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仲間割れは良くない

 仲間割れは良くない。

 仲間は共に生きていく人たちだ。

 親と敵同士になっている…と思っている人は、大抵親の仲間だ。

 僕もかつてそうであったが、僕は親に嫌気が差していたので仲間をやめて離反してしまった。

 権威主義の親、子供を受け入れない親は、人の行動をいちいち批難する。

 「そんなことじゃ将来お前はろくなものにならない!」

 「お前は本当に駄目な子だ!」

 「このくらいのことできないの?」

 様々なやり方があるが、とにかく親に受け入れられなかった子供は、大好きな親の仲間であるために同じことをやりだす。

 友達を批難する、恋人を批難する、自分ができるようになった、自分が頑張っているから当然のように親の味方となり、同じことを他人にするようになる。

 当然、他人とは相容れない。仲間は親なのだ。

 他人から見れば、同じことをしている仲間なのだ。

 「お前らもちゃんとやれよ!」

 「これ間違ってるだろ!」

 「そういうことは良くないぞ!」

 自分が頑張って従っているので、しっかりと親の味方になった子供は同じことをやりだす。

 一般的に!普通は!きちんと!

 仲良し親子だ。人を批難する、強要する、人を疑う、同じことをする仲間だ。

 僕も小学生の頃、親と同じことを友達に言っていた。

 友達が好きにしているのに、僕が責任を取るわけでも育てているわけでもなんでもないのに、人を自分の「親の」正義で批難した。

 僕の親の正義は社会の理想が多かった。その中でも親がやりたくない、やっていないことは正義にならない。つまりは、親の都合よく使った社会の理想だ。自分ができないことについては、「それはやらなくてもいいこと」とされる。

 つまり、親こそ絶対の唯一神。

 自分ができるようになったことがあると、その点においては他人を批難する。見下す。無理して頑張っていることでも、できない他人を見下す。

 人の自由を許さない親に賛同し、同じように生き、そして自分自身も親を見習って「社会の正義」の元に生きた。

 僕はちゃんと親の味方として、他人に同じことをした。
 それは生き方なので、頑張ったところで親は「自由を許す」などしてくれない。それは「生き方」であり、他人が何をしたところで終わることのないものなのだ。

 その生き方に反対して、僕は親に離反した。
 即刻裏切り者とされたが、自由を許してくれる人たちと仲良くなり、「批難し合うのではなく、受け入れ許し合う仲間」に入った。

 その考え方の元は、優等思想である。
 僕の家はそれなりに古い家だったので、「庶民風情」などという言葉が使われ、今の成績優秀、学歴エリート社会が始まった時に残った「見えない階級」がありありと見えていた。
 社会が変わった時に、当然平等になどならなかった。

 今度はこれ、と変わった時にも、勿論上にいる一部は「最初から特別な位置」につけた。

 それを習い、仲間を蹴落としてでも自分たちも同じものを目指そうとしたのが、学歴エリート主義となった庶民層である。

 それについては、僕も始まりを遡り知っただけだ。
 今では差別的と呼ばれるような言葉は、差別的概念となって今も残っている。そして僕の家など比較にならないほど、更に差別的な言葉が使われている家もある。

 我々も仲間を蹴落としていけば、あの人たちの仲間入りできるかも、となった時に、仲間を蹴落とす側に行った人たちがいるのだ。

 子供の頃は何も考えていないから、差別的な考え方をしていない。
 自分がどうしていくか決める際に、やはり大好きな親に従う人が殆どなのだ。

 我慢して仲間になったのだから、当然そうしたいだろう。
 僕もそうしていたので、よくわかる。

 密告、強制、統一化。それが今の社会でよくある形である。

 だが、どんなに頑張ったところで「生まれた時からその点については、決まっているからどうにもならない」のだ。

 子供を足蹴にするような真似をして、自分が上に立とうとする親。
 そして友達や恋人を見下して、上に立とうとするその子供。

 親に教えられた「これが絶対の武器なんだ」とされたものを使い、同じ生き方をする。

 立派な仲間だ。
 だから同じように生きない人たちは敵だ。

 そしてその仲間はそもそも「誰よりも自分が優位に立つ」という考え方で成り立っているため、仲間の中でも蹴落とし合いしかない。

 それでも、同じ生き方を選んでいるから仲間なのだ。

 「このやり方では、決して平等になることはないのだから、僕は孤立するしかないのではないか」

 と疑問に思い、僕は考えた。

 どうすれば、争いや蹴落とし合いのない、互いに納得できるやり取りができるだろうか?

