月: 2024年7月

メンタルが悪化する家庭の子、悪化しない家庭の子

 ニューヨーク大学の教授を務める社会心理学者、ジョナサン・ハイトは、メンタルが悪化する家庭の子とそうでない子の家庭には違いがあることを発見した、と話しています。

 ここでひとつうちの長い会員には朗報です。

 内容的には今まで僕が発見したと言っていることと同じです。随分前から系譜や道徳性について話してきました。僕自身が各地に出向いて確認してきましたが、ハイトが発見したと言っている内容も同じようなことです。

 そして、メンタルに悪影響を及ぼさない対策についても、僕が考えて取ってきた方法で間違いないと僕自身も確認することができました。

 いちいち遠くから何十年もかけて形になってやってくるのを待っていたらキリがないから、自分で発見して編み出した方が早いというのが僕の持論ですが、他人が信じる信じないは別としてこれについては変わらぬ考えです。

 事実自分でやった方が早かったと思うことがよくありますが、今回も同じでした。

 とはいえ、僕が言ったところで肩書の話を聞く人には意味がないので、他所から同じことを言っている人を見つけてきては紹介しないと効果がないと思っています。

 そうでない人は、いち早く話を聞いて取り入れて、自分で生かしてほしいと思います。

 今回の話について、家庭の違いについてはこうです。

 メンタルが悪化する子は、世俗的で無信仰な家庭の子。逆に悪化しない子は保守的で信仰心が厚い家庭の子。

 ハイトの表現の翻訳から引用しているので、このままだと誤解が生じるかもしれません。

 つまりどういうことかと言うと、日本の場合であれば、昔ながらの信仰心の元、高い道徳性を持つ保守的な家庭ということです。

 僕たちはキリスト教圏の人間ではないのですから、本質的なことを理解した上で置き換えて理解しなくてはなりません。

 日本で言うところの信仰は自然崇拝です。特定の宗教ではなく、漠然とした形の道徳的教えです。

 それがお釈迦様がという話であっても、宗教の信仰のようなものではなく、どこまでも「お天道様が見てる」に代表されるような漠然とした何かなのです。

 はっきりとした戒律はありませんが、自然の道理に沿っているのでなんら問題ないのです。

 この道徳性の高さで、福井県は毎年幸福度がナンバーワンです。

 僕の出身のお隣ですが、まだ実際に出向いたことはありません。そのうち行かねばと思っている場所のひとつです。

 とはいえ、故郷の人たちはわかると思いますが、北陸3県は元々の道徳性、信仰心はかなり厚い方です。僕もそこで救われたと思っています。

 ご存知の方はご存知ですが、僕の家は相当保守的です。母はすっかりそれに背いて東京に出て生きた人ですが、僕はかつてからの教えを守り一族のひとりとして生きています。

 僕が以前から話していることで言うならば、外から入ってきたものを羨ましがっていくら手に入れたところで他人のものは育てていくことができませんから、やはり今まで自分たちが育ててきたものを「守る」姿勢で生きた方が結果的には功を奏すのです。

 最近、加藤諦三先生のことについては意見を覆していますが、別に考え方が変わったわけではなく僕自身の考えに基づいて自分の先生である加藤諦三先生に配慮してきただけなので、根本的に教える内容も変わりません。

 先日、ある生徒は、僕の話を聞き「テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老が全く同じことを言っている」と言いました。

 人格を向上させていけば、たどり着くところはみな同じです。

 形の上でどんなことをしているどんな人であっても、本質的な考えは同じになっていきます。それは単に自然の摂理を理解しているからであって、個性の違いとは別のものです。

 今回引用している社会心理学者ハイトにしても、彼は道徳性心理を研究している人なので似たようなことを発見しても不思議はありません。

 僕自身も、実際に相談に来る人たちを見ていて気付きました。

 僕の場合は自分自身が心理的に成長が早く適応能力が高い人格だと既に知っていたので、自分自身と僕が本当に親しくなった友人や家族たちを比較対象として本質的な考え方の違いについて確認してきました。

