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やっぱりどうでもいいニュースだった

 先日アップしたどうでもいいニュースの続き。吉本の騒動だ。

 真実がわかるのはやはり「実際に人を見て」だなあと思った。

 僕は今の大阪についてどのくらい心理的に問題が悪化しているのかはわからないが、ここ十年程度に出会う大阪の若い人たちを見ていると相当変わったなと思っている。

 大阪でさえ「きちんとやってます!」「良い子にしてます!」が大事になってきているのか…と思っていた。

 結論から言うと、親子喧嘩みたいなものなんだなと。心理的には。

 会社組織だから!と軍隊みたいなものを最近は求めるが、そんなことでやっていけない。

 若い人たちの方が、ビビっている。
 ビビっているから、悪い方に悪い方に考える。

 「きちんとわかってもらわないと」と焦る気持ちがすごいんだなあと思った。

 社会が許してくれない感が、ひしひしと感じられる。

 責められることを異様に恐れている。

 だが、先日動画でも言ったが、真実なんて体験した人たちにしかわからないのでどうでもいい。

 ひとつ間違っているなと社長の会見を見ていて思ったのだが、「相手がそう感じたのならそうだ。」という点だ。

 受け取り手に合わせて現実は作られるならば、誰も自分の意見を言わない世の中になるだろう。

 どっちもおかしい。

 バカなの?と思う。

 事実、どういうつもりで言ったのかの方が重要なんだよ。
 解釈はその人の人格を通して行われるんだから。

 解釈する方に合わせていたら、現実に出てこられない。

 安心なんてすることはない。

 劣等感を抱えた人が、自分の感じ方に合わせて現実がその通りだったことにしていれば、誰が何をしてくれても謝っても、何も変わらないどころかどんどん苦しくなる。

 なんか、情けねえなと思った。

 可哀想にと思う。
 あんなに精神弱いままだと、大人になって辛い。

 責められたくない精神を持ったまま、目立つことを選んだら辛くてしょうがない。

 責められたくない人は、優越しようとしない。
 つまり有能であろうとか、優秀であろうとか、人より良い子になろうとかすれば、当然責められることも多くなる。

 責任をより多く抱えるからだ。

 「僕は〇〇ができます!」と有能さをアピールすれば、何かを任されることも多くなるだろうが、その分期待がかけられているのだから他の人なら許されることも許されなくなってくる。

 それが賛辞される立場に課せられるリスクだ。

 つまんない争い、と思った。

 最初から内容がつまんない問題は、どこまで行ってもつまらんものだ。

 夫婦喧嘩は犬も食わないというように、そこだけでやっていた方がいい問題なのだなと思った。

 こんなものを流しているうちに、参院選は終わった。

 山本太郎、あれほど男気溢れる賢い男はなかなかいない、と僕はそちらに関心を向けつつ、僕のやるべきことをやる。

 皆も自分の生活、家族をまず大切にして、他人のことはどうでもいいので自分自身の人生を大切にしてほしい。

 自分自身の人生とは、他人が一切登場しない、ただ自分が何をしてきたかの人生のことなので、誤解なきよう。

 

 

僕は反エリート主義です

 僕の活動理念を書いておきます。

 心理や教育を説く人にも色々な人がいますが、とりあえずその人がどういう思想や理念で活動しているのかは、受け手に重要だと思います。

 僕は反エリート主義です。負け組、底辺、地方の味方でありたいと思っています。

 僕は藩エリート主義です。
 加賀藩士の末裔として浄土真宗の教えの元に育って参りました。
 元より社会のため、志を同じくする同志と共に精進し尽くしていくことにはなんら疑問は持たず、金や地位より領民の安寧こそ、遣り甲斐だと思っています。

 心理学は世の中でもよくわからない占いめいたものがわんさかある分野です。怪しげなものだと思われることもありますが、他のものと同じように様々な根拠あり成り立っている学術です。

 しかし、僕は心理の分野においても他のエリート分野と同じく「エリート至上主義」が見られることを知っています。
 学歴肩書絶対の世の中になれば、一部の層の下に多くの人々が劣等感を持つでしょう。
 何よりも、そこを能力の要にするならば失敗は許されません。

