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自分の周囲がどうなのかわからない人へ

 以前講座を受講された方からメッセージいただきました。ありがとうございます。

 「自分の親が毒親かどうか?」
 と心配になる人が実は結構います。

 そこで僕の見解と、どのように判断するために教えているのかを書きます。

 まず、毒親かどうか自体はどうでもいいのです。
 それが良いか悪いかではなく、自分の親が良い者だと誰でも思いたいものです。

 「今の自分の行動の原因」を知るために、過去を知ることが必要なだけです。

 多くの方は、親が毒親だと何か悪いことだと思うようですが、そこはどうでもよいところです。
 どう判断しても、現実は変わりません。気にすることはありません。
 だからこそ、外に出て行く度に親の教えに感謝し、親から羽ばたいていけるのです。
 教えられたとおりにしてきて、良かった。という現実が、自分の人生で起きるからです。
 子供の未来を思う親は、子供の未来に必要なものを先に渡しています。子供はいつまでも遊んでいたいわけですが、その時は我慢してでもいろいろなことをさせられるのです。
 やがて、わからない時にはやはり親の教えの通りにしますから、そのお陰で先に進めるという現実に遭遇するのです。

 何よりも、子供の頃だけではなくずっと子供の相談者として、導いてくれるものです。
 成長は「促す」ものであり、「指示する」ものではありません。

 自分の未来を考えてくれない親の場合、自分で考えればいいだけです。僕は正直、それで済むことなので他人の力を借りてうまくやっていけばいいだけだと思っています。
 僕自身がそうしているからです。

 親がわからなかったならば、自分が全部考えるしかありません。
 結果一人で考えるしかないのですから、そこについては子供の頃、考える力がないうちだけです。

 毒親や過去の分析は自分を知るため、嫌だったことが「いやだ」と感じられなくなった人のために、あるようなものです。
 元々何も疑問を持たず「良い」と思っていたものが、実際の感情とずれてしまうと、外に出て本物の感情で生きられなくなります。
 重要な点は、親が良いか悪いかではなく、嫌だったかどうかに気付くことです。
 親が良いことを言った、すると子供は嫌だと自覚しづらいのです。
 ですから、それは良いことではないのだ、と知ることで、結果「そうか、自分は本当は嫌だったんだ」と気づくことが必要なのです。
 それを促すために説明があるのであり、過去の解釈がどうなろうとその時の感情は変わりません。
 嫌なときは嫌だし、嬉しい時は嬉しい。そして過去はもう変わらないのです。

 良いか悪いかで判断し、良いなら好き、悪いなら嫌い、これこそ、社会の基準で自分のものを判断することです。

 親が嫌いな子供はいません。
 自分が愛されていないのではないか、と不安にはなっても、子供はどんな親でも親が好きです。

 最愛の者に対する最大の敵意

 と呼ばれます。
 子供は親に完璧を求めるため、誰もが敵意を持ちます。しかしそれは反抗期に外に出ていくために必要な原動力ですから、とにかく自然な感情はすべて必要なものです。

 親に嫌なことをされて、嫌と自覚できなくなると困ります。

 僕は子供のころから母がどうしてこんな意地悪をするのか、なぜ嘘をつくまでしつこいのか、と疑問でした。

 されて嫌かどうかは僕がわかります。
 その嫌だと思う事にも意味があり、自立を促す親のすることは後から理由がわかります。親がいないところでの成功をもって、「あの時のものはこういう意味だったんだ」と後からわかります。

 嫌なものは嫌に決まっています。
 やられた自分が一番わかっています。
 嫌なものは嫌です。

 そして僕の母の場合は、言うとおりにしても良いことがない、僕自身がやりたくないことばかりでした。
 正しい教えもありますが、その中に悪意がありました。言い方や態度に悪意があるのです。

