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人を操作する人は、悪い結果を恐れている

まだ見ぬ友人へ

 君は知っているか。人を操作するという恐れ知らずの行動は、実は恐れ過ぎの行動だということを。

 人はわからないものが怖い。

 未知のものにわくわくする人もいるが、失敗が怖い人は未来が怖い。

 つまり、結果が怖い。

 人を操作する人は、悪い結果にならないように人を操作している。

 どうなるか知っているか?

 何をしているか知っているか?

 例えばこうだ。

 僕は君に嫌われるのが怖い。

 君に好かれようと思っている。

 だから僕は自分の意志を伝えない。

 まず君が何か言うのを待っている。

 君が何かを言うのを待ってから、それに合わせて良さそうなことを言う。

 君が気に入りそうなことを言う。問題のない、または当たり障りのないことを。

 これが「オウム返し」「二番煎じ」「やたら同意」などにつながる。

 君が「夏はやっぱりそうめんがいいよね。」と言う。

 すると僕は「そうだよね!僕も大好きで夏はしょっちゅう食べてるんだよ!」と言う。

 君が先に何かを言う。そして僕は「話ができそうなネタ」であると安心する。

 ほっとしてその話題を広げようとする。

 「そう言えば先週僕も…」と自分のそうめんネタを話す。

 君が喜んでくれると思うからだ。

 これが「人の話を横取り」「他人の話を自分に引き寄せる」と呼ばれる現象だ。

 もしいつもの僕ならば、こう聞く。

 「よく食べてるの?拘りとかあるの?」

 人の話は、人が話を広げられるように聞くものだ。

 自分の話を広げたら意味がない。

 人が話し始めたら、自分は相手が話しやすいようにするものだ。

 だが、「嫌われないようにする」人は、相手に話をさせない。

 君を喜ばせるために、僕は君が「ふってきたネタ」を広げてあげるのだ。

 君を喜ばせるために、「僕も同じだよ」と僕のことを話しているのだ。

 僕は常に君を待っている。

 君が何かをしようとするのを、君が何かを話し出すのを。

 嫌われないように、自分からは特に何も話すことなく黙って聞いている。

 君に嫌われないように、君のことを知ろうとする。

 気になることやわからない君のことを、君に聞く。

 あれこれ質問しては、「そうなんだ」と考える。

 だったら何を話せばいいかなと考える。

 これが「詮索好き」と言われる人だ。

 その時に相手が質問されて嬉しいことを質問しない。

 話題に必要なことを質問しない。

 ただ自分が知りたいだけの「相手の情報」を聞き出そうとしてしまう。

 失礼な人になってしまうのだ。

 僕は君に嫌われないように、まず君が決断するのを待つ。

 その場に応じて「臨機応変に」自分の意見を変える。

 出てきた結果に合わせて、君にとって都合のいい事が起きていたことにする。

 君にとって都合のいい事とは、僕が君に対して気に入られそうなことを考えていた、していたということだ。

 「僕は君にとって好かれるべき存在ですよ」と示せるように、君が何かを言った後から「どうしようかな」と考えて意見する。

 どう言えば好かれる答えになるかな、と僕は考える。

 「ちゃんと考えてから」意見する。

 君の答えを聞いてから、それを考慮して「どういうことにするか」を考える。

 君と険悪にならないよう、常にどんな結果が出ても「臨機応変に」対応できるよう、明言は避ける。

 もし君が訝しげに僕の答えに疑問を投げかけたら、君が安心できるような「理由を考える」のだ。

 こう言えば「良かったことになる」と思えることを言う。

 君がどんなことを言っても、考えても、常に僕は「君に気に入られる僕」だから君は安心だ。

 確実に、君に好かれる僕だ。

 結果が出てから「どういうことにするか」を考えるのだから、確実に安心だ。

 僕は常に「君が好きになるべき僕」になるから、安心だ。

 誰が安心って?君じゃないのか。

 僕と君が仲良くするために、僕は君の様子を伺いながら話を聞いているのだ。

 だから君のためだ。僕と君はそれで仲良くなれるのだから。

 君が僕と険悪になるんじゃないかなんて、微塵も思わないように「良い空気」にしてあげるよ。

 僕は常に後から言う答えを考えるため、君の様子を伺っている。

 その都度その都度、君の答えに合わせて「どう言えば良い会話になるかな」と考えて、最も良い会話になりそうな答えを僕は言っている。

 だから僕と君はとても仲良くなれるだろう。

 君が何を言っても僕が「仲良しの会話」になるように、フォローするのだから。

 「ちゃんと」うまく行っている会話にするから、大丈夫だ。

 君もそれで安心だろう。

 僕は君に好かれたい。だから君がネタをふってくれるのを、ちゃんと待っている。

 ちゃんと君に合わせていけるように、頑張るから安心してくれ。

 

 なに?

 僕は何を考えているのかって?

 僕は何が好きなのかって?

 僕は何がしたいのかって?

 「そんなこと、考えたこともなかった」

 なぜ君に好かれたいのかって?

 僕は君が好きだからさ。

 何が好きなのかって?どこが好きなのかって?

 君は面白いし、いろんな話をしてくれるし、君といると僕は楽しい。

 僕は君といて楽しいから、横でいつも君の話を聞いている。

 ちゃんと聞いているから、安心して喋っていてくれ。

 君がもし「僕に嫌われないか」「僕がつまらないんじゃないか」と心配しているならば、大丈夫だ。

 君が心配になって、僕に「君はこれ好き?」と聞いてきたら、僕は君の好きなものは好きだと言うから安心してくれ。

 君が安心できるように、君の好きなものは僕は必ず褒めるから。

 僕は君といると楽しいから、好きにしていていい。

 話を続けてくれ。僕は君の話を聞いているのも、君を見ているのも好きだから。

 好きな話をしていていいよ。僕はちゃんと聞いているから。

 これで、僕を好きになってくれるだろう?

 え?何?つまらない?

 どうして?

 君は君の好きな話をしているだろう?楽しいだろう?

 好きなことをしているんだから。

 その話がしたいんだろう?