 今まで述べてきた通りのことしか言いませんが、とにかく自分たちの根源を失ってしまうと取り返しはつきません。

 西洋や欧米の真似をしたところで、彼らのようにそれに続くものを自分で育てることはできません。

 今に根拠がないからです。自分の子が今いる子であるのは理由があるのに、あっちの子の真似をさせたところでその先が続かないのと同じです。

 宗教にしても、大人になって宗教を信仰し始める場合はまず大抵救いを求めた場合です。

 しかしハイトが述べる信仰心は、僕たちの場合は「お天道様が見ている」に代表されるような道徳性を育て守るための考え方の方です。

 以前から、悩んで生きている人たちはみな著しく道徳性が低いと思っていました。

 世俗的なものに左右され、信仰についても本質的なことは守ることなく、「人には~すべき」と他人に強要するための材料のひとつとしているだけに過ぎないのです。

 他人を思い通りに動かすためではなく、自分自身を向上させるために使うのが道徳的な教えです。

 自分を心の中で戒めることはできますが、それを他人にやれば強要になります。

 他人を変えることはできないのですから、自分自身を向上させるしかありません。

 しかし、どんな教えを知ったところでメンタル的に悪化していく家庭の子は、その教義を使い他人を悪者にしたり自分を持ち上げたり、結局は自分自身を優遇させるために使ってしまうのです。

 それをやると真の道徳の教えの元ではどうなるか、そこを恐れる気持ちがないのが「信仰心がない人」です。

 どこかで神仏が見ていて、罰が当たる、とは全く思わないのです。見えない存在を信じていないということです。

 そして念の為ここで言っておきますが、仏教における「自我」と心理学における「自我」は言葉は全く同じですが、意味は全く異なります。正反対と言ってもいい内容の違いがありますので、言葉はそのまま同じものを表さないということを覚えておいてください。

 単語は同じであっても、話の内容や流れ、そして相手の人間性を見て何を言わんとしているかを判断するのがコミュニケーションです。

 他人の揚げ足を取りたい人などは、間違いであると分かっている時さえ「言い間違い」の責任を取らせようとしますね。あれは本人自身が低い道徳性の元、動物のように生きているからそうなるのです。

 しかし、考えて生きている「人間」になるためには、気分で動き欲望を満たすためだけに生きるものではありません。その先に平和も信頼も、楽しく仲良く生きる日々も何もありません。

 やはり自分の人格を高めるため道徳性を育てること、そして奪うためではなく守るために生きることは大切なことなのです。

 僕のところで学んでくれている特に若い人たちには、これが僕の思うカッコいいなのだと教えておきます。

 漫画が本物になるような展開を信じる人に期待していると言ってきましたが、こうしてなんでもないところに遥か遠くにいる天才の呼び声高い学者と同じことを発見し、小さな世界で既に実践している人間もいます。

 世界最速でと言ってきた通り、いちいち「偉い人」を神様扱いして待っていなくても、自分の力でやることは可能なのです。

 世間が知らないうちからやっていて、世間が知るようになった時には既に実践を続けてもっと先まで進んでいる。

 それが僕の思う本当の意味での「見返す」です。

 金や地位、学歴や社会的成功についてひがむ人が多いです。ひがんでいるということは、既に他人に負けていると思っているのです。

 本人が負けたということにして、ひがむようになればおしまいです。

 彼らは勝ちです。私は負けです。と認めているのですからそれ以上にはなりません。

 しかし、例えば「金や学歴、地位があることがすべてだ」という考えに賛同できない、それでは自分に都合が悪いのならば、そうではないということを証明して見せればいいのです。

 人間は生まれてから死ぬまでの間に、何かを証明して生きているようなものです。

 自分自身の生き方によって何を証明して見せるかは自分が決められます。

 どうあっても「世間が認めてくれないと成功だと思えない人」は、その考え方こそ真の負け組だと自覚することです。

 いつかはきっと、「世間に認めてもらえる」という発想では、どこまでいっても今あるものを大事にして楽しく生きていくことはできないでしょう。

 それはかつてで言えば、農民をバカにしている生き方です。

 僕は全く賛同できません。

 そして、僕自身は偉くなったり有名になったりの道を自ら退けてきていますが、それでも一般的には誰も信じない守らない、しかし真理に続く道を進むことにより、時に僕など足元にも及ばないところにいる人たちから声をかけられます。

