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勇気は大切、常日頃

 人間が怖くても怖くなくても、人に声をかけるのは勇気がいりますよね。

 僕も初対面の時は緊張するし、相手の様子によっては怖いなと思うことがあります。

 そんな時、引っ込んでしまうのは簡単です。

 しかし、自分が委縮しているという理由で、相手を恐れたら相手が可哀想ですよね。

 自分が怖がられていたら、傷つくでしょう。

 誰だって自分は怖くないですからね。

 他人に怖がられたら傷つきますね。疑われているわけですから。

 これと言って特に争ったわけでもない、何か余程の問題を起こしたわけでもない。

 現実に何か迷惑をかけてきて、断っても無理強いしたなんてことがない限り、人と接するには常に勇気が必要です。

 僕が怖いと思う時は、相手だって怖いのです。

 自分が安心させるために、勇気を出していくのです。

 声を掛けられる時にかけなければ、一生おしまいかもしれません。

 今でなくてはならないという時があります。

 つい、なんとなく放置してしまった関係がありませんか。僕はあります。

 きちんと礼を尽くすこともなく、なんとなく適当に離れた人が過去には何人もいます。

 それまでに何かひとつでも恩があるならば、漠然とした何かが怖いなんて理由で自ら遠ざかったら失礼です。

 人間を怖がっている時に、自分は人を疑っているのだと自分にショックを受けますよね。

 何も悪いことをしていない人を、簡単に疑う人間になってしまっている時に自分にショックを受けますね。

 相手がどうかはわからなくても、自分自身がそんな人間になってしまっていると気づいた時は自分にがっかりします。

 この時しかない。今しかない。

 特に何もなくとも、そう思うようにしています。

 過去に失敗した体験があり、強くそう思えるようになりました。

 駄目なら駄目でいいのです。

 ただ、自分から勇気がなくて引っ込んでいったという過去の記憶は、死ぬまで残ります。

 自分は精一杯やった、やれるだけのことはやった、という自分自身の行動が、結果を後悔にしないために大切なことです。

 受け身の人は、向こうから寄ってくるものだけを受け入れようとします。

 病んでいる時は、特に危険です。悪い物を引き込んでいきます。

 ある人は「病んでいる時に出会った人とは付き合わない方がいい。いつもろくなことにならないので学んだ。」と言いました。

 沈んでいる時には逆に勇気を出して行う行動の方がいいです。

 辛い時こそ、人の身を案じるのだと思っています。

 自分だけではない、と思うからです。

 自分自身のことは勿論のこと、人の身も考えて生きねばなりません。

 過去を振り返っても、勇気を出すより逃げる方が遥かに楽だったなと思います。

 しかし、逃げた先にはまた逃げる道ばかりがあるのです。

 逃げて逃げて、どうしようもなくならないと人はわからないものだと思いますが、一度でも絶望したらもう逃げない方がいいのです。

 人間関係は財産です。

 自分自身で積み上げていくものです。

 今も、これからも、過去からの継続なのです。

 かつて、共に乗り越えた関係を知っているので、その大切さは良く知っています。

 あちこちに顔を出そうと思っていても、つい面倒だったり後回しになったりということがあります。

 理由をつければいくつでも理由はつけられます。

 やることがない時などありませんから。

 それでも、向こうには向こうの時間があるのだから、いるよという存在の確認と、いたなという存在の確認をし続けるのです。

 いるよ、いたな。

 人の心は繋がれば強いですが、繋がりを強くするまではもろいものです。

 人間関係は常に、共に力を尽くして作り出すものです。

 夫婦と同じですね。

 互いの優しさや信じる勇気が、絆となっていきます。

 学生時代は楽に友人が作れたと思います。その辺に同級生は沢山いるからです。

 大人になると難しくなります。自力で努力しなくては、何も手に入らなくなるのが大人なのだなと思います。

 自分に何をしてくれたか、してくれないかで、僕は人を選んでいません。

 大抵の人は相手が自分にとって有益な存在かどうかで判断しています。

