名古屋講座にお集まりくださった皆さんに、心よりお礼申し上げます。
お忙しい中お時間を取ってお越しいただき、ありがとうございました。
とても嬉しいプレゼントをいただきました。
帰ってから開けてみて、胸の熱くなる思いでした。
本当にありがとうございました。
今回は他に用事があり、せっかく行くのだからと急遽用意した場でした。
採算度外視で行いましたが、そのお陰で東京までは来ることができない方に来ていただけたこと、本当に良かったと思いました。
どうしてもその場で実験したかったので、待つことが大嫌いな僕が並んで手に入れたお土産を持参しました。
想像力が働かないならば、今体験させるまで。
くじ引きをして、一人にだけゴディバのチョコレートをプレゼントしました。
他の皆さんには、行列ができる店のお菓子を、箱からひとつずつ配りました。
社会的価値と、心理的価値の違いを体験させるために行いました。
社会的価値、つまりブランド力や値段。
心理的価値、手に入りにくい、人気の、流行りの、そして「みんながもらった」という価値です。
僕は社会の理想を追い求めるこの価値観をなんとかしたいので、どうにかして立場の違う人たちが仲良くしようとできないものかと考えています。
人の物を欲しがる人は、自分が持たない時期があったにも関らず、金や物を持てばそれを使って「自分だって持ってるんだぞ!」と優越感に浸ろうとします。劣等感の解消をしたいのです。
悔しいから同じものを得て、「こんなものあったって何にもならない!」と今度は新たな自分を馬鹿にする、とにかく今の自分を馬鹿にすることの繰り返しです。
最初の自分が気に入らないだけです。
最初から社会的には価値あるとされる、そこしかなかった人たちとの決定的な違いです。
他人が得ていることが悔しい人は得れば見返せると思っていますが、実際には過去の自分と同じような人たちだけが悔しがります。
成金と呼べば聞こえは悪いですが、少し手に入れれば人を見下してこれまでの自分の価値を更に下げにかかる人もいます。
持つことのできない人の最大の敵だと言えます。
最初は自分たちと同じところから始まり、自分だけが得ようとした人。
得たら今度は過去の自分と同じ人たちを顧みることがありません。
最初からそこしかなかった人は、反対側にあるものが欲しいのだと教えました。
相手と自分は違うと受け入れることで、相手が欲しているものを渡し、自分が欲しているものももらうことが可能なのだと理解してほしいと思いました。
「あれさえ手に入れば!」と他人の持ち物を集めても意味がないのです。
最初から持っていた人たちは、それを持つべき役目も同時に持たされるからです。
苦労も背負わなくては、物だけ持ってもなんの意味もないのです。
最初から持っていてその意味がわからなくなった人たちは、中島誠之助さんのような目利きの天誅を食らって目を覚ました方が良いでしょう。
何か意味があるから、そこにあるのだと忘れてはいけません。
かくいう僕も、この年になって三代目仲田錦玉の作品を実際に手に取った時には感動して涙が出ました。何が素晴らしいところなのか、それを知らない者は持つ意味もありません。
豚に真珠というやつです。
意味や価値がわからない人は、持ったところで同じように嬉しいと思うこともないし、価値も感じない。そしてそれを使うことはできない。
金や物に意味がないのではなく、持つべき人が持たないと意味がないのです。
自分に相応しくないものは、いくら社会的にすごいものでも持ったところで無駄遣いにしかなりません。
自分にふさわしいものがあるのです。
憧れは見ている方がよく、手に入れたら憧れは消えてしまうのです。
芥川の芋粥です。
憧れているから憧れがいつまでも外側で輝いていてくれるのです。
憧れは自分が持つことのできないものだから美しく素晴らしく見えるのであって、持ってしまったらもう憧れは無くなってしまうのです。
人のものはなににせよ賛辞し尊敬する姿勢で生きていれば、外側には素敵なものが沢山あるように思えるでしょう。
何を手に入れたら人を見下して他人を不幸にできるか考えていたら、外側のものを如何に奪うかしか考えなくなります。
自分が何かを手に入れることで、悔しがったり傷ついたり落ち込んだりしてくれる人がいれば幸せだなと思う。それが、人を妬む人です。
物や金は奪えます。努力で手に入れることもある程度はできます。
ただ、人格だけは奪えません。
人格破綻者だが、権力も金も名声も持つ人がいます。
そんな人になりたいのが、支配的な人です。
素晴らしいものを沢山持っていても、人格が愛されないならば孤独な支配者です。
何を選ぶかどうなりたいのかは本人次第ということです。
自分にだけは目がいかない。他人の持ち物と比べてそれを集めたらあの人と同じになれると勘違いした。
そんなことは案外多くあるものです。
僕は何も持っていなかったので、幸せでした。
何も持っていないから幸せなのです。
自分一人の力で他人に張り合って身につけたかったら、一生かかっても大したものを手に入れることも体験することもできなかったでしょう。
素直に頭を下げることこそ、誇り高い人間がすること。
「知らないんだからしょうがないだろう!」と威張って足りない部分をなんとかしてもらうのが泥棒です。
「こんなに大変なんです」と惨めに見せて、人が心配して向こうから「じゃあこれをしてあげる」と言われて喜んでいるのが、乞食の子です。
そのどちらも現代日本では必要ありません。
する必要が無くなりました。良かったですね。
僕は子供のころからずっと、狭く汚いアパート暮らしで貧しさに耐えながら生きてきましたが、家に残された教育が身を救ってくれました。
馬鹿にされても笑われても、本当に持っていないのだからしょうがないと思えたのは自分が泥棒の子でも乞食の子でもない、と思っていたからです。
母の力は大きいとも思います。
学校に持っていくものも買えないと、学校で馬鹿にされました。
それも、「うちのお母さんがお前のことこう言ってた」と馬鹿にしてきた成金の子もいました。
お家の教育です。お里が知れると言われるのは、こういう時です。
まともな家では外で人様の持ち物を馬鹿にするように育てません。
思うだけで、口に出すこともありません。
この行為に口出しもしません。とにかくその家の教育がその人を作りますから。
母は僕が八歳のころに、馬鹿にされたことを話すと泣いていました。
