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一縷の望みを託している

 僕の書く内容は、簡単なときはよくある話であり、心理的側面から考えれば耳の痛い人も多いだろう。

 だが社会的なことを絡めていくと、また仏教のこと、直接的でない話を書いていくと、その内容は難しく、遠い世界のことのように思えるだろう。

 おそらくは、大多数の人にとってそうなのだろう。

 加藤諦三先生の、2008年最終講義の映像が、YouTubeにアップされている。

 彼は、「非社会的心理的引きこもり」という表現を用い、反社会的ではないが人と心から関わることをしない非社会的人間たちによって、この日本は駄目になっていっていると話していた。

 ここまでズバリ言ったか…。

 僕は彼がこの最終講義にどれほどの魂を込めたのか想像すると、胸の痛む思いであった。

 社会に関わっているようでいて、人とは関われていない。
 それがなぜ「この日本を駄目にしていくのか」は、なかなか理解できないのだろう。
 ちゃんと言うことを聞いているから「悪くない」と思う人が多い。

 つまり、根拠なく最初から「悪い」と思っているわけであり、だからこそ「悪くない」と言われるために生きているのだ。

 僕はあれこれと、理解の難しいことを書く。
 その内容がなんなのか、馬鹿な話にも聞こえるだろうし、意味不明な妄想のようにも聞こえるだろうし、悪質な見方をする人には、人生をかけて神経症の人に嫌がらせをするために、この仕事をしていると思えるらしい。

 そんな暇な人間がいるのかと思うが、つまりそこまで自分のために何かをみんながしていると思えるのだ。
 「自分に対して何かをするためにみんなが生きている」と思うのがナルシストだからだ。
 自分が反応したものは、すべて自分を狙ってやっている。

 「みんなが自分を狙ってる」

 と思う。被害妄想の激しい人なのだ。
 そんな暇人がいるかと思うが、誰からも知られていない自分が、最初からみんなに知られている存在だと「本当に思い込めている」のだ。

 そんなわけないよ。がまともな思考だ。
 だが、自分がそう思ったのだから、そのためにやっているに違いない。
 私が嫌だと思ったのだから、私に嫌がらせをするために違いない。

 この世のすべては私が決める。
 私がどう思うかが人間たちが何をしたがっているかなのだ。

 と思っている人間が、大多数であるこの日本社会だ。

 どうなるだろうか?

 「俺だけが」「私だけが」が山ほどいるということだ。

 表面では口にしない。
 だが、何も言わない同僚、友人、みな心の中では自分と似たようなことを思っているのだ。
 もちろん表面では「いい人にしなくてはならない」から、決められたとおりの行動を取る。だからそれぞれが気づかない。

 自分も相手と同じに見えているというのに、自分だけはと全員が考えている状態なのだ。

 この状態で、「他人が存在していることすら気づいていない」と言われるのは当然なのだ。
 互いに相手のことなど一切想像しないから、互いに「相手は平気」「自分だけが思ってる」と思い込んでいるのだ。

 心の中では似たり寄ったり。表面上も似たり寄ったり。
 このナルシシズムの集団化により、日本社会は危機である。

 僕は難しいと思われる問題について書くとき、一縷の望みを託している。

 僕の時と同じように。

 どういうことだ?と真剣に考える、人より思考能力が高い人の目に留まらないかと期待している。

 一人気づく、理解することは、千人の価値より高い。

 そしてそうした人は「社会からはみ出ているまたは落ちこぼれている可能性の方が高い」ので、僕は今もここで書いている。

 大多数が、超富裕層の味方になってしまった。
 この日本は、昔と変わらない。
 独立運動で立ち上がった国ではない。

 今も、従順に言うことを聞くのみ。
 自分で成し遂げるより、人に褒められることにこそ価値を感じる。

 一人で何かができるより、自分の期待に応えるより、他人にちやほやされることの方がよほどうれしいのだ。

 自分の価値は他人の反応が決めるから、人目を気にせずにいられない。

 「他人を人間扱いしていない」

 そのような人は、馬鹿にすることだけではなく「偉い人は自分とは違う」と考える。

 全員人間だ。

 自分自身が、ひょんなことで権力や金を手に入れたら、黙っていれば、隠していれば、自分は得することができるとしたら…。

 そんな時に「もしそうだったら」と実際にはないから安心して想像するようなことが、現実に起きているだけなのだ。

 

