まだ見ぬ友人へ
精神的快復力の強い人格『レジリエンスパーソナリティ』は、ノイローゼ状態にあっても自力で「発想を転換」することにより快復すると言う。
そのひとつを、今書くから共に考え、そして参考にしてほしい。
その前に、随分久しいじゃないか。
これは、まだ見ぬ友人の君への僕からの手紙だ。
今なお、氏神一族の精神を持ち続ける僕が、かつて領民たちを守り続けた思考の方法を教えよう。
世間では「正しいことがわかる人だ」と思われている、加藤諦三先生という学者がいる。
彼は外ヅラでは仏のように優しい…ように見える。
そして学んできた高度な学術を持って、人間心理を分析する。
本人が自己実現を連呼するから、本人はできているに違いないとみな思っている。
様々な分野で責任者などを務め、有識者として政治にも関与している。
数年前、国から勲章も授与されている。
周囲にいる人々がみな彼にへつらう。
彼は「聞けば正しいことを教えてくれる神様」のような立場になっていた。
ただ、彼自身は、実際には神経症が全く治っていないと思われる。
それに気づいている「専門家」も恐らくいると思うが、それでもなぜそのままなのか。
問題はそこだ。
ほとんどの人、視聴者として遠くから見ているだけの人々は、彼がそこにいるならば、そこにいるだけの人物だと思う。
正しい人として今必要とされているならば、あの人は正しい人だとみな思うだろう。
ではなぜ、真理に到達し、僕たち現代社会人さえ救う教えを残せた人が、かつて「罪人」になったのか。
今では「真の聖人」として崇められる「既に亡くなった人たち」は、生きている時にはみな迫害されている。
時の権力に煙たがられ、罪人として罰されている。
それでも、庶民の中に彼らを慕う人はいなくならなかった。
力無い人々が寄っていき、心救われる。それこそ、真の親たる人ではないだろうか。
ひとつ、人間は最初から勘違いをしている。
「ここが天国ではないということに気づいていない」
社会は金と権力を持ち合わせた人間たちが作った世界である。
神様が作ったものは自然の世界であって、人間社会は神様の作ったものではない。
僕が言う神は、イコール自然の力と考えてほしい。
「神様」という存在がこの世に存在すると思って言っているわけではない。
本当に神様がいるならば、人間社会にはいない。
人間社会は人間が作ったものなのだから、この世界に「神様」として居座れる人がいるならば、その人はむしろ神様ではない。
しかし、僕は「神様」扱いされている人を目の当たりにして、ここのおかしな構図がどう作られているのかはわかった。
彼は別に嘘をついてもいない。ある意味では。
「他人にちやほやされたかった」
と本人が述べている。
ちやほやされたいから、善人ヅラをしてきた。やたらいろんな仕事を引き受け、「いい人」だと思われる行動ばかりをとってきた。
だから社会的に見れば、「とても立派ないい人」としか思えない功績、行動を積み重ねている。
なのに、本人が「そうしたくなる理由があるとは思えない人」なのだ。
ご機嫌取りに気を良くする。
目の前で自分のために起きているいじめを傍観し、聞こえないふり見えないふりをする。
人の話を聞かない。状況を把握せずに「それっぽい言葉」だけで推し進める。
すぐに癇癪を起こし、コロコロと態度が変わる。
僕が驚いたのは、彼の常識だ。
「人を人形のように扱い、ドールハウスの人形を望んだ通りに配置するように動かしている人がいる。」
僕はこれに驚いたのだ。なぜならば、本当に本人は「わかっていない」からだ。
「自分はドールハウスにいない人」なのだ。
自分以外の人たちだけを、「動かしていいもの」だと思っている。
自分がない。自分がないから、自分が何をしているのかわかっていないのだ。
「見えているもの」の中に、自分は入っていない。
だから自分以外を動かそうとしている。本当にまるっきり、認知能力が赤ちゃんなのだ。
しかし、僕が驚いてそれを伝えた際、加藤諦三先生の反応は冷たかった。
面倒くさそうに、こう言った。
「そんなこと世界中で、誰でもやってるじゃない!」