「お前は貧しくともその辺の町民風情に馬鹿にされるような家の子ではない」と泣きながら言いました。
母も、馬鹿にされてはいけないと躍起になって働いていました。
自分の外での働きが家の格を上げたり下げたりするのだから、当然です。
ただ、現代社会ではそもそも上にいる人にただ自分がより私腹を肥やしたいような人がいるのだと思います。誰でもなれるようになりましたからね。
上に立つべき教育を受けることもなく、上に立つことも可能になりました。金さえ稼げれば。
お前は武士の子なんだ、今は貧しくとも他の家とは違うんだ、とよく言われました。
心の中では「もうそんなの関係ないのに」といつも不満でしたが、それは必要だったと思います。
誇りを捨ててしまったかもしれませんから。
「知らないの?おかしい!」と笑われることが本当によくありました。
面白いから笑っているのではなく、馬鹿にして笑っているのです。
そんなときも「知らないので教えてほしい」とお願いすれば教えてもらえました。
恥じることはありません。最初だけですから。
知らないまま生きることの方が恥なのです。
今では彼らの方が僕よりずっと持つ人たちなのだから、僕の方こそ謙虚に頭を下げて教えていただくべき、と思いました。
「好きにしていい」の意味が、ひとつも好きにできなかった僕には全く理解できませんでしたが、自分で判断して、適当にということが「存在するのだ」と教えてくれたのも、家族で大皿をつつく食事をしていた人たちでした。
僕は彼らに感謝しているので、僕が先に知っていたことは彼らにも分けていかねばと考えています。
必要とされることは無かったので、僕より持っている人たちに教える必要もないと思っていました。
僕は特に人に言えたほどのものは何も持ちません。
実際に必要となって現場を体験しながら、必要となるものを身に着け、学んでいきました。
なので人に言えることは何もありません。
同じことをすれば僕でなくともわかります。
もし、遊興に使う時間があるならばその時間に知らないことを知るために本を読めばいいし、勉強すればいいし、訓練すればいいし、特に難しいことは何もありません。
誰でもできることが、ほとんどです。
誰にでもできないことをする人が、本当にすごい人なのです。
金や物があって、時間があれば努力して誰にでもできることは、すごいと呼びません。
自分以外にも持っている人がいるものを持っても、なんでもないことです。
「金さえあれば」と言う人が昔いましたが、それで何をするのかの方が重要です。
金があれば色んなことができるでしょう。
しかし、それを使って何をするのか。
人に見せびらかす何かを得たいのか、人々に貢献するために何かしたいのか。
根っこのところで考えている動機が、人生を決めます。
ある程度のお金持ち以上は、自分を金持ちだと思わないと言います。
調査するとそのような結果が出てくるそうです。
上には上がいると知っているからです。
僕はあえて「間抜け」と呼びたい部類の人がいます。
人を羨んで自分の持つものをくだらないと全て捨てて、人の物を持っても持つべき自分がなく自分の首を絞め、なりたくないものになろうなろうとした結果、欲しくもないものに囲まれて「自分はこれで満足している!」と豪語して過去の失敗を認めないために生きる人です。
僕の身内の話です。
親を恨んだ罰です。
目に見えないものまで捨てた時、人生が終わったのだと思います。
生きているうちに伝授してもらっていて、良かったです。
魂さえあれば、たとえ生まれ変わって違う時代に違う体で生まれても、同じような人生を歩ますから。
名古屋で配ったものは、当りの方を何にするのか結構考えたんですよ(笑)
知っていた方がいた、人気のキャラメルサンドの店のものにしようかという案もありました。
しかし、必要なものは「誰もが知るブランド力」なので流行り物はやめようということになりました。
そのキャラメルサンドは、先生が持って帰りました。
おいしかったです。これが今人気なのですね。
その場で食べてもらう、をする必要があったので、お茶を用意したかったですね…。
この時間のない現代社会において、常に「呑気にしていたい」のでいつもいつも時間を長くとっていてすいません。
言っていることよりも、形よりも、魂が伝わりますようにと念じています。
感覚で感じるものが、人にはあります。
それが伝わるようにと願っています。
きちんと、ちゃんと、というものが皆さん好きです。
そうなりたいとか、そうなれるようにとか、考えているようです。
僕はもういいです。そういうのもういいです。
そんなものより、自由に、それぞれの発想で生み出せることが素晴らしいと思っています。
画期的というものに惹かれます。
しかし、そこには原点として自分自身の持つ歴史がなくては最高のものになりません。
自分の過去や歴史なくして、本当に人と違うものは生み出せませんから。
親子でも対立することはあると思います。
僕の母は家も歴史も捨てましたが、僕は捨てませんでした。
お陰で対立して生きてきましたが、僕は自分を失いませんでした。
最初にどこから始まったのかを忘れた人間に、行くべき道などわかりません。
どこからきてここにいるのか知らない人が、目指したい場所などありません。
何よりも、「もう自分は何をしても無理」とあきらめたならば、終わりです。
諦めは仏教では執着から離れる言葉。この場合は「放棄」と言った方が正確でしょう。
僕は生きている限り、親を恨むことはできません。
生きる苦痛から逃げたい人が、親を恨むのです。
僕はまだ生きたいです。やりたいことも見たいものも知りたいことも沢山あります。
だから恨めません。
親がいかに嫌でも、いなければ生きることもできなかった時期がありますから。
他の人はそうは思わなくてもいいし、実際一般的には子供には何もできないのだから仕方ないと言われてはいます。そして他人についてはそうだと思います。
ただ、僕は違います。
僕はそうは思わないし、親がいけないんだからしょうがないと僕は僕にだけは思いません。
皆さんが、親の虐待に耐えてきた人ならばそんな不幸なことはないと思います。
そして何ができなくても親が愛を注げなかったせいだと思うし、そのせいでどうにもできないのは仕方ないことだと思います。
当たり前にあるものがなかったのだから、どうにもできなくなっていても仕方ないと思います。
嘆くのも当然だし、自暴自棄になることも仕方ないです。
人を羨むことも仕方ないと思います。
