きる、本人に関心を持つとは、そういうことである。

 言っている情報ではなく、現実にそこに実在する相手にだけ真実がある。


 そこに本物がいるのだから、情報など聞かなくてもわかる。

 様子。感情。表現するときの声色や態度など。

 今そこにいる相手を存分に観察し、共にいる時間を体感する。

 「この人」という人を体感で知るのである。


 その方が、相手のことはよくわかる。

 どんな感覚を発しているか。どんな感情を内面から起こしているか。

 「私をわかって」

 と求められたら、その人が一体どんな人格なのか、どんな心の中なのか、その全てで知ってあげれば良い。

 言っていることから想像して目の前の人を無視したら、相手が本当は何を伝えているのかわからなくなる。

 とはいえ、自分を無視して言っていることからそこにいない自分を想像して作って欲しい人もいる。

 今目の前にいるのに、説明の方を現実だと思って欲しいのだ。

 そこにいていない人。そこに実在していると思える人は、想像を売り込むためにいる。

 情報が本当であるかのように見せるパフォーマンスをする。

 きちんと相手に関心を持っていれば、それすらよくわかる。

 必死で売り込んでいる姿はそのままにしか見えない。


 どんなに可哀想な話をして、弱弱しく見せる人も、般若のようになることがある。

 そうなればもう安心だと思っていい。

 「こんな人がいて怖い」

 という相手に対して、「この般若」がいるのだから、大丈夫。

 この強さがあれば、怖いものなんかない、とわかる。

 「言いたいことを我慢している」も別に相手が怖いからではないとわかる。

 言いたければ結局言える人なのだから、心配しなくて安心だ、とわかる。

 見たところ、般若一族に「恥ずかしい」という感覚はない。傷つくという感覚もない。

 怒りしかない。怒りと恨みに生きているから般若なのだ。

 普通ならば、どの面下げて般若の後に笑って登場できるのか不思議なところだ。

 素っ裸を近所のよく知らない人たちに見られた以上の恥ずかしさだと思う。

 見た方からすれば、そのくらいの驚きだ。

 本人はずっとそれだから、「これもまた私の可愛い一面」くらいなのだなとわかる。気にしていない。
 どう思われたのか全く気にせず、相手が黙ってくれてさえいればなんともないのが図太さなんだなと思う。

