僕の活動理念を書いておきます。
心理や教育を説く人にも色々な人がいますが、とりあえずその人がどういう思想や理念で活動しているのかは、受け手に重要だと思います。
僕は反エリート主義です。負け組、底辺、地方の味方でありたいと思っています。
僕は藩エリート主義です。
加賀藩士の末裔として浄土真宗の教えの元に育って参りました。
元より社会のため、志を同じくする同志と共に精進し尽くしていくことにはなんら疑問は持たず、金や地位より領民の安寧こそ、遣り甲斐だと思っています。
心理学は世の中でもよくわからない占いめいたものがわんさかある分野です。怪しげなものだと思われることもありますが、他のものと同じように様々な根拠あり成り立っている学術です。
しかし、僕は心理の分野においても他のエリート分野と同じく「エリート至上主義」が見られることを知っています。
学歴肩書絶対の世の中になれば、一部の層の下に多くの人々が劣等感を持つでしょう。
何よりも、そこを能力の要にするならば失敗は許されません。
しかし現実は言葉ではありません。
僕の身内含め身近な人々には自殺した人が何人もいます。
病院に長く通う人が何人もいましたが、薬をもらい続けカウンセリングを受け続けても、彼らはどんどん諦めムードになりました。
人生のどれだけ多くを、彼らが病院に通うだけの生活に費やしてきたことか。
人の救いにならないならば、名前に意味などないと僕は思っています。
死んだ人は戻ってこない。
大丈夫大丈夫と言いながら、人の命を預かっているという姿勢が見られないと僕は思いました。人の人生と命を預かる仕事です。信じているからみな病院に行くのです。
心理的成長を促すのですから、親を超える導師でなくてはならないと考えています。
知識や経験は大事です。
肩書にそれは全て付属してくると人々は信じています。
命を預かるということが、どういうことか。
僕は真実を知るために、この分野を選びました。
こんなに面白い学問があったのか、いつも考えていることをしているだけじゃないかと思いました。
自分自身の哲学など、持っていて当たりまえ。
人の心理や自分自身についてなど、考えていて当たりまえ。
心理の道にいる人々は、自分自身が家族の問題など抱えているわけがないでしょう。
それを解決するだけの知識なのだから。
愛情あふれて幸せに問題なく、生きがいを感じて生きているはずです。
多くの人がそう信じているのは、教えているからです。
自分の問題を解決できない人は、他人の問題に手を出さないからです。
何よりも、学んでみてわかりましたが、この学問は理解すれば悟りに近づいた人になることが可能です。それが心理学です。
過去の天才たちが、その仕組みをブッダとは違った形で解き明かしました。
つまり心理学の専門家とは、人として成長した人である証だと言えます。
僕は戦後の人間です。
今は昔と違い、平民から努力に努力を重ねた「エリート」の方が命を賭して仕事にあたってくれています。
国民のため社会のため、一丸となり自分の欲や得を捨て、お役目にあたります。昔ならば切腹覚悟だったところ、今の世では命を捨てません。
もう武士はいないのだと気づき絶望した子供時代の後、「よりお役に立つ方が社会に出るべきなのだ」と納得し、多くの人と共に力を合わせて社会のお役に立とうと僕は決めました。
好きでもない学問、仕事、本当に好きでやる方には敵いません。
僕が好きでもないことをやれば、枠がひとつ減ります。
何をやるにも一所懸命は当然ですが、心からやりたいと思えないものは選びません。好きでもない、懸命にもならないのに、枠をひとつ減らすことが社会にとって迷惑にしかならない、人の才能を伸ばすチャンスを奪っていることにしかならないとわかっているからです。
専門職を選ぶ方は、命を懸けていると僕は考えていました。
心からやりたくなければ、専門の道など選びません。
それをしているだけで楽しくてやめられないのが専門分野です。
専門の道を敢えて選んだ人は、やればやるほど楽しくなるものを見つけたとてもラッキーな人です。