 しかし現実は言葉ではありません。

 僕の身内含め身近な人々には自殺した人が何人もいます。
 病院に長く通う人が何人もいましたが、薬をもらい続けカウンセリングを受け続けても、彼らはどんどん諦めムードになりました。

 人生のどれだけ多くを、彼らが病院に通うだけの生活に費やしてきたことか。

 人の救いにならないならば、名前に意味などないと僕は思っています。
 死んだ人は戻ってこない。
 大丈夫大丈夫と言いながら、人の命を預かっているという姿勢が見られないと僕は思いました。人の人生と命を預かる仕事です。信じているからみな病院に行くのです。
 心理的成長を促すのですから、親を超える導師でなくてはならないと考えています。

 知識や経験は大事です。
 肩書にそれは全て付属してくると人々は信じています。
 命を預かるということが、どういうことか。

 僕は真実を知るために、この分野を選びました。
 こんなに面白い学問があったのか、いつも考えていることをしているだけじゃないかと思いました。

 自分自身の哲学など、持っていて当たりまえ。
 人の心理や自分自身についてなど、考えていて当たりまえ。
 心理の道にいる人々は、自分自身が家族の問題など抱えているわけがないでしょう。
 それを解決するだけの知識なのだから。
 愛情あふれて幸せに問題なく、生きがいを感じて生きているはずです。

 多くの人がそう信じているのは、教えているからです。
 自分の問題を解決できない人は、他人の問題に手を出さないからです。

 何よりも、学んでみてわかりましたが、この学問は理解すれば悟りに近づいた人になることが可能です。それが心理学です。
 過去の天才たちが、その仕組みをブッダとは違った形で解き明かしました。

 つまり心理学の専門家とは、人として成長した人である証だと言えます。

 僕は戦後の人間です。
 今は昔と違い、平民から努力に努力を重ねた「エリート」の方が命を賭して仕事にあたってくれています。
 国民のため社会のため、一丸となり自分の欲や得を捨て、お役目にあたります。昔ならば切腹覚悟だったところ、今の世では命を捨てません。

 もう武士はいないのだと気づき絶望した子供時代の後、「よりお役に立つ方が社会に出るべきなのだ」と納得し、多くの人と共に力を合わせて社会のお役に立とうと僕は決めました。

 好きでもない学問、仕事、本当に好きでやる方には敵いません。
 僕が好きでもないことをやれば、枠がひとつ減ります。
 何をやるにも一所懸命は当然ですが、心からやりたいと思えないものは選びません。好きでもない、懸命にもならないのに、枠をひとつ減らすことが社会にとって迷惑にしかならない、人の才能を伸ばすチャンスを奪っていることにしかならないとわかっているからです。

 専門職を選ぶ方は、命を懸けていると僕は考えていました。
 心からやりたくなければ、専門の道など選びません。
 それをしているだけで楽しくてやめられないのが専門分野です。

 専門の道を敢えて選んだ人は、やればやるほど楽しくなるものを見つけたとてもラッキーな人です。
 悩んで道がわからなくなる人たちとは大違いの、超ラッキーな人たちです。

 そうでなくては困ります。
 それが心理的に健康な人だからです。

 ところが、実際には今のエリートは昔の武士とは違いました。
 貴族化された社会です。

 そして多くの「エリートになりたがった人」たちは、自分たちがどうしてそうしようとしたのか知りません。
 150年前にどういう動きがあり、突然の学歴エリート社会に転じたのか、そして自分の一族がなぜその道を選ぶ必要があるのか、まったく考えていません。

 僕はなぜ学問は好きなのに、学歴至上主義に対して反発心があるのか考えました。
 僕は加賀藩士の中でも、社会が変わった時に武士の生き方を捨てられなかった一族だからです。加賀藩士たちは悩みました。長く続く一族は特に悩みました。