 それ自体は「そうでしかない」ので、良い悪いの問題ではありません。

 「なぜ母親が我が子にこんなことをするのか」を考えました。

 親もなんの問題もなければ、子供をかわいがるでしょう。

 しかし、親自身も愛されずに育ったり、また社会の圧力に負けたり、他人からの迫害にあったり、様々な目に遭います。

 僕たちは親に大変甘えていると思います。
 親だって人間なのですから、いつでも完璧に子供の望むようにはできないということを、理解しなくてはなりません。

 親が正しいか悪いかに固執し始める時は、他での関係がうまくいかなくなった時です。

 人は退行に向かう時、必ず過去に責任を求めます。
 ですから、毒親育ちの人が外でうまくいかず、原因にたどり着くと親子問題から離れなくなることもよくあります。

 表現を変えれば、自分の人生を生きるのは自分だけであり、自分の人生は今とこれからのものですから、親の教えは必ず「間違う」と言ってもいいです。

 親が憎しみをぶつけてきていたならば、原因はほかにあります。

 子供の役割は、愛されたかそうでないかを問題にするより、なぜ親がそんなことをしなくてはならなくなったのかを考えることだと思います。

 僕の親も毒親ですが、その理由は僕以外のところにあります。
 親が倒れて子供に寄りかかってきたら、子供は原因に気付きバトンを受け取り、未来に向かって走るものです。

 僕の考えでしかありませんが、親に如何に酷いことをされても、その親が他からの原因によって自分を大切にすることもできなかったのだと知れば、子供は立ち上がるものではないでしょうか?

 僕は人生前半は親の敵討ちのために外に出てしまったようなものなので、敢え無く自分が倒れることになりました。

 何を受け継ぐべきなのか、よく考えました。

 そして今、社会の問題そのものを考えるに至り、少し疑問があるので書いておきます。

 その昔士族であったかどうかは、今に関係ありませんが、あります。
 例えば、家そのものが「何を知っていたか」です。

 皆さんは、例えば戦争は金儲けのために一部の人が起こしているだけのものだと知っているでしょうか?
 また、資本主義は基本お金だけのために動いているので、社会で良いとされるものの形をしていても、見えないところでお金が動いていると知っているでしょうか?

 更には、言われている歴史に嘘があると知っているでしょうか?

 僕自身もうまくいかない、と思うことが人生において多々ありますが、そんな時必ず何かを知りません。
 何かを勘違いしているか、何かを知りません。

 理由がわかれば、あらゆる「ひどい、わるい」は無くなるものと僕は考えています。

 社会のことについて、本日から四連続で有料会員向けですが、このような流れで動いている、と現代社会について説明した記事を配信します。

 僕は母が何によって倒れたかを知ると、「僕がなんとかしなければ」と思いました。
 子供とはそのようなものだと考えています。
 また、代々親から同じことをされていたと気づき、僕は子々孫々のためこれを食い止めねばならないと考えました。