 ちゃんと聞いているよ。

 返事もしているよ。君が喜びそうな返事をしているのに、なぜ気に入らないんだ。

 僕はつまらなくないから、安心してくれ。

 僕はその話がつまらなくないから、大丈夫だよ。

 もっと話していていいよ。僕は聞いているから。

 え?

 どうして自分の話はしないのかって?

 なぜ君と同じように自分について話さないのかって?

 それは、君に嫌われないためにさ。

 君に嫌われないために、まずは君の話をよく聞いて、君が好きなものや嫌いなものをきちんと把握したら、君に嫌われないような話をするよ。

 君が好きなものに合わせた話をするよ。

 君は好きに話していていいよ。僕は君を嫌いにならないから安心して。

 安心して君の好きな話をしていていいよ。僕はその後で「良い会話」になるように話すから。

 僕はそれで平気だよ。気にならないよ。

 何?つまらない?なぜ?

 好きな話をさせてあげているのに。何が気に入らないんだ。

 ちゃんと僕は喜んでいるから大丈夫だよ。

 自分の話を聞いてくれて、喜んでくれて、嬉しいだろう?

 君のこと楽しいって褒めてるじゃないか。

 君と仲良くしたいって言ってるじゃないか。

 何が気に入らないんだ。

 僕は君を見ているだけで十分だよ。

 だからずっと一人で喋っていていいよ。好きなこと話していていいよ。ちゃんと聞いているから。

 僕はいいよ。僕はそんなに楽しい話をする自信がないから、君の話を聞いてるだけでいいよ。聞いてるだけで楽しいから、平気だよ。気にしないで。

 これで僕たちは仲良くなれるね。

 僕がうまく反応してあげるんだから。

 

 さて、君よ、どう思った?

 僕を好きになるかい?

 ちなみに僕はこの手の人に何度となく言ったセリフがある。

 「俺はテレビやラジオじゃねえ。人間なんだよ。」

 君もこんな友人が欲しいかい?

 君の話を楽しいと言って聞いてくれて、君のご機嫌が良くなりそうな答えを常にくれる。

 どうだい?嬉しいだろう?

 絶対に君を嫌いにならないってさ。良かったな。

 「嫌いにならないから安心していいよ。」って。

 僕?僕はいらないよ。

 僕はナルシストではないのでね。人間と話すならば、会話がしたいのさ。

 「君は?」って聞けば、当然僕とは違う何かが飛び出してきて、さっき僕が話していたように自分の好きなことを嬉しそうに話す人がいい。

 僕が知らない楽しいことを、教えてくれる人がいい。

 そうじゃないと、イーブンにならないだろ。

 友達ってもんは、対等なんだからさ。

 ところで、君は気づいたかい?

 この会話だと、受け身な僕が君から見て「正体不明で安心できない」ってことに。

 何を考えているのかわからない。

 なんでも合わせてきて、一体なんなのかわからない。

 合わせたからいいってもんじゃない。

 「僕」という人は、君から見て他人なわけだからさ。

 人は不安が嫌いだ。

 だから安心させない人は嫌われてしまうんだ。

 この会話では、僕は君を安心させるために喜ぶことを言おうとしていた。

 つまり、「君が僕に好かれているか不安である」ことが前提なんだ。

 面白いだろう?

 だって好かれるかどうか、不安だったのは僕のはずだったのにさ。

 「きっと僕は嫌われてしまう」と無意識に思っている僕は、それに気づかないまま「君が嫌われないように安心させる」という行動を取るんだよ。

 そう、僕が嫌われないようにしているつもりの会話だが、実際には「君が僕に嫌われていると思わないようにする会話」なんだ。

 君がもし、僕に好かれるかどうか不安になっていなかったら、なんの意味もないのさ。

 君が「僕にどうしても好かれたい」と思っていてくれないと、なんの意味もないんだ。

 つまりどうなると思う?

 結論として、「既に君は僕のことを好きである。」となるんだ。

 この会話は、君を好きな僕ではなく…

 僕のことが好きな君を安心させてあげるための会話

 なんだよ。

 好きだと言いながら、自分が好かれている方の立場で接している。

 だからナルシストなんだ。

 気づいたら、きっと仰天なのだろうね。

 今までずっと、腰を低くしているつもりでそうしてきたのだから。

 自分が下どころか、上から目線でいたのだから。

 周りからは、そう見えているのだから。

 

 恐ろしいね。結果を変えよう、操作しようなんて、思うものじゃないな。

 すべては自然のままに。

 人は自分を写す鏡ってやつだ。

 不気味なほどに。

 

 嫌われたくないと思っているつもりの人は、そのうちこんなことを言いだす。

 あの人にもこの人にも気を使ってきたのに、最後にはこんなことを言いだす。

 「そんなに僕に求めないでくれ!」

 みんなが自分を求めてくる。

 「僕は皆が好きで優しくしてきたのに、そんな僕にみんなは嫌なことをする。」

 そんな酷いみんなが嫌い。僕は酷い目に遭っている。

 となるのさ。

 だが、実際には違う。当然だ。

 本当の心の中はこうだ。

 「僕は自分が嫌い。皆と仲良くしたいけど、仲良くなれるわけがない。」

 こんな僕では、好かれない。

 全てはそこから始まるのさ。

 

 面白いだろう?この仕組み。

 どうしたらいいと思う?

 たまには自分で考えな。

 思考を繰り返さないと、脳が退化していくぜ。

 