 その分、僕は自分が差別的な世界で有能な方になっていくことを望みませんでした。家柄で選ばれることも選びませんでした。

 「お百姓さんが一番大事なんや、武士が刀差してるからて偉いと思うな。」

 この教えの元、僕は人は誠実さや愛情や、勇気や信念こそ大切だと考えています。人は上も下もなく、役割分担して協力していくべきと考えています。

 死んだ命は後から何を言っても戻ってきません。
 しかし、その責任は誰も取ってくれません。
 他人任せにせず、自分の力でなんとかしていくしかないと思いました。

 僕は精神医療の世界に大いに疑問を持っていましたが、今の社会の流れを理解し、よくわかりました。

 「今は」エリートとなった人たちも、自分たちが誰かの真似事をしているだけだと知らないし、この社会は最後には家柄しかないのだ、生まれ育ちが全てなのだと知りません。

 最初からコネのある人間にはどう頑張っても勝てないのだと、知らない人が多すぎです。
 同じになれた気分の人は、自分が得たら得られない人たちを差別します。

 そして僕は、今のこの世の中は良くないと考えています。

 加賀藩士の末裔として、信念や志なく、自分の優越や金のためにエリートになるなど、以ての外と考えています。

 昔から日本の領民は善良だったので、力ある人たちが責任を持ち、彼らのことをよく考えていかねば世の中は成り立たないのです。

 僕は考えた末、とにかく何屋さんでも良いので、与えられた天才頭脳を人々のために活かすことにしました。天賦の才は天の物、人々のために使うものです。
 そして自分自身が安心安全な場所にいて、「そんなものは無くてもいいんだ」と言っても説得力がないと思い、好きにすることにしました。

 僕の恩師加藤諦三先生を、この人は専門の訓練を受けていないと罵る人がいます。
 専門の訓練を受けただけの烏合の衆と、加藤諦三は違うのだとわからない人です。

 結果、何をしたか。
 彼は数年前、国から功績を認められ勲章を授与されました。

 結果、何をしてきたかが全てなのだと僕は考えています。

 それにしても、他人を尊敬できない、人の功績を称えられない、人をバカにして蹴落とすことしか考えない、およそ武士なら考えられない下卑た精神です。

 欲に釣られるとここまで人は変わっていくものなのかと残念になります。

 日本の領民は元々善良で温厚で、働き者です。

 僕はエリート至上主義に乗らなかった人、乗れなかった人、自分には何もできないと思い込まされている人々の味方として、活動しています。

 昔は無かった概念を、この150年で刷り込んだこのやり方こそ、間違いだと僕は思っています。

 そしてより大きな力を得た人々こそ、より人々のために尽くし、働き、学び、人の幸せを願えないのならば、僕は死んでも死にきれない気持ちです。

 我々が屈辱を味わって身を引いて行ったこの日本が滅んでいかないよう、他の皆様と同様に、自分自身の小さな力を持って支えていく所存です。

 もう自分は負けたから、これからも大したことはできないんだ。と信じている人々に、希望と勇気を。

 自分たちが得たら「この程度」と人より得ても感謝できず、大勢が苦しんでいても足りないものをまだ得ようとする完璧主義の人々は、幸せになる必要はない、と僕は思います。

 分け合って力を合わせて生きていく人々にこそ、幸せは感じられるのです。

 

最上 雄基



これが本物の男だ

 

 この男が、本当に成長した人です。

 講座に来た人や生徒には少し話すこともあるけれど、僕も同じ考えです。

 僕も自分のキャリアを考えれば、加藤諦三の推薦の元、せっかくあちこち推薦して育ててくださるというのだから有難く恩恵を受けていればいいのだけれど、僕も彼と同じくこの世界の中に入ってわかりました。