悩んで道がわからなくなる人たちとは大違いの、超ラッキーな人たちです。
そうでなくては困ります。
それが心理的に健康な人だからです。
ところが、実際には今のエリートは昔の武士とは違いました。
貴族化された社会です。
そして多くの「エリートになりたがった人」たちは、自分たちがどうしてそうしようとしたのか知りません。
150年前にどういう動きがあり、突然の学歴エリート社会に転じたのか、そして自分の一族がなぜその道を選ぶ必要があるのか、まったく考えていません。
僕はなぜ学問は好きなのに、学歴至上主義に対して反発心があるのか考えました。
僕は加賀藩士の中でも、社会が変わった時に武士の生き方を捨てられなかった一族だからです。加賀藩士たちは悩みました。長く続く一族は特に悩みました。
その分、僕は自分が差別的な世界で有能な方になっていくことを望みませんでした。家柄で選ばれることも選びませんでした。
「お百姓さんが一番大事なんや、武士が刀差してるからて偉いと思うな。」
この教えの元、僕は人は誠実さや愛情や、勇気や信念こそ大切だと考えています。人は上も下もなく、役割分担して協力していくべきと考えています。
死んだ命は後から何を言っても戻ってきません。
しかし、その責任は誰も取ってくれません。
他人任せにせず、自分の力でなんとかしていくしかないと思いました。
僕は精神医療の世界に大いに疑問を持っていましたが、今の社会の流れを理解し、よくわかりました。
「今は」エリートとなった人たちも、自分たちが誰かの真似事をしているだけだと知らないし、この社会は最後には家柄しかないのだ、生まれ育ちが全てなのだと知りません。
最初からコネのある人間にはどう頑張っても勝てないのだと、知らない人が多すぎです。
同じになれた気分の人は、自分が得たら得られない人たちを差別します。
そして僕は、今のこの世の中は良くないと考えています。
加賀藩士の末裔として、信念や志なく、自分の優越や金のためにエリートになるなど、以ての外と考えています。
昔から日本の領民は善良だったので、力ある人たちが責任を持ち、彼らのことをよく考えていかねば世の中は成り立たないのです。
僕は考えた末、とにかく何屋さんでも良いので、与えられた天才頭脳を人々のために活かすことにしました。天賦の才は天の物、人々のために使うものです。
そして自分自身が安心安全な場所にいて、「そんなものは無くてもいいんだ」と言っても説得力がないと思い、好きにすることにしました。
僕の恩師加藤諦三先生を、この人は専門の訓練を受けていないと罵る人がいます。
専門の訓練を受けただけの烏合の衆と、加藤諦三は違うのだとわからない人です。
結果、何をしたか。
彼は数年前、国から功績を認められ勲章を授与されました。
結果、何をしてきたかが全てなのだと僕は考えています。
それにしても、他人を尊敬できない、人の功績を称えられない、人をバカにして蹴落とすことしか考えない、およそ武士なら考えられない下卑た精神です。
欲に釣られるとここまで人は変わっていくものなのかと残念になります。
日本の領民は元々善良で温厚で、働き者です。
僕はエリート至上主義に乗らなかった人、乗れなかった人、自分には何もできないと思い込まされている人々の味方として、活動しています。
昔は無かった概念を、この150年で刷り込んだこのやり方こそ、間違いだと僕は思っています。
そしてより大きな力を得た人々こそ、より人々のために尽くし、働き、学び、人の幸せを願えないのならば、僕は死んでも死にきれない気持ちです。
我々が屈辱を味わって身を引いて行ったこの日本が滅んでいかないよう、他の皆様と同様に、自分自身の小さな力を持って支えていく所存です。
もう自分は負けたから、これからも大したことはできないんだ。と信じている人々に、希望と勇気を。
自分たちが得たら「この程度」と人より得ても感謝できず、大勢が苦しんでいても足りないものをまだ得ようとする完璧主義の人々は、幸せになる必要はない、と僕は思います。
分け合って力を合わせて生きていく人々にこそ、幸せは感じられるのです。
最上 雄基