 親の味方になれた人は、自分が優位に立ちたい。
 たとえ優しくしてくれようがなんだろうが、その人さえ見下したいし批難したい。

 「ごめんね」と謝られるのが幸せだ。
 「すごいね」と称賛されることが成功だ。

 常に一人でいる生き方なので、勝っても負けても平等な立場の仲間はいない。

 寂しくない人はそれでもいいが、僕はそこまで親と密接にしてこなかったため、寂しかった。同じ生き方さえしていれば、満足、というわけではなかった。

 戦って生きることが嫌。戦いのない世界の方がいい。

 「あいつが馬鹿にしたんだ!」
 「俺が嫌だったんだからお前は謝れ!」
 「お前たちは俺のことをちゃんと考えていない!」

 そのように批難して、人に言う事を聞かせることこそ親に教わった人生の成功である。

 「それでよし」

 とみんなを従えていく。僕を認めたり褒めたりしてくれる人は勿論どこにもいない。それをやる役目の人がどこにもいないのが、この生き方の特徴だ。

 「偉かったね」「よくやったね」

 と言ってくれる役は、この生き方の中にはないのだ。受け入れる存在が一人もいない、蹴落として優位に立つ役しか「存在しない」のがこの生き方だ。

 一時は同類と協力して人を批難しても、仲間になればそこでもまた争いは繰り広げられる。そういう「生き方」なのだ。

 この生き方の中では、支配されている時が喜びだ。

 「それでよし」

 と優位に立つ方に満足していただくことが、喜びだ。
 それは「褒めているわけではない」のだ。それは「満足してもらっている」だけなのだ。

 こんな生き方を数年も続ければ、「僕は」嫌になった。

 あくまでも僕が嫌になっただけで、僕はもう自由を許してくれる仲間を知っているので彼らの自由も許せる。

 僕以外の親族はみな今もこの生き方を続けているため、親族の中で誰一人本当に仲が良い人はいない。その分、「一般的に」必要なことはやる。

 だが、誤魔化せるところは誤魔化すし、押し付けられるところは押し付ける。
 それもまた、この生き方の特徴だ。

 仲間同士で蹴落とし合い、押し付け合い。
 「一人勝ち」をするための生き方なのだから、しょうがない。
 常に誰を相手にしても警戒している。

 その分、この生き方を選ぶと「下には下がいる」と言われている通り、悔しい時には自分より下を見つけて優越感に浸るということが可能になる。

 その分、上には上がいるのでどうにもならない気分にもなる。

 単純に、生き方の問題なのだ。

 最初はどういう生き方の家で生まれたとしても、本人が嫌ならばやめることもできる。

 なんとしてでもこの生き方での成功を掴みたい人は、立派になることを目指し、なれないと悔しい。戦うものにしか生まれない感情だ。悔しい。

 僕はそんな個人の自由はともかくとして、この大きな流れの中でも資本主義社会はちゃんと金を使わせて、その生き方から出られないようにしていくことが恐ろしいと思う。

 その生き方から外れたら、生きていくのが怖くなる。

 この恐怖心、不安感によって、個人の問題なのだから好きに選んでいいに決まっているのに、それを選ばせないことを可能にするのだ。

 僕はこの生き方をやめてしまったので、家で教わった差別主義の考え方はない。
 昔の家柄第一から、脱した。家柄第一の変形なのだから、彼らの目指すところは良い家柄と合体することだ。上の上までいけば、自然とそれを目指してゴールとなることはわかる。