この人にとっては、その程度のことなのだなと思った。
彼は、なにが誠実にあたるか、なにが正しいか、本当によく理解している。
ただ、本人がその精神だけ持ち合わせていない。
精神は持っていないのだが、並みより遥かによく「知ってはいる」のだ。
「神経症者は楽しいという言葉は知っている。しかし、楽しいという感情は知らない。」
本人が教えていたことだ。
そして僕は本当に楽しいという感覚を知っているが、彼のように「知った気になる人たち」も知っている。
「うちの夫はモラハラです。」
と妻に訴えられていた夫たちは、一様にみな「自分はもうわかった」という立場になろうとした。
言葉では本当にすらすらと、いいことを言う。
みなそれなりに「勉強ができた人たち」だった。
勉強として理解するという意味では、本当にみな賢く、理解が速い。
それについては、今年仕事の場でお会いしたさる大学の臨床心理士の先生も仰っていた。
母親たちの中には、頭もいいし理解も早く、とても勤勉で子供のために意欲的な人たちがいる。
しかし、そのような母親たちがみな「これをやったらどうなるんですか」と、実行した場合の「見返り」について聞いてくるのだと。
僕はその話を聞き、「どこに行っても同じなんだな」と思った。
逆に安心したくらいだ。
僕は単独でやっているから、自分が間違っているのかもしれない、と思いがちだ。
たまにそうした場で意見交換してくると、やっぱりどこでも起きているのだなと確認できて、安心する。やはり自分の中の恒常性を保つために、他人は絶対的に必要だと実感する。
しかし、そんな風に臨床の場にいる先生たちより、更に上の立場にいる人。
その「権威ある人」が「わかっていない人」であるならば、どうなるか。
本当に治療が必要な人が、もし権威ある立場に「なれる家の人だったならば」と考えてみてほしい。
「この人は正しいから」と選ばれた人が、権威ある立場に着けると思っていないだろうか?
いいかい、君よ。
甘いことは考えるな。
君はひょっとして「頑張って自分の能力が高くなったら、世間に認められてその座につけるものだ」と思っていないか?
なれない。
最初から「優遇される人たち」が決まっている。
競争は起きているが、その競争は決して正当なものではない。
全員が同じゴールも目指していないし、同じスタートも切らない。
ただ、方向性が同じである場合が多いだけだ。
もし、「強い立場の人」が間違っているとしたら?
考えたことはあるか。人間がなかなかできないことのひとつだ。
だから子供は親を信じてしまうのだから。
自分を守ってくれる強い立場の人を「正しい人にしたがる」のだ。依存心があるから。
そこで、そんな時はこう考える。
本当に今まで「あの人は善人だ」と思っていた人に対してやってみるのだ。
それも「自分より上の立場の人」に対してだ。
普段から、普通にケチをつけている人のことではない。
「崇拝している人」「できる人にしている人」に対して行うのだ。
実際、研究でもこうしたやり方があるので、やってみてほしい。
仮定するのだ。
「加藤諦三先生が、実際には本人自身が神経症者だったとしたら。」
最初に、この仮定からスタートする。
この結論が正しいとして、その理由をつけていく。検証していくのだ。
答えは「自分が間違っていると思う答え」にしていいのだ。
それが「正しいと思うことが本当に正しいか検証するための方法」のひとつなのだ。
真実は、口にしてしまったら自分の身を危うくするものだ。
だから、気づく人たちが昔から島流しにされるのだ。権威に都合が悪いことに、殆どの人が騙されていても気づいてしまう人たちがいたのだ。
矛盾を見抜いてしまう人たち。それが悟りを開いたような人たちなのだ。
人に関心があるのだ。そして道理を理解している。すると片方から見て裏側を見ぬけるようになる。
表面上で体裁だけ繕っている権力者たちにとって、こんなに都合の悪い人間はいない。
だから消されるのだ。
なにせ、「本当に自分がいい人だと思い込んでいる」のだから、真実を突き付けたところで突き付けた側が悪者にしか思えないのだ。