 しかし、大切なことは「仲良くしたいと思っているかどうか」ではないでしょうか。

 人は物ではない。

 僕はそう思っています。

 優秀かどうか、思い通りにするかどうかで判断された子供時代があり、それが嫌だったので僕はそこで自分を判断しなくなりました。

 そんなもので判断されたくない、そんなところで価値を求められたくない。

 だからこそ、自分はそこで自分を判断しないのです。

 自分自身が必要とする人を判断する内容と、同じもので自分を判断しています。

 自分自身に求めたものを持つ人が、自分の周りには集まります。

 だからこそ、「欲しい人」に望むものを、自分自身に望んでおくのです。

 「信じることが最も大切」

 と僕が以前手紙で送ったのだと、生徒のひとりに言われました。

 今もそう思っています。

 信じることが最も大切です。

 信じて欲しいなら、信じるのです。

 疑うことほど簡単なものはなく、不安に負けてしまえばあっと言う間です。

 その負けの分は、相手に傷ついてもらうのです。

 疑われて傷ついた人ほど、人を信じる勇気を出せるのだろうと思います。

 傷ついたから傷つきたくない、という不安は当然です。

 しかし、自分自身が体験したからこそ、同じ傷を他人が負うことを避けなくてはと思えるのです。

 その傷を、過去に負ったことがある自分が負わせてはならない、と思うものです。

 疑えば、誰彼構わず傷つくことができます。

 人を疑えばなんでもない言葉にも、実際は違う意味でも、簡単に傷つけます。

 人を疑うことで傷つくくらいなら、人を信じて傷つかない方がずっと楽です。

 疑って人を避けたら傷つかないと思った頃がありましたが、疑わずに信じた方がチクチクと傷つくことがないのです。

 信じる勇気で心を開いていると、小さなとげのようなものは吹き飛ばしてしまえます。

 相手の心の奥には、きっと良いものがあると信じることが大切だと僕は思っています。

 そうなのかどうなのか、実際にはわからなくても、信じたいから信じるのです。

 どうせわからないなら、疑って死ぬよりも信じて死ぬ人間になりたいと、僕が僕自身に望んでいるのです。

 自分に何を望むか。

 そこで人生は大きく変わっていくのです。

 「受け入れてもらえるかどうか」を気にする時は、心を開かずとも受け入れてもらえます。

 「受け入れてあげなくては」と相手に必要な人となりたい時、心を開かねばならないのです。

 だからこそ、好きな人には特に心を開いていかねば距離が近づかないのです。

軽すぎる夫婦の接し方に唖然

 これはひど過ぎる。

 そんな夫婦の接し方があります。

 本当によく聞くなと思うのです。

 夫が話を聞かない。
 無視する。返事をしない。聞き流す。返事が早い。突然黙る。

 こんな付き合い方するなら、結婚なんかしなきゃいいじゃない。
 と思ってしまいますね。

 途中で嫌になってもやめられないのが結婚ですよ。
 やめるならやめるで話し合いも必要ですが、その前にまともに接するのは人であれば当然です。

 「話を聞いてるから黙ってた」

 こんな子供じみた言い訳をする人がいます。
 言い返したくもないと思います。

 「お前が言ったからやった。」

 何をするのも妻のせい。

 先に言っておきますが、それはまともなことではありません。

 思いやりとか優しさとか、譲ったなんて言い訳で

 「お前が言うから」

 と責任を押し付けまくる夫がいます。
 他人のせいになどしないのが大人です。

 人のせいにしながら行動していたら、子供だって成長しません。

 「言われたからやった」

 小学生の真似をして言うと、「それはうちの夫です」と名乗り出る奥さんはよくいます。

 僕もひとつ謝っておきます。

 僕には想像を絶する世界で、全く想像がつきません。

 夫婦関係は恋人と同じで、自分が片方をやります。
 ですから、想像がつくのは片方だけです。

 「お前が言ったからやった」

 はなんのためなのか。
 ムカついた時です。そんなこと言われて嬉しい人がいるわけありません。人のせいですよ。

 「お前が言ったことがムカつく」ということです。

 そうすれば、相手は何も言えなくなります。
 何を言っても「言われたからやった」と言いつづければ、自分が発言したら何を勝手にやって何を言われるかと恐れます。