 上に行ってものらりくらりの繰り返し。

 結局は金と権威が動かす世界。

 精神医療の世界がこういうことになっていたとは。全て繋がっていたのだと知り、僕は当初「もう海外に行こう」と思いました。

 モルモットと同じだったのだな、と気づきました。
 全て繋がっている。

 俺は助かりたい。
 冗談じゃない。

 どうしたらいいの?なんて言い続けていた人間は、その分今まで恩恵に預かってきたのだから仕方ない。

 僕がはみ出して叩かれていた頃、どこかでちやほやされたり、誰かに慰めてもらったり助けてもらったりしてきただろう。

 だからイーブンだ。僕は過去にみんなが得たものを捨て、馬鹿にされて生きてきた。自分を助けてくれもしなかった人たちを、助ける必要がない。

 自分が目指したところの人たちに、助けてもらえばよい。
 それが自分の仲間たちなのだから。

 自らが選んだ道、後悔はしないだろう。
 どうせ死ぬならなんだかわからないうちに死んだ方が楽だ。

 生き方は本人が選ぶことなのだから。

 でも、彼を知り、ここで逃げていいのかと考え直しました。
 僕は加賀武士の子だから。

 そして彼もまた、そのような血を受け継いでいるようだから。

 何が起きているのかはわかっています。

 でもどうせ信じないでしょう。

 誰を応援しているかで、なんとかなる程度に思っています。

 自分たちが行動を変えない限り、「既に賛同しているから今に至っているのだ」とわからないのだから。
 口で言っているだけ。実際には権威に従って権威を押し上げる。

 言っても無駄。
 隠れることと逃げることしか考えない。
 他人を押しのけていち早く権威や金のあるところにしがみつきたい。

 自分だけは助かりたい。優しいことを言いながら助かるところで笑っていたい。

 助からない人は人で、誰かに気に入られれば助けてもらえると考えるほど、今起きていることを軽く考えている。

 現実味がないのだから。

 全体をここまで退行に向かわせてしまったのだから、ひとりひとりに話したところで軽い扱いしかできない。

 なんかわからないけど、従っていればなんとかなるんじゃないの?

 という発想が神経症者であることは僕はよくわかっています。

 自分が褒めてもらえる状態でさえあれば、認めてさえもらえればなんとかなる。

 自分が認めてもらえれば全てうまくいくと思うのが、自分を中心に世界が動いていると思っている状態だから。

 想像力の欠如。

 まずい、親を叩かせては逆効果だ、と気づきましたが、どうしたらいいものかと考えていました。

 みな親を食ってしまった。

 仇を討たねばならないと気づかなかった。

 親を相手に被害者になり、そのまま一族崩壊。

 この流れも、一から説明していたら長くてしょうがない。

 「このままでいたら、誰に気に入られようとどうにもならない。」

 とわからない。

 それどころか、もう生まれた時から僕たちは奴隷のレールに乗せられている。

 それに気づかない。

 文句を言ったらなんとかなる、正しいことを言えばなんとかなる。

 良い子は助かる。と「覚えこませた」ことでもう僕たちの負けは決まった。

 従順な良い子であることが幸せに必要であると教えるのは危険———

 もう「褒めて認めてくれる人」なんてどこにもいない。

 全部自分でやらなくてはならない。今までもそうだったのに、あたかも「従っていなくてはならない場所にいるつもりで生きていただけ」。

 「ちゃんとやってるのに!」と怒っている人がいるが、ちゃんとなんてもうない。

 誰かが決める場所になんかもういない。

 「彼らは新しいコンテクストにいることに、まだ気づいていない」

 だからもう誰も決めてくれない褒めてくれない、新しい場にいるのに、その新しい立場だと気づかないまま生きている。

 他人の批難など、自分が人に嫌だと言った程度のもの。別に自分を決めたわけでも評価したわけでもなんでもない。

 侍の…と連呼してきました。

 以前、たまたまなのか、魂が呼び合ってくれるのか、あの鬼の平蔵の子孫が訪ねてきました。

 「何が許せないですか?」との問いに

 「権力が許せねえ。」

 奇遇だな、僕もだ。

 敗戦後、侍の魂、日本の精神を消しにかかってこられている。

 そしてもう絶滅寸前になっている。

 僕たちは嘘をつかれて架空の世界に生まれ育っている。

 まさかこんな天地がひっくり返るようなことがあるとは、この島国だからこそできたこと。

 洗脳。誰もが自分が洗脳されて生きているとは全く思わない。

 僕は気づいて、驚愕しました。そして即異国に行こうと思いました。

 「わかってる人たちは海外に行く手段も持ってるからね、慌てないよ。」

 誰かが言っていました。

 そうか、知っている人たちは、最初から知っていたのだなと。

 知らないと言えない、わからないと言えない、人に合わせて自分も平気なふり。

 「どうしたらいいの?」

 と聞けば必ず自分を他人が助けてくれると信じている。

 自分で生きなくてはならないと、考えて判断しなくてはならないと、思ったことがない。

 良い子にしていれば、死ぬまで誰かが助けてくれる。守ってくれる。

 では、助けて守る側は誰?