 結果、これしかないところにたどり着くならば、それでいいのです。

 今既に、加藤諦三先生が「親を恨むと地獄に落ちる」を証明してくれています。

 もう隠す必要もないので言いますが、彼は人の話をちっとも聞かない上に、人を駒のように扱います。彼の中での理想の世界がはっきりあるようで、あれだけの権威があるので周りの人たちもそうそう蔑ろにできません。

 死んだらどうなるのかなと思っていたので、昔からの教え通りになるか死ぬまで見ていたいと思っていました。

 ちなみに僕はただ大学に彼の教える精神分析学を教わりにいった生徒です。その時点で自分が考案しているものや知りたいことがあり、それについて「教授」に教わりたかったのですが、そこについての質問は全くさせてもらえず、なぜか僕の意見を聞き僕の能力を使いたいと思ったようです。

 他でも似たようなことがありました。

 みな自分の望んだ通りにしてくれないとなると、怒りました。

 望んだ通りになる人間だけを集めている「偉いおじいちゃんたち」は沢山いましたが、彼らは自分に同意して持ち上げてくれる人たちに囲まれていました。
 それを囲んでいる人たちは、彼らの持つものに吸い付きたいだけです。

 誰かを悪者にして持ち上げられている人たちは、いずれ滅びます。

 加藤諦三先生が、彼の祖父を讃える本を出した時、「末路が来た」と確信しました。

 その祖父が育てた息子である父親をあれだけ批判しておいて、祖父がいかに立派だったのかを説明する。

 矛盾しています。そして彼のように勲章をもらった祖父など一般の人にはいません。

 真似して親を叩いては被害者であり続けた人は、その行いに応じた末路がこれからやってくることを覚悟するしかないでしょう。

 学術に縋りついて社会の権威を崇拝してきたならば、最後までその教えだけに縋り生きていけばいいのです。

 その生き様が、そうしない人たちの教訓となり必ず生きます。

 僕も幼い頃に、そのような昔話を散々聞かされました。

 地獄の末路というものがありますので、そんな時はどんなに小さな力を持った人たちの集まりであっても、笑顔や思いやりの溢れる場所にいた方がいいのです。

 人は金や権力など、何かの力を持つと途端に動物のように横暴になり、雑になり、力技で欲しいものを得ようとしがちです。

 小さな集団では、それは父親の暴力のようなものです。

 または経済力で言うことを聞かせる父親です。父親だけではありません。道徳性を利用して被害者になり言うことを聞かせようとする母親も同じことです。

 とにかく、「これさえあれば人に言うことを聞かせられる」と思った時、自分が楽をして他人に苦難を強いることをよく人間がやります。

 ですから、そうしなくても生きていける人間であるよう、人間性の向上をやめてはならないのです。

 スマナサーラ長老は、世間は学術や科学の力にばかり傾いていて、彼のように社会的成功など説かない人の話をちっとも聞いてくれないのだと嘆いていますが、それについては僕も同感です。

 しかし、かつてブッダがどうであったかを考えれば、どんどん脱落していく弟子たちの中でも少ない弟子たちを連れ修業をし続けていたのですから、それでいいのではないかとも思うのです。

 天才の言うことが理解できる人は、滅多にいないです。

 理解できる人が滅多にいないから、天才なのですから。

 本当に賢い人は、世間ではよく叩かれています。それも悪い人のように叩かれています。

 しかし叩かれている方は飄々としたもので、自分が言ったことが理解されていないこともよく理解しています。

 道徳性を重んじる社会心理学者ハイトをなんとか叩きたい経済学者との対談の記事を読みましたが、道徳性なんてものが大事にされてしまうと、都合が悪い人も世の中には沢山います。

 金や地位や肩書が神様の力にならないと困る人は、世界中に沢山います。

 しかし、当然そんなものが正しくなって欲しい人たちは既にそれを持っている人たちであり、そんなものを持った試しもない庶民が信じたところでいいことはなにひとつないのです。