 「口出しするな!」

 という意味です。

 そして

 「何も言いたくない」

 となるのは当然です。
 もしこれで

 「妻が口を利いてくれません」

 などと言い出したら完全ないじめです。そうなるに決まっていますからね。
 そんなことは小学生でもわかる話です。

 どういうことですか。

 と僕が言っても仕方ないのですが、そんな話を聞いて驚きました。

 もう一度謝ります。僕には体験がないので、想像を絶する世界です。
 そんなレベルの会話は相手にされても相手にしません。

 そんな夫が、もう六十代なんて話を聞きます。
 どういうことですか。

 大人、どういうことですか。

 すごいですね。

 そこまでして妻をいじめて、と思いますが、話を聞くとこのような夫は社会では立派なことをしています。

 マザコンです。

 でもね、奥さん。

 こういう時は普通に考えてみてください。当たり前のことを。

 「お前が言ったからやったのに!」

 こんなことは、言いませんよ。言ったからって、それを理由にやりませんよ。

 「お前が言った、そして俺は考えた末、自分自身がこうしたいからやった。」

 こうでなくては、自分の意志になりません。

 妻に生きる意味をもらっています。母親代わりなのです。

 優秀でも有能でも、そんなこともできないならばなんの意味もありません。

 結婚なんてしていられません。

 「黙らせるための能力」というものを身に着けている人がいます。

 しかし、自分の結婚が駄目になったら意味がないのでは?と思いますよね。

 気にならないのです。頭の中は「自分が正しく優秀であるかどうか」しかないからです。

 ならば一言で言って、無能です。

 当たり前ですね。夫婦関係の話ですからね。

 妻に嫌われて妻の気持ちがわからないならば、無能ですね。

 嫌々付き合ったカップルではないのです。結婚ですよ。

 妻に嫌われたらすべてはおしまい。

 ところがそんな時「俺も嫌いだもんね!」という夫もいるのです。

 呆れたものです。どういうことですか、大人。

 僕も精神分析学を学んでから、「あれは幼児の会話なのか!」と気づき、周囲で偉そうにしている大人たちを見る目が変わりました。

 自分も一緒になって会話してしまっていた!と気づいて、即やめました。

 気付いたら、即やめる。

 それしかありません。

 してしまっていたものは仕方ありません。しかし、そうであるものはそうであるのだから、現実は変えられないしどうしたって「即やめ」しかありません。

 皆さんも気づいたら、即やめしてください。
 知らないうちは仕方ないですが、知っていてやっていたら本当にどうしようもないことになります。

 子供の頃に言われていた当たり前のことは大事なんですよ。

 人のせいにしない。

 人の話はきちんと聞く。

 人の話をきちんと聞けない人は、自分が嘘を言う人です。

 自分が本当のことを言えばいいのに、人に良く見せるために思ってもいないことを言います。
 欲求不満になりますね。

 そこで「じゃあ本音を話すか」ではないのです。

 「ネチネチといじめをして欲求不満を晴らす」のです。

 自分の素敵な人格を守るためです。

 勿論、そんなことを思ってくれるのは、精々本当に接してもいない他人だけです。

 どうなのそれ?

 きちんと接した相手には嫌われて、ろくに接しない相手には「いい人」だと思われる。

 それって、まともに人間関係が作れなくない?

 と思いますね、そうですよ。そうなりますよ。

 僕の先生が「日本を駄目にしている大人」と称した人たちです。

 非社会的心理的ひきこもり。

 反社会的ではないが、非社会的。当たり前の心理的コミュニケーションは取らないが、社会では立派なことをする。
 社会での社交辞令には長けている。

 そんな人たちが、増えているのです。

 新型うつ病も同じくです。
 うつ病と一般的に呼んでいたものとは違います。

 実際には無責任に逃げるのだが、責められない理由を作る。
 職場などで退職するときに、迷惑をかけているのだが、仕方ない理由を作ることに専念するのです。

 「じゃあしょうがないよね」と文句を言わせないことだけ考えて、その場を乗り越えていくことは絶対にしないのです。
 どんなに立派な何かをしたところで、最後にそれでは…と思いますね。