ただ、僕はそんなに自分に優しくする必要がない人間なので、そこを理由にはできません。
僕は自分自身の原因があってうまくいかないのであって、親の仕打ちや選べなかった生まれのせいにして自分が生きることを放棄する権利がありません。
生まれたこと自体僕の力ではないので、思い通りにしてもらえないと恨めるほど親も楽はしていません。
僕の親や祖父母は、少なくとも自分たちも楽な生き方などできなかった人たちなので、この一族に生まれた全員が耐えなくてはならないことであって、僕だけ親を恨んで暴れることもできません。
嫌なら死ぬこともできたのに、現世に執着して生きようとしたのは自分自身ですから。
僕は母にもそして祖母にも感謝しています。
とても良い人だとは思いませんが、感謝はしています。
僕なら耐えられない、できないことを継続していた人たちなので、そこから得る恩恵について感謝しています。
過去には過去の、今には今の苦労があります。
違う時代の苦労を両親や祖父母は担っていたので、僕が今の辛さから逃げ出す限り、親に文句も言えません。
自分の問題を片付けもしないで、人に役目を果たせなど到底言えないことですから。
少なくとも親に諫言するからには、自分自身のことについてはきちんと方法を見つけて解決している必要があります。
「自分のこともできないくせに、人のことをとやかく言うな」とよく言われたものです。
最低限、自分のことは自分で努力し、考え、なんとかしている必要があります。
そうでなくては諫言することは許されませんから、躍起になって自分の目の前の問題はなんとかしていたなと子供のころを思い出します。
ちょっと理解できないと思いますが、両親と祖母は僕とは違う家の人なので、感謝しています。
魂の入れ物となる人間が必要だったのだなと、厳しい教育を思い出します。
僕は怠け者なので、強制されなければあれもこれもやらないままだったと思います。
今でもそうですが、意思が弱く強制的に行うように自分で自分を追い詰めなくてはならないことがあります。
僕よりも僕の生徒たちの方が余程強いと思います。
「人にすぐに教えてもらおうとするな」
「見せびらかすんじゃない」
「人のことをとやかく言うな、黙って自分のことだけしろ」
こうした当たり前のことを何度も言われていたことが、今ではありがたいと思えます。
親に言われたからこそ、不満でも耐えるしかなかったのですから。
優しさはないが、教えていることは正しい。
そして僕は優しくしてくれないなら言うことを聞かないと甘えたいほど、親に親近感を持っていません。
時々、もう僕一人なのかと思うことがあります。
奇妙なことで、親族はいるのにもう僕一人だと感じます。
もう教える番。もう誰にも教えてもらえないし、守ってももらえない。
責任を持つ恐怖に耐える番。
みながやってきたのだから、僕もやらねばなりません。
「なんでも順ぐりなんや。自分だけやない。なんでも順ぐりや。」
幼児のころに、親がいないころ祖母に言われました。
自分だけが辛いと思うな、みんな順番にやっていることなのだという意味です。
親を憎んでいましたが、だからこそ僕はやるまで。
「あなたはできなかったんですか?僕は耐えましたよ。」と。
生まれた時から、それぞれが背負う責任があり、それぞれがそれと戦っています。
僕は甘えていていい人間ではなかったので、親の優しさにしろすべてなかったものは「必要ないからなかった」と思っています。
他の人たちには気にしないでほしいと思っています。
実際、優しくされてもできる人間ならばともかく、僕は甘やかされていたら必要なこともきちんとやらない子供だったと思います。
わがままだったので、勉強もしないで遊んでばかりいたでしょう。
きっと後になって後悔したと思います。
今過去の自分に感謝しているくらいですから。
不満だったのに、意地になって頑張ってくれていてありがとうと。
何かに張り合うと意地になって頑張りますよね。
どんな理由でも頑張ったことは無駄にはなりません。
だから親を恨んでいる時期も必要です。
親を憎めば必ず躍起になって努力しますから。
見返したいと思うからこそ、必死になって努力するのですから。
実力を備えなくてはならないからこそ、必死になるのですから。
そして今でも大した実力はなく、見えないものなど信じる人の役にしかたちません。
この物質的なものを得るためだけに生きる現代社会においては、ほとんど意味がないでしょう。
幸せが欲しいと言いながら、実際には形あるものを集めたいだけ。
「不幸を生み出すんです。大衆は可哀想なんて言いながらも、人の不幸は蜜の味で人の不幸を見るためには金を出すんですから。」
忘れられない言葉です。ある仕事で指示された内容です。若いころに、そうやって作られた不幸で大衆を動かしていくものなのだ、それが商売なのだと知ってよかったと思います。
そして、「俺にはそんなことはできない。いくら仕事でもできない。」と判断して、良かったと思っています。
まだ若かったので、その程度のことでもショックでした。当たり前なんですけどね。まだ夢を見ていたころですね。
努力して実力を備え、少しずつでも新しい世界に進んでいたから知ることができた現実が沢山あります。
なんでも裏側がある。夢など片方から見ただけで勝手に作り上げた妄想です。
妄想などしなくなれば、当たり前に思うことばかりになり不幸も消えるでしょう。
いいなあと思うものなんて、全部作られたもの。
人間が作るものは全部、作りものですから。
本物と呼べるものだけが、後世にも残っていくでしょう。
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我慢と恨みの仕組み
恨みはどこから来るのか。
色々な理由があるが、我慢していると本人が思った時に恨みが発生するのではないだろうか。
個人ではなく、政治的な動きを見ながら考察している。と先に前置きしておきたい。
正直、個人のことについて僕はそこまで気にしていない。
大きな動きの中の一部としか捉えていない。
個は集団になれば力を発揮するが、個のままなら大したことはできないからだ。
我慢と恨みの連鎖が起きているのだなと現在他国間で起きる問題を見ていて思う。
子供は親に我慢させられたと感じているが、その我慢はどこからやってきたのか。
親は我慢していないのか。
勿論している。子は親を恨みやすいが、恨んだらそこで終わる。
