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「私は特別な存在」だと思っているから不幸になる~無料記事~

 今朝、また起きて気づきました。

 気づいたことは「ひらめき」についてですが、そうなると…と考えて思いました。

 「私は特別な存在だ」

 こう思っていれば、人間関係は全部ダメになるねと。

 そりゃそうですよ。

 だって、違うんですから。

 私は特別な存在としてこの世にいるわけではない。つまり「私は特別な存在だ」は事実間違いです。

 間違った結論を出しているから、解釈は全部間違いますね。

 どうにもならないから、救い主のような人を待つしか無くなりますね。

 「私は特別ですよ!」

 とアピールしながら、発見してくれるのを待つしかないですね。

 「普通の人」に紛れ込んで生きている、「特別な存在」です。

 普通の人たちは仲間ではないですから、特別な私は下に見るしかないですね。

 特別な私、と思っていれば、表面上は何を言おうが解釈がそれに合わせたものになります。

 必然的に他人から見たら傲慢な人になりますね。

 「何様のつもりか」という態度になりますね。

 心の中では「私は特別」だと思っていますから、頭の中にある全ては人を尊重できないものになります。

 考えがあって人間は行動します。

 だから結果外から見たら「傲慢で独りよがりな人」になりますね。

 「思ってるだけなら平気!」

 という話ではないですね。

 特別な私、に起きたことだと仮定して解釈する限り、現実に起きたことは全て間違った解釈になります。

 仲間と共に仲良く生きるなんてことが、「仲間のいない人」に可能なわけがないです。

 「私と、その従者たち」

 「私と、そのファンたち」

 こんなところでしょう。可能な形はその程度でしょう。

 友達や恋人、家族のような関係は全部破綻しますね。

 可能な輪は「被害者集団」「正義の集団」のどちらかでしょう。

 そういえば、悪事を働く集団も正義の集団なんですよ。

 正義の制裁と称して人を殺せば、それは正義の集団なのです。

 怒りや憎しみで動く人は、正義を名乗っているものです。

 理由をつけないと許されないことを今からやるので、正義を名乗ってまかり通らせるのです。

 勝手に人を悪者にする、また反対に、勝手に人を優しい人にする。

 都合よく他人を決めつけては、「私は特別な存在」を守る。

 「理想の自我イメージを守ることがプライオリティナンバーワン」

 神経症の人のことです。

 理想の自我イメージって

 「私はこの世でたった一人の特別な存在」

 ということなんですよ。

 教えてもらわないと何もできない「特別な存在」

 聞いたことを鵜呑みにして優越感に浸る「特別な存在」

 見えないところではコソコソしている「特別な存在」

 理想の自我イメージを守るのも大変です。

 本人が選んだ道ではありますが、生涯孤独になりますね。

 「対等な仲間がいる人」は、その願望を諦めた人です。

 特別じゃないからこそ、仲間がいるのです。

 「私は特別な存在だ」と思っていれば、「他の人なら許されないことも、自分はやって当然」だと思います。

 結果、当たり前の結果にいちいち腹を立てなくてはならないのです。

 どこをどう押したら、自分は特別だと思えるのでしょうか。

 病気をしないのか?

 最初から教えられなくても調べなくてもなんでも知っているのか?

 やったこともないのにできることがあるのか?

 何も怖くないのか?

 何があるから「自分だけが特別な存在」なのか?