 それだけの強さがあれば、誰も怖くない。

 男の助けは必要ない。恋愛はなんの助けにもならない。恋愛に救いを求める人は、結婚で失敗する。

 恋愛は恋愛であって、それ以上でも以下でも救いでも墓場でもなんでもない。

 そして女はそんなに弱くはなく、恋愛を利用して窮地を脱しようと思えるほどタフだ。

 バイタリティと言える。


 付き合い始めが「こんなひどい人がいたから」ならばもう心配ない。強さは確認済み。

 「こんな困った状況」なら脱したならおしまい。

 これに自信がない。なら、そこを手伝ってやればおしまい。

 とにかく、好意があって始まった付き合いでないならば、相手が持ってくる問題を解決してやればいい。

 互いに好き合って始まっていないならば、恋愛の付き合いではない。

 恋愛を利用した、「困ったことを解決してほしいだけの人」である。

 好きになってもらわなくても、問題が解決できればミッション成功と考えてよい。

 自分から好きになったわけではないのだから、関係が終わっても嫌われても別に傷ついたり落ち込んだりはしない。

 相手も傷ついたり落ち込んだりはしない。別に好きで一緒にいたわけではないから。

 自信の無さや問題をなんとかしてくれる人が欲しかっただけ。

 また一から問題を作り始めるが、とりあえずできれば相手に悪者だと思ってもらえると良い。

 自分から離れたい時は、相手に「悪い人」扱いされれば成功だ。

 できるだけどうしようもない人だと思われた方がいい。

 被害者になるということは、相手が離れなくてはならないということである。


 被害者が加害者に良い人になってもらって、付き合いを続けましょう。なんて話はない。

 無関係な人が被害者を助け、加害者は二度と接しない、が正しい。

 当たり前に他人はそう思う。

 周りから「やめた方がいい」と言われるくらいに相手がどこかで悪口を言ってくれれば、人に良く思われたい人は被害者になるのは大好きなので、喜んで被害者になる。

 親子関係で悪者にされて、謝って関係を続けてきた人がいる。

 だが、親の真似を他人相手にやれば、当然関係は終わりである。

 それは親子だから成り立ったのであって、少なくとも相手は自分がいなくては生きていけない立場にある「自分が保護の義務を負う誰か」でなくてはならない。

 どんなに面倒を見ても、他人相手に義務は発生しない。
 相手が自立していれば成り立たないし、自立されたらおしまいである。

 自分の保護下にある相手にしか、通用しないのである。
 だからこそ、「支配と服従」と呼ばれる。

 悪者にされる恐怖心などは、自尊心が高く「別に嫌われてもいいから」と思える相手には通用しない。自尊心が低い、他人の肯定を求める相手にしか通用しないのだ。

 そして恋愛したい人は、恋愛相手にそんなことをするわけがない。

 頑張って親の真似っこをして成功させたくとも、自分で子供を作ってやるしかないのだ。

 親の真似で成功するならば、相手は我が子しかいない。

 他人相手ならば全部破綻でおしまいである。

 それは「最悪な親子関係」を作る方法でしかないので、他の関係は全て犠牲にする。

 親が外面の良い人ならば、適当な関係はうまくいくだろう。機能社会の関係さえあれば、生きてはいける。
 生存していけるならば、贅沢は言えない。

 人は生きるために生きているのであって、それ以上のことは欲しければ努力して得るだけのものだ。


 被害者になれば、加害者は遠ざかるしかない。

 だから遠ざかりたい相手がいたら、自ら加害者の立場になってもいい。

 説明だけを信じて欲しい人は、説明するだけで悪者にしてくれる。

 これが超、楽ちんと言えるところだ。


 逆に、良い関係を作った彼女は、僕があれこれ適当に悪く思われそうなことを言っても信じなかった。

 「嘘でしょ、なんでそんなこと言うの?私のこと遠ざけたいの?」

 あっと言う間に見抜いてくるので、嘘がつけない。

 「あなたがそんなことするなんて思えない。」

 現実に目の前にいる僕を「真実」として彼女は考える。

 自分が確認した事実が全てであり、情報には嘘があるとわかっている。区別している。

 ちなみに、これは「本当に好き合って付き合った相手」の話である。


 こうして何かで読んだ話を、相手との関係性を無視して「真似る」人がいる。