 全員人間だ。

 全員が、ただの人間なのだ。

 

 全員、たかが人間なのだ。

 

人を恨まずに済む理由

 罵られても嫌なことを言われても

 相手を恨まずに生きていけるものです。

 例えば、相手から好きですと言ってきた人が最後にはあれこれ不満を爆発させることがよくあります。

 「この人、今まで本当はそんなこと思ってたんだ…」

 と驚くほど最初からあれもこれも本当は気に入らなかったとか、こちらが言ったことをいつまでも覚えていて恨んでいるとか、

 実は最初からちっとも好きでもないのに、「こうするのが良いこと」だと思って「好きになった人の役」を我慢してやっていただけの人もいます

 しばらく前に消えていった公家娘もそうでしたね

 最初から全部気に入らないんですよ

 本当は

 最初から言われていましたけどね

 「それはおかしい!普通はこうするものだ!」

 と言うので、本人もこっちも仕方なく「こうするのが良い男女」に従っていただけです

 どっちもうれしくないんですよ

 向こうも最初からいいことなんか何もなくて、細かいことをいちいち覚えています

 向こうも我慢して一緒にいたくもないのに一緒にいますからね

 僕だけ我慢しないで本心を言うなんて絶対許せないんですよ

 「一般的にというものに従うことが、最も良いことだと私は思っている!」

 と言い切っていましたね

 だからいつまでも恨んでいるんですよ

 でも「きちんとするのが良いことだ」と思っているので、嫌でもなんでもどんなに罵倒しても、その内容と完全に矛盾しているのに、とってつけたように忘れた頃に礼とか言うんですよ