 「こんなに嫌な目にあわされているのに、それでもお母さんに可愛がられたいんだから、僕はお母さんが大好きなんだなあ。」

 と思ったのが、10歳ころの話です。

 「あんな性格の人に好きになってもらおうとしているのは、子供の僕くらいだよ。僕はなんて良い子なんだろう。」

 と思いました。

 僕自身は、正直あまり感情的に物事を考えないので、思い通りにしてくれない、ならないことに長く悩むことはありません。

 「なぜなのか?」がわからないことで悩みます。
 または「どうしたらいいのか」で悩みます。

 自分を知り人間を知れば、他人は怖くありません。
 向こうが怖がっても、こっちは怖くありません。

 嫌なことは嫌と言っていれば、相手を憎むこともありません。

 僕は現代社会に対して少なからず責任を感じています。
 その昔何があって今に至ったのかを考えれば、幕臣の末裔たちは「なんとかしなくては」と強く思うでしょう。

 ひとつ言えることは、今の日本人は元々の日本人ではありません。
 自分たちを恥じて別のものになろうとした結果です。

 それは僕たちにはあらがうことのできない、そして外には形に出てこない、もっと大きな力が原因なので、個々を恥じることもありません。

 多くの人が勘違いし、また気づくことがないのは当然のことであり、気にすることはありません。
 しかし、少なくとも「疑問を持ちながら生きてほしい」とお願いします。

 人はうまくいかない時に、逃げに入るとすべてに結論を出します。
 葛藤から逃げないことが大切です。

 どうしてだ、なぜだ、と悩み続ける。葛藤は成長すべき時に起きるものですから、悩み続けることから逃げないことです。

 敵ができてしまうのは、葛藤から逃げた結果です。
 葛藤から逃げなければ、敵は生まれません。

 僕は根本的に人間は善であるという考えで生きています。
 何か悪事に向かう時は、それなりに「人間として理解可能な理由」があると信じます。

 僕自身が長いものにちっとも巻かれたくない人間なので、確認できないことに従いません。
 その生き方は大変困難ですが、それは現代社会の今の話であって、これからの日本がより多くの可能性や道筋を選べるものとなるよう、尽力したいと考えています。

 確実に言えることは、僕たち仲間が争う必要はない、ということです。

 最も恐ろしいものは「社会の大きな力」であって、個々の人間同士は必ず仲間になり得るものなのです。

 ここで今ズバリ書くことは控えますが、日本人は全体がある一時から「自分がいけないんじゃないか」「言われたとおりにしなくては」と思い込むようになりました。

 この闇を先に引き裂いてしまうことが先決ではないか、と僕は考えています。
 社会全体でではなく、気づける人だけでも気づいていき、少しずつ納得の連鎖を起こすことが可能なことかと考えています。

 また、僕自身と似た考え方の元に、日本に必要なものを次々発信している認知科学者の苫米地英人博士に感謝しています。

 彼が極一部の優れた研究者の一人として、日本代表で新しい研究に取り組むことを心より応援しています。

 今自分を外と比較してしまう人たちは、とにかく「今は知らない希望があるから、諦めないように」と伝えたいと思います。

 悪いか良いかではありません。
 そうなものはそうなのです。

 そしてその全てに、理由はあるのです。

 僕もできるだけ早く、そして必要なものを発信していけるよう、努めたいと思います。

 自分自身が社会の基準と比較して、上か下かを気にしているようならば、既に認知の世界を支配されています。
 社会の優劣は関係なく、良し悪しに関係なく、自分の親や家族、故郷を排除などしたがらないものです。

 自分の持ち物は、愛着という特別な感情があるものですから。

 不要なメディアをあまり見ないよう。
 選んで必要なものを得るということを、日々心掛けてください。

 今体験する現実こそ、あなた自身の人生です。

会話でのコミュニケーションはここに注意

 久々にYouTubeにもアップしています。

 会話でのコミュニケーションの常識とは。

 話は相手のことを考えて、「相手のためにするもの」ということ。

 自分のために自分が話したいから勝手に話していいわけではありません。

 タダで自分の話を聞いてくれる人なんて、お母さん以外いませんよ。

 友人なら友人で、誰でも話す内容程度に限られます。

 相手にとって得が何もない、知りたい聞きたい、役に立つ、何も利がない話なんて他人に聞かせるものではありません。

 自分が話したいことを聞いてくれるなんて、そんな親切は暇を持て余した人かうわさ好きの人、または自分について関心があり自分のことを知りたい人、相手は限られます。

 話を聞くくらい!

 と思う人は勘違いしています。

 聞き手が一人なら、話したい人が何人もいたらどうするのでしょうか?