 例えば、本当に愛し合っていた彼女が「私たちは前世で夫婦だったんだわ」と言ったから、そこに意味がある。

 本当に愛し合っている相手と、そうでない相手が同じことを言っても意味は同じにならない。

 今生で縁がある人は前世でも縁があると言う。

 今生で結婚した相手など、大切な関係になれた相手のことだ。

 一方的な関係の話ではない。

 今生で結婚している人を見ると、「この人の運命の人なのだな」と僕は思う。

 その問題がこの人を成長させるのだ。もめている人ほど羨ましく思える。

 そこまでもめ続ける相手に出会ったことが無い。余程の運命なのだ。


 とにかく、自分が「良い子」になりたい人は離れたい人とも離れられない。

 「悪者になりたくない」からだ。

 離れる時は「悪者になる」から離れられるのだ。

 相手を心から愛していないのに、なんとかして自分は悪くないと認めて欲しい人がいる。

 心から愛していない人と、仲良くする努力など普通はしないものだ。

 自己肯定できない人はよくこれをやる。


 相手があれが許せないこれが許せない、と言ってくれるならば、もう万々歳だと言える。

 だが、相手を好きでもないのに、自分は良い人だと思われたい。矛盾している。

 好きな人なら良い人だと思われた方がいい。

 嫌いな人に良い人だと認めさせたら、離れられなくなる。


 自分が被害者になることで相手を拒否していると示せる。

 ところが、「嫌なのだ」と被害の立場を訴えると「じゃあどうしたらいい?」と嫌がっているのに「良い人」になりたがる人がいる。

 どうしたらではなく、それが結論だとわからない。

 そして自分を嫌がる人など好きになる人はいない。つまり好きではない。

 誰だって自分が一番だ。その自分を嫌がる相手を好きになるわけがない。

 最も大切な人を「嫌だ」と言ってくる人など、好きになれない。

 自然が生む心理はうまく行くもので、自分を最高に良いと認めてくれる人は、自分にとっても最高に素敵だと思える人なのだ。

 自然な自分で生きていると、当たり前にそうなる。

 自分を嫌いな人はそうならないようだ。

 素敵と思える人なのに、相手から見たら自分が素敵ではない。

 素敵だと思ってくれる人は、自分から見て素敵ではない。

 僕には変な話だなと思える。



 そんな状況の人に朗報である。

 自分が悪者になればいい。

 実際に悪いことをするのは気が引けるし、何よりも時間がかかる。

 面倒な話だし、自分の徳も落とす。

 だが、説明だけなら簡単だ。相手が「自分の人格に沿った悪い妄想」を勝手に作ってくれる。

 どんな妄想を作るかはわからない。

 昔の僕の彼女のように、普段の行いがいい人はそうそう悪いことを想像などしてくれない。

 相手の普段の行いの悪さにかかっているが、普段の行いが悪い人ならばこっちが驚くほど悪い妄想をしてくれる。

 味方を作って悪者にしてきてくれたら、もう終わりだ。

 こっちが努力して何かしなくては、声をかけたり考えたり、何か努力しなければ付き合いが続かない状態になる。

 被害者が加害者に「あなたは悪い人だけど好きだから許す」なんて言い出すならば、周りから見てもおかしい。

 だったらもっともっと悪い人と一緒にいればいい。

 どんなに嫌な人でも好きなところのひとつくらいはあるものである。

 だが、本当に好きな人は自分の中で悪者ではない人である。

 「何かをどうにかしないと付き合えない状態」

 だと自ら言えば、それは相手と付き合いたくない時である。

 向こうから言われれば、自分と付き合いたくない時である。


 変わらなくては付き合いが続かない状態になれば、良いのだ。

 逆転の発想をすればいい。


 自我のないナルシストは、他人の反応でしか自分を確認できない。

 他人が悪者にしてきたら、自分が悪くなると思う。

 自分の自分に対する評価が他人と連動してしまっている。

 だから、自分の自分に対する評価を「決めてくれている依存相手」にどうしても「良い人」だと思われ続けなくてはならない。

 それでは、相手を嫌いになっても離れられない。

 「自分で自分を見たくない」「確認したくない」

 自分を自覚するのが怖い人は、「嫌いな人といつまでも関係を続ける」という多大なリスクを背負って生きている。

 理想的な自分だと思い込むためには、どうしてもそれが「必要」なのだ。