 でも、社会では優等生な人によくいるのです。
 諦めてもらいたいのです。

 期待させるようなことばかり言って、ちやほやされたい。
 でも自信はないから、現実からは逃げる。

 よくいます。褒められたいだけ。でも現実は乗り越える勇気がない。
 今とても多いのです。

 僕のかつての彼女もそうなりましたが、一年くらいで復帰させました。
 それ以降は、昔のようなことはありません。

 普通、迷惑をかけるならば自分が悪者になって当然、と思いますね。

 でも自分が悪者にだけはなりたくないのです。
 仏教で言うならば、極楽が遠い人ですね。

 そんな「俺は悪くない!」の人を疑いまくりの人に、存在を無視されて孤独になる妻も多くいます。

 どういうことですか?!

 是非、どんな会話が成されるのか聞きたいところです。
 教えてくださる方は、会話の流れを目安箱に送ってください。参考にさせていただきます。

 僕は今日もびっくりな一日でした。

 僕も鍛えなくてはなりませんね。体験がないことはわかりません。
 全く知らない、ということがあります。

 自分がやらないことです。

 正直、夫婦問題の話を聞いていても、僕が想像しているものはもっと良いものだと思います。
 親子関係ならばどうしようもないレベルのものがわかりますが、恋愛関係は自分が作りますから親は関係ないですしね。

 夫は妻に「俺はうまくやっていこうとしているんだ、なのにお前は…」と言います。

 うまくやっていきたい人の言う事ではありません。

 妻自身も大事にされたことがないと、わからないのです。

 愛された経験がない人は、その扱いのレベルが低いことがわからないのです。

 何を言ったか、どっちが正しいか、の論争になります。

 「いや、そこはもう問題ですらないと思うけど…」

 そんな会話なのです。

 態度です。

 態度がおかしいのです。

 怒っていても、不満を述べていても、その態度です。

 良いことを言っていてもです。

 「こんなに私のことを考えているんだ…!」

 と感じますか。

 そこです。

 愛されていれば、何があっても不満は言われても、相手の態度が変わりません。

 欲求不満で生きる人は、不満があると態度が変わります。
 仏頂面になります。

 ストレートに表現しないのです。

 ある奥さんは、イライラするそうです。

 ある奥さんは、イライラして一年に一度は長文の手紙を送りつけるそうです。

 言葉だけの世界で作る良い家族に生きる人がいます。

 心理的には完全に破綻しているが、形だけは良く見せている家族です。

 誰も相手を見ていませんが、理屈だけは作れるように、形だけはうまくやり取りするのです。

 我慢我慢です。
 態度が嫌、言ってることが変わる、何があっても、我慢です。
 みんなで我慢です。

 そんな理想の家族です。

 理想の家族なんて存在しません。
 愛し合っていたら理想の家族です。

 どんな形か、何を言うかやるか、そんなものはそれぞれ違う成功の形があります。

 お手本にある理想の形を我慢して作ることにしたので、心理的には我慢している家族。

 良いことばかり言い合いますが、本音ではありません。
 心は籠っていません。

 だから欲求不満なのです。

 起きていることが起きているとわかるやり取りがないのです。

 頭がおかしくなりそうですね。

 妻が出て行く事件か多発しています。

 夫が追い出される事件も多発しています。

 困ったものです。

 夫は妻の言うなりです。別に優しいわけではありません。
 「出て行けと言われたから出て行った」
 これで妻は憤慨です。

 「お前が勝手に出て行ったから俺は待っていた。」
 これを優しさのように言われます。

 愛されていると信じられないのです。
 しかし
 「俺は離婚する気はないし、仲良くしようと思ってる。」
 と言われるのです。

 「話にならない!」
 とある妻は憤慨します。

 僕はこんなレベルのやり取りがあちこちで起きているのかと思うと、気が遠くなります。

 僕の想像ではこうです。

 妻が出て行きました。
 当然探します。
 そして見つけます。
 どうして出て行ったんだ!心配するだろ!
 とは怒るかもしれません。
 ちゃんと話をしよう、家に帰ろう、と取り合えず妻なので抱きしめるでしょう。
 気付かなくてごめんな、と謝って、頭をなでて頬ずりくらいはするでしょう。
 妻ですからね。