 「そうするのが良いこと」だからです

 きちんとしてますね

 しっかりと従っています

 でも母親はそれで褒めてくれるそうなので、本人はそれが今ではやりたいのだと言いました

 お母さんが大好きなのです

 そこまで好きになれる母親がいるなんて羨ましいことです

 ただ、向こうが何をどう言ってもこちらは諦めていけるんですよ

 「こんな人だったんだ、最初から」というがっかりと同時に、これまで「いた」と認識していた相手は消えますからね

 最後に「これまで存在していると思っていたその人」は消えてしまったわけです

 本心を出したとき、つまり「本当は」と言い出した時に、これまでこちらがいると思っていた「良い人」が消えたわけです

 いやいや我慢して黙っていた人

 やりたくないけど親切にしていた人

 という別物に認識が変わります

 ただ、向こうも散々文句を言うわけですから、この人も僕に出会ってしまわなければ幸せだったのになと思うのです

 相手にとって自分が不幸な存在になることもあります

 こちらにとって苦にしかならない関係は、向こうにとっても苦にしかなっていません

 相手も僕がいなければ、そんなことはしなくて済んだのです

 互いに「いない方がよかった」ということです

 お互いに会わない方がずっとマシだったと言える人がいます

 それはこちらだけではなく、向こうもそうなのです

 僕は最初からこうなんだけど…という僕が気に入らないとしても、それは仕方ないことです

 「勘違いさせた!」と怒ります

 何を勘違いするのかわかりませんが、その人の視点で見ていると思わぬように見えたのです

 その通りにならないのはおかしい!と思うのです

 つまりこのくらい食い違える人は

 互いに相手の人生に存在してはいけない人

 です

 「この人も、僕に出会って嫌なことばっかりだったんだ」

 と思えば相手に思いやりも出てきます

 好きな人に態度は変わりません

 怒っても不満を告げても、我慢したとか態度が変わるなんてことはありません

 仲間に対しても、意地悪になったり冷たくなったり、態度が変わることはありません

 態度が変わるイコール嫌いな人ですから、わざわざ近くにいて意地悪していても意味はありません

 意地悪な態度をとる人になんかなりたくないですから、性格が悪くならないように態度を変えずに済むうちに離れるのです

 好きな仲間に対する態度を続けられない、我慢してしまったらそうなります

 険悪な関係など続ける意味はありませんから、態度変わらず接し続けられるように我慢などしないのです

 意地悪されたら誰だって嫌な気持ちになります

 相手が嫌な気持ちになる態度に変わる前に、離れた方が幸せです

 何よりも、「相手も自分に出会って不幸だったのだ」と分かれば、仕方ないと思えますね

 多くの女子と付き合って、最後まで態度が変わらなかった人が二人しかいません

 僕と出会ったことが不幸にならなかった人が二人だけ

 そしてずっと好きなまま別れたのが一人だけ

 なのです

 何も変わらなくていい、と思えた相手、そして僕が変わらなくてもそのままでいいと思った人が一人だけなのです

 なかなか出会えませんよ

 好きだと言われて始まったのに、最後に罵倒されたり嫌な態度に出られた時には

 「この人は自分に出会ったことそのものが不幸だったのだ」

 と気づくのです

 そうではない人とはちゃんと関係が続きます

 我慢も要りません

 我慢もさせませんから

 要求がありませんから

 「こういう人になれ!」と他人に求めたら、自分に出会った人がみな不幸になりますからね

 自分のことばかり考えない方がいいのです

 自分のことばかりだと許せない許せないと思いますから

 相手だって、嫌々自分と一緒にいたんだよ、ということです

 母親に言われたとおりにするためには、どうしても相方が必要です

 自分も言われたとおりに我慢して恋愛するのだから、同じように我慢して恋愛してくれないと困るのです

 大事なことは形なのですから

 そういう人もいます

 そうでない人もいます

 たまたまです

 僕のように自由にただ好きで一緒にいたいと思う人もいれば

 そんなことより、一般的に理想の形、という人もいます

 親がこの世で絶対の法律だと信じている人はそう思います

 そうでなくてはならないのは、我が家だけ

 でもその我が家から離れたくないのですから、仕方ないのです

 離れたい!と思う人もいれば

 嘆きながら従い続ける方を選ぶ人もいるのです

 そんなものは最初からあるものですから、それぞれ好きに選んでいることです

 「旦那のちんぽが入らない」という作品があるそうですね

 ニュース記事で知りました

 セックスの問題について描いている体験談の漫画だそうですね

 ああ、そういうのあるよね、と思いましたが、夫婦ですからとても悩んできたのですね

 結果やはり、自分たちだけの世界なのだと理解するのです

 僕も同意ですし、そこまで気にもしていません

 当たり前だと思っています

 二人きりの世界なのに、不自由は御免です

 でも、人はわからないものはとりあえずまねごとをするんですよね

 AVみたいなことを現実にするものかと勘違いする人もいます

 最近かつてAV女優だった方が、「あれはファンタジーだから」と性生活について説いているそうです

 それは女子にもあります

 少女漫画みたいなことをしなくてはならないと思うのです

 そうならないと失敗!と思い込むのです

 だからみんなで同じセリフを口走るのです

 今ここにいて、現実に、現場を体験したときに、漫画の主人公と同じことをしたくなったり言いたくなったりしませんよ

 するわけないです

 キャラだし、別人だし

 僕の場合はですが

 どうでもいいよ、そんなもん

 と思っています

 上手にやれた、と認めてあげるにも、本人が真似した原点を僕が知らねばなりません

 「どれを真似したの?」とまず教えてもらわなくてはなりません

 それが面倒です

 知らないし

 知りたくないし

 どうでもいいし

 そんなことより現実の体験なのに、そんな偽物にすり替わって実際の自分たちだとどうなったのかわからない方が嫌です

 先の「旦那のちんぽがはいらない」の中では、奥さんが旦那さんも悩んでいただろうと想像しているようです

 そうですね

 お互いに悩むことです

 片方だけというわけがありません

 夫婦は相互関係なのですから、片方が悩んで片方が悩まない、ではおかしいのです

 相互関係が成り立っていれば、どちらも悩むのです

 片方が怒って片方が謝るとか

 片方が満足して片方が悲しんでいるとか

 相互性すら成り立たない夫婦はそれです

 良い夫婦なんだろうなと思いました

 こういう風にするのが良いことだ!