 夜のお店のお姉さんだってお兄さんだって、お金を払っているから話を聞いてくれるのです。

 自分の話が相手に対してそんなに得する、聞きたい話だと誤解してはいけません。

 他人が自分の話なんて聞きたいわけがないのです。

 役に立つ何かでも盛り込まないならば、誰も聞きたくありません。

 注目を浴びたい人たちは、自分に関心を持ってもらえていると錯覚しながら接してもらうために、社会の注目を浴びれそうなあれこれを必死でくっつけているのですから。

 自分が話したい話は「きいてもらえる?」とお願いする立場で。

 どうしても話したいならば、お金を払ってお店にいくか、またはカウンセラーの元にでもいくか、まともに信頼関係ある「お互い様」の友人や恋人に聞いてもらうしかないのです。

 しかしどちらにせよ、聞きたくない話を聞かせることなど無理なのです。

 「話を聞く」ということ「話をする」ということ。

 どれほど難しいのか思い付きを話している人にはわかりません。

 ものすごく集中力を要します。

 本人が一方的にいい気分になる話のために、無駄な労力を使う人などいません。

 話を聞かせる、話をさせることは、「多大な集中力を要する頭脳労働をさせているのだ」と踏まえたうえで、互いにきちんと意志の疎通が図れるよう、一回一回を無駄にしないこと。

 生きているうち、一緒にいるうちしか、伝えることも聞くこともできないのです。

 一方的なコミュニケーションばかり取っていたら、目の前にいた人のことも

 「きっとこうに違いない!」

 「絶対こうに違いない!」

 「多分こうだと思う!」

 なんて、馬鹿なことを後から言わねばなりません。

 目の前にいたのだから、何を考えてどう思うかくらい、確認していなければ一緒にいた意味なんて何もないのです。

 目の前にいるから確認できるのです。

 相手が自分と理解し合いたいと努力しているうちだから確認し合えるのです。

 目の前にいるときに互いに意志も気持ちも確認せずに「きっとこうに違いない」のまま生きているなんて、生きていないのも同じです。

 いるから確認できるのです。

 死んだらすべておしまい。

 別れて会うこともなくなったらおしまいです。

 「きっとこうに違いない」は現実に出会うまでの話。

 実際目の前に相手がいたら、言葉でも言葉でなくても、実際のところはわかります。

 決めつけではなく「こうだったんだ!」という確認もなしに、他人と接したなんて言えません。

 それでは現実には誰とも出会っていないのと同じなのです。

 実際にコミュニケーションが取れるということが、どれほど大きなことなのかさっぱりわかっていない人がいます。

 そのような人が、我が子のことでも「こんな子だと思わなかった」と言います。

 一体誰と接していたのやら。他人が実在した意味、まったくありませんね。

してもらえない?逆でしょ?

 この人が何もしてもらってない?嘘でしょ?逆でしょ?

 我儘な人に対して「してもらったことないからしてほしい」は嘘だろ!の意見も聞きます。

 まあ、普通にそう思うでしょうね。

 自分の気持ちが言えないうちは、つまり自我がないうちは「人を責めているのが自分の気持ち」なのです。

 私が悪いっていうの?

 俺がいけないっていうのか!

 まあ…攻撃的なタイプは似たようなことを言いますね。長男長女に多いんですよ。親にぴったり寄り添ってきていますね。

 末子が一番責められて育ちやすいですね。
 下がいると八つ当たりのしどころがあるので、親が平気で子供にやると真似して子供も下の子にやりますね。

 人を責めたら相手が傷つきますね。

 傷ついたらどうなります?嫌な人だと思うでしょう?

 でもですね。

 うちの母もこのタイプなんですが、「自分が何を言っているのかわからない」んですよ。

 もし僕が自分の望み通りにならない時に

 「俺がいけないのか!俺はこんなに頑張ってきたのに!」

 とあなたを責めたら「なんてかわいそうに、いいんだよ、なんでもしてあげるよ」という気持ちにならないでしょう?