 お父さんとお母さん。

 心理的に子供のまま。育つまで知らない人たちも皆で育ててくれる。

 この世界にいる子供は自分だけだから。

 その感覚。

 人が助けてくれるのは、自分が困っているからだ、と思う。

 どんなに困っていても、他人は助けられないし、助けたいかもわからない。

 「やりたくないなら、他人はやらない。義務なんかない。」

 そして全員自分がまず最優先。どんなに親切だろうが他人は後回し。

 そんなものは当たり前。まず自分ひとりの身を守り、子供の身が次。

 太郎さん、すまん。

 何をしたいのかわかっていて、俺はいつまでも勇気なく。

 確証なんて得ることは不可能なことなのに、自分では確実と思っても他人に言うのは「結果が出てから」と思ってしまう。

 この人このままだと死ぬな、と確信してみても、神経症の人は「絶対」を求める。

 だからとりあえず、本当に死ぬかどうか間違いなく死ぬと結果でわかるまで、待っていなくては。

 そうでなくては「絶対」を求める人には答えられない。

 相手の希望を聞くならば、間違いないように終わるまで見てから「やっぱり死んだね」と言うしかない。

 未来に絶対とは言えない。少なくとも僕は昔から、自分だけは確信したら動くけれど。

 動いていいのは自分だけだから。他人に口出しは無用。

 神経症の人は不可能なことを求める。

 どうしたらいいのか?も確実な未来。

 そんなことは人間には無理なので、結果が出るまでは見ているだけ。

 つまり手遅れになって終わってから。

 確実な未来とは、その未来が今になった時わかるものだから。それしかない。

 もう上を通って正しいことなど、絶対に降りてこない。

 大勢に撒かれる形になるころには、暗号のようになっている。

 正しいことは、間接的な表現でバラまかれている。

 検証して確認できる人は、どちらにせよわかる。

 しかし、確認できない人たちは、よくわからないからとにかく強いものに従うだけ。

 モルモットのレーン、家畜のレーン。

 流れては死んでいく、地獄行きのベルトコンベヤー。

 人間とは、恐ろしいものだ。

 皆は権威が好きだ。真実より安心できることを聞きたいから。

 人間は不安になればなるほど、自信がなければないほど、権威あるものが真実であると信じるために努力する。理由付けをする。

 つまり自尊心が高くならねば、力あるものを嘘だとすら思えない。

 根拠の全てが「聞いただけのこと」。しかし、権威が言えばそれは体験したかのような真実に思える。

 思おうとするのが、人間の心理なのだ。

 僕はたまたま、江戸時代から変わらない内容の教育を受け継いでいた。

 だから助かった。気づいた。

 アイデンティティを失っていなかった。

 おかしいと思うものに、従わなかった。

 侍が黙って終わったはずはない、何かを見えないように残したはず、と信じていた。

 彼らは教育の中に侍魂を残した。

 僕たちは江戸時代にはアメリカンインディアンのように、本当に内面的に成長した国にいた。

 確かに今は退行に向かっているが、ある時これまでの善悪が覆された。

 そこから始まった。

 頑張って間違ったことを信じているから、正しいと思うことをやればやるほど苦しくなる。

 最初から、そのように出来上がっている。

 心理の側面から考えれば、この全体の窮地を脱していくには心理的に成長するしかない。

 つまり神経症を治すしかない。

 侍の末裔は、「自分は何もしなくても良い子で見ていれば大丈夫」とは決して思わない。

 必ず、これが正義と思うものに出会ったら、俺「も」やらねばと思うはず。