 それについて考えなければ、何も考えずに妄想だけしていれば、「私は特別」という夢を見続けることもできます。

 ただし、その代償は高いですね。

 人生を持って支払わなくてはならない、人間として当たり前のものが「手に入っていない」という代償を支払って生きていくしかないです。

 私は特別だと思って生きていたならば、今まで限りなく人を蔑ろにし、傷つけてきたはずです。

 その代償は心の中で苦しむことで支払うしかありません。

 「自分がノイローゼになることで、既に代償を支払っている」

 と言った学者は誰だったか…

 こんな時、なんでもスラスラ出てくる加藤諦三先生を思い出し、いつも尊敬しています。

 孤独から解放されたいならば、「私は特別ではない」と自覚して、これまで「許されてきた」ことに人の慈悲を知ることです。

 心から反省し、「自分が悪かったのだ」と実感した時に、「自分はずっと愛されてきた」と自覚するのです。

 「愛されているなら、~してもらえるはず…」

 これは、欲深い人間の利己的な願望でしかないのです。

殆どの人が勘違いしている「言い訳するな」の教育と自己教育 ~無料記事~

 生徒に説明したところ、「そんな意味だと思わなかった」と言われましたのでここにも書いておきます。

 「言い訳するな」「問答無用」

 こうした教育は幼児期に特に必要なものです。

 徹底して行かねばならないことだからです。

 子供は何も考えずに物を言いますから、言い訳をしたら「言い訳するな」と叱りつけて不平不満を言わせないように親が強制しなくてはなりません。

 そしてその後、親がつきっきりでいる時期が終わり、外に出ていくようになります。

 その頃からは、自己教育の始まりです。

 自問自答できるようになってきた七歳頃からは、他人である友達の前では思うことをそのまま述べられなくなっていきます。

 心の中だけで考えるようになります。

 そこからの「言い訳」は、自分が自分の心の中でしていることを指します。

 友達と会話を交わしながら

 「私だって~なのに」「本当は~だったのに」

 そんな風に不満を述べ始めたら

 「言い訳するな」

 そのように自分の心の中で自分に叱りつけます。

 親子でしていた会話を、そのまま心の中でするようなものだと考えればわかりやすいでしょう。

 心の中で言い訳をしない。

 言い訳するなと自分を叱りつけたら、言い訳しなくても済むように行動しなくてはなりません。

 心の中でも言い訳をしていれば、他人には口先で恰好のいいことを言っていても自分だけは自分が言い訳していたことを知っていますから、自分を尊敬などできません。

 自分を好きになるためには、自分しか知らない自分、つまり心の中の自分を好きになればいいのです。

 心の中で言い訳をしなければ、素直に言いたいことを言ってもし他人が批判をしてきても、慌てることはないのです。

 「人間としてしてはいけない、それは良くないことだ」

 そう思っていることを、心の中で「自分にやらせないように」注意していくのが自分の役目です。

 自己教育は自分の心の面倒を見て育てることですから、誰にも知られることなく一人でやっていくものなのです。

 武家の教育には、今書いたような「してはならないこと」が色々あります。

 言い訳しない、人を謀らない、など、精神的な教育が色々あります。

 しかし、僕が世を見る限り、言葉で伝えられていることの意味がわからないまま、心の中ではなく「形ある現実の方だ」と勘違いしている人が大多数のようです。

 人に見せる部分だけ変えたところで、中身が変わらないなら成長などするわけがありません。

 中身は「決まり事」に沿って成長し、形の部分はその時の立場や状況に合わせて、自分で考え必要な言葉や行動に現わしていくのです。

 自分が知っている「自分」は心の中の自分ですから、その誰にも見えない自分を自分が好きになれるよう教育していくのです。

 どんなにダメだと思う自分からも目をそらして見捨てることなく、言い訳でも悪口でも自分自身が全て聞いてやって、自分で教育していけばいいのです。

 自分を見捨てると自分を蔑ろにし、他人を蔑ろにするようになります。

 心の中で自分を見捨てることなく、教育していきましょう。

雑談ワークショップでの話、長時間ありがとうございました~無料記事~

 昨夜、雑談のワークショップを行い、超長時間に及びましたが大変有意義な内容でした。

 大変有意義だったのですが、皆さん確実に役立てて欲しいところです。

 自分中心の視点で生きていると、「嫌いな人から離れられない」と説明しました。

 「嫌いな人にも好かれたい」

 このように加藤諦三先生も説明されている状況が、僕にはピンと来ていません。

 違う視点で生きていましたから違うものに見えています。

 しかし、ある生徒の話を聞いていて「これだな」と思った話をしました。

 僕がかつて見たことがある、クラスメイトの話です。

 本人が相手の性格が良いと思っているわけでもなく、「え、ズルい」などと思いながらも、なぜか傍から見ていると「仲良くしたがっているのは本人のように見える接し方」をしているのです。