 だがしかし、僕は子供のころに恩を受けた。
 会津若松の方たちに恩を受けた。

 昔は平民と呼ばれた田舎の農家の人たち。彼らの愛ある心のお陰で僕は改心した。

 「こんな差別的な生き方は、間違っている。」

 と確信し、彼らのように平等で自由を許し合う生き方を選び、仲間になった。

 今は僕の家のような生き方を選ぶ人が多いが、その先にたどり着くところは「最初からなんの自由もない」なのだと知っている。

 受け継ぐものや資産が多くなるほどに、自由は無くなる。
 生まれた時から「こうしていくもの」と決められている。

 その分、最初から努力しなくても「自由さえ捨てれば」手に入るものがある。
 目指しているのは、そこなのだ。
 そういう人たちを理想として作られた生き方なのだから。

 形あるものを人より多く得ようとすれば、必ずマイナス面も受け入れなくてはならなくなる。

 ディズニーのアラジンを観て思った。
 宇宙最強の力を手に入れたら、ジーニーと同じく自由がないという運命を受け入れなくてはならない。

 それは正に、この現代社会の形と同じだと思った。

 盗人はお宝を手に入れる時は手を組んでいるが、自分だけ得られるとなれば仲間など簡単に見捨てていくのだ。

 社会的理想を口にしても、どんな立派な理由をつけても、やっていることは変わらないのだ。

 親に褒められるため、受け入れてもらうためと思って我慢して仲間になる人もいる。だが、最初から「受け入れる」というゴールが存在しない生き方なのだから、どこまで子供目線で純粋に頑張ったところで、欲しいものなど手に入らないのだ。

 「自分のことしか考えない」がこの生き方なのだから、頑張って同じことをするから「自分を見てほしい」は無理な相談なのだ。

 そして「この親の元に生まれた」という事実をどう受け入れ、何を選んでいくかは自分次第なのだ。

 社会はどこに行っても、ある程度より先は似たようなことが起きている。

 僕は初めからそんなものに興味はない。
 手に入れるということが、結果どのような未来にたどり着くか知っているから。

 僕はお世話になった人々に心から感謝している。
 だから今も、社会的理想を得ていなくても、下町の屋台で飲んでいるような人々が好きだ。

 そんな場末の酒場のようなところにこそ、人の情は溢れている。

 愚痴ったり、泣いたり、怒ったり、慰めたり、そしてなんだかんだ言って何かあれば力を貸したり。合わせたり。

 僕も頑張って真似したが、きっと僕はそんな場所にうまく溶け込めていない。恐らく浮いている。
 頑張っても浮いてしまうのだろう。

 だが、社会で立派とされる人たちは彼らのような人を一目で差別するのに対して、下町の酒場にいるような人たちは懐が深い。

 悪いことも考えるし、困ったこともする。
 だが、彼らのすることなど人間として当たり前と許せる範囲のことで、例えば社会的理想を使って人を支配しわからないうちに吸い上げていくことより遥かに罪として軽い。

 人間だからそんなこともある。そんな弱さもある。
 その程度でまかり通らない悪を生み出してしまうのは、更に深い業を重ねている人たちがいるからだ。

 僕は社会ですごいものにならないし、なれないし、なりたくもない。
 自由ほど大切なものはないと知っているから。

 自分自身が持てる力は、昔僕を助けてくれたような人々のために使う。

 自分が偉くなって立派になってから、「そんな風になれなくてもいいんだ」なんて説得力がないと思えるから。

 ただ、心の道だけは無料で誰でも努力次第で開いていける道だ。

 物や金や権威は頑張っても手に入れらないならば、確実に未来ある道を選んだ方がずっといい。

 形あるものを得る道は、先まで進むと必ずどこからか「あなたはこの先に行けませんよ」という部分が出てくるから。
 それが「最初から決まっていたのだ」と知った時には絶望しかないだろうから。

 優越感を満たすために生きるならば、世界の頂点に行くしかない。
 だが、そんな先まで行く前に、大抵の人は行き詰まるように「できている」のだ。

 それでも尚、人はその道を目指すのだから、親子の愛と言うものは本当に際限ないものだと思う。

 親に執着しなければ、そこまで恨んで認めてほしくもならないのだから。

 「そんなことより自分の満足」

 そう思えた方が、遥かに早く楽になるだろう。

 

 

赤ちゃんはみんな似ている

 あひるの赤ちゃんです

 これを見て、赤ちゃんはみんな似ているんだなあと思いました

 とってもかわいいです

 赤ちゃんはみんなかわいいですね

いじめで生きている人

 三度の飯よりいじめ好き。
 いじめることで生きている人がいる。

 どんな人か?

 自分が不味い事態になると、相手を悪者にする。

 この時、如何に本人が後ろ暗いのかわかるバロメーターのようなものがある。

 「相手がどれだけ背景引き連れてくるか」である。

 まずいことがない人は、堂々としている。

 「お前が悪いからだ、酷いからだ、傷つけたからだ」

 ということは理由にならない。

 「相手をどれくらいの力で黙らせなくてはならなくなったか」

 は、本人の自覚するところに比例する。

 つまり引き連れてくる人数、力が多いほど、相手にとってまずい事態だ。

 勿論最初から相手を利用するつもりなので、信頼関係は不要だ。

 如何にして相手を騙し、自分の都合いい形に持っていけるかが目的である。

 形さえでき上れば、相手が自分をどう思っていようが関係ない。

 いじめをすることで生きる、と決めた人は、こうである。

 「最も大事なことは、自分について意見させない、人を黙らせることである。」

 酷いと思うだろうか?