 は、実際の場面に遭遇するまでわかりません

 それで何事もなくうまくいったなら正解でしょうが、予想通りの流れがないなら間違いです

 決められた方法を実行することだけに専念する人もいれば

 成功するために方法を考える人もいます

 目的が決まりを守ることか、成功かの違いです

 ただ、本人が「しなくてはならない」と思うことはほぼすべて決まりでもなんでもないですから、それは「本人がやりたくてやっていること」にしかなりません

 法律でもないし罰則があるわけでもないし、本人が選びたいからやっているだけです

 だからこそ、先の作品のような夫婦は「互いがどうしたいのか」を考えるのです

 自分たちのための関係だからです

 自分たちのための夫婦になっていれば、「してやってるのに!」は起きません

 相手が喜んでいないから、冷たくなるのです

 相手が何を望んでいるか無視して、自分が「してあげたいことをする」ということもあります

 喜んでいないから、嬉しいことではなかった

 それが時間が後ろに向くと

 喜ぶことをしたのに、喜ばないからおかしい!ひどい!

 になります

 「きっとこうに違いない!」が外れることがあると知らないのです

 過去と未来が同じだと思っているからです

 僕自身も、自分が嫌がることをされたがる人がいて驚くことはあります

 僕ならばしてほしくないことを望んできますから

 方向性が違うのです

 でもそれは気づくだけでいいのです

 「勘違いしていたな」と

 私をわかってくれる慰め役を欲しがり、たった二人で辛い境遇の中にいて、肩を寄せ合って「私たちだけは」と生きていきたい

 という人がいると、知りませんでしたから

 そんな閉鎖的な関係は嫌だなと思いますが、そうしたい人もいるのです

 人生の楽しみ、この人だけ

 それだと相手に要求するものが多くなり、いつもいつもその人が楽しませてくれないと僕自身が嫌になるでしょう

 他より楽しい、新しいものをすべてその人に求めるわけですから

 その人を目的に生きていくのですから、そうなります

 僕をわかってくれない!

 という生き方が僕は好きではないし、そこまでの人物ではないのに他人様にそう言うこと自体気が引けます

 ただ、大事にされ過ぎた人なのか、とにかく「私をわかって!」と私を偉大に扱っている人もいます

 そんなこと僕もしてもらったことないですし、無理だと思うからあきらめてうまくいってきたのでどうにもしてあげられません

 だからこそ

 「この人も自分に出会ったことが不幸でしかなかったんだな」

 とわかるのです

 最後に文句を言われるから、自分の存在が「ない方がいいんだな」とわかるのです

 じゃあ、これからは

 とか

 どうしたらいい?