 当時の僕は「あの子の何がそんなに好きなのかなー」と思っていましたが、どうやらそれが

 「嫌いな人にも嫌われたくない人」

 だったようで、昨日こんな感じだったよと僕が説明しましたが、皆さん身に覚えがあるようでした。

 僕もその時は全員がクラスメイトだったので、その子を助けました。

 喧嘩など売らなくても、戦わなくも、向こうから出ていくものです。

 ハッキリした態度でいれば、自分に従う子を集めて我が物顔でいる馬鹿者は勝手にいなくなります。

 僕は何かの行事のために話しかけられて、ものの数分で「こいつ、性格悪いな」と思った子なのに、なぜかその子をちやほやしている子がいる。

 それが気になったので、「あの子はそんなにいいところがあるの?」と聞いたため、発覚した話です。

 「本当はあの子性格悪いって思ってるけど、仲間外れにされるのが怖くて誰にも言えない」

 そんなやつがいるのか…と不思議に思ったものです。

 自分が性格悪いと思ったならば、接しないものではないのか。

 別に争う理由もないので気にはしないとしても、我慢して仲良くしている必要はないのに。

 そう思うのですが、そうなっている理由があります。

 ひとつは、「ナルシシスト」。自分が中心の世界を生きています。これは最悪です。

 僕もたまたまクラスメイトだったので助けましたが、立場上仲間でもないならば助けないです。

 遠くから見ていて「あんな奴とでも仲良くしたい奴はいるものだ」と思うだけです。

 その時は、「人はよく知らないとわからないものだ」と丁度相棒と出会って思っていたところだったので、なんとなく気になって聞いてみただけです。

 僕が「なんだこいつは」と思った奴でも、何かいいところがあるからああして慕っている奴がいるのだろう、と思ったのです。

 しかし、その友人他、性格が悪いそいつに群がっていた「気の弱そうで受け身な子たち」には共通の問題がありました。

 「自分で決められない」

 だから、勝手に決めたい奴が君臨していたのです。

 「あの子が嫌だ」

 そこまではいいのです。その先です。

 自分がどうしたいのかも決められないのです。

 意思のない集団でした。

 本当に仲間になるためには、仲間が「見つかる」前から単独で存在していられなくてはなりません。

 たとえ友達がいなくても、「こいつと仲良くしたくない」と思ったら一人でいられる精神が必要です。

 そうすると、自分と本当に「似たような連中」が見つかった時に、自然と仲間になります。

 結局、その子は助けた後で、僕について来ようとしたのです。

 正直、その子は僕の仲間には入っていけないタイプでしたが、僕はあちこちに仲間はいたので

 「もう大丈夫だろ、あとは自分たちでやれよ」

 と一時入っていた「支配されていた子たち」の輪から出て行こうとすると

 「待ってよ、一人だけズルいよ」

 と言い出したのです。

 僕は「もう嫌な奴はいなくなったんだから、後は自分でやれよ」と言って離れて行きました。

 別にクラスメイトでなくなるわけでもないのに、いつもいつも集団になっていないとその子はダメだったのです。

 「友達になりたいなら、自分から人には話しかけろ」

 そう言って僕はいつも通り「仲間が沢山いる一匹狼」になりました。

 そう称したのは僕の相棒です。どこに行っても仲間はいるけれど、いつも一人でいる、と言われたことがありました。

 フラフラと猫みたいに気まぐれなのに、寄ってくると犬のように懐く、と言われ、そう見えるんだなあと思ったものです。確かにそうではあるのですが。

 その時は深く考えもしませんでしたが、助けてあげた「意思のない子」は結局「不安に勝てない」のです。

 場をシラケさせる発言をする奴がいても、気まずい空気に堪えられないからつい慌ててフォローしてしまう。

 そんな子でした。

 「喧嘩になったらなったで、面白い」とは思えない子です。

 優しさではなく、自分の不安から慌ててフォローするのです。

 一見「好意があるかのようにも見える」のです。

 もし、その子が「自分の意思で誰の仲間になるか」を決められる子なら話は全く違っていたでしょう。

 見ていると、何かある度

 「えーん、えーん、どうしよう」

 そんな風にオタオタする子でした。

 もうひとつ大事な点があるのですが、支配してあたかも人気者のように振舞う子より、オタオタしている子の方が面倒な雑用をこなし、きちんと働いているのです。

 ちなみに僕は、「どっちにも属したことはない」です。