恨んだ人は人生で最初に乗り越えるべき問題から出られないまま、終わっていく。
親への恨みはどうでもいい。
僕はそう考えている。
神経症は親子関係から始まるが、別の言い方をすればそこから出ることができなかった、親を好きになることも関心を持つことも、親を大切にすることもできなかった人だとも言える。
「最愛の人に対する最大の憎しみ」だっただろうか、そんな葛藤を乗り越えなくてはならないと言われている。
それは確かにそうだろう。
僕は早くにそこは乗り切ったので、人類に対しての考察として更に先を考える。
親に~してほしかった。ここを終わらせて「なぜ親はあんなことをしたのだろうか?」と考えていく。
最後には政治に辿り着く。
政治は政治だが、過去のことなので一般的には歴史と呼ばれる分野まで思考を広げなくてはならない。
兎に角、常にどこかで流れをせき止め、自分だけが得をしたい、欲を満たしたいと「自分の働き以上に欲を貪っている個体」がいる。
自分の働きに応じたご褒美しか得ないのが当然だ。
だが、あれこれと正当化する理由をつけては一人で何十人、何百人前と欲を満たしている個体がいる。
一般的に贅沢と呼ばれる行為に見えても、それを必要とする人がいる。それ相応の立場にいる。それ相応の役目や働きをしている場合だ。
必要以上に贅を尽くしている個体がいれば、他で不満が爆発するのは当然だ。
想像力があれば、人のことを考えられれば、誰かに働かせて得をしようと思えない。
そして何よりも、他人から奪おうと思わない。
奪うならば、得をしている人、働き以上に贅を尽くしている人から奪おうとするだろう。
結局は贅沢したいだけ。何もできないと低い自尊心を持つ人ほど、他人が生み出したものを欲しがり、他人のものを真似して持っては「自分にもできた!」と思い込む。
もっともっとと物を集めたがるのだ。
他人が持つものを持っていないから価値がないと思い込んでいる人は、他人が持つものを持った時には持たない人を見下す。
そこに絶対的な価値があると思うから、人間を持つものと持たないもので差別するのだ。いじめる側が逆転しただけの支配関係だ。
子供は親が好きなものかと思えば、そうでもないらしい。
親を親として見ていない人もいる。
親がくれたものに対して、無駄に使うことは罪悪感を伴う。
親が犠牲となって得たものだと知っているからだ。
他人は違う。だから他人からはいくらでも吸い上げる人がいる。
他人からももらったら他に回していくものだ。
次はあなたの番だよ、と教えも物も、回していくものだ。
広げていくと言えばいいだろうか。
お前と俺、と区別していたいのは、張り合いたい人だ。
みんなで幸せになろうとしない。
そうした個体は、自分だけ、と吸い上げていく人に不満は持てない。
より社会的に上の立場になった自分がやっているのだ、と思えば、吸い上げられることにも耐えて当然だ。
非常に、低レベルな戦いを世界的にやっていると思う。
しかしながら日本は侍の国。
我が身を捨てて志に生き、仲間と共に切磋琢磨し自己鍛錬に励む国民の国だ。
このままでよいわけがない。
生きていけるのに人を見て羨み、より贅を尽くしたいなど凡そ侍の持つ感覚ではない。
他人と比較して他人の持ち物を羨む人が実際には沢山いるというが、本当にそうだろうか。僕は信じない。
何か深い考えあり、人に見えないところで精進しているのが日本人だ。
それが侍と言うものだ。
一見して遊んでいるように見えても、それには深い意味がある。
敵を欺くにはまず味方から。
いい年をして本当にただ遊んでいる人がいるわけがない。
実際には、誰にも知られないように何かをしているものだ。
誰にも知られないようにするものだから、誰も知らないのが当然だ。そのような人は、おそらく五年、十年経った時に成果を見せてくれるだろう。
だから一見してわからないことをしている人も、気にすることはない。
精神分析はともかく、個人的にはそう考えている。
なぜならば、精神分析を含む心理学はドイツが先陣を切ってくれたと言える分野だが、僕は日本人だからだ。
日本は島国で、鎖国をしていた。彼らとは違う。
サイコパスなんて言われるが、実際にはそんな人がいるのかどうかと僕は思う。
ただ個人的に恨みがあった人が、誰かをひどい悪魔にしたかっただけではないだろうか。
僕個人の考え方と、精神分析学的な結論はだいぶ違う。
一応どちらも書かなくてはならないし、引き合いには出すが、実際に日本人の中にそんな人はいないだろうと僕は思っている。
どうせ確認などできないのだから、好きに考えていたほうがいい。
心の中は恨みや憎しみでいっぱい。
人を見張っては他人の持ち物を羨んだり奪いたがったり、気に入らないやつを傷つけて喜んだり。
そんな人間がいるわけがない。それでは悪魔だ。
人間の中にそんな部分があっても、それが全部ならば人間ではない。だから人間の中にはいない。
だからこそ、全体の動きを見ていて考える。
この国全体が我慢しているならば、この国が何かに屈して我慢しているということだ。
また、この国の中に自分だけと吸い上げている個体がいるということだ。
なぜだ、と考える。
何か理由がある。すべてに。
何が起きているのか、常に考えている。
「お前が悪いんだからなんとかしろ!」
という意見が論外なのは当然だとして、そうした個体が多く発生していることについて、原因を考えている。
僕はとにかく、黒船来航したとき実際には何があったのかを考えている。
おかしい、と思えることがあるからだ。
物差しとして自分の一族という確認可能なものを持っている。
事実あったとわかっているものがあるのだから、そこを基準に考える。
この物差しを持つ人を確認する方法を、一部だが知った。
照らし合わせて集めていく必要がある。
言われていることは言われていることでしかない。
実際に社会に出ると、社会の裏側を知る。
僕など大したものではない。社会の多くを知らない。
誰もが学ぼうとすれば学べるものすら知らない。
経済学者、社会学者、政治学者、様々な分野の学者に加え、実際に体験している人、政治家になったわけではない。
表向きと実際のところが違うのだから、表面に出している部分から考察していかねばならない。
少なくとも、実際の歴史と残される歴史が違うことは、子供のころから知っている。
沖縄の人たちなどは、それを痛いほどよく知っているので最も社会の正しいなど信じないだろう。
日本人は急に正しいと思うことが変わった。
なぜ?