 出て行かれたらそうなりますね。

 出て行けは、出て行かないですね。
 その場で話を聞きますね。

 この想像は、僕がうまく行った恋愛で想像しています。
 結婚はうまく行った恋愛の先にあるものなので、それで想像しています。

 ただし、妻である人は夫を疑って出て行くにしても、他の人はどうか?と関係ない人を相手に確認しないように。
 それまでの経緯があって、出て行くが発生したのですから、そこだけ切り取ったら意味はありません。

 何もかも、体験が全てです。
 言っていることは関係ありません。

 気持ちがあれば、「気持ちがあるんだな」とわかる行動しかしません。

 恋愛や結婚で失敗する人は、前回の持越しをして前回の話をしてその続きから次の恋愛を始めます。
 それは確実に失敗に繋がりますから、よろしくないです。

 妻がイライラする夫は、失敗が認められない夫です。
 弱いのは夫の方なのです。

 今更何をしても結果は変わらないのに、今から「じゃあこうする」と変わろうとします。
 「これでいい?」と後から変わっても意味はないのに、そもそも変わってもいないし実在の自分は過去にいたのに、過去の失敗を今から帳消しにしたいのです。

 見捨てられ不安の夫ですが、自覚は難しいでしょう。

 妻はそんなことは求めていません。

 どんな気持ちか理解して欲しいだけです。

 僕は前回付き合った彼氏や夫にそうされた時にどんな気持ちだったかわかって、と求めてくる女子によく出会いましたが、それも無駄なことです。
 それは前回の彼氏や夫にお願いすることです。関係ない人にはできません。

 似たような人格になっていますね。
 人は過去を処理しないと、自分がされて処理できていない体験をそっくり次の相手にやり返します。

 気持ちをわかって!
 というつもりで、自分がされて嫌だったことを次の相手にします。
 自分は「これでわかってもらえた」という気分になりますが、相手は過去の自分になるだけです。
 これを繰り返すことで、後ろ向きな人は増殖します。

 ちなみに、親もこれをやっています。
 されて嫌だったことは、その時に処理して次に持ち越さないように。
 次に出会った相手を無駄にしますからね。出会いはいつもゼロからスタートですよ。

 「夫は私に警戒していると気づいた」

 そんな話を聞き、それはそうであろうと思いました。

 自分を装っている人は、自分自身が隠そうとするのでその動機が強化されていきます。
 自分では嫌われると思うから「良く見せる」が始まるのです。

 妻が何か気持ちを伝えようとするたびに「俺に何かを求めている」と勘違いして「じゃあこうする」が始まります。それを繰り返す度に、妻が自分を嫌っているとかいう妄想が強くなっていくのです。