 その状況にある皆さんは、その中でもめ事をなんとかしようと考えていると思います。

 しかし、輪に入らない奴は、最初からものすごく遠い蚊帳の外から見ています。

 その中にい続けてなんとかしようとしているのは、自分が中心の世界を出られないからです。

 「私」を主人公にした世界だと思っているからです。

 自分を中心に、全ての人の機嫌を良くしようとする。

 能動的になっていないから、接している全ての人のご機嫌を取ってしまうのです。

 そして、そこに「助けに来てくれる誰か」を待っているのです。

 現実的に脱する方法を述べるならば、「その輪に入りそうにもない奴らの仲間になる」です。

 自分が、その仲間になれる「単独でいられる人間になる」ことです。

 クラスメイトには、人を見下した態度のやつもいました。

 自分の方が上かのような物言いと態度なのです。

 僕はその態度で来られた瞬間、即物申しました。

 昨夜、丁度そんな場面でどうするか、の話をしました。

 「なんだてめえその態度は、同じクラスメイトの仲間に何偉そうな口効いてんだよ」

 そんな風に即物言うので、怖いと思われることもありましたが、僕たちは「仲間を平等に大事にしている」ので、その枠からはみ出して支配しようとする輩を絶対に許しませんでした。

 その代わり、対等に尊重し合う仲間たちの友情や結束は強いのです。

 そして偉そうにマウント取りにきた奴は、物申した瞬間態度豹変です。

 ある子は急に縮こまって言いました。

 「私、家で一番上で、いつも下の子ばかりと接しているから…」

 三人姉妹の長女だった子がそう言いました。

 そこで「そうか、じゃあしょうがないね」なんて優しく言いません。

 「ここはてめえの家じゃねえ。俺たちはお前の弟でも妹でもねえ。勘違いしてんじゃねえぞ。」

 そんな風に、親切に教えてあげると「あ、うん、ごめんね」と謝って、なぜかその後滅茶苦茶僕に気を使ってくるのです。

 ご機嫌を取ってくるのです。

 別に要らないですけど、小者だからそんなものです。

 その時、別に僕だけがいたのではないのです、他に数人のクラスメイトがいて、皆で話していた場面なのです。

 なんでもない雑談をしている最中だからと言って、冗談ならまだしも友達を見下すような態度を取って、ただで済むと思っているなら大間違いです。

 恐らく、それがハッキリ言う、ということなのでしょう。

 「ふさげんじゃねえぞ」とその場で言えない。

 言うほどの必要がない関係性であるならば、「なんだこいつは」と嫌悪感を持ったとしても、放っておけばいいのです。

 先に書いた「助けてあげた子」の話でも、結局自分がアイドルかのように振舞っていたやつは、対等にしか扱ってもらえなくなった途端、仲間に入ってこれなくなって勝手にいなくなりました。

 昨夜、結局自分が「傲慢だから」離れられないのだという説明をしましたが、そこについては長くなるので今はやめておきます。

 本当に長時間に及びましたが、僕もそれなりに話して観察してきた方たちが相手でしたので、それぞれの「会話の癖」についても指摘し、何をどうすればいいのかというところまで昨夜は説明できました。

 そこにいるからには、いるべき態度や話し方をしているものです。

 違うやり方で話せるようになったら、自然と離れるべき相手から離れ、仲良くなれる相手と仲良くなっていくでしょう。

 受け身でいると、「こっちの人は優しいからいいけど、こっちの人は酷い」の状態で固定されます。

 そして、「誰か助けて」になってしまいます。

 そこで「輪の中に入って助け続けられる人」は、どちらにせよ「輪の中の人」です。

 「自分もあっちの世界に向かってここから出ていく」ができて、いじめの世界を脱していけるのです。

 いじめが無い輪、があります。

 そこにいじめの世界を広げようとしないのです。

 被害者も、いじめの輪にいる人です。

 本当に「最初からいじめなんて無い世界」に生まれ変わりたいならば、一人で脱していくのです。

 僕が今まで出会った「妄想恋愛ストーカー女子」も、本人がいじめをしていたとしても、本人も漏れなくいじめられてはいました。

 ただ、そこから脱しないのです。

 僕も自分の仲間になるならば守ることはできますが、いじめる人たちの仲間になっている人なのでどうにもできません。

 助けるべき立場にいないからです。

 「自分に害のない、仲間になってくれる人たち」の見分けがつき、かつ「この人たちと生きていける人間になる」と決められれば、家の中でいじめにあっていても一人で出ていけるのですが。