それぞれが自分の親に、またその親に聞けばいい。
誰かのところで、いきなり変わったのだ。
元々、日本は世界的に見れば様々なものにおいて弱小。
自分たちが持つものを手放せば最悪なことになる。
僕も過去に、自分たちの誇る伝統技術を古臭いと馬鹿にして西洋のものばかり欲しがってはいた。
今になって、それが間違いだったとよくわかった。
目に見えたものではない、とよくわかった。
日本だからこそ発達できた部分があるのだ。
それを手放してはならない。
真実が簡単にメディアで公表などされない。
何かが伝えられたら、実際には何があったのかと考える必要がある。
そしてなぜ、今これが流れてきたのかを。
心の仕組みがわかっていれば、見当はつく。
だが、わかっただけではどうにもならない。
どうするか方法を考え、実行する必要があるのだ。
おそらくは、まだ自分では考えたことがない人もいるのだろう。
他人に言われたことの寄せ集めで生きているというか、背景があり結論があるとわからないというか。
「どうしてこうしたの?」
「だって誰誰がこう言ったから。」
自分の考えは何もなく、「他人が自分の一部だ」と思っている。
自分以外の人たちで自分の今後を決めるのだから、気に入る人だけ残す方に躍起になるだろう。
このような状態のまま、大統領にだって上り詰めるのだから人間は恐ろしいものでもあるし、面白いものでもある。
「大統領がこんなに大変だと思わなかった。」
と就任後のトランプ氏。
だが、素直な日本人は他人が言ったことには不満があっても従うし、自分たちのためを思って権威は何かを決めていると信じている。
親も信じないのに、なぜ他人がそこまでしてくれると思うのか。不思議でならないがそれもまた良い子の条件なのだろう。
素直に自分の気持ちを認めないものだとは聞くが、そんなに長い間我慢はできるものだろうか。
自分でも自分がカッコ悪いとかみっともないとか、情けないと思う発想は勝手に出てくるものだ。
そんなものが止められるわけがないのに。
自分が自分の気持ちを評価すれば、都合のいいことしか見なくなるだろう。
感じているものを言語化せず、いつまでも「私は私がわからない」を続けていくしかない。
望ましい自分しかいない!と思い込むためには、我慢して実際とは異なる自分のふりをして生きるしかないだろう。
なるほど、自分に我慢させ、自分への憎しみを他人への恨みに変えるのだろう。
その恨みを利用して、大きなものを動かし、より大きな力で恨みを晴らしたい人の力になるのか。
どっちもどっちと言うか、やはり同じ方向性の人たちしか一緒にはなれないのだ。
個の恨みは集まり、もつと上にいる個の恨みのために使われる。
エネルギーの流れを考えると、やはり人間はたった二人なのだろう。
物質的にはたった二人の一部なのだろう。面白い。
家族の時点で、右手と左手が喧嘩して体をばらばらにしていくようなことが起きているのだから。
天の父はどう見ているのだろうか、などと考えてしまう。
言えないから辛いのだ
何でも言える相手など、親くらいしかいない。
だが、そのうち親にも言いたくない内容の悩みが出てくる。だから辛いのだ。
生まれた家の中の問題は、外には出せない。
言えない。だから辛いのだ。
自分の家の問題は自分たちで解決しなくてはならない。
人様は関係ない。
そして自分の家の問題を外に出してしまうということは、一家全体の中身を社会にさらしてしまうということになり、一家そのものの社会的な評価を下げてしまうことになる。
「うちではこんなひどいことがあるんだよ!」と言いふらしてしまえば、他人はそれを聞いて面白おかしくまた言いふらす。
自分たちにとってマイナスにしかならない。
他人は他人。人のことは所詮他人事だ。どんなに気の毒であっても、自分の子供のように心配はしてくれない。守ってもくれないし、「あの家はそういう家なんだな」で終わる。
親切な人は何かあれば手を貸してはくれるだろうが、それでも自分の家族を捨ててまで人の家の誰かを助けない。
何よりも、自分の親の格や家の名誉を下げることを、普通はしない。親の悪口を言いふらせば、「そういう親の子だから親の悪口を言いふらすんだよね」と納得されるだけだ。
人になかなか言うことはできないから、辛いのだ。
余程信頼して、口外しない人でなくてはなかなかそんなことは言えない。後から人に言ってしまうかもしれない人ならば、そんなことは言えない。
誰でも自分の親を他人に悪く言われたくはない。
だから悪口を言っても他人は同意はできない。
人の親の悪口は、一緒になって言えない。
大変だね、可哀想にね、とは言えても、心の中で思っていることはさすがに言えない。
それがわかっているから、言えないのだ。
人に言えないから、過ぎて解決したことしか人には話せないから、人は悩むのだ。
子供は親になんでも相談する。しても構わない。
だが、例えば同性の友達との問題を恋人には言えない。
あっちの問題はあっちの問題。
そんなことを話されても、恋人は困るから。
友人関係は友人関係。恋愛関係は恋愛関係。別々のものだから。
何よりも、人に悪く思われたくないから言えない。
友人のことを悪く言う人間だと思われたら、恋人に幻滅される。だから言えない。
友人のことを悪く言う人間になりたくないから、言えない。
仕事のことを恋人に言えない。
家庭の中に持ち込めない。
恋人にも家族にも、外での役目があるから。
自分だけが外で活動しているわけではないから。
本当に困ったとき、夫婦なら相談もできる。
だが、職場での嫌なことを家の中でグズグズと愚痴れない。家族だって色んなことがあるのに、気分が悪くなるから。
せっかく家族でいるのに、ここでは安心な場所なのに、家庭が嫌な場所になるから。
悩みの殆どは、人には言えない。
自分が抱えた問題だから。
現実的に解決すべき相談ならば人にもよりできるが、心の問題については人には言えない。