 いいんじゃないだろうか?カッコいいと思う。

 僕はやらないし、やれないので、カッコいいとさえ思える。

 いかにも昔の少女漫画にいた「意地悪お嬢様キャラ」のようで、いてほしい人物だ。

 引き立て役としていてほしい。

 世界は地獄と天国に分かれているので、天国のお姫様の引き立て役というか、ライバル役としていなくてはならない存在だ。
 そして地獄のお姫様はちゃんとやっている。

 文句を言うと、「ごめんなさい!」とすぐ謝って周りをウロチョロしてくれる、舎弟のようなメンズがいる。
 イライラしているお嬢様は、舎弟には厳しい。
 気に入る男が現れると、手のひら返しでぶりっ子する。

 という映画かドラマか、何かを見たのだが一体なんだっただろう…。

 嘘。思い出した。
 ゲキレンジャーのメレだった。

 悪役の側のヒロインである。やはり、悪役側のヒロイン、性格が病んでいる。

 その分、美人でスタイルがいいからファンもつく。
 女王様に踏みつけてもらいたいようなメンズがよく似合う。

 病んでる系ヒロインは、舎弟を足蹴にして憧れの人には尽くす。

 地獄に生きる人は、この手のヒロインの「過剰に尽くす攻撃」でメロメロになる。
 ご褒美欲しさについていく。
 だが、地獄のヒロインは決して靡いては来ないのに連れては歩いてくれる、サディストっぽい男子が好きだ。
 つまり追いかけても追いかけても追いつかない人を、追いかけたがる。

 天国に生きる人は、この手のヒロインを「怖い女」と思う。
 素直なヒロインを選んでいく。
 互いに追いかけて追いつく、振り向いて抱き合える人を選ぶ。

 しかし地獄のヒーローも、病んでいる。
 過去が辛い。ダークヒーローだ。
 そして今も暗い。過去を引きずっている。
 基本、復讐に生きる系男子しかいない。

 地獄では、幸せとは復讐を果たすことと相場が決まっている。

 天国では、幸せとは争いのない世の中である。

 この境目が、「復讐を果たした時に変わるもの」ではないと知らない人が多い。

 争いを捨てれば地獄から天国に行く。

 だが復讐をしたい人は、天国に興味がない。

 とにかく「これまでの人生」をなんとかすることが「残りの人生」なのだ。

 この生き様は、過去によって未来が決まる生き方なので、もう未来は地獄しかない。

 地獄から天国に転じることは可能だ。

 そこに「根拠はない」のだ。

 根拠なく、突然変わるんだよ、という話は23日の高田馬場でもする。

 来てくれる方々に「相変わらず告知の説明が悪いよね」ということを先に謝っておく。

 切り口はどこでもいいのだが、とにかく「幸せは突然根拠なく行ける世界」なのだ。

 「こっち側の幸せ」が復讐の成功でしかない地獄だが、地獄に生まれた人は過去と未来を「繋げない生き方」にしなくては、未来を幸せにしていけない。

 地獄系ヒロインの幸せは、

 「こんなに辛い私を救ってくれる人に出会い、そしてその人に尽くして生きる」

 である。

 それが、臨獣カメレオン拳使いメレだった。

 先生は、チャイナ服の似合うスレンダー美人のメレが「傍で見ている分には」好きだったが、あれは実際にやられると辛いキャラだと知っている。

 他人事で見ているとあんなに面白いキャラなのに、どうして対象者が自分になると苦痛になるのだろうか?