「私は絶対に間違ってない」と思っていれば、間違いを指摘する人間は悪い人間なのだ。
悪意で見るわけではなく、正反対の答えを出してから検証する。
その結論に到達するにふさわしい経緯を想像する。
本人が言っている。かなりの年まで人に認められるために生きた、と。
つまり、かなりの年になるまで人々が見ていた彼の姿は「人に認められるため」にやっていただけの姿だ。
いい顔をしていたということだ。
彼は社会的には全くまずいことをしていない。望ましいことばかりしている。
それらが神経症的防衛機制としてのものだったとしたら。
「人々のために」という言葉が嘘だったとしたら、本物が持つものは持っていない。
恐らく、僕が騙された最後の一人になると思う。
彼は騙すつもりはない。彼自身が自分を騙しているから、彼は本音で言っているつもりでも他人が騙されるのだ。
彼は本心だと思っているのに、それが本心ではないのだ。
信じた人はみな騙されるのだ。
本人は騙すつもりはないのに。
自分に嘘をつくと、知らず知らずのうちに人を騙してしまう。
だから「いい気分を味わうために だったらいいな を口にしている人」は厄介なのだ。
騙すつもりじゃない。自分がいい人だと思われたい、思いたいだけ。
だから「騙していない」と思い込んでいるのだ。
騙すつもりじゃなくても、「いい気分になるため」であっても、それをやればどうなるか。
人を騙すことになる。だから騙していることに間違いはない。
僕は本心から、彼が口にすることを思っていた。
だから協力しようと思った。
だが実際には正反対だった。
彼は「相手は悪いことをしている人なんだから」「みんなこのくらいやってるんだから」という精神の持ち主だった。
僕にはない。
しかし、彼自身が自分を勘違いして生きているから、「愛ある人」という存在を誤解していた。
愛ある人は正義の人で、「間違ったことをしている人たちを許さない」と思っているのだ。
実際、文面ではこう書かれているくだりがある。
「幸福な人たちは、もめるのが早かった」
これはさる高名な精神分析学者が残した著書のくだりである。
彼は恐らく、この「もめる」の内容を「神経症的争いのもめる」と同じに考えた。それしか知らないから。
それではないのだ。
この「もめる」は「愛あるもめる」なのだ。
だが、愛がない人にはそれがわからない。
「わかってくれない!」と文句を言う。いち早く気に入らない時に文句を言う。
それが「心理的に健康だ」と勘違いして、より我儘になっていく人は結構いる。
文章で読んでも、話で聞いても、全部勘違いするのだ。
彼と似た人を知っている。知ったと言った方がいい。
貴族のお嬢様の、僕が言うストーカー女子。
似ている。
彼女の男版のようだ。
なんとなく煙に巻いて他人を次々駒のように動かすところはそっくりだ。
周囲の状況を無視して、「より社会的に大きなこと」を理由に、他人を黙らせる。
人に説明の機会を与えない。
何もかも自分で決めつけて、実際のところがどうだったのか確認もしない。
だからこそ、「彼は一瞬にしてすべてを知ることができる」のだ。
本当に理解しようとしたら、あんなに一瞬で何が起きているのかなどわからない。
「すごい人だからできる」というわけではないし、できたとしても人を本当に救いたいならば時間をかけるしかない。
そんなに簡単にはできないことだ。
成長させるには、教育していくしかない。
親が子を育てるように。
世間では「金持ちになった人」が正しいとされている。
権力がある人が正しい人になっている。
「勝ったんだから、正しいのだ。」という考えだ。
有名になれているから、仕事で成功しているから、実際金持ちになったんだから。
「だから正しいのだ。」
それは「この世が正当な仕組みで動いていると仮定した場合」の結論だ。
社会で正当なことしか起きないと仮定するならば、功績を残した人、成功した人は正しい。
では、なせ今「ジャニー喜多川氏のことが問題にされているのか」を考えてほしい。
成功した人だ。金持ちになった人だ。
ならば正しいのでは??