 いじめられている人たちがわかっていないのは、本当の仲間は「自分たちが思う以上に仲間を大事にする」ということです。

 嫌になったらやめるとか、気に入らなくなったら見捨てるとか、そんなことはないのです。

 絶対に裏切らない。

 ひとりひとりが責任を持って、自分の心の戦いに打ち勝って「仲間を守っている」のです。

 仲間と生きていける人たちの輪には「排除される人」はいません。

 まず、人が存在していて、そこからみんなでどう生きていくかを考えます。

 よって、何がダメだから見捨てる、はないのです。

 普通はどうするものだとか、強要して何かをさせるなんてことはないのです。

 我慢すれば必ず嫌になります。言いがかりをつけられれば相手は敵意を持ちます。

 全員が素直に、正直に、誠実に。

 それが最低限守れるから、いじめのある輪で重要視されていることなど「どうでもいいこと」なのです。

 大事にしているものが全く違うのです。

 本人が誰もいじめない人になれば、必ず脱していけるでしょう。

 しかし、「私が主人公」の視点で考える限り、自分自身も人に失礼な真似をしているのだと気づくことすらないのです。

 「自分の方が傲慢なのだ」と自覚すれば、寧ろいじめてくる人となど、簡単に離れて行けるのです。

 僕も長い人には本当に長い時間をかけて、個々に特徴を捉え、いじめられ続ける原因を特定しています。

 「自分が何か悪いことをしたんじゃないか」

 そう思ってつい威圧的な人に屈服してしまうようなのですが、その視点を変えていけるよう力を尽くしております。

 「自分がダメだと、排除されるんじゃないか」

 この不安が全くない世界にいくには、そうなものはそうなのだ、と何が起きるかわからなくても堂々としている勇気が必要なのです。

あなたが不幸にした人

 自分が不幸になっている時、自分が不幸にしている人がいないか振り返ってみましょう

 あなたが不幸にした人は

 あなたが願望を叶えさせた人です

 願望など叶わないのが当たり前で、自分から現実の世界で他人に願望を叶えさせにいけば、叶えてもらったとしても相手は苦しむことになります

 その後、自分のせいで困ってしまうでしょう

 だからこそ、最初に意思確認や、頭を下げてお願いすることは人を尊重する意味でもとても大切です

 何を理由にしようが、自分の望みを強制的に叶えさせるなどあってはならないことです

 口で言わずに罪悪感を煽ったり、そうしなくてはならないかのように思わせるなど悪質極まりない行いです

 ハッキリと、「〇〇してください!お願いします!」と伝えなくてはなりません

 情動で煽って人を動かし自分の欲を叶えるなど、正に悪魔の所業です

 そのあってはならないことをした人は、自分自身が更に苦しむことになります

 そして、そのまま相手を助けることなく見捨てた人は、その後更に苦しみます

 特に願望を叶えさせた相手を悪者にして優越感に浸る人は、これから更なる苦が必ずやってきます

 他人に願望を「叶えさせた」ならば、相手はその後苦しむのは当り前です

 それは親子の間でも起きることです

 親の「ご機嫌を取る」と言うのは子供の側からの話であって、実際には親が自分の願望を叶えさせ続けるから子供が苦しみ続けるのです

 解放されたい子供は外に救いを求めますが、これが二の舞の始まりです

 誰に苦しめられたとしても、他人に救いを求めて他の人がしてくれないことを当然のようにやらせてはなりません

 何があっても人の意思を踏みにじっていいわけではありません

 人を使い捨てて生きる人は、自分が助けて欲しい時は人に救いを求めます

 しかし自分が楽になったら、自分のために苦しみを抱えた相手を救いません

 今、自分さえ良ければいいからです

 心の地獄に落ちている人は、「自分が責めた誰か」に何かをやらせて、楽になった過去があります

 自分の気分を他人に何かさせることで解消したのです

 今まで出会った人達を尊重して扱ってきたかどうかは、今の自分の心の世界に反映されています

 人を使い捨てる人は自分さえ楽になれば、あれこれ理由をつけて人を見捨てても「いいこと」にしてしまいます

 自分がそれをいいことにしてしまったので、自分に対して同じことをする人にはいつまで経っても