 なんて相手の迷惑ですよ

 嫌だと言っているのですから、なんとかして気に入る人になりますなんて迷惑ですよ

 相手に自分しかいないと思ったら大間違いで、ほかにも異性はいくらでもいるんですから

 その図々しさがなければ、自分が変わらなくては!と思わないのです

 相手には自分しかいないと思える傲慢さが、我慢に繋がるのですから

 いつも通りの自然な自分が気に入らないのだから、しょうがないんですよ

 でも自分はそのままで楽だし、そのままの自分が一人になっても、最初からその人はいなかったのですから平気なのです

 いなかったときに戻るだけ

 でもいなかったときの方が幸せだったなあと思うから、いいんですよ

 その人に出会う前に戻りたい?と聞かれたら

 即答で「戻りたい」と思うのですから、自分にも相手にもいらない人なのです

 不要な出会いです

 ただ、不要な出会いを経験するから、必要な出会いがなんなのかわかるようになるのです

 人は何を言っても、欲しいものはちゃんと手放さないようにしています

 あれこれ不満を言っていても、なんだかんだ言って離れない二人がいますよね

 口で何を言っても、結局は離れたくないから一緒にいるのです

 本心から離れたい人は本当に離れていきます

 自然と離れます

 恨みも残りません

 離れたくないのに離れると、いつまでも恨んだり心残りになったり、思い出したくない!と無理に忘れようとしたり、とにかく心に残ります

 いいなあ

 と素直に思います

 忘れられないくらい心に残る人とか

 嫌だ嫌だと言っても期待してしまう相手

 こと女子の場合は相手がきちんと大事にしてくれない、可愛がってくれないことを嘆きます

 かわいい奥さんだと思いますよ

 そこまで好いて求めてもらえるのだから、旦那さんが羨ましいことです

 好きでないなら嫌いにもならない

 本当に嫌なら離れているのです

 僕などは、最初はモテるように見えても最後には相手が文句を言っていなくなりますからね

 誰も残りはしませんよ

 相手が僕を好きになったのではなく、僕がその人を好きなのかと勘違いされて、喜ばせてやろうとされただけです

 私のことが好きなら、何かしてあげなきゃ

 ということですね

 だから色々してくれたのに喜ばないと怒るんですよ

 最初からそんなつもりないのですが、「いいや、あなたがなんと言っても本心では私を好きだとわかっている!」と公家娘は言っていましたね…

 ちやほやされ過ぎた人ってすごいですね

 あの自信は庶民にはないものでしょう

 男女ともに、ちやほやされ度が僕たち庶民の想像の範囲外ですよ

 そんな女子もいるんですよ

 本当に必要な人は「残る」のです

 関係が「続く」のです

 それが、自分に必要な人なのです

 何がどうあっても「続かない」人は必要ない人なのです

 自分が嫌いな人は、どうしても最も近くに「嫌っている人」が居続ける必要があるので、嫌い嫌いと言う人が近くに居続けて普通なのです

 自分の無視した自分を投影し続ける人が、人間には必要だからです

 ただ、嫌い嫌いと不満を言いながら、ひどいひどいと罵りながら、それでも互いに離れない二人は、「この人でなくてはならない」のだなと羨ましく思います

 僕は罵られるだけで終わりますから、必要ないのです

 そして必要な人は、やはり残るようにできています

 出会えてよかった、と最後だけ言ってみても意味はないんですよ

 そういうことする人いますよね

 あれって、どこかで聞いたから真似するんでしょうね

 内容が違いますから

 まったく

 言っても言わなくても最高に幸せだった時間があったのだから、たとえ口では嫌いと言われても何も変わらないのです

 その時間が存在したという現実が、本物の人生ですから

 喧嘩している夫婦は思い出してみたらどうでしょうか

 最初の頃、結婚まで至ったのだから、思い出すだけであの頃の感覚が想起されるのではないでしょうか

 好きになった時の感覚です

 幸せな気持ち

 思い出せばいつだって戻ってくるでしょう

 感覚は記憶とともに想起されますから

 うまくいかないときは、記憶を思い出し、確認するんですよ

 あの時の感覚を、もう一度よみがえらせ、そしてもう一度「この感覚は何か」と言語化するのです

 気持ちの勘違いは、そこで確認できるものなのです

 子供の頃の記憶も

 記憶は感覚と共に思い出すことで、何度でも確認できるのです

 人は今、何かから逃げたいときは、その時の感覚を都合よく解釈します

 言語化で嘘をつき、自分を騙します

 ただ、後から状況が変わった際にはもう逃げる必要性が無くなっていますから、「あの時、どんな気持ちだったかな…」と記憶の回廊を戻り、もう一度心の中で再現してみるのです