逆に「成功していないならば、間違っている」のでは?
成功している人が正しい良い人ならば、成功できていない自分は間違っている悪い人なのでは?
そこで「自分の場合はこんなひどい奴がいたから」などの理由を挙げるのか?
自分の周り以外は「天国のようになんの問題もなく、正当なことしか起きていない」のだろうか?
君にひとつ忠告しておく。
これは、永らく頂点の一角として栄えていた一族の長として言う助言だ。
「正当なことが起きる仕組み」にするためには、正当なことを考える頂点に治めてもらうしかないのだ。
それで、こう聞くと君は「じゃあ総理大臣が変わればいいんだ!」なんて発想にならないだろうか?
自分の存在している枠組みの、どこでもいいのだ。
それが最小の規模であれば、「家族」だ。
父と母が、正当な行いをできる人であるならば、家族は平和になる。
わかるか?
そういうことだ。
実は、僕が今相談を聞き教育している人のひとりに、人間国宝級の人々と共に生活していた人がいる。
彼は、最近の加藤諦三先生のラジオでの話を聞き
「普通に面倒くさそうな爺さんだと思った」
と感想を述べた。
面倒くさい国宝級に囲まれてきたからこそ、「肩書に騙されない」のだ。
外ヅラはものすごくいいのに、内側はコレ。
それを目の当たりにした体験がある。
その経験は、非常に大きい。
ところで君は「教育」と聞くと、大人が子供にするもののように感じないだろうか?
上下関係のように思わないだろうか?
僕は今「教育」をしているが、何をしているかと言うと、「伝授」をしているのだ。
目の伝授をしている。この方法はマニュアル化できない。
既に見える人間が必要なだけだ。
僕は加藤諦三先生にお会いした時、序盤ですぐにわかった。
目の前に本物がいるから。この人は相変わらずいじめられっ子なんだなということはすぐにわかった。
目の前にいるから。
しかし、殆どの人は「目の前にいてその人がどんな人かわからない」らしい。
彼が言う「目に見えない力」は、僕には普通のことだし、逆にそれを「目に見えない力」と表現した時点で、彼にその目がないということがわかる。
僕の場合は生まれつきもある。
だが、修行している。鍛錬してきている。
マニュアル化して教えられない。
なぜならば「できる人が見ることでしか、何がないのか判断できないから」だ。
僕は話を聞き、やり取りをしながら、相手の視点や足りないものを見分ける。
例えば「一般的に良いとされていること」をしてみても、「自分にはやりたいと思えない」ということがある。
望ましいのはわかっているけど、どうしてもやりたくない、など。
そんな時、なせやりたくないのかを、見分けていく。
重要なものは「視点」なのだ。視点は立場で変わる。自分を「なんだと思っているのか」で変わる。
僕は視点を変えさせることで見える景色を変えさせ、それにより自動的に自分の存在をより高く扱えるように教育している。
少しずつだ。
本人の体験が増え、そのたびに感想を聞く。
話をしているうちに変わる。本人の思考も変わる。
そして視点も変わる。
救い主などいらない。
本人が救い主の目線になれば解決する。
神はやってこない。が、本人が神になれば解決する。
神は人間をやっつけない。既に強いから、誰もいじめない。
今、精神が既に神であるならば解決する。
そんな風になれないって?