君の友人 最上 雄基

天国への階段

まだ見ぬ君へ

 今日はまだ見ぬ友人の君へ、先に教えておきたいことがある。

 もし君が、ほんの少しでも自分を見つけていたら、一度は体験していると思う。

 憎しみや悔しさや、過去の嘆きを捨て、人のことを一度でも本当に考えて何かしてあげたなら、体験したことがあると思う。

 天国への階段は、崖から落ちて進む。

 欲しいものが手に入らなくなる、これで苦労も水の泡———

 もうこれからは辛い道しかないんだ

 なんの希望もないんだ

 そんな気持ちで進むものなのだ。

 やけになったわけではない。

 本当に心から諦めてそう思うのだ。

 もうどうにもならない。

 諦めるしかない。

 なぜこうなったんだろう。

 どうしてこんなことになったんだろう。

 こんな未来があると、あの時は思っていなかったのに。

 そんな気持ちで、泣く泣く何かを諦める。

 なんとかすればパッとうまく行くと思っていた「希望」の道は閉ざされる。

 なんの面白みもない。希望もない。

 「そんなの当たり前」

 でしかない、特に変わったことも起きない普通の人生。

 「当たり前のことしか期待できない、なんの変哲もない人生。」

 それが絶望に思えているうちは、地獄にしがみつく。

 地獄に進む時は、こんな風に思って進む。

 こんなコミュ障の自分でも、こんな冴えない自分でも、こんな友達もいない自分でも、こんな取り柄もない自分でも、こんな性格の自分でも…

 「こんなに辛い目に遭っても我慢して頑張ってきたんだから」

 きっとどこかにわかってくれる人がいて、幸せになれるはず———

 君はなんて優しいんだ、そんなに我慢して頑張ってきて、みんなのためを思ってあげて、なんて素敵な人なんだ!

 とこれまでの自分の過去に驚いて

 「是非そんな君を幸せにしてあげたい」

 と救ってくれる人が現れる…。

 そんな形の夢物語を思い描いているうちは、地獄にしがみつく。

 自分の中では我慢して頑張って優しい自分。

 美化した自分しか見ていない。

 だが、自分以外の全ての人に対しては…

 こんなに優しくしたのに…

 こんなに我慢したのに…

 こんなに頑張ったのに…

 こんなに気を使ってやったのに…

 恩着せがましい、傲慢な自分

 良いと思えなくても、傷つけないように良いと褒めてあげた、優しい自分

 常識はずれなのに、気を使って気にしないふりをしてやった、優秀な自分

 頭悪いやつに、まともに取り合ってやった、人を大事にする自分

 間違ってるのに、傷つけないように黙っていてやった、心の広い自分

 本当はもっとすごいのに、控えめに言ってやった、謙虚な自分

 めんどくさいやつなのに、顔にも出さずにいてやった、思いやりのある自分

 そんな心優しい、愛情あふれる自分

 そんな自分なのに、誰もわかってくれない

 こんな優しい自分なのに、みんなは優しくしてくれない

 こんなにしてやってるのに、ちっとも感謝してくれない———

 だが、そんな自分の真の姿はこう。

 他者からの評価を勝手に自分で決めず、ただありのまま、心の中にあるものだけを見たらこう。

 なんだこいつ、そんなもの良いわけないだろ

 信じられない、常識外れ

 頭悪いやつ、どうかしてんじゃねえの

 こいつ間違ってるよ、気付いてねえよ

 なんだこいつ、めんどくせえやつ

 自分の思ったことを、神のように絶対のものとして判断する。

 自分は絶対に正しいから。

  そして神はこうする。

「そんな奴でもこの優しい自分は、馬鹿にせず、見下さず、傷つけないように気を使ってやる」

 褒めてやるか

 優しくしてやるか

 話を聞いてやるか

 スルーしてやるか

 黙っててやるか

 喜んどいてやるか

 こんな馬鹿どもでも、優しくしといてやるか

 「俺って、超優しい!」

 そんなに優しい自分なのに、周りのみんなは優しくない。

 このクズども。

 こんなに優しくしてやってるのに、人を疑ってくる。

 こんなバカ相手に優しくしてやってるのに、こんな思いやりもない連中相手に親切にしてやってるのに、こいつらは人の努力をなんとも思ってない。

 お前らみたいにどうしようもない連中相手に、謙虚に親切にしてやってるのに。

 

 こんなに優しい努力家なのに、誰もわかってくれないのだ。

 なんて不幸なのだろう。

 こんな冴えないやつが、せっかく馬鹿な連中相手に頑張って親切にしてくださっているのに。

 君はどう思う?

 可哀想だと思うだろう?

 なぜこんなに優しい「冴えないコミュ障の友達もいない、取り柄もない性格の悪い人」が、頑張っているのに。

 なんて人間は冷たいのだろう。

 ろくな人間がいないのだな。

 君もそう思うだろう?

 だが、自然界の神はこう言う。

「お前は地獄行きだ」

 なぜ幸せになれないのか、気付くまで地獄をのたうち回るがいい

 と。

 良くないことだと、誰が決めた?

 常識は誰が決めた?

 頭悪いと、誰が判断した?

 間違っていると、誰が判定した?

 誰が誰をすごいと言った?

 めんどくさいやつだと、誰が決めた?

 誰が人々を裁いた

 人は神の元に平等。人は神が裁く。

 「でもこれは絶対こうだ」と決めたのは誰だ。

 判断は誰だ。

 「それはあの人が…」

 あの人に誰が話した。

 誰が誰の判断を、話した。

 できない者、弱い者、持たざる者に、優しさの欠片もない傲慢な人間。

 さあ、みんな聞いてくれ。

 この優しい「冴えない人の心の中」を。

 気づかずにいるのは罪だから、心の中でこの人がみんなを今までどう思っていたのか聞いてくれ。

 心の中を全部知ったら、きっとこの「優しい方」に感謝するだろう。

 

 さて、この優しい方は地獄にいるわけだが、不思議だと思うかい?

 皆が罪悪感に苦しみ、悔しい思いをし、これまでの人生を後悔することがこの方の幸せだ。

 こんなに優しい人はいない。

 みんなの幸せを願っている。

 この方の夢が叶ったら、みんなの心は罪悪感と後悔でいっぱいになるんだ。

 それを与えようと頑張っているこの方が、なぜ不幸になるのだろうね。

 僕は変わり者なので、不思議に思わない。

 だが、君はきっと不思議だろう。

 

 冴えないコミュ障の特になんの取り柄もない、ありふれた程度の目立ちもしない大したことの無いやつ。

 気を使って優しくしてもらえていた、この人

 間違っているのに気付かないから黙っていてもらえた、この人

 頓珍漢なことを言っても、気付いていないのでスルーしてもらえていた、この人

 本当は大したことないのに、褒めてもらえていた、この人

 常識はずれなことをしても、黙っていてもらえた、この人

 褒めてもらいたがっているから、気を使って褒めてもらえていた、この人

 他人がずっとそうしてくれていたことに、気付いてすらいない、この人

 そして結果がおかしいと嘆いている、頭の悪いこの人

 ミエミエなのに、スルーしてもらえていた、この人

 その程度の他人なら、「当たり前」に手に入らないと思うものを、自分は手に入ると信じている、現実知らずのこの人

 図々しい夢を、いい年して本気で見ている、この人

 

 黙っていてくれた人たちに、感謝もしていない、この人

 人の優しさに、気付きもしない、この人

 自分だけできてるつもりの、ナルシストなこの人

 してもらえていることには、気付きもしないこの人

 

 きっと僕が子供の頃のままだったら、こうなっていただろう。

 こんな奴はどうしたらいい?