 しかしですね。

 結婚してからまだ嫌われるなんて疑っていたら、一生誰のことも信用できませんよ。
 それ以上のゴールはないのですから。

 絶対に未来が確実な保障なんてないですが、それで信じられないならもうどうにもなりません。

 「でも俺に文句言った!」なんて理由で疑っていたら、本当に何も言えません。

 良いことだけ言われたいなら、本当にそう思える人になるしかありません。
 そうでないのが人間なのです。無理なことです。

 どうあっても妻を信用できない夫はいます。

 信用するかしないか、人を信じることも愛することも能力です。

 何があっても愛する力がある人は信じられるし、無い人はどんなに良くしてもらっても、実際に好かれていても、わからないのです。

 疑って疑って、本当に嫌われるまでやり続けるのです。

 「きっと俺は嫌われる」

 無意識にそう信じている人は、必ずそうなるように仕向けていくのです。

 もう愛されて受け入れられていたのに、「証拠は?!」と思ってしまう人は、不幸だなと思います。

 形ある愛などないのに、形あるものを見ては「嫌われた」と思うのです。

 一度も確認しようとしたことがないのです。本当はどうなのか。最初からです。

 きっとこうなのだろう、という感覚です。
 本当は愛された時もあったのに、「愛されているんだ」という実感をその時に体感しなかったのです。

 怖いからです。
 もし嫌われていたら怖いから、確認しない。

 ただ、嫌われないように「良い夫」になっておこう。

 「嫌われたくないから」

 だから、最初から信じてなどいないのです。

 嫌われると信じているから、嫌われない努力をしているのですから。

 愛されていると信じている人は、嫌われないように努力などしなくていいのです。

 愛されていると信じている人は、愛する努力をするだけですから。

 嫌われない努力をした人が相手に与えるものは

 嫌っているだろうという疑いの行為です

 「嫌っているんだろう、嫌っているんだろう」

 と疑う行為を繰り返せば、そのうち本当に嫌われるようになるのです。

 信じた通りに、現実は動いていくのです。

 しかし、そんなことより傷ついた妻の心より、文句を言われて傷ついた自分のことで頭がいっぱいなのです。

 心の中に、妻なんか存在しない。

 自分が正しいならば、全て解決なのです。

 愛し合うために欲しかったのではなく、形を作るための道具だったのだなと残念になりますね。

 

 

 

 

 

「憧れの人は遠くにしか存在できない」心理ワンポイントアドバイス

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間違いを教えられてきた人たち

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 いち早く毒親ループから脱し、並み以上に良い関係を築いてきたので間違いない方法だと断言します。

 一縷の望みに賭けたい方は開講中講座よりお申込みください。

 成否の逆転。人生の逆転です。
 僕が教える「確実に人とうまくいく方法」は、本当に親しい関係を作れなかった人にとっては「打算的過ぎる」と思えるでしょう。

 「それってズルくない?不誠実じゃないの?」と思えるでしょう。
 いけないことのように思えると予想されます。

 しかし、「それが正しいこと」なのです。

 「従順であることが良い子だと教えるのは、大変危険である。」
 ある異国の精神科医がこう言いました。

 大変危険です。

 良いことをしていると「思いこみ続けていること」が、「不誠実」と呼ばれるものだからです。

 自分が我慢して犠牲を払うことは良いことであり、我慢せずに思うことを言い、やりたくないことをやらないのは「我儘である」。

 これが、嘘なのです。

 我慢させたい親がいたから、それを「良いことであると教えて黙らせた」だけなのです。
 我儘な親が自分の都合を押し通すために、最も簡単な方法があったのです。

 「我儘な方が正しいことにする」

 結果でわかります。本当に良いことをしているならば、良い結果が出てきています。人に好かれて人間関係もうまく行き、必要とされる人になっています。

 そうなっていないのは、自分が正しいと思い込んできたことが間違っているからです。

 我慢した人は「自分は悪くない!」と思い込みます。
 我慢した分そこに憎しみがあり、本当に正しいことを言う人が現れても「お前が間違っている!」と遠ざけてきています。

 憎しみが本当に良いものを遠ざけていくのです。
 だから親を恨むと自分が地獄に落ちてしまうのです。

 親が良い人だからではありません。
 親が間違っているからこそ、恨むと本当に正しいものにたどり着けないのです。

 更に「理由があればやってしまったことは仕方ない」と教えることも危険です。親が言い逃れするために自分自身でやるのです。大人もよくやりますね。子供の方が単純に「ズルい」と思っています。

 やってしまったものは仕方ないが、理由があってもその行いが「良いこと」にはならない。
 他人に許してもらえるかどうかはわからないが、自分自身はやらずにいられない理由があったのだから、自分は自分を許してやるしかない。

 それが正常な思考です。
 そうでなくては、理由がある人に何かを押しつけられたら許し続けなくてはなりません。
 他人は許さなくてもいいのです。
 許すなど、心の問題です。納得できないことを「許せるわけがない」のです。

 理由があってやってしまったならば、結果がどうあっても納得できるのは自分自身だけです。やられた方が納得できるわけがないのです。やられなくてはならない根拠などないのですから。

 根拠のない感情は持てません。
 無理なものは無理なのです。

 子供の方が嘘を見抜きます。まだ怖いもの知らずだからです。
 他人から見てどうこうなど、難しいことを考えていません。

 不安は経験や情報が多くなるほど、偏見と共に増えていくものです。
 子供はまだそんなに経験がありませんから、単純に正しいものを見分けるのです。

 打算的に考えないのです。
 不安に負けると人は打算的に動きます。だから大人の方が打算的になりやすいのです。

 我慢すると親の機嫌が良くなる、を繰り返すことは、「不快な思いをすると、後から快の報酬が発生する」と刷り込んでいくようなものです。
 自ら我慢し始める子になるでしょう。