 僕たちは言葉や、最近では映像でよく洗脳されます。

 見たとこもない聞いたこともない、そんなものを信じます。そして洗脳する側に都合のいい人間となり生きて、彼らを喜ばせて見下されながら死んでいくのです。

 毒親の子たちは、殆どの場合自分が親の敵となって生きています。

 少なくとも本人が幸せに生きることは可能ですが、そうなるともう親の不幸を望むばかりになり、地獄に落ちていくほかないのです。

 今自分がどのような世界にいるのか。心の中を見ればわかることです。

 今、地獄にいるならば、地獄に落ちるに相応しい行いをしてきただけです。

 バカな話だと思うのです。

 自分が体験していることだけは間違いなく自分がわかるのだから、自分の心もそうですが実際に目の前にいる人が危険かどうかなど自分にはわかることです。

 目の前で体験しても「こうに違いない」「そうかもしれない」なんてあやふやな妄想をする人は、一体どうなったら「わかる」ことができるのでしょうか。

 感覚機能さえ全く失われてしまった妄想の世界の人に、救いの道があるとすればそれは洗脳しかないのです。

 「きっといつかは、こうなるに、違いない」

 それを夢みて崇拝して、気分だけ盛り上げて最後には人に身向きもされなくなり、捕まえられる人を捕まえては自分に注目してもらおうとするほかないのです。

 今回は、メンタルが悪化する子とそうでない子の「家庭の違い」ということで話を始めましたが、メンタルは元々防御力を高めて守りながら育てるものなので、自分が苦しんでいるのに救いを求めてパッと楽になろうとする人はまるっきりやり方を間違っているのです。

 自分を守ってもらうための集団を求める人が、自分以外の人たちも病んでいく集団を作ります。

 自分自身がまずバランスを保つよう、バランスを保てる人になんとかしてもらおうとしないことが大切なのです。

 「自分に適応させようとする人」が、人の精神を病ませます。

 自分が今のままでも居心地のいい環境を作りたいのは、成長を断念し母の胎内に戻ろうとする行いなのです。

 本人自身が、自分が適応するために変化していくと決意しなくては、何も始まらないのです。

幸福になれない人が間違っていること

 幸福になれない人は、幸福というものを勘違いしている。

 幸福になる=お金や地位や名声を得る、人間を意のままに操る

 このような内容であることは、ほぼ100%だ

 そこにどんな理由をつけようが、人より多く得て、人を意のままに動かすこと

 そして何を得たいのか?

 「優越感」

 これが、多くの人が欲しがっている「幸福感」のことだ。

 それは別に不思議なことではない。

 優越感を得て幸せになりたい人は、人間が嫌いだ。

 嫌いな人たちの中にいて幸せになるのだから、自分だけが他人とは違うと確信できる時に得られる感情であることは何もおかしくない。

 優越感を得たい人は、同時に嫉妬心が強い。

 他人のものが羨ましい。他人のものが良く見える。

 これは優越感に浸ることが「幸福のゴール」である人の特徴と言える。

 このような人に対して、物の価値観について視野を広げるよう説いても意味はない。

 なぜならば、「事実どうであるか」はどうでもよく、とにかく欲しいのは優越感なので、価値基準としては差別的なものが必要になっているからなのだ。

 「実はあんなものはいいものではない」

 そんなことは聞いてもしょうがないのだ。

 あっちはいいもので、こっちは悪いもの。

 あの人は楽をしていて、自分は苦労をしている。

 このような卑屈なものの見方は、自分が優越する立場でありたかったのにそうではなかった時に、強い嫉妬心を持つ人が手放さない解釈だ。

 それを捨てる気はない。

 自由になりたいのではなく、とにかく「勝ちたい」のだ。

 そして、現代ではこと多くの人がそのような価値観と解釈で生きている。

 「うちの夫は外ヅラはいいのです。皆にいい人だと思われていますが、実際には全く違います。家の中では別人です。」

 このような話を聞く。

 しかし、この不満を漏らす奥さんは外ヅラが良く「外では他人に良く思われている夫」は得をしていると感じている。自分は損をしていて、夫は得をしている。そのように思っている。