 なぜか説明はできない。そのように教育されてきている。

 太郎さんも、核が燃えている。わかる。

 あの胸の奥から何かが込み上げてくるような、燃えるような感覚があるのだとわかる。

 もっと、もっと言わねば、と思いながら、いつも様子見をしてしまう。

 だがもう時間がないのだなと、この演説を見ていてよくわかった。

 太郎さんから見える光景が、今そうしなくてはならないように見えているならば、もうまずい。

 ちなみに、僕が見る光景も、もう絶望的だ。

 僕は母の元に行きこう言った。

 「俺たちは最初から騙されている。あそこを動いてはいけなかったんだ。今まで気にしていた健康のあれこれも、やってきたことを考えれば今癌になっていることは当たり前なんだ。俺がせっかく専門知識を得るようになったのだから、老いては子に従ってください。社会では嘘しか言われていないんだから。」

 家族はみんなでやっていかなきゃダメなんだ、と母に長々と説法した。

 力を合わせて生きなくては、人間は生きていけない。
 気に入るとか気にいらないとか、そんなものはみな同じ。
 それでも一緒にやっていくのが家族というものです。

 母はもう、考えることはできない。幼児退行化は進み、僕の目から見たらもうだいぶおかしい。
 一般的には、この日本では普通に見えるだろうが。

 もうだいぶ色々書いたりしているような気もするが、Refresherぷらすの方に是非有料会員登録してほしい。

 これから「世間では言ってはいけない医療の話や歴史の話」を動画で上げていく。

 権威の元に入れば、もう自由は利かない。

 しかしそこからはみ出せば、生きていくこともできない。

 それでもやるんだろう、太郎さん。

 ここまで捨て身になるとは。

 異国の監督があなたの映画を撮るのもわかる。

 本物のヒーローだから。

 大将クラスになれる男前、僕は彼を以前から支援している。

 僕は領民の近くでみんなの様子を見ながら、中心を遠目にみつつ、その穴を見破る役。

 元々、そういう役目の家に生まれている。

 信じられないよね。僕も気づいた時はちょっと動揺し過ぎて、なんだかわからなかったし頭がおかしくなったかと思った。

 それっぽいことを言う人も沢山見かけはするけど、その人たちも本当のところよくわかってはいない。

 全体を面で考えられる人は、滅多にいないようだ。

 僕たちは力を合わせなくてはならない。

 最初から金持ちに生まれた人たちが、なぜ庶民を大事にすると思ったのだ。

 〇〇だから、そうするもの。

 そんなものを決めた人たちが守ると思うのか。

 それは「守らせるため」に作っただけで、作った人は守らない。

 ルールは守るために作るんじゃない。使うため、守らせるために作るのだ。

 彼らとしては、してやったりなのだろう。

 これだけ従順な国民性。

 そして江戸時代が平和だっただけに、お上はそれなりに自分たちのことをちゃんと考えてくれるもの、と思い込んでいる。

 時代が変わって上が変わっても、「お上はこういうもの」とこれまでの歴史ですっかり安心してしまっている。

 正しいことを真面目にやる。

 昔はそれでよかった。大昔は。

 「こうすればいいよ」と言われた通りにしていてもなんとかなったのは、昔は上が違ったからだ。

 日本人は真面目で、質素でも不満一つ言わず、子を沢山成し、民族性を捨てない。

 つまり、上だけ変えれば、自分たちが疲弊するだけの教えであっても、真面目に働き、褒美に感謝し、質素でも「頑張っていればいつかは」と昔の感覚でやり続け、疑問一つ持たない。