 でもそれが望みなんですよ。

 理屈を説明しますね。

 自分が何を言っても、自分の中にわいてくるものが相手に伝わると思っているんですよ。つまり言葉って意味ないんですよ。考えてしゃべってないですから。

 このような人が、人に何か「言われて」傷つくなんて片腹痛い話で誰も同情しないですね。うちでも母は一切同情されていません。

 言われて傷つく人間だったらそんなこと言わないでしょ。

 と思うのが当然ですが、母はちょっとした言葉に「傷ついた」顔をする図々しい女です。どういうことでしょうね…。

 母の顔と様子を見ているとわかりますよ。

 きちんと喋れていないのです。
 考えて言葉を話すに至れていないというか…「伝える」ために日本語を使っていませんね。

 話しながら母は、自分の辛い思い出を思い出しているんですよ。

 だから人を責めながら自分が辛い気持ちを思い出すので、「こんなに私が辛い思いをしている…!」と嘆いているのです。

 嘆いて人を傷つけては、「この辛さが伝わったか!」と期待するのです。

 あなたが嫌な人間だということが、思いやりも優しさもない人間だと言うことが、これ以上なく伝わりましたよ、といつも思います。

 子供はこれでとても傷つきます。
 子供に罪悪感を与える親です。一生消えない傷になりますが、母は気にしません。

 むしろ「その時は」と平気で自分勝手な理由を話します。

 人を傷つけることを言いまくる→相手が傷ついて反攻する→「私はこんなに辛い気持ちを伝えたのに、わかってくれるどころか批難された」→私って不幸

 冷静に母を見ています

 あなたは面白い人ですか

 ジョークで生きているようにしか見えませんよ

 これ本気だと僕が困るので、最近こと年を取ってきた母には

 「はい、そういうのいいので、さすがにこの年なのだから現実に必要なことだけはきちんとしてくださいね。あとは好きにしていても構いませんから。」

 と淡々と対応しています。

 いちいち性格が悪いのでイラっとしますが、「この人に巻き込まれると人生が駄目になる」と平静を保ちます。

 そんな時こそ瞑想ですよ。

 我が子も育ってくると頼りになります。

 「言ってるだけだから、言われたこと本気にして何かするとこっちが損する。」

 と僕の横から進言してくるようになりました。
 僕の子は鍛えてきただけあって、自覚はしていませんが分析能力が高いです。
 日常的に叩き込んできた甲斐がありました…。お父さん嬉しい。

 最近の母は「お母さん今までずっと頑張ってきたのに…」という不満を述べ始めました。
 何を?「仕事」です。

 ブラックな会社で「それでも頑張る私」をみじめったらしく続けたよ、という話です。最悪に扱いの悪い会社なので、虐げられるたびに「こんな大変なことに耐えている私」をやれて母にはぴったりなのです。

 まともな人ならやめます。
 でも矛盾したことが大好きな母は、「ひどい扱いなのに頑張っている」が好きなのです。

 ひどい扱いだ!→ならばやめよう

 ひどい扱いだ!→なのに頑張る私→私って偉い

 最後が余計ですね。そしてその偉い私は遂に「なんの恩恵にもあずかっていない子供や孫」に見返りを要求してきました。

 恐ろしい人です。

 「何かしてもらうためには、その我慢によって相手に既に良いことが起きていて既に自発的感謝をされている必要性がある。」

 とわからないのです。
 見返りの強要。感謝して喜んで何かしないと「ひどい」になります。

 もう好きにしていていいよ、と思っています。一生治らないというより、好きでやっているのでいいのです。

 「じき癌になりますよ。」と予告した通り数年後に癌になる。
 目も当てられないなと思いますが、「なるつもりはなかった!」と言っています。

 長くはないです。
 見ていればわかりますが、あの思考では悪化しかありません。

 精神的なもので癌になる確率が高まる、と広まればいいのにと思います。
 既に精神腫瘍科はありますから。

 心理でも既にわかっていることなんですけどね。

 母は「みんなが言うことをきいてくれれば」と思っています。

 「逆ですよ」と言っても聞きはしません。僕が言うことですからどうあっても信用しません。馬鹿にしなくてはならない存在に言われたことが、正しくても聞くわけにはいきません。