気分の問題。気持ちの問題。
そんなことを話されても、他人にはどうにもできないから。
聞いてくれるだけでいいから、とお願いすることはできるが、相手が嫌かもしれないし、聞く義理もないから。
話を聞いてくれるだけなら簡単だとは言えない。
聞きたくもない話を聞かなくてはならないのは、苦痛だから。
だからこそ、親しい友人と、恋人と、家族と、他での辛いことに耐えて今この場所とこの時を大切に過ごす。
辛いことは辛いことでしかないし、苦しいことは苦しいことでしかない。
だが、会えばいつも笑っているような友人たちがいる。
楽しい話ができる友人がいる。
いつもいつも暗くいつもいつも問題を抱えている人といれば、人は嫌な気分になる。
誰もが辛いことを抱えているが、それは自分で解決すべきことだから言えないし、顔に出せない。
みんなも他での時間があるから、言わなくとも何かいつも抱えているのだから。
そんなことは、言わずもがなでわかっているから。
夢の楽園に生きている人はひとりもいない。
全員同じ社会に生きている。
だから何もない人はいない。
自分の辛さだけ人前で出すわけにはいかない。
相談をすれば聞いてくれる友人がいて、愛してくれる恋人がいる。
他での問題をこっちにまで持ってこない人たちがいる。
この、自分との関係を大切にするために、他では何もないような顔でいてくれる人たちがいる。
「お前といるのだから、そんな話はしたくない」
と思ってくれる人たちがいる。
悩みなど、余程打ち解けて心を許されない限り、話してはもらえない。
気を許して安心してもらう相手になることは、とても難しい。
聞いてくれれば誰でもいいわけではない。
人は相手を選ぶ。
信頼されて、心を許してもらえなくては何も話してはくれない。
今抱えている問題がない人などどこにもいない。
どこにもいないのだ。
どこにもいないが、信頼されていないならば何も言ってはもらえない。
気を許している人の前でしか、人は弱さを出さない。
そして常に信頼できる人が近くにいるわけではない。
そんな時は、心の中にいる友人や恋人、家族や仲間を思い、自分で自分を励ましていくのだ。
問題を抱えていない人など一人もいないのに、神経症者は自分一人が問題を抱えていると思い込んでいる。
と言ったのは、アドラーだったと思う。
勿論、全員何かの問題を抱えて常に悩んではいる。
仲間が十人いるならば、ひとりひとりと個々に信頼関係を結んでみればわかる。
それぞれ他の仲間に言えない悩みを抱えているから。
十人いても、本当に信頼されなくては話してもらえないとわかるから。
何もない人はいない。
一人もいない。いるわけがない。
「言わないから悩みがないんだ!」と思うのは、信頼されていない人だけだ。
信頼もしていない人だけ。
人は話をする相手を見る。
この人に話したら、馬鹿にされそう、軽く扱われそう、頼りになる意見を言わなそう、無責任なことを言いそう、人に言いふらしそう、陰で悪口言われそう、後から何か言われそう………そんな風に、信頼できないと思える人には人は本当の悩みを話さない。
この人に話したら、親身になってくれそう、大事に扱ってくれそう、頼りになることを言ってくれそう、口が堅そう、陰で悪く言わなさそう、馬鹿にしなさそう、気持ちをわかってくれそう、後に引きずらなさそう………そんな風に、安心できそうならば人は悩みも話す。
それらを、なんとなく、普段のその人の言動から感じ取る。
「この人に話しても、なんの解決にもならなそう。」
そう思われている人は、誰にも何も言われない。
何よりも、自分の問題を自分で解決できず、いつも愚癡や悩みばかり抱えてくる人は最も頼りにされない。
するわけがない。
信頼されない人は何も言ってもらえない。
言ってもらえないが、信頼されない人ほど人が話したくないのに話を聞き出そうとする。
人は話したくないことを無理やり聞き出されると傷つく。
そんなことすらわからない人は、自分がただ安心するために人を傷つける。
頼りにならない。
信頼もできないし、安心もできない。
だから必要とされない。
大変だ大変だと言っている人は、信頼されない。
自分だけが大変で、言わない人は何もないのだと本当に思い込んでいるから。
何もない人はいない。
相手の生活や、普段を想像すれば容易に理解できることだ。
きちんと努力して想像すれば。
だが、一人の世界が好きな人は、他人の気持ちを想像して理解したら、負けだと思っている。
どちらかしか生き残れない世界が好きだから。
ふつうは、一人しかいない場でなくては、個人的欲求は捨てる。
二人いたら、自分一人の目的など持ち込まない。
自分一人だけの欲求は、一人で満たすものだ。
誰かがいないと満たせない欲求は、すべて諦めるものだ。
それはただの願望。
願望を要求化したら、叶っても全部ごっこ遊びで現実に起きたことにはならない。
自然に一致しなくては、現実とは呼ばない。
人を操作するために何かする人は、願望のために行動してそれが実現すると勘違いしているのだ。
「私は~したのにあの人は~したくれない!ひどいよね!」
まだ、この世界に他人がいると知らない。
ひどくはない。
毒親はよくこれをやる。
自分と連動する人など一人もいない。
子供ころは勘違いして「この世界に自分だけ特別な存在としているのだ」と思い込んでいる。
だからどんな親の子もひどいひどいと不満は持つ。
まだ他人が自然に勝手に動いたこと以外を、「現実に起きたとは呼ばない」と知らないから。
「ひどい!」「おかしい!」なんて存在しないと知らないから。
「これが現実だ」と受け入れる時に、誰もが体験しなくてはならないショックだと知らないから。
それが当たり前で、そのショックを全員が乗り越えていくのだと知らないから。
だからこそ、自分がどうにかなればなんとか他人が動くのだと思い込んでいる。
自分が人に合わせて動いた「つもり」だから。
実際にはそれが「操作」と呼ばれる行為だと知らないから。