 あの時、出会った頃、うまく行っていたころ、そのころの感覚

 「この感覚は…」

 ともう一度、どんな気持ちだったのか言語化するのです

 再認識することで、自分が本当はどんな気持ちだったのか、何をしたがっていたのか、わかるでしょう

大阪ってすごいんだね 新世界は大人の世界

 目安箱よりのお便りから、大阪のドヤ街などのお話を聞き驚きました。大阪は地区によってだいぶ違いますね。東京もですが。

 僕はこれまでこのような場所に縁がなかったのだなあと思いました。

 嫌いというより、苦手と言った方がいいでしょうね。
 歓楽街、福岡に行った際に天神というところに行きたかったのですが、怖くていけませんでした。

 怖いんですよ。
 よく知らないので。ガイドが必要です。ベテランがいいですね。

 女子がいる店も、上の方に連れて行っていただいたスナックだけです。ママさんですね。
 おじさんたちは、酒を飲むと必ずといっていいほど二件目にああした場所を選びますね。
 僕は人様からのご厚意はありがたくいただきますし、上の方なら当然のことなのですが、食べられないものを勧められたときは気合でしたね。
 明日、何もないよな…と予定を確認して食べましたね。四日は寝込みましたが。ああいう時は、覚悟ですかね。

 「お前のために、いいやつを食わせてやろうと思ってな!」と言われたら断れません。断るか断らないか悩んで断ることができないならば、覚悟を決めます。グズグズ言いません。

 言うか言わないか決めたら、言わないと決めたからには、美味しくいただきます。微塵も感じさせないよう、お気持ちをいただく程度の気合は持っています。

 ちなみに僕は、酒を飲んだ後はコーヒーが飲みたくなります。
 落ち着いた場所で、美味しいコーヒーを飲みたいです。
 そう、例えば銀座の椿屋本店のような店がいいですね。とても気に入っているお店のひとつです。
 しかし、深夜の街には空いている喫茶店がないので結局自宅で飲みますね。

 東京では締めにラーメンを食べるようですが、僕の郷土では締めは寿司でした。

 それにしても、知らないことは沢山あるものです。
 ドヤ街は行ったことがありませんが、東京の街中でドヤ街のための寄付を募っていたのでその際は寄付をして、労働者の方々を応援してきました。
 色々と事情があり、彼らも今非常に困難な生活を余儀なくされています。

 社会が正されることを祈るばかりです。

 ところで、自分にピッタリ合うものを見つけるには、そうでないものも知る必要があるんですよ。

 ですから、好き嫌いにかかわらず、色々チャレンジした方がいいのです。ものすごく合わない、を体験することは、割と合うを体験することより遥かに価値がありますから。

 朝と夜があるように、反対を知らずして自分はどちらがいいのかなど知ることはできないのです。

 僕も歓楽街には縁がありませんが、秋葉原で声をかけられた「キャバンゲリオン」なるところは行ってみた方がよかったのかもしれません。
 なぜでしょうか。僕一人ならば決して声をかけられないのですが、いつもある男友達と一緒の時に必ずと言っていいほど声を掛けられるんですよ。何か目安があるんですかね?

 僕は合コンというものにも抵抗があり、意識して異性と接することが苦手です。
 「異性に品評されますよ、そしてしますよ」という暗黙の了解が嫌です。
 男子校の友人は口を開けば呪文のように合コンと言っていましたが、興味ありませんでしたね。

 当時の僕は悩んでいたので、如何にして人生を生きるべきか考えるためにも、一体どのルートでどう乗り換えて、尾張にいくのか時刻表を見るので精いっぱいでしたよ。

 よくわかりませんが、おそらく、彼女も作ろうとしない方ができるのでしょう。彼女作ろう!なんて思ったことが一度もありません。

 学生時代、たまたま僕が美術館か博物館に行きたかったので、たまたま放課後話していたクラスメイトに「明日行くんだ。」と面白そうなものであると説明し、「お前もいく?」と聞くと行くと言うので一緒に行ったんですよ。
 そしてその日から一か月後、再びたまたま外で二人になっていて、その際に「私たち付き合って一か月だね!」と言われました。
 よく考えたらあれはたまたま一緒にいたのではないかもしれません。一か月記念のつもりだったのかもしれません。