 自分が正しいと認めさせれば全部うまくいく!と思い込んでいます。

 「あなたが本当に正しいならね。」

 人生は本当に波乱と課題の連続ですね。

 次々迫りくる問題に、如何に冷静に対処していくか。

 今後の展開は自分の今にかかっていますから、適当なことはできません。

 うちの母のように「私をわかって!」と言っている人は、わかってもらえるまで他人の話は聞かない方針です。

 その間に色んな問題が起きていますが、あえて無視しているんですよ。

 皆を無視して知らないところで頑張っていれば「こんなに頑張ってたんだね!」とわかってくれて、望んだことをしてくれるという夢物語を生きています。

 現実はそんなに甘くないんですけどね…。

 自分以外の人たちの時間が動いているとわからない人なので、今同時に存在するほかのことを計算できないんですよ。

 自分が頑張ったんだから、と何かを欲しがる時、それ以前に頑張っている自分のために何かを用意されている必要性がある、という当たり前のことがわからない完全搾取型です。

 自分が頑張って誰かに何かをしてあげたことが「一切ない」ことが本人の要求からよくわかります。黙って誰かの未来のために、何かを積み重ねてきたことがないのです。

 どういう神経ですか。あなた人間ですか。と思うどころか言ったこともあります。

 「あなた本当に人間ですか?」と。

 本当に子供のようです。
 周りがいくらでも犠牲を払い続けてあげないと「不幸」と言い出すのに、母の存在がそこまで他人にとって価値あるものではない。

 僕があんなに頑張っても望んだ母に一切なれない母親が、寝言を抜かしているのです。
 僕は母を曾祖父たちからの伝言板ととらえています。
 この人を介さない限り、過去を知ることができません。

 育たない、永遠の幼児という感じです。
 同じ苦労を体験することで、不満は消えていくものです。
 「こういうことだったんだ」と。
 母は無理ですね。やる気一切なく、自分が頑張ればやってもらえると信じていますから、いつまでも文句しか言いません。
 何十年もやっていてよく飽きないというか、当たり前のことに気付かないなと不思議です。

 こっちで大人があれこれしていても、突然やってきます。

 「こんなに上手にお絵描きしたんだよ!」と。

 いいなあと思います。言い張ってるだけ。問題が大きくなったら「そんなことになると思わなかったんだもん!」です。

 そして「どうするんですか!」と聞かれたら

 「お母さんだってできないことがあるもん!」です。

 あてにしていません。この母親の能力で、人格で、並みの大人のものを求めるなど不可能です。

 親の程度を知れ。
 親の至らなさを計算に入れ、何ならこの人にも可能かを計算し動くしかないのです。

 ろくでもないことをやる人格も考慮して、すべて計算に入れるのです。

 うちの母の愚かさたるや、本当にひどいものです。

 「私が頑張ったんだから」がいつも理由です。
 「だからこのくらいできないお前はおかしい!」です。

 「どうやってやるんですか?」と聞くと、方法は言えません。わからないからです。

 「でもそのくらいはできないのおかしいよね!」

 幼稚園児です。低能な人とは話さない方がいいです。まともに会話すると、自分の程度も下がります。当たり前のことを当たり前に話す人と会話して、自分を高めた方がいいです。