「怒られるから仕方なくやった」は子供のうちならしょうがないことだと言えるが、大人になって、または他人に対してやったら「相手のご機嫌を取るための操作」だと知らない。
自分が被害者だと思っているその行為こそ、「人を操作する行為」だと知らない。
そのうち、「親も自分と同じ人間なんだ!」とわかる。
気づく。
その時、自分が何をしてきたかに気づくのだ。
人の気持ちなどあると思ったことが無い。
親も人の子。
自分と同じ。
子供も人の子。
自分と同じ。
全員が、常に問題を抱え、悩み、苦しみ、それでもこの世界を生きているのだ。
辛い気持ちを乗り越え、それでも今、この人が一緒にいてくれるのだからと心を奮い立たせ、辛く長い道のりを歩いていくのだ。
人生は重き荷を背負いて、遠き道を行くが如し。
最後までこの重き荷を背負って生きていくのが、それぞれの運命なのだから。
楽しい学生生活
卒業を控えた子供が言いました。
「この学校に入ってよかった。今年は一番楽しかった。友達もたくさんできて、面白いこともうれしいこともいっぱいあった。誕生日プレゼントもたくさんもらって、驚いた。」
日々、僕の真似をするように一緒にカードを買いに行ったり、友達にこうするんだと教えてきました。
「今日はすっごい楽しかった!」と興奮して話をしてくることがよくありました。
「今日は超良い日だったから、話をきいてほしい!」と言っては、僕に今日の超楽しい話を聞かせてくれました。
「人に良くしてもらっていない人は知らないが、人に良くしてもらっているように見える人は、その前に自分がひとりひとりに良くしているのだ。」
そう教え、ひとりひとりに心配りをするように教えていました。
実行してくれていたようで、今年は本当に沢山の誕生日プレゼントをもらってきました。
「くれる子によって色んな特徴があって、すごく嬉しい。」
と喜んでいました。
そんな楽しい一年を終え、卒業も近づきました。
「今のうちにやり残しのないようにってみんなで色んなことしようって話してる!」
みんなでやる楽しい企画をあれこれ話している我が子にこう言いました。
「あれもこれもって思うけどな、後から必ず「あれもやればよかった」と思うんだよ。だから時間を無駄にしないで、どんなことでもやれるうちにやった方がいい。俺も相棒たちとよく考えたら殆ど何もしてなかった。話をしているだけのことが多かったから。」
するとこう聞いてきました。
「今はすごく楽しいって思ってるけど、後からああすればよかったって後悔したりするのかな。それってその時はわからないけど、知らないだけでそんなに最高じゃなかったってことなのかな。」
心配になるのかよ!と思いましたが、こう答えました。
「心残りが出てくるのは、その時が楽しくないからじゃない。どんなに楽しくても最高でも、後から必ず「もっとこうすればよかった」は出てくる。最高だったからこそ、あの時に戻りたいと思うし、もっとこの時間が続けばいいのに、終わらなければいいのにと思うものだ。今の自分ならば思いついても、その時の自分は思いつかなかった。その時に今のありがたみに気づくことはまずない。俺もあの学生生活が、あの友人たちがどれほど特別で素晴らしい仲間だったのかその時は全く考えなかったし、知らなかった。後になって「あれは特別だった」と価値に気づくから、もっとこうすればよかったと思う。そのくらい最高だったということだ。
最高に幸せならば、後からやり残しが見つからないわけではない。
最高に幸せだったからこそ、もっともっとやりたいことがあったと思うものだ。
だから今、残り僅かな時間にできる限りのことをしろ。
全部はできなくても、あれだけやったから十分だと満足できるくらいに、今しかできないことをどんな小さなことでもやっておけ。」
それを聞くと安心して、「わかった!やれるだけやる!」と意気込んでいました。
今日は友達とここへいく、明日はこれをやる。
そんな話を最近よく聞きます。
子供には今しかできないことがある。今のうちにやった方がいいとよく思います。
過去には卒業のお祝いとして友人たちも呼んで食事会を予定していたことがありましたが、当日になり友達とみんなで食事に行こうという話になったけど断ったと聞き、行かせました。
家でこういう予定だから、と断ったのだと聞き、集まってくれたみんなに謝って行かせました。
「友達との思い出は、今しか作れない。今、友達と行った思い出の方が、遥かに大きな宝になるから、気にせずに行け。」
あの時大人たちはどうしたかな、と思い出せません。
どこか予約していた気もするが…と。
みんなと一緒がいい時もある。
友達との思い出はかけがえのないものになる。
それを知っているから、子供にもそれを作らせようとするのだなと思います。
親にどんなに怒られても、僕は友達を優先しました。
それでよかったと思っています。
本当に素晴らしい、輝ける日々は、後から必ず生きる糧になります。
自分がどこにいくのかは自分が決めること。
「俺もお前たちといくよ!」
と光に向かう友人たちと同じ方を目指し、足を引っ張る親を振り払ってそんなことはないかのように、みんなと共にいました。
過去なんてどうでもいい。
今、ここにいる仲間と最高の時間を過ごしているから。
俺のことを気遣って、優しくして、守ってくれて、喜ばせてくれなくていい。
なんの気も使わなくていい。
知らないものに気を使うなんてことがどれほど大変な苦労か、親にやらされていて知っているから。
「今日はどうする?」
「これやってみたくね?」
「今から行くけど、お前も行く?」
他愛もない。本当に他愛もない。
特別すごいやつなんて誰もいないし、理想的なやつも一人もいない。
「お前ってほんと馬鹿だよなあー」
「お前に言われたくねえよ!」
「前から思ってたけど、こいつ頭おかしいよな。」
「……」
「なんで笑ってんの?あ、俺が笑われてんの?」