じゃあ、君は神ではないのだ。
だが、自分の中の神にはなれる。自分の神は自分のことをよく知っているから。
「こんなに醜い自分」を自分で見るとき、君の神は君を許すだろう。
それでもこれからも共に生きてくれるだろう。
今まで本当に卑怯なことをしても、他人を傷つけてきても、人には嫌われて当然でも、それでも君の中の神は見捨てずに生きてくれるだろう。
自分自身に自分の見たくないものをさらけ出せば、君の中にいる神様が必ず出てきてくれるだろう。
(・Θ・)それでもいっしょにいるから だいじょぶよー
醜い姿を他人に押し付けるな。
それは「絶対に見捨てない人」が欲しいという自分の甘えだ。
そして、話を元に戻すが、恐らく加藤諦三先生は、かつてショックを受けたのだろう。
ほんのちょっと、外から悪く思われてしまうかもという出来事があっても、彼の父は深刻に考えて家族会議をしたらしい。
その息子が、「自分の家は神経症家族だ」と勉強して気づいた時に、どう思っただろうか。
慌てたのではないだろうか?パニックになったのではないだろうか?
今までしてきたことが、いいことではなかった。
そんな時、大抵の人はこうなる。
「僕は悪くない!僕のせいじゃない!」
肥大化した自我イメージを破壊しないためには、人のせいにし続けるしかなかったのではないか。
仲間を集めることによって、自分を肯定し続けるしかなかったのではないだろうか。
「私もこうだから、大丈夫だよ。親がああなのだから、しょうがないんだよ。」
と同じ毒親の人たちに言う慰めは、自分へのものではないのか。
僕はそんなこと、思った試しがない。
親のせいにして生きていない。
僕が出会った時、彼は既に70歳をとっくに過ぎていた。
耳も遠くなり、本当に人の話を聞き逃すくらいに聴力が落ちていた。
思考力や認知能力が低下していて当然だ。それは普通の老化現象であり、誰にでも起きる。
だが逆に、だからこそあまり年老いてまで大きな決断をする立場に居座らないものなのだ。
偉い人の立場にいられても、下の者たちばかりだからどうにもできない。
彼が裸の王様かどうかは、彼が亡くなった後にわかる。
彼が出し続ける著書が失われた時、彼を崇拝した人たちはどうなるのだろうか?
既に幸せになれているのか。
もし、彼の著書と共に親を恨んで生きてしまった人がいたならば、もう誰も道連れがいなくて孤独にならないだろうか?
毒親仲間がいれば平気なのだろうか?
共に恨みを持ち続けるから、仲間。
僕ならそんな仲間はいらない。
今ここで共に生き続けるから仲間なのだ。
仲間だから、共にいるために生きているのだ。
まだ見ぬ友人よ、どうだっただろうか?
上と下をひっくり返すためには、どうしても必要なものがある。
「観察力」だ。
そのために、できることならば自力で使える程度の「第六感」が欲しい。
言葉で知った気になっていると、その場にいても感覚機能を使うことなく寝ているように場をやり過ごしてしまう。
よく観察し、状況を把握し、違和感を違和感のまま、起きたことは起きたことのまま、そのまま何も手を加えることなく「記憶していること」が大事だ。
こう説明すると、「何をすればいいんですか?」と聞きたくなるかもしれない。
沢山。いろいろだ。
だから僕は「いろいろやっている」のだ。
不要なものなどない。
家族がひとりひとりみな必要であるように、身体の中にある機能もみなひとつひとつ必要なのだ。
それぞれを見て、僕がその都度判断して、いろんなことをしている。
だから周りから見たら何をしているのかわからないのだ。
わからなくても、そのように教育していくことでしか、力そのものを伝授していくことはできない。
既に体得した人がいる。
それが絶対の条件だ。
それにしても、目立つなんてことはできるだけしない方がいい。
ろくなことにならない。
自分たちの世界を守りたいならば、あまり人に見せびらかしに行かないことだ。
君は、人生を大逆転させるとなったら、形の上で何かを覆そうとしていないか?
心の中で逆転すればいいのだ。
僕は元々、貴族にも「上級国民」にも憧れていない。
ほとんどの人が「勝ち組」としてなぜか無条件で優遇している存在に対して、優遇してやりたいと思わない。
彼らも人間だ。
そして3代も続かない家の人間を崇拝して、我が一族の歴史が滅んだら大変だ。
君は、自分の人生の始まりから終わりまでで、この世が終わると思っているだろう?