 それが打算的なのです。

 僕が教えるのは「人の心を本当によく考えるやり方」です。

 打算的を「良いことなんだ」と覚え込んできた人は、不誠実に思えるかもしれません。

 現に、結果が出ている。
 それが全てです。
 議論したところで結果は変わりません。

 うまく行っている人が自分を正しいと思うならばともかく、満足しないのに「これが正しい」と言い張る人がいますが、それこそが「我慢して言う事を聞いているのは良いことである」と教わった人です。

 自由に意志を持ったり、本当に思うことを言ったり、その方が楽に決まっています。
 その自然な状態は「良くないことである」と思い込んで生きているのです。

 それが良いことです。
 しかし、一度その生き方を続けてしまうと、自然に戻るのは「我儘で良くないことだ」と思うので、他人に言われた「正しい良いこと」を続けようとしてしまうのです。

 人は経験がないものを恐れます。如何に今までが不満であっても、「ただ知らないだけ」ではなく「我儘で良くないこと」をするのは怖いのです。

 悪い子を良い子とした親が、子供を不誠実な子に育てます。

 だからこそ、「悪い子になる勇気」が必要なのです。

 僕は学生時代の相棒に感謝しています。

 あいつがいなかったら、僕はあんなに「悪い子」にはなれなかった。

 人間関係がうまく行かない人の本当の敵となっている相手は、「不満どころかなんの問題もないと思えている誰か」です。

 自分をやたら肯定してくれる「いつだって味方の人」が、自分が間違った道を突っ走る手助けをしてくれているのですから。

 

有無同然

 有無同然。ブッダの説いた言葉です。

 苦しんでいる人は何かが無いから苦しいのだと思っています。

 しかし、実際にはどうでしょうか。

 お金がないから苦しいのだと思い、誰かに金銭を工面してもらって幸せになったでしょうか?

 学歴・肩書がないから苦しいのだと思い、有名大学を出て一流企業で管理職についたら、幸せになったでしょうか?

 独り者だから苦しいのだと思い、誰かと夫婦になったら幸せになったでしょうか?

 子供が無いから苦しいのだと思い、子が生まれたら幸せになったでしょうか?

 見た目が良くないから苦しいのだと思い、見た目に磨きをかけて注目されるようになったら幸せになったでしょうか?

 何があっても不幸な人は不幸です。

 心の中にあるものに気づかない限り、何があっても無くても変わらないのです。

 有無同然。全ては心の中にあるのです。

 かつて、ホセ・ムヒカ前ウルグアイ大統領は来日した際にこうお話されていました。

 「先進国家の人々の方が恵まれているのに、幸せとは何かと苦しんでいる。」

 当然なのだと思います。
 先進国の人々は、「幸せになるために」と思い込んで「ないものを埋める」努力をし続けました。

 より便利に、より裕福に、より多くのものを。

 無いものを次々埋めようとする精神は餓鬼のものです。

 得れば得るほどもっと欲しくなるのです。

 当初は「誰か傍にいてくれる人さえいれば…」と思っていても、いざ誰かと結婚すれば、今度は「こんな人と一緒にいるなんて耐えられない!」と一人になりたがるのです。

 ならば最初から一人で良かったのです。

 そして、問題はそこではないのです。

 「無い」という苦しみを取り除くために得た物は、苦しみを埋めるためだけに存在させたものです。
 「無い」という苦が無くなれば、今度は「有る」という苦しみが待っているのです。

 ですから、苦しみの元はそこではないのです。

 無いならば無いなりの、有れば有ったなりの苦があります。

 苦しみは消すのではなく、受け入れて共に分かち合うものです。

 喜びも苦しみも分かち合う生き方こそ、人間同士が平和に共存していく道です。

 自分だけが、と思う利己的な考え方は、より大きな苦しみしか生み出さないのです。

 有無同然。

 有っても無くても、同じことなのです。

 心の闇を切り裂くことだけが、真の幸せへの道です。