 不思議なくらいである。

 性格的な問題だろう。噛み合わないのだ。

 噛み合わないのは自分のせいなので、いる分にはいてほしい。

 外側にヒロインが二人いる。

 片方は素直で、片方は病んでいる。

 この違いあって「自分が好きなのはこっち」が生まれてくる。

 だからとりあえず、区別していくためにも全ての人が必要だ。

 違いが明確にあるから「自分と合うのはこっちだな」とわかるのだ。

 「自分と合う人」を選ぶだけで、メレ的なヒロインが「自分に合う人」である人もいる。

 目的が一致しないと、同じ列車に乗れない。

 復讐とは、詰まるところ「排除」が目的である。

 何かの消滅を目的としている。

 幸せな人は、行き先が「創造」である。

 何かを生み出すことを目的としている。

 排除行きと創造行きの目的地違いのキャラは、同じ列車に乗ると喧嘩になる。

 本人の生き方の問題だ。

 行き先を変えると、途端に路線変更できるから不思議だ。

 これまでの人生はどうにもならないが、どうにもならないまま「新しい道が生まれてくる」のだ。

 途端に今楽しい。そういう人生の転換がある。

 本当に、「あの人生がコレコレなって…」という過去からの理由が全くないまま、突如の幸せに見舞われる。

 それが、方向転換だ。

 地獄に進む人は、東海道本線各駅停車に乗っているところを、こだまに乗って幸せに変わる気分になる。
 だがこだまに乗ってもまた不幸になってくるので、今度はひかりにさえ乗れればと思うようになる。

 さあ、変な例えが始まったが、気にしないでほしい。

 じゃあ、かがやきに乗ればいいのか?はやぶさに乗ればいいのか?

 そうではないのだ。

 乗らない。

 何にも乗らない。

 今ここで、少しずつ作り始めるのだ。

 それで幸せになれる。

 希望というものが生まれてくるから。

 どんなに速く走っても、何かの力で流されるだけでは不安にしかならない。

 「きっといつかは」の願望しかない。

 だが、少しずつ今積み上げていれば、「これならきっと!」という確信と共に希望が生まれてくるのだ。

 こだまの中で喧嘩している夫婦は、もっと速く、せめてひかり程度に飛ばしてくれればうまくいくと争う。

 いかない。

 何をしているのか、気づかなくては変わらないのだ。

 何をしているのか、何に向かっているのか。

 たった今の苦から逃げれば、未来は新大阪でもなく地獄にしかならないのだ。

目安箱より 「ペルソナと偽りの違い」

 目安箱の質問より、今回作業同時進行中なので簡単に。

 とても分かりやすい質問いただきました。

 質問 「ペルソナを作って自分を偽って人と接するということは人に対して思ってもないことを発言するのと同じことではないんですか?」

 という質問でした。

 答え 違います

 ではどう違うのか?

 これは区別の問題です。
 「嘘を言う」と「騙す」が違うのです。

 そもそも、「騙す」ってなんでしょうか?

 本質的なことです。真実ではないことを言い、ごまかしてそれを「信用させる」ことです。
 例えば、今これを読んでいるあなたが聞いたら傷つくような、心無いあなたの陰口を僕が聞きました。
 ここであなたを傷つけないように、「彼らは何か言ってた?」と聞かれても、僕はあなたに陰口を叩かれていたことは言いません。
 これが、仲間が言う「嘘」です。
 ここで、本当は僕もあなたの陰口を一緒になって言っていたのですが、目の前で「何か言ってた?」と聞かれても「特に何も」と誤魔化します。
 これが、「騙す」です。

 この違いです。
 相手を守るために言ったのが優しさの嘘。
 自分を守るために言ったのが偽って騙す、です。

 質問の内容の場合は

 先の例の際に「僕が本当は一緒に陰口を叩いていたが」あなたには「黙っておこう」と言わないとします。
 勿論、陰口を叩いていたのに目の前でそれを言わないわけですから、僕はあなたのことが嫌いです。当然です。嫌いだから陰口を叩いて目の前で黙っているのです。

 僕自身が、あなたのことは嫌いだから、陰口を叩いても黙っていよう、と自覚して判断でやっているならば、それは「思ってもないことを言う」ではないのです。

 あなたを仲間だと思っておらず、そして自分の行いを自分自身正しいと確信している。納得してあなたの陰口を叩けている。
 それならば、僕の意志と判断です。もしバレても慌てもしません。この場合はあなたに何らかの恨みや憎しみがありますね。それなりのことをされたのでしょう。何もされていないのにそんなことをする人は、おかしいですから。

 現実的に何もされていないのに、そんなことをしていたらそれは僕がただの暴漢です。
 実際にあなたの方からなんの悪意もない僕になんらかの危害を加えてきて、正当な理由が成立しますから。