「なんで来るんだよ、お前邪魔なんだよ」
「そうだろうと思って、嫌がらせで来てるんだよ」
「性格わる!」
「いいや、性格は悪くないが、単にお前が嫌いなんだ」
こんなものはただの言葉のじゃれあいで、本気っぽく言うから面白いとみんな思っていました。
「お前いつ抜け出したの?よく出られたな。」
「いい場所があるんだ、教えてやるよ。」
しょっちゅう学校を抜け出していました。
全員で追試。全員で呼び出し。全員で掃除。
くそ真面目女子にも叱られる。
「どこ行ってたの!またさぼったでしょ!」
でもそんな女子も良いところはありました。
「お前この弁当自分で作ったの?すげーな!小細工上手なんだなー。」
「小細工っていうな!なんか褒めてない!」
「褒めてる!すんげー細工。!いーなー弁当。こんなの作ってもらったことない。」
「じゃあ、今度また作ってくるよ。どれ食べたいの?」
と言って、本当に弁当を作ってきてくれたのに、その日の昼にサボっていていなかったと、後から激怒されて結局怒られてばっかりでした。
怒りんぼ人形みたいな女子も、優しいところはありました。
よく漫画を貸してくれた女子は、考えさせることを言ってくれました。
「高学歴で高給取りでイケメンがいいとか、女も男のこと品評してできるだけいいやつ選ぼうってするけど、あれって結局種の存続のためにできるだけ優秀な精子が欲しいってことだと思うんだよね。」
こいつ…精子いいよった…女子なのに…
その時は、それしか頭に入らなくてよく考えませんでしたが、「男もそうじゃないの?できるだけ生命力強そうな女に種残そうとしてるんじゃないかな。人間って結局動物だから。」そんなことを言われ、考え始めました。
考え始めるきっかけをくれた友人たちは、本当によく考えていました。
なぜか、相棒たちのことはこんな風に思い出せなくて、ただ可笑しかったことを思い出しては「あいつほんと馬鹿だよなあ」なんて思うだけです。
今も心の中にいるからなんだなと思います。
娘にひとつだけ言いつけてあります。
「神経症の男連れてきやがったら、ただじゃおかねえぞ!心理的に健康な男連れてこなかったら、結婚なんか許さないからな!」
世の中はどうなるかわからない。
今金持ってるとか、学歴があるとか、逆に何を持ってないとか、そんなもので選ぶな。
どんな窮地になっても諦めない、この人なら絶対になんとかすると信じられるような、生命力の強い男を選べ。
何よりも、そんなものは自然発生だから、友達を大事にしろよ。
何がなくても彼氏がいなくても結婚できなくても、仲間がいれば、なんとかなるから。
「うん、わかった!」
そして今日も、子供たちは学生時代の思い出を作りに行きました。
サイトは統合されました
サーバー移転、ドメインの変更に伴い、旧Refresherと旧最上塾オンラインは統合され、Refresherぷらす 最上雄基公式ホームページとなりました。
有料会員の皆さんには、メンテナンス期間の日数分、有効期限を延長させていただきます。
旧アドレス→https://refresher.info
新アドレス→https://www.refresherblue.com
ドメインは.infoから.comへと変更されます。
同時に行うことが多くあり、まだ粗もあると思いますが大目に見ていただければ幸いです。会員の皆様方に心より感謝申し上げます。
ところで、皆さんは自分が何を志とし、社会において自分が何と共に進み、何と対立しているかを自覚していますか?
「私はきちんとやっています!」と理想に従い認めてもらいたい側は、社会においては一部の企業の味方です。きちんと、の内容は、外側で決めてもらったものであり、社会ではなく企業に有益なものだからです。社会的に必要なものの皮をかぶせても、本質的には企業に有益なようにできています。
資本主義社会では当然のことでしょう。従うかどうかは個人の考え方であり、そのシステム自体は批難することでもありません。賛同する人がいなければ成り立っておりませんから、大勢が生き方により賛同を示した証です。
僕の立場は、自分で生き方を決めたい多くの庶民層の味方であり、生まれながらの優等種だけが生き残るという考えに、僕は賛同致しかねます。
僕は幼い頃より教えられた「侍の在り方」である、「労働者こそ国を支える最も大切な人たち」という考え方に賛同しております。
僕自身の目指すところを、この機に明確にしておきたいと思いました。
現在は個人にとっては必要性が無い目標に、目指すものを一本化しそこに倣わせていくことで一部が全体から吸収していく仕組みが成されます。
現在、富裕層でない人々もこの優等種だけが生き残る考え方に賛同し、権威や金銭、能力での優越を最も重視し、それが手に入るか手に入らないかの競争をする生き方を選んでいます。
「褒めてもらいたい」人は、存在価値を感じるために最も強い力の指示に従わねばなりません。
多くの人が強い力に生きる道を決めてもらうことを選びましたから、資本主義の定石通り今後戦争に行くであろうことは現状を見ても予測できます。
しかし、全体がこれを押し上げる限りその行先は皆が目指した方向です。
僕は全体の一部でしかありませんから流れを止めることはできませんが、大きなうねりの中で最後の時まで楽しんで、自分の判断で生きていきたいと考えております。
どういう生き方をしているかが、何に賛同しているかを示しているからです。
今後も僕は書き続け、また話し続ける所存ではありますが、皆さんも本質的なことについてよく考えながら活動していただきたいと思います。
社会や他人にとって自分ほど小さくどうでもいい存在はありませんが、自分にとって自分ほど大きな存在はありません。
社会の流れは自分の未来に密接に関わる問題であり、自分自身の在り方もまた社会の一部です。
自分自身しか自分のことを重要に、真剣に考える人はありませんから、各々が自分について深く考えていただきたいと思います。