 そうなるともう、他の解釈はできなくなる。価値基準も変えられなくなる。

 夫が憎い。腹立たしい。夫が嫌いであるということが、相手の方が得しているという価値観を生み出す。

 自分が我慢して夫に従っているから、自分も認められたいという願望が強くなってくる。

 夫に我慢していなければそこまで他人に認められたがらない人でも、家の中で自分は我慢して、夫は外でいい人扱いされているから段々腹立たしくなってくる。

 このような場合、自分の方に「優越してちやほやされたい」という願望がある。

 自分が欲しいものを得ている人がいるから、羨ましくなっているのだ。

 真の幸福とは、「優越感」のことではない。

 優越感を得たい人は、とにかく人をバカにしている。誰かを悪者にしている。いじめをしているし、陰で誰かを笑い者にしている。

 そのような人は、陰口ひとつで既に幸せになれているのだ。

 「人をバカにしている時の優越感」

 それが、人間そのものが嫌いな人が人生において得たい幸せなのだ。

 人間は欲しいものは既に得ている。

 優越感は簡単に得ることができる。

 誰かを罵ればいい。

 ネットでもママ友同士でも、優越感が欲しいだけの人たちはよく群がって噂話をする。

 「あの人もちょっとねえー」

 そんな陰口に花を咲かせれば、瞬時に優越感を得られるものだから主婦の輪が盛り上がる。

 噂話に興じている奥さんたちが、人の陰口を叩く時に非常に盛り上がって嬉しそうに話しているのを見たことがあるだろう。

 あれが、彼女たちにとっての「幸福」なのだ。

 嬉しそうにしているだろう。その顔こそ、彼女たちの自然な幸せの表情なのだ。

 正に嬉々として、次々に人の話をする。

 「そういえば私もさあ!」

 思いついた他の人の欠点を挙げ連ねる。

 そして場は一層盛り上がる。

 そこで話している内容は、未確認であり事実無根のことばかりだ。

 しかし、彼女たちの気分は非常に高揚しているし、言えば言うほど今自分を強く感じられる。

 自分は優れているのだ、人より上なのだ、私は正しいのだ、あの人は私より下なのだ!