 殺した方がいいな。

 こんな醜い鬼は、心の中で一度死ね。

 バカは死ななきゃ、治らない。

 

 だから崖から飛び降りるのだ、全ての「希望という名の図々しい妄想」を捨てて。

 そして

 天国にたどり着く。

 君がもし一度でも体験したことがあるならば、先に言っておく。

 行き詰まるたび、この崖に到達する。

 毎回毎回、これから何もない人生だと諦めて崖を飛び降りる。

 

 絶望するだろう。

 絶対にそこに幸せなどない、と思えるだろう。

 だが、毎回諦めた先に天国はある。

 毎回だ。

 だからどんなに辛くても、諦めないで欲しい。

 

 人生を諦めることなく、しがみついている夢を諦めてくれ。

 必ず今までより幸せになる。

 必ずそうなる。

 

 そうなるように、できている。

 

最上 雄基

 

 

 

 

 

心理的環境も最初から差がついている

まだ見ぬ友人へ

 恐ろしいな、と時々思う。

 かつてのストーカー女子はもう三十代になった。
 だが、彼女を見てうちの子は苦笑いしながらこう言っていた。

 「子供みたい」

 先日、「ますますおかしくなった気がする」と言った。

 ますます退行しているが、僕に敵意を向けないのだからそれでいいのだと教えた。生き方は本人が決めること、僕を敵にしないまでも、未だに誰も信じてはいない。未だに自分自身から逃げている。

 それは人の自由だから、おかしな大人に見えても「そういう人もいるんだ」と思って気にするな。人はそこまで強くもなく、お前が思うよりお父さんは珍しい方なんだよ、と言った。

 僕は意識して子供の心を育てられる。それは精神分析学のお陰だ。
 子供の自我がハッキリ生まれた時のことを、僕は覚えている。
 「不思議な体験」の話をしてきた娘の様子を見て、「自我が生まれた!」と内心大喜びした。

 元々、僕の顔も見てこない、俯いているばかりの言いたいことも言えない子供だった。数年でそこまで育った。僕は心底喜んだ。

 僕は以前からかつての彼女について少々引いている娘に言ってきた。

 「あれは大人ではない。大人がやっているが、大人がしていいことではないんだぞ。」

 と教えてきた。

 「じゃあなんでやってるの?」

 と聞く。子供の質問は率直だ。そこで僕は

 「許されるならいつまでも幼児のままでいたい、という人もいる。許してもらえるなら、他の人が全員したらまずいことでも自分だけやりたいんだ。その分の負担は他の大人が社会で抱えるのだから、お前は絶対に真似するんじゃないぞ。」

 と教えた。

 だってさあ、と彼女は言い訳する。子供のように。

 子供が見ても嘘だとわかる嘘を言い、子供に窘められる。

 「私も小学生の頃は皆がどう思うかって気にしたけど、思うよりみんなは自分のことなんか気にしてないから、大丈夫だよ。」

 と子供が大人をなだめ、そしてこう言った。

 「もう観念したら?」

 いつまでもグズグズ言い訳し、なんとか自分を正当化しようと一人で理屈をこねる。
 それを叱咤する僕とのやり取りを見ていて、娘は呆れて助け舟を出したのだ。

 彼女の母は、気に入らないことがあるとしくしくと泣きながら家を出ていく。別に遠くにいくわけではない。専業主婦なので、家から出て外にいるだけだ。

 彼女はそんな母親の姿に切れる。
 僕の前でもストレスで叫び散らしていたことがある。

 「もういい加減にしてよ!毎日毎日こっちは仕事で遅くまで疲れてるのに、帰ってからそんなの構ってらんないよ!」

 お母さんは社会で働いたことがないからわからないんだ、とよく言っている。
 彼女の家族は、母親以外はみな大企業で働いている。仕事仕事で、忙しい時は終電間近に帰宅だ。

 そして帰ってきたら、「晩御飯はいらない、疲れてるから早く寝たい」と言った一言で、母親は不機嫌になった。

 「せっかく作ったのに!お母さんがあんたのためを思って作ったのに無下にした!」

 という不満なのだ。

 ただ、母親はハッキリ不満を口にしない。
 黙って辛い目に遭っている感を露わにする。
 責めているのだ。罪悪感を煽る母である。

 彼女は僕のセラピーによって、それでも数年前より相当落ち着いた。
 何年も前は話を聞きながらアートセラピーしていると、突然「ものすごくイライラしてきた」と言い出し、「誰もいないから、怒りを口に出しなさい。」と僕が勧めると、奇声に近い声を上げた。

 今はイライラしても、その場で何に怒りを感じたかわりとわかるようになった。
 時々会うと欲求不満になっており、職場での話などを聞きながら僕が原因に気付き「本当はこう思ってる」と指摘する。

 ここまで持ってくるのも、至難の業だった。私生活の付き合いだからこそ逆にできる。
 これは家族やそれぞれの友人などの役目であり、仕事ですることではない。

 彼女の母親は引きこもりだ。
 家の中が殆どで、世間を知らない。
 家族が外に出ている間、一人であれこれテレビを見ては妄想している。

 不安症に拍車がかかる。
 僕が行くと廊下で捕まる。
 身の上話が始まる。同じ話を何度でもする。

 この母親こそ、うちの癌なのだ、と彼女が気づいたのさえ、僕と出会ってからだいぶ過ぎた後だった。それまでは母と一緒になって父親を罵っていた。

 父親の前は、「うちの家族は仲良し家族!」だった。

 そこから順を経て、原因にたどり着いたのだ。

 「現に、誰が現実をなんとかしているのかを考えろ。誰がいないと生きていけないのかを。」

 と教えた。
 彼女の家は、考えるのも決断するのも実行するのも全て父親だった。
 母親は横から口出ししては「お前は黙ってろ!」と叱られ、責められたと被害妄想に勤しんでいた。