 批難してもされても、互いに相手に認められようとして絡んでくる関係にならなくては、ナルシシズムの世界を続けられない。

 「自分は悪くないのに」と思い込んで「なのにどうしてあの人は…」といつまでも結論を出さずに生き続けるために背負う、超絶ハイリスクである。


 嫌いな人にも好かれたい。

 おかしな話である。
 

 それではどちらも幸せになれない。

 好きじゃないのに、好かれたいから「あなたが好きです」と言い続ける人もいる。

 そこまでして全ての人の良い人になっても意味はない。


 意味がないというか、その付き合いさえなければ、もっといい人に出会えただろうにね、と思える。


 そういう寿命の無駄遣いをカットするためにも、自分が悪者になった方がいい。


 そして「あなたは悪いことをしているけど、それを直してくれるならば」みたいな状態になってくれたら、やっと解放だと思って良い。

 自分から好きで好きで「何一つ不満なんかない」と言える相手に、好かれていればいいのである。


 押して駄目なら引いてみろと言う。


 悪いけど無理、と言って駄目な相手なら、「悪いけど無理」と言わせればいい。


 いい人になりたくて仕方ない人は、相手は誰でもいいから自分を良い人にできる比較対象と結婚する。

 だから離婚するときも相手と比較して良い人になって別れる。

 親子関係の不満から、親との比較対象と結婚。

 結婚関係の不満から、比較対象の異性を見つけて離婚。

 こういう繰り返しをする人は多くいる。


 多くいるが、それはいい。

 別に自分が結婚するわけではない。


 本当に良い関係では、相手を悪者になどしないし、自分も被害者にならない。

 「嫌だな」と思っても、相手を悪者にしない。

 自分が勝手に嫌な気分になっただけなのだから。

 嫌な気分にさせようとしてやったわけではない、と信じている。

 嫌な気分にさせようとしてやったわけではないだろうけど、と言いながら自分が被害者になって「対立」を生みたいならば、単に相手が嫌いなだけだ。

 良い付き合いに、相手が被害を訴えてきたから謝るなど「一度たりともない」のが当然なのだ。

 謝るのは、本人の自由である。

 対立したい人は、「自分が被害を説明して相手に謝らせる」というただのいじめをする。

 いじめだが、勿論こんなことをして「仲良くしたい」なんてあり得るわけがない。

 これは嫌いな人にすることだ。

 嫌いじゃない、と言い張る人は、相手のことを考えていない。

 つまり好きではない。

 いじめをしているといい気分になれるから、文句を言ったらすぐに罪悪感を持ってくれそうな優しい人が好きなのだ。

 いじめ大好き、癒される、という人がいる。


 好きな人相手に被害者になったら、相手がいなくなると不安になるのが当然だ。

 「謝ってくれればいいの!」なんて思えない。

 相手を加害者にしたのは自分である。

 自分から離れていくのが当たり前の反応だ。

 本当に相手の心の中に、自ら反省しなくてはならない部分があればともかく、そうでないなら「嫌われた」と思うのが「まともな反応」だ。

 被害者がいるからには、危害を加えようとした加害者か必要だ。

 加害者がいないのに被害者になろうとするのは、被害者を装ういじめである。


 僕は滅多にこんなわかりにくいいじめをする人に出会わない。

 30を過ぎて初めて「恋人をいじめる人」とわけのわからない付き合いをした。

 自分の性格と普段の仲間に近い人にしか出会わないので、恐らく近づくことがなかったのだろう。

 僕は体験もしたことがない関係が、この世には存在するようである。



 毒親の子は本人も毒親である。

 常に何かと何かを比較しないと、「個」という存在を認識できない。

 あっちよりこっち、という比較でしか人を好きにもなれない。

 つまりその人の親と同じだ。

 あっちと比較してこの子が嫌になる。

 比較する親の子は、やはり比較する。

 他人との比較をしないと、自分がなんなのかもわからない。


 自分自身で考え始めるまでは、無理だ。

 本人が意志を持って初めて単独の存在として成り立てるのだ。


 誰かを本当に好きになれるのは、比較せず、他人に確認してもらわず「私はこうだ」とハッキリ自覚して表現できるようになってからである。

 他人などどちらにせよ、人生の一本道で通り過ぎていくだけの存在である。