 「正しいのは私、間違っているのは他人」

 この優越感で、最高の幸せを得る。その瞬間こそ彼女たちが一生得続けたい「幸せ」なのだ。

 そのために生きていると言っても過言ではないし、人生は苦労がつきものだがその中で「何を感じるか」はそれぞれが好きに選んでいるところなのだ。

 神経症者は優越するために生きている。と、これは人間性心理においても言われてはいるが、ここでの優越は「優越感を感じるため」という意味だ。

 現実に優れた能力を備えたり、人より多く得ることは非常に困難で誰もができることではない。

 だからこそ、自分なりの幸せを追求した結果、その辺で普通に家庭を持っている奥さんたちにとっては「噂話に興じること」が人生の幸せになったのだ。

 彼らなりの方法なので、それを否定するも肯定するもない。

 優越感を得続けて生きるために、最も効率的なやり方ではある。

 「いつかはきっと」と思い描く「理想の未来」は、実際に叶えたいと思い現実の努力をしている目的ではない。

 その願望は、嫉妬心の現れなのだ。

 あの人が羨ましい、あの人が妬ましい。

 だから、「私もいつかは」という願望が生まれる。

 詰まるところ「私より持っている人間がみな憎い」ということなのだ。

 更に「私はいい人」という優越感は常に感じながら生きているので、そんなことを考えている人間であることは自覚しないのだ。

 優越感に浸り続ける時間が、一時でも途切れてはいけない。

 今、既に幸せなのだ。

 自分が特別であり続けているからこそ、生きていける。

 その幸せを手放さないためには、自分自身が「人の悪口に喜びを感じている醜い人間である」ということは認めてはならない、地獄に向かうための方法でしかないのだ。

 今、既に幸せ。

 それは全ての人が同じなのだ。

 自分だけが世界の中心のように、ちやほやされる存在でありたい。

 それは最初から守られるべきことなのだ。

 最初から「持って生まれてくるもの」なのだ。

 その幸せを手放さないように生きているのだ。

 第一の人生の幸せと言えるだろう。

 他に心底欲しいものがなく、まだまだ欲しいものを持っている人たちがいるから、この人生は続けなくてはならないのだ。

 幸せになりたいと口では言っている人が、実はもう幸せだと自覚していることなどない。

 自分が得ようとしている幸せは、安心できる仲間たちと笑顔で過ごすような感覚ではないのに、自覚していないのだ。

 心から沸き起こる強い幸福感。

 優越感ではなく、人を見下していなくても感じる感覚。

 心の中に敵がいなくても得られるその感覚は、人からもらうものではない。

 「人間の褒美を得た者は、神からの褒美を得られない」

 これはキリスト教の教えのくだりのひとつだが、殆どの人は神からの褒美ではなく、人からの褒美を欲しがっているのだ。

 神は人には与えられない、見えない力で見えないものを与えてくれる。

 しかし、優越したがる人はどこまでも他人と比較して優劣を決めなくてはならないから、目に見える形あるものしか欲しがらないのだ。

 まあ、殆どはそうであろう。

 とにかく「優越感」が欲しいだけの人には、どんな事実を話したとしても意味はない。

 勝ちたいのだから、自分よりいいものを持っている人たちがいなくてはならないのだ。

 いつか「私はやっぱり特別な存在だったんだ!」と他人がちやほやしてくれることで、確信を得られる形にしたいのだ。

 自分はこの世の特別な主人公ではないのでは?

 そんな疑問があるのだ。

 特別なはずなのに、まだ特別な存在として認められない。

 自分が如何に特別かは、自分は良く知っているのに、誰もそれに気づかない。

 だから待つのだ。

 皆に気づいてもらえるために頑張っている中で、実際に社会的に目立つ存在になる場合もある。

 しかし「神のような唯一無二の頂点」が現実の世界には存在しないので、いつまでも争いは続くのだ。

 優越したいだけの人は、神のように見えない存在を信じていない。

 人に見せないことにはなんの価値もない、と思えるのは、見せる部分だけ、見える部分だけが重要だからだ。

 他人に自慢できないものに、意味がないからだ。

 心の中でひとり感じることに、何の価値があるだろうか?

 誰も知らないところで人知れず「自分だけ」で感動しても喜びを感じても、それで誰にわかってもらえるだろうか。

 人に見せなくてはならない形のものではないならば、何の意味もないのだ。

 「わー!すごい!」

 そんな風に、驚いて尊敬してもらえない。

 他人の羨望を獲得できないものには、意味がないのだ。後で自慢できることでもないならば、不要なのだ。

 本人が望むとおりになっている。

 それだけの話で、不幸な人など存在しないのだ。

 最近になり、僕は加藤諦三先生の話をしている。

 勿論最初から「困ったおじいちゃん」だと分かっていたし、彼は人の都合は一切無視して他人を黙らせて進んで行く人なので、少しずつ進んできた道の先が無くなり、生活にも支障は出た。

 結局、知りたいこともわからなかった。ハーバードまで行って学んだ先生だから、聞けばわかるだろうかと思っていたことがあったのだが、とかく彼のような人たちは人の話を聞かない。

 自分が知っていることだけで、完璧に見えるような話ができる枠から出ない。

 最悪な言い方をすれば、ペテン師。

 あれだけ教えていて実は自分が自己実現をしているどころか、言い張っているだけで本当は見えないものがわからないなど、誰が思うだろうか?

 目の前で見た人は知っていることだが、いじめが目の前で起きても完全に停止したかのように無視して、何事もなかったかのようにスルーしていじめられた人を見捨てていることなど、まず想像がつかないだろう。

 現場を目撃した他の人たちは、どう思ったのだろうか?

 僕はそのあとでいじめていた側に実は貢物をもらっていて、それについて上機嫌な様子で受け答えしていたのをエレベーターの中で見ていた。

 彼の覚えたことは正しいので言っていることは正しいが、彼の理解が正しくないのでやっていることは間違っている。

 彼は「正しいことを言っている人」が良い人だと信じ込んでいるが、それこそ彼の父であり、祖父なのだ。

 半世紀父親を叩いてきた不幸の人が、なぜかここへきて祖父を讃える本を出す。

 祖父が議員だから選挙に受かるためだけに、家族総出で外ヅラを良くしていなくてはならなかった、という理由で、外に向かって媚びる人間を只管毛嫌いしていたという彼の父。

 そしてその父が嫌いだった息子は、父が外ヅラを良くすることばかり考えていたことを批判しながら、外ヅラでしかなかったとわかっているはずの祖父を讃え、自分のしていることは全て「親のせいで神経症になってしまったせい」という憐れみを乞う理由で、うやむやにしている。

 有料会員向けに、結構前に少し話したが、あれを理解した人はいるだろうか?