 「うちのお母さんて、年金とか保険のこともよくわかってない。お父さんも怒りたくなると思う。自分で払ってるわけでもないのに、すごい頓珍漢なこと言うから。」

 と彼女は言う。

 最近になり、彼女はこの職場はやめたいと思うようになったらしい。
 ここでなくてもいいやと。

 その理由は、彼女の母ほどの年齢の「子供を育て終わった主婦たち」が多く職場に入ってきたからだ。
 部署は女性の方が多いという。

 昔は怠惰で「働きたくないwww」とか言っていた彼女が、今では年上の女性たちに怒りを感じている。

 「仕事するところなんだよ!」

 驚くことに、まるで中学生のような集団になっていると言う。
 誰が誰を気に入らないとか、あの人がこんなことをしたとか、噂話と陰口がすごいようだ。
 そして陰口のターゲットになった人は、そのうち「これを直してほしい」と言われるらしい。

 女子同士で険悪になり、「あの人が嫌だから近寄りたくない」などと言う意見を上に伝え、上は上で「席替え」をさせたりするのだと言う。

 嫌いな人と隣になりたくない。
 そんな不満を会社で言うのだ。それも上司に。

 「男がすごい気を使ってる。部署でも男の方が弱いって思う。」

 彼女はそう言う。
 そして彼女も陰口のターゲットになっていたことがあると言う。
 昔の自分自身と同じことをする主婦たちがやってきたのだ。
 昔の自分をその姿に見るから余計に辛辣になる。

 「嫌いな人と隣になりたくないから、席替えしてほしい。」

 こんなことを言いだす女子がいるのだから、「女は社会に出てくるな」と男が言いたくなるわけだなと思った。

 男は仕事を仕事として考える。
 その場で何をどうするにしても、目的は「仕事でしかない」のが男だ。

 だが、公私混同激しい人が多いのもまた女だ。
 当然きちんと仕事をする人もいる。だから女が女の敵だという意味もわかる。

 その職場で深夜に帰宅し、家に帰れば黙ってさめざめと泣く母だ。

 「いい加減にしてよ!こっちは疲れてるんだよ!」

 と半泣きで叫びたくなるのもわかる。
 電話で話しながら、泣いていたことがある。
 仕事で帰っても、明日の仕事のこと、それ以外のこと、考えることは沢山ある。

 疲れて帰ってきたら、考えを整理しながら風呂でも入りたいところだ。

 そこに「お母さん今日は頑張ったのよ!」と手料理を用意する母。
 空気読めないにもほどがあるが、彼女が疲れていることもわからなければ、深夜までの仕事で疲れるとはどういうことかもわからない。

 母親宅は、妹がいる。
 妹は輪をかけて「叱られると具合が悪くなる」らしく、誰も手出しできないらしい。腫れ物に触るように扱われているという。まるで爆弾だ。

 それを聞き「お母さんのそのまたお母さんがそうだったんだと思うよ」と僕は言った。

 「女はこうして生きていけばいいんだ、と子供は親の姿を見て観察学習している。」

 祖母が亡くなるまで、母はべったりだったと言う。
 祖母は毎朝母に電話してきたと聞いている。

 彼女の父は、気が弱いが優しく真面目だ。
 長男なので泣き言を言わないよう無理して頑張っている。

 「おばあちゃんが亡くなった時、お父さんが泣いたのを初めて見た。」

 と彼女は言う。
 その父親の姿を見た母が言った言葉は
 「あの冷たいお父さんでも泣くことがあるんだね!」
 だったと言う。

 冷たいのは母の方なのだ。
 母親が亡くなって泣いている夫を見て、陰で笑っていられるのだから。

 彼女はそれまでの概念がある時逆転した。
 冷たく怖い父親と、優しく可哀想な母。

 この概念が覆った時、彼女の中の是非の判断は変わり始めた。

 彼女は以前より真面目になり、仕事もよくこなすようになった。
 人付き合いも昔よりずっと良くなり、人にも好かれるようになった。

 今、父である人に言っておきたい。

 子供はやがて大きくなる。
 もし今夫婦が険悪で、子供が母親についているとしても、子供が社会に出るようになれば真実に気づく。

 もし父の方が堪えている側であるとすれば、子供はやがて気づく。

 本当に正しいものは、時間がたてば必ずわかるようにできている。

 大抵の子供は母親につく。
 だがその母親が間違っている時、子供は被害者と加害者を逆にしてしまい、外でうまくいかなくなるのだ。

 彼女が僕と出会った時、酷いいじめをする女で友達とも険悪でドロドロした喧嘩をしていたように。

 そして当時は仕事にも投げやりで、なんとかして仕事に行かないことばかり考えていた。公私を混同し、僕の仕事についても全く理解がなかった。

 今は変わった。

 判断基準が変わったことで、彼女自身の行動が変わった。
 行動が変わったから、人格も変わった。

 間違いを間違いだと知り、正しいことを正しいと知っているかどうか。

 それは人生を左右する重大なことなのだ。

 これを読んでいる君も、人生がおかしくなっているならば、自分自身の判断基準を今一度見直してもらいたい。

 少なくとも今この社会では、善悪が逆転していると言えるくらい、判断がおかしくなっているのだから。

 

まだ見ぬ友人へ

 最上 雄基

 

 