 江戸で培った感覚を生かせば、勝手に頑張って勝手に搾取されて、勝手に死んでいく。

 それまでに、頑張って異国の人々が暮らしやすい国に作り替えてもらえばよい。

 ということだ。

 もっと貧しい水準にして働かせる予定だった日本人。

 だが、今の水準にした方が良いと判断された。

 他の後進国と違い、日本には他にないものがあったから。

 見事発展を遂げ、これから国ごと献上するところだ。

 僕たちは勝手に死んでいく。

 生きているのもいけないような気がしてきているから。

 そのように、追い込んでいったのだから。

 心理的にはどこまで計算されていたのか知らない。

 だが、アイデンティティを捨てさせるということは、そういうことだ。

 親を恨んで、他人の真似をして、自分たちの構成要素を捨て、自己の同一性を失う。

 自分探しを始めることになる。

 だが、残念ながらまだ侍は残っているぞ。

 また残っているぞ。

 昔から何があったか忘れない、元々日本にあった教育を受けた、昔を知る末裔がまだ生き残っているぞ。

 思考能力を奪えば、一網打尽だ。

 「どうしたらいいの?」と簡単に人に聞く人がいるが、自分の分だけでも「考える」というのは大変なことなのだ。

 その労力を、使ったことのない人は知らない。

 そして使わなかったから、能力が育っていない。

 周りに守ってもらえると思い込んでいるということは、周りに否定されたら一貫の終わりだと思う、ということだ。

 そんなことがあるわけないけどな。

 君に否定されても、僕が一貫の終わりにならないように。

 肯定されれば大丈夫、と思う人たちは、そもそも今までだって頑張っていい子にしてきたのに、ちっとも大丈夫な結果にならないどころか、どんどん窮地に立たされていることに疑問を持った方がいい。

 わからないことがあると、自分がわからないという理由だけで、「今、質問して良い場所と相手」かどうかも考えずに質問して当然のように答えてもらえると思う人がいる。

 「それを聞く君は誰?」

 その誰?がわからない。

 それがアイデンティティを失ったということだ。

 自分が名乗る前に、相手に話しかける。

 自分で自分が誰なのか、相手に理解可能な形で証明することが、何よりもまず先なのだ。

 他人から見た時、異質であり、なんだかわからない存在なのは、自分の方なのだから。

 怖いのは周りではない。

 周りの人は、あなたが怖い。

 

自分の存在価値を上げるために

 うちの少数精鋭、継続して通わせていることには意味があります。

 最初に話しても多分みんな忘れているんじゃないかと思うのですが…。

 尊重される扱い

 というものを体験させています。刷り込みです。

 僕のところでの扱いは、恐らく尊重されなかった人にとっては「とても良い扱い」です。

 それを「当たり前に感じる」くらいまで、自分をその扱いに適応させていくのです。

 こればかりは回数が必要です。

 その間、勿論色々なことをやりますし、教えます。

 生徒たちには自分の生まれ育った土地についても、どういう背景の中を生きてきた一族なのかも僕が調べて教えます。

 少数精鋭に通いたい人は、是非体験に来てください。

 尊重なんてものは、教わってわかるものではありません。

 少々居心地が悪いと思えるほど「良い扱い」を、愛された子はしています。

 自分を大切にしてきた人は、喜んでも楽しんでも、その扱いには引け目を感じません。

 低い扱いをされた場所に適応し、僕の扱いと比較して向こうを恨んでしまうと意味がありません。

 当然だと傲慢になるのも低い自尊心です。

 当たり前とは、「気にならない」ということです。

 すごいともすごくないとも感じない。

 ただ嬉しいとか、楽しいとか、それだけ感じられることが望ましい到達点です。

 僕自身が、昔尊重される家の扱いに適応し、家での扱いから脱しました。

 こんなに大事にしてくれるところもあるのに、あの人はちっとも大事にしてくれない…

 になると、負のスパイラルです。

 人により扱いは違う。

 自分自身の扱いをどこに適応させるべきか、自分で考えて自ら能動的に適応していくのです。

 子供が感じる存在価値は、受動的なものです。

 親の扱いをそのまま自分の価値として受け取っていきます。

 あっちとこっちが違う!