 「親子3代が区切りで、そこから出るかどうかが続く家かどうかの分かれ道なのだ」と。

 もう加藤家は続かないのだなと、先に判断はできた。ここからは大きな力に吸い込まれる衰退の道になるだろう。
 または、息子さんからまた新たな命が始まっているだろう。

 そのように未来が続かない家とは、離れた方がいいのだ。

 これは、実際に千年魂を受け継いできた一族なので、間違いなくわかることだ。

 説明はしないがなんとなくではなく、根拠はあるのだ。

 あれから七年は経つのだろうか?

 誰にも言えず、一人で悩みながら元々進んでいた道をどう元に戻せばいいのかと思っていた。

 加藤諦三先生は、自分の命令に従わない人間には全く関心がない。

 彼を讃え、彼に賛同し、「同じことを言い、同じことをする人」でなくてはならないのだ。

 勿論、誰にも言わないのだから知っている人はいない。

 しばらく前に友人に話したら、ものすごく驚いていた。

 自分の家のことさえ、四十過ぎまで誰にも話したことはなく、二十年以上の付き合いの友人が驚いて言葉もなかったくらいだ。その程度は黙っていられるし、そんなことは沢山ある。

 しかし、間違った行動を共にしていると、僕も業が深まる。なにせ彼は救済を用意していない。

 僕自身は「教授、一緒に謝りましょう。皆に謝って、このやり方では行き詰まると分かってもらえれば、自分たちで道も探せます。」という姿勢で彼に気づいてほしがっていた。

 これは間違いないことだが、先に理屈で知ってしまった人は、二度とそれを体験することはできない。
 つまり本物になれない。

 知った気になって、できたつもりになるのが落ちなのだ。

 それは昔からわかっている、教育の作法なのだ。

 だから決して、言葉で正しいことを教えてはならないのだ。

 「行動で示すこと」

 それしかないのだ。

 故郷に戻った時だけ、話した。

 「故郷に授かった力なので、恩返しに参る」と言った時にやってきた人にだけ話している。

 そのように、言葉に出してなんでも言わずに生きるものだ。

 故郷の人は、「僕が守らなくては」と思っている。だから故郷の人たち、つまり石川富山の人たちが来たときは無条件で話す。

 それは僕の家そのものがその地を大昔から守っていて、彼らが知らない彼らの昔を知っているからだ。

 知らない人たちという感覚が僕にはないからだ。

 しかし、他では違う。

 他の地の道徳性を僕は知らない。

 僕を信頼してくれるかどうかで判断するしかない。

 僕に媚びたり、ご機嫌を取るようならば僕は信頼されていない。だから話すことはできないし、話す必要がない。

 そのやり方自体、裏表ある世界に必要なものなのだから、僕が教えることは何もない。

 優越感だけで生きていたい人たちの邪魔をする気はないのだ。

 僕自身は、加藤諦三先生自体に幻滅したことなどない。

 マジか!じいちゃん!大丈夫か!