まだ見ぬ友人へ

まだ見ぬ友人へ

 この仮面を見ると、自分に見えてくる。

 自分の心は誰にも見えない。過去も、背景も、誰にも見えない。

 僕が口に出さない限り、誰にもわからない。そして君のそれも君が口に出さない限り、誰にもわからない。

 だからいいんだ。

 過去など必要ない。自分だけが知っていればいい。

 背景など聞かせなくていい。必要なもの以外は。

 今そこに必要なもの以外は、全て不要だ。

 そこにいる自分の実力だけの勝負。だからいい。

 どんな役でもこなせ。

 まず、生き方を決めろ。

 君の生き方を。

 どう生きるかを。

 生きる方針だ。

 自分で決めていいのではない。

 自分で決めるしかないのだ。

 人は必ず親の決めた方針で始まる。

 それがうまくいかないならば、または納得できないならば、自分で決めろ。

 君が今不幸ならば、君は今最悪な生き方をしている。

 君は今まで自分を試したことがあるか。

 自分の実力を試したことがあるか。

 自分で考えた生き方で、自分がカッコいいと思うやり方を、試したことがあるか。

 仮面を被るんだ。

 この仮面は自我で制御され、自分のなりたい自分に近づけてくれる。

 なりたい自分とは、仮面の中の自分だ。

 「こうできたらいいな」を実行したとき、仮面は外からどう見えているかわからない。自分には。

 だが、それにより仮面の中の自分が育つ。

 自分を隠し、自分で自分を慰め、そして仮面を被れ。

 この国は、ある意味では楽だ。

 仮面を被れる人が少ないから。

 君は、人に選ばれたいか?

 集団の中で、出世したいか?

 ならば仮面を被れ。

 それは思うより遥かに簡単にできることだから。

 「こんな自分なんかが」の自分。

 それは仮面の中の自分のことだ。

 外に出しているから、仮面を被らないから、それを人に見せている。

 こんな自分、今までの自分、何も変わらない。

 変わらないが、仮面を被ることはできる。

 嘘の仮面ではない。

 本当の自分、内面の自分に沿った自分だ。

 悲しい、という事実は変わらないとしても、それをどう表現するかは自分が選べるのだ。

 「自分はこうである」

 と自覚するための要素。

 それは自己同一性の元であり、自分自身の背景だ。

 選べなかったものと、そこから自分が歩んだ過去。

 それらは内面の自分の要素であり、仮面に出す必要はない。

 

 君がもし、早く自分を好きになりたいならば

 過去を出すな

 背景を出すな

 そして自分を説明するな

 心を自覚し、この状況で自分がカッコいいと思える仮面を被れ。

 君がもし今不幸ならば、君は愚か者だ。

 神に与えられた自分自身を、他人の方針で生かしている。

 今までの自分なんて、他人は知らねえよ。

 聞きたくもねえよ。

 だが、そこにいるだろう。

 君自身が。

 その自分は悪くない。

 いいじゃないか。

 早く使えよ。

 今までなんて関係ない。

 早く被れ。仮面を。

 そして自分役を演じろ。

 案外、カッコよくなるからさ。

 

まだ見ぬ友人

最上 雄基

 

 

慈悲 ~人間であるにも拘わらず~

まだ見ぬ友人へ

 君は僕をどう思うか知らないが、僕も時々は友人に相談する。

 相談とは、相手に救いを求めるものではない。
 自分を救うのは自分だけだ。

 自分を救わねばならないので、そのために意見を聞く。
 「今これこれな事情で、僕はこのように思うのだが、お前はどう思う?」
 これが相談だ。そして
 「これこれのために、このように力を貸してもらいたいのだが?お願いできるだろうか?」
 これが協力のお願いだ。

 あくまでも、自分の問題は自分で解決することが前提だ。
 それで友人とも友人でい続けられる。

 僕は正直、己の考えが甘かったと思っている。

 僕は他の人が思うより無慈悲であることを知らなかった。

 人間を受け入れることを拒否しているのだ。
 自分を「人間だ」と受け入れていないから。

 愛ある親は、我が子が悪いことをしてしまうとこう思う。
 「うちの良い子がこんな悪いことをしてしまうなんて!一体何があったんだ!」

 「私たちの子」は「良い子」に決まっている。
 自分の子は自分たちにとってはいつだって「良い子」である。
 愛し合う夫婦にとって、我が子は存在そのものが「良い」ものなのだ。

 それが、受け入れられてきた子というものだ。

 ところが、人間を拒否する親はこうだ。
 「この子がこんな悪い子だったなんて!知らなかった!」
 そしてこうなる。
 「こんな子に育てた覚えはありません。」

 良いことをすれば良い子。悪いことをしたら悪い子として拒絶される。
 それが「人間であることを許されない子」だ。

 僕の相談相手は、かつて付き合っていた人が多い。
 縁を続けることができる人は非常に少ない。
 思い通りになっていたら付き合い続け、そうでなくなったらいらない、という人が多いからだ。人間であることを受け入れない。

 かつてのストーカー女子はだいぶマシになった。
 僕を少しでも受け入れたからだ。
 人を受け入れるには、自分を受け入れねばならない。
 思い通りにならない僕を、思い通りにしようとしなくなった。
 つまり、思い通りにならない僕のままで付き合いを続けている。だから関係が続いている。何かいいことをしてくれるわけでもないが、協力はしてくれる。
 それが友人だ。最低限必要なことはそれだ。

 何もしなくてもしてもらえなくても平気。
 散々しつこくしてきた時期があったが、彼女は「この人は自由を奪われたくないだけなんだ」と気づいたと言う。
 だから僕に何か期待して親切にすることもない。
 すると大層何もしなくなったが、別に何もしてくれなくても関係は続く。
 そもそも、友人にそんな大それた要求を持っていない。

 普通に、当たり前のことでいい。
 特別に何か必要とはしていない。

 特別何か求めない、してこない。
 そういう人の方が少ないのだから、特別でない人が特別になるのだ。

 彼女は付き合いが長いので、少なくとも僕をそれなりに知ってはいる。
 そして僕は彼女に「僕は誤解していたのだ。」という話をした。

 僕も確かにお前のようにすごい人に出会うことがあるし、ここまで迷惑をかけていなくなるとはと思える人には何度も出会っている。だが、それにしても「悪いことをした人」に対して、何か僕とはだいぶみな違う対応をするらしい。

 自分がやらないことは発想できないから、どうにも思いつくことさえできない。

 基本、人を憎む人は人に話す時に自分がしたことを言わない。
 正確に言わない。それでは正確な判断ができないが、それはそれ、心理の問題だから認識の世界について話しているのでまた別だ。