 走りながら出会う、通り過ぎ様にほんの少し見るだけの存在が他人だ。

 共に走る仲間と共に走る時間に、「こんなこともあるのか」と人生の感動を味わうのだ。

 誰がいようといまいと、時間は進む。

 僕たちは死に向かう一本道を進んでいるだけだ。


 残り少ないこの一本道、これからの残りをどう生きるかは自分が決めることだ。


 人生は十年かけても、きちんと考えずに生きていれば大したこともしていないものだ。

 残りの人生で「何を体感して死ねるか」は自分の生き方次第なのだ。


 今までの体感が、人生の良さである。

 自分の今まで選んだ道の良さである。


 その道が嫌なら、生き方を選び直した方がいい。

 体感から記憶は想起され、感覚を呼び起こすから辛い時も進んでいけるのだから。


 「あの時」の感覚が蘇ることで、死に損なった魂も命ある限り蘇るのだ。


 一日一日、自分の行いにより得た体感が、自分の作る財産である。

 未来の糧となる財産を残して欲しい。



幸せの勘違い

 似たようなことを言っている人がいるものだよね。

 と思ったのでちょっと紹介したい。

 以前推薦した「食えなんだら食うな」関 大徹を、大プッシュしている方の著書の内容紹介を引用する。

 現代人は、長生きほどいい、健康なほどいい、おいしいものを食べるほどいい、お金持ちほどいい、立身出世するほどいい、それが幸せな人生だと勘違いしていると二人は指摘する。それこそ仏教でいう「餓鬼道」であり、哀れな「我利我利亡者」なのだと。
「今生で幸せになろうと思うな」「現世の死は肉体の死に過ぎない」「現世で偉くなるのは危ない人生」「何もない豊かさを知れ」……求道者のみが語り得る極限の対談集。

対談 風の彼方へ 禅と武士道の生き方 執行草舟 https://www.amazon.co.jp/dp/4569840361/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_M2voDbE2XENJY @amazonJPさんから

 たまたま発見したのだが、「禅と武士道」とタイトルにある。

 つまり僕と同じだ。同じ結論に到達するわけだなと納得した。

 僕も表現をあれこれ考えるわけだが、なかなか人にうまく伝えられない。

 元々僕は何かを知らないらしいので、僕が知らないどこから物を見ているのだろうかと人々について観察している。

 幸せは感じるもの、と言うが、その通りで、「幸せという感覚の体得」なのだ。

 「空」というものを体得したときのように、幸せも言葉にできない体感の境地なのだ。

 故に、頭で考えてもわからないのだ。

 「まだ体得していない何か」だと思った方がいいだろう。

 不幸な人は、必死になって「不幸にしがみつく」わけだが、その姿は「不幸にならないようにしている」ように僕には見える。

 もう不幸なのだと気づかねばならないだろう。

 既に今、もう不幸なのだ。

 何かが無くなったら大変なことになる…と不安になり怯えて生きているその人生こそ、「不幸」と呼ぶのだ。

 人は一度きりしか人生を生きないので、言葉で聞いてもどれが不幸なのかわからないのだ。

 好き、ということもわからないように、幸せ、というものも、全て体感で知るしかないのだ。

 「これがあるから幸せで、この人がこうしないから不幸で…」

 そんなものは、幸せでも不幸でもない。

 自分の思い通りに作るドールハウスの制作だ。

 自分と同じ人間を、そんな目で見て「自分だけ違う」と孤独な世界に生きていることこそ、不幸なのだ。

 それにしても、似たようなことを言う人はいるものだ。

 僕がちょっとがっかりするのは、大抵発見すると似たようなことを言う人はみな爺さんなのだ。

 なんだか時々、僕は老人になったような気分になる。

 この体は今生を生きるために渡された現世用の入れ物に過ぎない。だからそれなりに管理して、大事に使った方がいいのだ。

 この肉体を通して僕たちはあらゆる感覚を体感するのだから。

 「今生で幸せになろうと思うな」

 と内容紹介にあるが、確かに、僕も十歳にしてそれを諦めて幸せになった。

 物質的な世界から離れることこそ、心理的な幸福を得るために必要な境界線なのだ。

 ところで、今回引用した本の著者、佐賀は鍋島藩の家老職を務めた一族の方のようだ。
 やはり教育に武士道は受け継がれているのだなと、ちょっと嬉しい。