 意味がわからなかったのですが、僕はその時そう思うと、今の何かを見て「俺、お前好き」と言ってしまうことがあり、それが誤解されたようです。
 何かがいいなと思っただけなんですけども。
 「私も好き」と言われて、「ありがとう」では終わらなかったんですね。
 女子は几帳面にも付き合って一か月記念日なるものを手帳に記録しているんですよ。
 そして何も考えていなかったことを正直に言うと、「ひどーい!なにそれ!」と怒られたので、謝って付き合っていました。

 しかし、ずいぶん恋愛はしたはずなのに相手の名前は殆ど覚えていませんね。姿すら覚えていません。
 自分の意志でないとそんなものです。しかも僕は人の名前を覚えません。できるだけ名前で呼ぶようにしています。覚えられないからです。

 苗字は家を表しているので、その人個人のイメージがつきませんね。
 あだ名をつけないと信じられないくらい名前を忘れます。

 とりあえず、そんな感じでなんとなく流れでできるのが彼女だと思っていました。意図せずとも、普通に勝手にできると思っています。

 好きなこと楽しいことをしていると、勝手にできます。
 全く予想もしなかった経緯で、なんだか勝手にとにかく自然にできます。

 話を戻しますが、歓楽街なるところは行ったことがないですが、僕にはなんだか怖いイメージですね。
 いつものBARに来るホステス女子に「大変な金額になるかもしれないし、何をするところなのかわからない。」と話したら笑われました。
 「新宿じゃねーし、そんなんじゃ客が二度と来ないからwww」
 と笑われました。キャバクラどころかホストクラブにはまる友人もいたのですが、行くことがありません。
 幼いころにどうしても夜遊びしたい母親に連れていかれ、端っこで小さくなって寝ていたのであまり良いイメージがないのでしょう。
 母親がいなくなると子供は気づいて起きてしまうので、母親はとても面倒に思っていたようです。

 僕はピアノをやっていたせいなのか歌をすぐに覚えたので、よく大人たちに歌わされましたね。昴を。

 夜のお店に行く友人たちは、「面白いよ!」と言っていましたが、こればかりはよくわかりませんね。友人や恋人と一緒の方が良いです。

 そんな理由で、僕は自分がとても引っ込み思案なネガティブ人間だと思っていましたね。今も思っていますが。これを前向きと呼ぶらしいのだから不思議ですね。

 常に未来のことで、社会のことで、頭を悩ませています。

 ふと横を見ればお地蔵さんの笑顔が目に入るので、気持ちが和みます。

 大阪はぜひきちんと、時間に余裕をもっていきたいですね。
 おいしいものなど以前行った際には何も食べませんでした。
 大阪出身の友人が、帰郷した際に「いかやき」なるものを買ってきてくれました。おいしかったです。

 東京では屋台で大阪焼きを売っていることがありますが、大阪にはないと聞きました。
 今川焼の型で作った、お好み焼きです。
 たこせん、も最近は見ますね。あれは大阪にあるようです。

 話は逸れるのですが、大阪出身の女子が手作りおにぎりをくれたことがあったんですよ。
 中にタコ焼きが入っていたんですよ。
 どういうことですか。あれは普通なのですか。彼女が特別ですか。

 「これは…なぜたこ焼きが…」と驚いていると

 「たこ焼きはなんにでも合う!」と強く言われました。

 このおにぎり、一個が一膳分くらいあるよね。という巨大おにぎりを二個いただきましたが、もうひとつはちくわの磯部揚げが入っていました。あれはどうなのですか?普通なのですかネタなのですか。

 未だに疑問です。
 でもその女子は好きでした。

 これはジョークなのか、それとも文化なのか…出身国が違うと、その違いがわからずに戸惑うことが多々あります。

 しかし現代の日本人は、自分たちが違う国の出身だということすら、自覚していないのです。