 それにしても、僕自身がやらないことは思いもつかない。

 かつてのストーカー女子としても、当時は僕が最後に怒り狂うようなことを期待していただろう。
 公家の娘はそうだった。そういうタイプはいる。
 大人しそうに見えるのだが、そのパターンは決まっている。

 「自分はものすごく綺麗な人間だ」と思っている。

 つまり、喜怒哀楽がない。
 最終的に、自分が自分の中から排除したいものを相手に投影して切り捨てる。

 この繰り返しをする。

 人間が人間を排除するのだ。

 人は都合よく「自分にはあんな部分はない」と思いたがる。それが傲慢だ。

 人間であるにも拘わらず。

 僕は自分を理想化してくる人に出会うと、「俺はそんないい人間じゃない。最低な男だ。」と繰り返す。

 かつてのストーカー女子がまともになったのは、ここを理解したからだ。
 「過去の私ほどのことをされたら、さすがに雄基でも殴りたくなる。」

 実際ぶん殴ったことはない。
 頬を叩いたことは数回ある。
 あまりにも口汚い呪いを吐いていたからだ。
 「そんなことを言っていると、心が悪魔になるぞ!」
 と泣いて引っぱたいたことがある。

 恨み憎しみで言葉を吐くなど、恐ろしい。
 思ってもいないことを言い続ければ、悪魔に魂を乗っ取られてしまう。

 メンズの相談を聞いていると、「それはさすがに殴りたくもなる。」という話を聞く。
 だが、もしそんなことをしたら自分の方が罪になるからダメだよ、と話す。

 ダメだと止めたのに…と、止まらずに人を攻撃してまんまと排除されてしまった人のことを思い出す。

 まあ、人は本人が決めた通りにしか動かない。

 人には善も悪も、あらゆる感情が発生する。
 それを「ある」と受け入れている人が、バランスを保っている人だ。

 「ない」と思い込んでいる人は、バランスを保てない。

 「ある」と自覚できる人は、行動に移さない。
 「ない」と思い込んでいる人は、代わりに他人を排除する。

 「何をしても怒らない人が好き」と言う人がいる。
 そんな人はいない。人間ではない。だが、そんなことを言いだす人は、本人が怒りを我慢する。その分、人を悪者にするといういじめをする。

 わからないではない。完璧を求める人は「私は我慢するから、あなたも我慢して」になるのだ。だが、それでは泥沼のいじめ合いになることは必然だ。

 怒れないのは愛がないからなのだ。

 味方同士であれば、怒っても平気だ。
 昔恋人によく叱られたし、彼女は怒ることもよくあった。

 「そんなのダメよ!」と叱られた。
 「どうしてわかってくれないの?!」と怒った。
 だが、味方だから平気なのだ。恋人同士なのだから。
 僕の行動の何かについて怒る。僕は理由を説明するが彼女はそれを受け入れない。
 「あなたのことが好きだから不安になっちゃうの!私のこと好きじゃないの?!」
 と彼女は泣きそうになりながら言う。
 そして僕は
 「そんなわけあるか!」
と即否定し「すまなかった。どうして欲しい?」と聞く。
 そこで折り合いのつく解決策を二人で見出す。
 喧嘩をすれば愛は更に深まる。

 それが当たり前だと僕は思っていた。
 だから意味がわからない女がいる、と思ったのだ。

 喧嘩を売ってくる。
 「私のこと嫌いなんだよね?」
 「どうせ他の人の方がいいんだよね?」
 嫌なことを嫌だと言うと「それはあなたの方でしょ!」と更に喧嘩を売る。

 こういう人が「好きです!」と言ってやってくる。
 僕は起きていることをそのままに理解するので、「いじめられそうな男を探して彷徨っている女」だと思った。

 味方同士は愛し合っている。だから怒ってもそこには愛がある。

 敵同士は普段からいがみ合っている。
 スパイ同士は味方のふりをして敵であると隠しているわけだから、怒りを出すと戦いになる。

 スパイ女子は、気に入らないところがあると疑う。
 そして僕のことを「悪い人」「嫌な人」と決めつけ、改善させようとする。
 「悪いところを直して良い人間にしよう」としてくる。

 つまり、「悪いところがあったら許さない」人だ。
 そしてその悪いところは誰が決めるのかと言えば、相手なのだ。

 自分で自分の良し悪しを決めてはならない、他人が自分のことを決めるものだ、と彼女たちは思っていた。
 「相手に気に入られるために、自分を変えるのが愛」だからだ。

 それを愛し合える人は愛と呼ばない。
 愛はただ与え、受け入れるものだ。

 そして相手が味方だから、素直になるものだ。

 自分はそれができないけど、あなたはやって!と求めたら、愛ある人がただいじめられるだけになる。
 だが、実際には愛ある人はいじめられ続けない。

 道理の通った人は、二重束縛の矛盾につかまらない。
 矛盾した行動を取らないからだ。

 だからまず自分の矛盾を正すことなのだ。
 自分が矛盾したまま誰に出会っても、相手を縋りどころにするだけだ。

 他人のAさんと他人のBさんを見て
 「Aさんは悪い人、でもBさんは良い人」
 と二者を比較する。
 これが毒親のやっている「比較してくる」だ。
 そして、両者に対して自分がどうあるかではなく、Aさんを良い人にしようとしたり、または良い人にならないと排除する。勿論、Aさんは悪者だ。
 そして比較対象として、Bさんに完璧な理想を求める。
 しかしこの関係性において、かつてはAさんも理想の人として扱われたのだが、関係性が進むと矛盾した関係に陥り、新たにBさんを理想の対象にする、とう繰り返しを行う場合が殆どだ。

 その「悪いAさん」は、親からスタートしている。
 だから永遠に終わらないのだ。

 僕はこの関係性において「理想の対象Bさん」にされることが多い。
 「僕はそんなに良い人じゃない」と自己申告しても、「そんなことはない」と決めつけられる。
 そうでなくてはならないのだ。僕は理想の人でなくてはならない。