君が生まれる前から、この世界はあるのだ。
君がポッと出のつなぎでしかないと、知らないだろう。
君が死んでも世界は続く。
人生など経緯でしかない。
そして他人のことはわからない。
加藤諦三先生が一体どうなのかなど、家族でもないのに判断はできない。
人間は他人については見当をつけていくしかない。それしかできない。
本人にはなれないのだから。
しかし大幅に間違わなければ、自分を傷つけることなく生きいける。
ゆえに、納得できないこと、自分にさせてはならないことはしてはいけない。
僕は陰口を叩かないと決めている。だから彼からは離れるしかなかった。
内容は関係ない。絶対にやらないと決めていることをやらねばならないならば、僕はそこにいられない。
恐らく彼は、本当に陰口を一切叩かずに生きる人間がいることを知らない。
それが望ましいだけで、実際には実行できないと思っている。
なぜならば、生きるためには必要だから。
彼は、地位や名誉、金を手放すという発想がないから。
しかし、驚くことなかれ。
貴族も上級国民も、「自分は頑張ったんだから、多くもらって当然」の発想の人たちだ。
頑張った分だけ、多くもらう。
誰から?
「頑張ってない人たち」
というわけで、君が持たざるものであるならば、君は頑張っていない人なのだ。
だから頑張りたまえよ。それが明治以降の、ニュー日本なのだから。
僕は違う。
だから、より金持ちを、エリートを、権威ある人を妬む人々とは相容れないのだ。
それにしても、貴族の人付き合いほど楽なものはない。
教わった通りにちゃんとしているだけ。
それっぽいことを言うし、きちんとしている。
だが、それはその部分だけの話だから、連続したドラマがない。
しかし、点々として見れば、ひとつひとつ非の打ちどころがないのだ。
その点々の、なんの発展もしない「お芝居」をしながら、自分の中にある「こんな体験したい」を世間的に問題ない活動を通じて、体験しようとするだけ。
点々のお芝居をやめるという発想は、ないのだ。
やめるという発想がないというよりは、それがお芝居であり、「なにもしなければいい」とわからないのだ。
意図的に、自分を良く見せるための行動などとらなくてもいいし、人生そのもの、人そのものを演じてしまったら取り返しがつかない。
わかるかな?
わからなくてもいい。
ただ、そうであることは、そうであるだけなのだ。
それにしても、まだ見ぬ友人よ。
僕は本当に疲れたよ。
今は少しずつもとに戻ってきている。
貧しくも平和な日々。
そして、小さな世界では、とても面白いことが起きている。
近く、遠方より久々にお会いする人がくる。
相談に来られる。
とても楽しみなのだ。
僕は、年貢で生きていたころのやり方のまま生きているから、正直とても生きるのが難しい。
僕は当主だから、黙ってじっくり考えていればよかった。
外からの対応は妻などがしてくれて、身の回りのこともしてくれる人がいた。
僕の立場では、各方面に出向き確認をしたり、話を聞いたりして、最終的に結論が出た時に、決断して命じればよかった。
ひとつひとつで考えたらできることでも、実際に生きるとしたら役割分担をしなくては生きていけない。
ところが、今の人々はみな「自分でできる」から、「一人でやる」なのだ。
能力的にできても、時間がないから一人でやらないのだとわからないのだ。
ひとつひとつ、必要なことを全部やり、そして「何も伸びない」が関の山ではないか。
皆で生きるために、生きる。
だから役割分担は必要で、ひとりひとりもみな必要なのだ。
長くなったね。
いつものことだが。
まだ見ぬ友人よ、君も「おかしな天国」を生きないことだ。
正義の人が権力者であると思いたがるのは、自分が守ってもらいたがるせいだ。
権力者が正義の心を持つ人であれば、今こんな社会になっていない。
では、君の今日が良い1日でありますよう。
まだ見ぬ君の友人
最上 雄基