 成熟した大人に出会ったときはチャンスです。
 普段のあらゆることにおいて、色々考えています。意見があります。
 自分を高めるためにどうしても必要な相手。

 それが、「コミュニケーションする相手」です。

 僕の母は、まともではありません。勿論です。

 しかし、それは仕方ないのです。親ですから。

 これもまた運命。
 この荷物は背負うしかないお荷物です。

 僕も本当に稀に成熟した大人に出会います。

 もっと会話したいですが、相手は忙しい人です。必ずそうです。
 しかも、簡単に会いに行けない人ばかり。
 プライベートで関わることが難しい人ばかりです。

 またやってしまった、と後悔していることもあります。

 昔の彼女同様「こんなに少ないと思わなかった」をまたやってしまいました。

 そしてタイトルの議題に戻ります。

 「してもらってない?嘘でしょ?」

 ええ、嘘ですよ。
 「私がこうなんだから…」を続けている人は、散々してもらっています。

 だから母は未だに年齢相応の内容を持っていません。

 昔からわがままでした。親族もよく怒っていました。
 「お前だけやない!」と怒鳴りつけられていました。
 そのたびに「私はー」と泣いていました。

 しばらく前に母に言いました。
 今更泣き言を言うからです。
 病気で大変なのだから、という理由で優しくすることを要求するからです。

 これまで人に優しくしてこなかった人が、優しくしてきた人と同等の扱いなど受けるわけがありません。

 病気なのに優しくしないのはひどい!

 馬鹿か!と思いますね。「~ならば、~すべき」。

 でも自分は違うのです。「この子がこれこれなせいで」と母親らしいことはしませんでした。

 「僕の知る母はこんな往生際の悪い人ではなく、じたばたせずに私はあっさりと死ぬ、と言い切っていた人でした。あなた誰ですか?」

 と僕は聞きました。

 「もし、自分の言ったことを覆すならば、人を謀った罪は確か、切腹でしたね。」

 そう言うと怒鳴り散らして怒っていました。

 やれやれと呆れています。遊んであげる暇はないのです。

 「子供たちはみんな離れていく…」確か加藤諦三先生の本に書いてありました。感謝されるべきことをしてこなかった親は、子供たちをいくら責めても、みな離れていくと。

 なんの仮面もかぶれなかった、誰にも自分にもなれなかった人間。

 その末路かと、感情が全く動かない自分を僕は冷静に観察しています。

 これまでの経験がないと、感情って起きないんですよね。

 話だけ聞かされても、体験がないと感情は湧きませんから。

 でも皆さんは安心してください。

 普通に、ただ小さな積み重ねをして人を大事にしていれば、普通にまともな関係が築けます。

 溺れるものは藁をも縋る…と言いますが、ここで突き落とすのは父性の役目です。

 死ぬときは死ぬ、生きるときは生きる。

 自分が人の生き死にどころか自分の心も自由に操れないのに、人の心など思い通りに動かせるわけがないのです。

 母は頭が悪いのです。僕に文句を言うならば「言いたくならない自分」に変わればいいだけなのに、わからないのです。

 母もですが、一度だけ父も「お前ならわかってくれるよね!」とやってきたことがあり、この手の人にはうんざりです。

 「お前なら」という言葉に喜ぶほど、自尊心が低くはありません。

 他人になど褒めていただかなくて結構。
 そうなれていれば、おだてに乗りません。

 人を大事にするとは、その人をよく見るということです。

 無関心でないということは、真実のその人をよく見るということです。

 良くも悪くも、その人にふさわしくない扱いは失礼なのです。

 「こんな心を持つ人間になりたかった」

 という自分になるため、全員が精進しているのです。

 僕もです。常に心を鍛えなくてはなりません。

 望ましいものも望ましくないものも、すべて自分自身として自覚して、仮面はかぶれるのですから。

 自分をごまかさないのです。
 自分に都合よく自分を解釈したい時点で、現実の自分を嫌っているのは他人でも親でもなく、自分自身なのですから。

 自分も受け入れがたい自分を他人に好きになれなど、図々しいお願いはできないのです。

 そして自分自身が、そんなこと叶うわけないと思えるのです。

 今ある自分自身を受け入れ、現実の自分で生きていきましょう。

 人の苦労は人のため。他人の苦労を取り除くことは、人のためにはならないのです。

 人は人を救えません。

 救いの道を知らせてあげるのがせいぜいなのです。

 自分自身も、自分の道を歩いているのですから。

 他人の道になど誰も入れないのです。