 だから嫌なのだ。

 僕は人間だ。至って普通だ。

 僕は優等生であり、不良でもあった。
 若い頃は血を見る喧嘩もした。決して自分から殴りかかることはなく正当防衛しかしないが、それでも相手にケガをさせたこともあった。
 本当にまだ若い頃だ。そういう経験は若い頃にした方がいい。
 小競り合いで済むうちに、程度をわきまえられるようになった方がいい。
 子供同士で喧嘩して、段々程度をわきまえていくのだから。

 僕は仲間の中では「口から毒を吐く」と言われたほど、口から出てくる言葉は辛辣だった。僕は頭脳で戦う方なので、乱暴は好きではない。何よりも疲れる。
 相棒が猪突猛進タイプだったので、二人でバランスを取っていた。

 そんな経験があり、僕は社会では劣等の位置にいる人たちが結構好きだ。

 彼らは早くに「自分たちには無理」と諦めたが、劣等感は持つものの、競争社会からはみ出してしまった故に仲間意識が強いところがある。
 案外みな優しい。決して表面上で見えるような人柄とは限らないのだ。

 みな人間だ。

 そしてただ人間であることが、最も難しいのだ。

 当たり前に人間であるということを受け入れて、傲慢さはそぎ落とされ、謙虚になれる。

 人は外側に嫌なものを見ると「自分はあれとは違う!」と思いたがる。
 嫌悪したからだ。
 僕も昔母に対して思った。
 だが、嫌悪すればするほど自分は母に似てきていて、「結局は親子なんだ」と受け入れざるを得なかった。

 だが、僕は嫌だったから、自分は人に同じことをするのはやめようと思った。

 人は失敗して学ぶのだ。
 だから今の社会のように「絶対に失敗しないように」と育てれば、子供たちはおかしくなっていく。

 子供を受け入れられない親は、「悪いことをしてしまったうちの子」を「悪い子」としてしか見ない。
 「この子はいつだって良い子!」と思えない。
 何をしたって「私たちの子」だから、「私たちだけは」良い子だと思う、それが親の愛だ。他人はその限りではない。他人だから。

 怒り憎しみを我慢し続けた人が、自分でも嫌になるようなことをしてしまうことがある。
 そこで人を憎んだらおしまいなのだ。
 自分にはそのような部分があるのだ、と受け入れることだ。

 自分を知ることで、人間がどのような生き物か知るのだ。

 僕は昔、人に良くしてもらった。
 だから僕は自分がしてもらったように、人が来て安心できる場所を作り続けている。
 僕には居場所がない。
 最初から自分以外いない。だから自分の居場所を居心地よくすることで、僕が昔入り浸らせてもらったように、人を招く。

 僕はそんな場があって、家での苦痛に耐えながら生きられた。
 そこを「僕を救うための場」にはしなかったからこそ、良い関係が続いた。

 そこにいる仲間として、当たり前にいさせてもらった。

 皆と平等に扱われながら。

 そこでもし僕が「自分だけ」をやっていたら、周りに気を使わせていたら、きっとそこでどんなに良くしてもらっても僕は孤独だっただろう。

 母との戦いは親子の戦い。他は関係ない。
 そして家族なのだから、僕は家族として戦うのだ。
 敵ではなく、家族としてだ。

 愛されないから誰も愛さないもんね!

 という意地は、自分にとって損にしかならない。
 どうせ何をしても気に入らない人は気に入らないと言う。人間が気に入らないのだから。

 僕はかつて迫害された。
 だから僕はどんな人間を見ても、その行いが悪いものであっても、人間そのものを悪として排除する人になりたくはない。

 だからこそ、人に嫌悪するたびに「自分には無いと思いたがっているのだ」と認識する。
 ともすれば、相手の状況になれば、僕も同じになるかもしれない。
 僕も人間だから。
 そして僕は僕ができることをするのだ。
 「それは外から見たら、こちらから見たら悪事になりますよ。」と。

 相手のことを考えない人は、自分にとってどうかしか考えないから。
 相手の側にはそれがどういう意味に映るか、わからないから。

 だからこそ、「良いこと」ばかりしているつもりで良くないことをし続けている人もいるのだ。自分の側からだけ見ているから。

 人間を受け入れない人は、子供も受け入れない。

 優しく受け入れないか、厳しく受け入れないかの違いはあっても、受け入れはしない。

 人は、自分に都合の悪いことに対して、随分無慈悲なものだ、と思った。

 恨みが溜まるとそうなるのだろう。

 その根源は我慢であり、自己執着だ。

 とはいえ、何も選べる他人とまでみな争わなくても良いのにと思う。
 選んで生きられる時間に争い、憎んでいたら、人生などあっという間に後ろを向いたまま終わりが来るのだ。

 僕は同じ酷い目に会っても、他の人ほど憎しみや怒りを持たない。
 怒りは意志あって出すのだから、相手に許されることを一切考えない。
 後から許してもらえると安心しきって怒りをぶつけるのが「八つ当たり」であり、「いじめ」なのだ。
 嫌がることをしても、許してくれる人が好き。
 嫌がることをしちゃう自分をわかって欲しい。
 何を?
 悪い子じゃないって。

 僕は昔そうした都合のいいことを考えていたが、そんなことは無理だとすぐにわかった。

 相手にとって嬉しくはないとわかることをする時に、相手に好かれたいとは思っていない。

 そんなことは不可能だから。

 僕が人を排除せずに済んできたのは、自分がそんなにいい人間じゃないとわかっているからだ。
 そんなに美しいものばかり発生しない。
 チラッとでも、何か欲や、執着の感情が出てくる。

 それにすぐ気づいて、戒めているだけだ。
 そしてそれは僕がやりたくてやっているだけで、他人が何をしていても気にはしない。僕に関わりなないから。

 何かしてもらいたいから、相手にああなってこうなってと言うのが子供であり、何かしてあげなくてはならないから、こうしなさい、ああしなさい、と指導するのが親だ。

 そして他人には義務がないから、そのどちらも存在しないのだ。

 「反時計回り」

 ランガー教授の著書のタイトルを知り、

 「この時間軸を逆に向いているという事実は、人類が乗り越えねばならない課題なのだ。」

 と改めて事の大きさを痛感した。

 今、書いているものがある。
 準備しているものがあるから、君よ、いましばし待たれい。

最上 雄基