 恨みや憎しみにも、正当なものと不当なものがあります。

 もしあなたがそれを知って「そんなこと言っていたのか!」と傷ついて僕を責めたら「だってお前のこと前から嫌いなんだもん」で終わりです。

 傷つくとわかっていてやっているのですから、あなたが余程嫌いなのでしょう。

 こんな真似は嫌いな人にしかしません。
 これで「仲良くしたい、本当は好きです」と言われても信用しないでしょう。

 嫌いだから陰口を叩く。それは良い悪いではなく、当たり前ですね。

 ところが、あなたの陰口を叩いているにも関わらず(しかもほかの人たちと)、目の前では何も言っていないと騙し、「仲良くしようとしている」としたら、異常です。

 他の人たちと陰口を叩きながら、仲良くしようとしているなどありえません。

 陰口を叩いていた理由を話し、僕があなたの何が嫌でどう思ったからみんなで陰口を叩いていたのか、気持ちをわかってくれ!と求めだしたら、ただの甘えのいじめです。

 陰口叩いたら嫌われる。嫌いな人でもないのに陰口は叩かない。
 目の前でばれて困ることはしないのが仲間。逆のことをされて信用できないことは自分もしていない。それが仲間です。

 信用されるわけがないことをして、信用されようとしている。
 騙して奪うと決めていない、敵であることを自覚していないのに、自ら敵対している人、それが「甘えて絡んでいるだけで、仮面を被らず子供のままで外に出ている人」です。

 こいつをいじめて皆で楽しもう、と僕が思っているならば、それは意志の元に行っています。理由もわかっています。

 僕の場合は、仲間に対して信用されなくなることは、どこにいてもしません。自分から離れた言葉は勝手に独り歩きします。身近な人のことは特にバレて困ることなど言うべきではないし、仲良くしたい相手ならば信用されなくなることはマイナスにしかなりません。

 目の前で「そんなこと言ってたの?」と聞かれても「言ってた」と答えて困らないことしか、どこに行っても言いません。別に言う必要ないですからね。
 仲良くしたい人を相手に、弁解が必要なことをしていたらおかしいですからね。
 出来心の浮気をした旦那でもあるまいし、相手が旦那でも妻でもない他人ならばそんなことしたら信用してもらえませんよ。

 信用してもらいたいから、信用に足る行動取る。
 相手は自分で選びます。

 お互いにその状態ならば、信頼し合う仲間になります。

 別に信頼してほしくもない、自分が嫌っている相手ならばどうでもいいでしょう。争いになることは覚悟しているわけですから。
 嫌いでも表立って争いになりたくないならば、それもまた黙っていますよ。

 面倒ですからね。後が。自分は言っただけで忘れても、言葉は人を伝って他までどんどん広がります。一度放てば止められないのが言葉です。どこからブーメランになって返ってきても、自分が放った言葉をキャッチして説明するのは自分です。

 自分が後で慌てるような言葉は、最初から放ちません。
 それはどんな仮面を被ろうが、相手が敵だろうが味方だろうが関係ありません。

 仮面を被っていない人は、自分が過去に放った言葉も戻ってきたらキャッチできない人です。

 ペルソナは意識して被る仮面ですが、素体である本人が善人なのか悪人なのかはわかりませんよ。

 善人悪人というのは、極端な表現ですね。

 自分にとって敵でも相手が必ず悪人とは限りませんから。

 自分たちさえよければいい、と考えているか、自分たちだけではないのだからと考えているか。

 利己的か、利他的か、の違いです。

 最近僕も気づいたんですけども、「社会では「はっきり言えば全く理想に反している何か」を表現しまたは成立させるとき、言葉の上では「全く違うことを言っている」と知らない人が多くいます。

 どこかにとって、特に強い権力にとって都合の悪いことは、大っぴらに言えるわけがないのは、親がうるさいので言いたいことも言えない家で育った人には当たり前のことでしょう。

 勿論、世間であってもそれは同じことです。

 むしろ家の中より世間での方が、形が分かりにくくなります。

 勿論、他人は「自分がどんな人か」を知らないわけですから、信用してもらうためにはそれなりの行動が必要なのです。

 自分も仮面を被っているが、相手も仮面を被っている。

 他人はどんな生き物なのかもわからない未知の存在ですから、何を言っているかに関わらず、現実の体験を重視しなくてはわからないのです。

 プロの詐欺師などは目的あって自分の意志で仮面を被っています。

 ですから、仮面を被らずにいる人と違って、騙すにしても堂々としているのです。

 堂々と騙してくる人を見抜くには、堂々と仮面を被って生きるしかありません。