 「わかってもらおう」

 とするのです

 自分に許したことは、人にも許さなくてはなりません

 「私だってやられたんだ!」

 そう言いながら、無関係な人に自分を助けさせよう、気分を良くさせてもらおうとした人は、自分に同じことをした人を受け入れ続けるしかなくなります

 本当に開放されるためには、自分を支配し今の自分を窮地に陥れた誰かと同じことをせず、同じことをしたら自分が求め続けているように

 「困らせた相手を救いに行く」

 これしか方法はないのです

 それだと自分が悪いことになってしまう!酷い目に遭ったのは自分なのに!

 私は可哀想な目に遭ったから、救ってもらえて当然なのだ!

 と思う人は、責任の求めどころ、つまり自分を救う人が「困らせた人ではないのはおかしい」とわかっていません

 困っているならば、困らせた人に責任を取らせるしかありません

 無関係な人は助けなくてはならない義務がありません

 責任もありません

 困っているところを無関係な人に助けてもらう

 それどころか、ただの自分の願望を他人に叶えさせたならば、その責任は自分でとらなくてはなりません

 幸せになるためには「願望を叶えるしかない」と思っている人がいますが

 生きて幸せになるためには、困らないように生きる、未来を考えて生きるのが現実的なやり方です

 ここは夢の世界ではないので、頭の中に思い描いた願望を現実を生きる他人に叶えさせたら他人は困るに決まっています

 他人の願望を叶えてやって、それで相殺しようとする人もいますが、「人の願望を叶えるなど相手の幸せには関係ない」のです

 相手に願望を叶えさせる、自分も願望を叶えてあげる

 それが「お互い幸せになる方法」ではありません

 願望など叶わないと諦めて、当たり前に「必要な協力」をしあいながら、自分のことは自分で考え、決め、他人に対しては「お願いする」

 断られたら「諦める」

 最初からそのように付き合わねばなりません

 都合よく途中から部分的に「正しいこと」をやって、自分はやったという嘘も当然ですがまかり通りません

 誰を騙しても誰を見捨てても、心の世界では必ず見張り番がいますから、それで心軽やかに安心して生きていけることなど決してありません

 あなたが不幸にした人がいるならば、償いをしなくてはなりません

 その時、心の世界の「絶対的に正しい私」はいなくなりますが、現実の世界で必要な償いをしていけば、必ず現実は味方になります

 実在の人間の味方になって生きていけない人は、現実を敵に回して「想像しただけ」の話を鵜呑みにするような自分をよく見てもいない人に「都合のいいこと」だけ言ってもらい生きるしかないのです

 この人生は本物です

 生きてひとつくらい、どうなるかわからない未来に勇気を持って進まなくては、自分自身の道は切り開けません

 人を蔑ろにする人は、自分が悪者にされる、悪口を言われることには物凄く敏感なのに、人のことは平気で悪者にしたり悪口を言ったりして喜んでいます

 一緒にいる時には相手に好意的かのように見せていた人が、見えないところに行ったら相手をバカにして大喜びしているのです

 人を見下して喜んでいるような人間が、人が犠牲を払ってしてくれたことに感謝もせずに生きていれば地獄に落ちて当然です

 僕は最初の一回で、自分のために犠牲を払って付き合ってくれていた友達を助けるため現実に出ていきました

 自分に都合のいい世界を続けようとしていたら、今も地獄を彷徨っていたでしょう

 他人の犠牲は想像をしないとわかりません

 自分がやってあげた分は想像などしなくても体験しているからわかりますが、他人に苦労をわかって欲しいと求めながら、他人が払った見えない犠牲は無視する

 そんなことをしている人間が、誰と共にいようが「本当に美しい心ある関係」など作れるわけがないのです

 なにせ、自分がどこから見ても「美しくない」のですから

 成長しない人は、反省と後悔をしません

 幸せになりたいならば、自分が苦しめている人がいないかを考えてみましょう

 人を苦しめている人は、必ずすぐにこう思うでしょう

 「そうだ!あいつは私を苦しめたのにそれがわかっていないから、地獄に落ちて当然だ!」

 この態度で生きている人、反省ができない人がいつまで経っても地獄にいる人です