 となった時に、自分自身が望ましいと思える方に「もう一度能動的に適応し直す」のです。

 どんなに頑張っても「低い存在価値」で自分を扱う人は、「自分を尊重する」がわかりません。

 人に扱ってもらっているだけでは駄目なのです。

 僕がどんなに尊重して扱っても、他で「こんな自分」扱いをしていたら意味はないのです。

 僕がかつて付き合っていた人も、僕が大事にしている時は随分変わっていたのに、数年で元に戻るどころか前より劣化した扱いになりました。

 結局「お世話してもらい続けたい」人には、何をしても無駄なのです。

 延々と死ぬまでお世話が必要な「お母さん」とか嫌ですよね。

 付き従うのは家臣で十分ですが、それは機能社会の話です。

 愛された家の子として振舞うことで、自分の存在価値を高めていけます。

 自尊心は自分自身の行いにより変わります。

 僕は最悪な扱いを受けて、その分より一層人を尊重するように心がけて生きています。

 結果愛された家の子と同じように振舞うから、同じような結果を得られるだけです。

 そのベースとなる「当たり前の扱い」をしつつ、心理のこと、社会のこと、歴史や仏教まで教えています。

 形の上では問題ないのに、心理的には問題だ。

 というのが神経症家族です。目に見えてわからない、言葉だけではない何かがあるのです。

 その感覚を自覚できるように、そして新たな自分となっていけるように、自分自身の尊重の基礎を作らせるのが、最大の目的です。

 褒められたら大事にされているわけではないのです。

 何をしても許されたら愛されているわけではないのです。

 そして親子ではありませんから、やはり僕が昔そうしてもらったように、実際の立場としての最大限の尊重をしています。

 神経症の人はやらなくていいことをやりますが、人にもそれを求めます。

 自分が我慢したんだから、と我慢させてきた人以外に報酬を要求します。

 誰が誰か区別できない人です。

 この場合、優しい人を食ってしまっているので、話を聞いてくれるような人を次々失っていきます。

 何がいけないのかわからない場合は、自分中心にして他人を個別に大事にしていません。

 こと親子のつながりが全くない人が多いのだなと思い、先ほどアイデンティティについての動画をアップしました。

 皆さんは「子供になっていない」のではないでしょうか。

 どんな親でも自分から能動的に子供にならねば、親を見ていて気に入らないところを変えるために頑張っているだけになりますよ。

 自ら子供になりに行って、初めて親子になるのです。

 何もできない赤ちゃんのうちならいざ知らず、「この人の子になる」と決めて子供になりにいかないと、「親子なのだ」という繋がりを持てませんよ。

 人生は誰かの子として存在できて、そこから始まるのです。

 

なんか理由があるんだよ

 これは全員に聞いてもらいたい話です。

 皆さんも自分の人生で色々な障害に遭うでしょう。

 その内容、何ができない、これが困る、それって昔からではないですか?

 同じ人格で生きていれば、いつまでも似たような問題がつきまとうものです。

 僕もそうです。

 自分自身が変わると、つきまとう問題も変わります。

 しかし、何も問題が起きない人生なんてないんですよ。

 問題はあるけれど、それでも自分自身が自分を好きになって生きているかどうかが大切なのです。

 辛いこと、苦しいことはどうあっても生きていればついてくるものです。

 他人が何をしてくれても自分が変わるわけではありません。

 自分が何をしているか、どんな人間として生きているか、そこしか変えられないのです。

 問題を取り除くことなく、「一体なぜこの問題が起きるのだろうか?」と考えるのです。

 その原因に「こんな自分は嫌だ」の自分がいるか、「でもこの自分が好きだから」の自分がいるか、その差が大きいのです。

 「こんな自分は嫌だ」の自分だけ変えていけばいいのです。

 この自分たるためならば、苦も甘んじて受け入れよう。

 と思える自分であれば、なんとか生きていく希望は湧いてきますから。

 嫌な自分にならない。

 自分が嫌なことを自分にさせない。

 心根が大切です。心根は自分にしかわかりませんからね。

 でも必ず全体を通して、自分の人生に大きな影響をもたらします。

 僕も昔は気力なく生きていた時期がありました。

 ふと目が覚めればいつの間にか進んできたような気がしますが、振り返ってもあの頃は大変だったと思う時期を乗り越えてきています。

 人生の困難はまだまだ続きますから、苦しい時も辛い時も、泣きながらでも前に進んでいくしかないのです。

 それでも、見渡せば必ず同じようにして前に進む仲間がいますから、希望は捨てないことです。

 身近に誰もいない時には、内にこもらずもっと遠くを見渡してみましょう。