 そんな気持ちだった。そもそも、僕は老人という存在が子供の頃から好きだ。祖母に育てられたからだろう。

 老人は労わらなくてはならないという感覚がある。人より恐らく強く持っている。

 だから、彼が死ぬまで待った方がいいかなと思っていたが、そうなると彼が正しいことにし続けなくてはならないし、それでは僕がこの仕事をやめてしまうしかない。

 そして彼の元に集う人たちは外ヅラの彼を神格化したいだけであって、裏でいきなりキレて怒鳴りつける人であることなど、聞きたくも知りたくもない。

 それでは自分の頭の中に作ったイメージが壊れてしまうから。

 神経症者は、自分の気分の維持のために生きているのであって、現実がどうであってもどうでもいいのだと僕自身もきちんと正しい理解ができた。

 事実は知らない。たぶんそう。きっとそう。そう思える。

 思える、だけの根拠にあれこれ理由をつけても、それは思えただけ。

 だが、彼らにとっては事実と思えただけのことが同価値なのだ。

 そうとしか「自分が思えない理由」をどれだけ挙げられるかで、正しいか否かが決まる。

 つまり、超いい加減、超適当。

 そんなことのために僕自身が現実に努力して解決しようとしていたことが、バカバカしくなるくらいだ。

 殆どの人にとっては、事実なんてどうでもいいのだ。

 間違いだったとわかっても、大したことではないのだ。

 「私が正しい人であること」が大事だからだ。

 また新しい何かに同化していく。それだけなのだ。

 誰にも知られることなく、心の中で「自分は特別」という気分を味わい続けたいだけなのだ。

 彼らが求めるのは、自分たちと同類であり、かつ自分たちより成功している誰か、だ。

 いつかはきっと自分が人より上に立って…という夢を持ち続けたい人は、学術世界だけでなく、有名な人、地位のある人を「正しい立派な人」にしなくてはならない。

 目指すところがなくては、優越するという夢が見られない。

 神の教えの方から考えると「目立ったところに、正しい人はいない」のだが、それでは自分の夢が叶わなくなる。

 夢が叶うと思い続けるためには、現実の状況は無視するしかない。

 自分の夢が叶う世界だという認識をし続けるために、事実起きていることは無視する。

 それしかない。

 だから、たとえば高級なもの、有名なものにどのような反応をするか、価値観としてどのようなものを持ち生きているか、そこを見分けて本人のニーズに合わせた「世界」を用意してあげるしかない。

 僕自身は、そんなもの要らない。

 僕の場合は先に自己実現してから彼に会っているから、とにかく最初から「あれ?!彼は違うの?!」という驚きしかなかった。

 彼自身も知らないのだ。彼が学術として知った時に想像可能だった世界を、遥かに凌駕する世界があるとその時に思えたわけがないのだから。

 しかし、彼は財産も築き、社会的にも立派になり、元々坊ではあるが色々と社会から欲しいものをもらえた。賛辞される立場にもなったし、正しい人として崇められた。

 生きてほしかったものは、十二分に得ただろう。

 僕は彼のように言葉なく察して、自分たちだけ優越するために生きる世界にはいけない。

 なぜならば、彼は貴族の子で、僕は武士の子だからだ。

 しかし、多くの人は彼のようになりたいのであって、僕とは関係ない。

 僕にとっては「自分は関係ない世界」でしかなかった。

 戦時中を体験した老人たちにとっては、社会に認められることが正しいことだ。

 人からの褒美しか考えなくていいと信じて生きてきた、最も不幸な人たちだ。

 世間に認められる立派な人間になるために生きることは、正しいことだと教わってきた国の道具に他ならない。

 金持ちになって偉くなって、そうなれば正しいのだ。

 権威に認められることが正しいことであって、権威は間違わないのだ。

 権威こそ彼らの神。

 「私は神だ」と言っている人間がいるから、その人間が権威ある人だから、権威に従えば神に従うも同じことで、間違いはないのだ。

 彼らは「これが正しいのだ、こうしなくてはならないのだ」と教えると、言葉で聞いた通りに人間が動くと思っている。

 言葉で言えば、そうなるのだと信じている。

 実はそうならない。

 そうならないのだ。

 言うから、なれないのだ。

 自分は欲しかったものを十二分に得て、それから満足したところで他人にも分けてやるかという精神の人たちは優しい。

 だが、それはブッダとは真逆の方向に進む人たちであって、彼らはたまたま得ているからそうなれているのであって、得られなかったら、もし底辺の庶民であったら、そんなに温厚な態度ではいられないのだ。

 もらうだけもらって、後から批判。

 武士にはできない生き方だ。

 「あなたたちも私のようにもらえばいいよ」

 これを次々やる奴が現れて、今これだけの差が開いてしまったのだから。

 私は十分に財を得たからいいけど、あの人たちは得ていない。可哀想。

 本当にそう思うならば、それを使って人を救えばいい。それだけだ。

 安全な場所からならばいくらでも強気に発言できるだろう。

 そして強気な発言をする人たちを、弱気になっている人たちは崇拝する。

 戦争に行くときの流れだ。

 結局、みな幸せを捨てた。

 自然に感じられていた喜びを捨て、優越する何かを得る方向に進んだ。

 ここを天国として考えているからだ。

 ここは天国。

 神のように正しく生きる清い心の人が、目立つところで偉くなりお金持ちになっている。

 ということにしたいのだ。

 自分のなりたい姿になっている人が、本人たちにとっての神だ。

 気分。要は気分なのだ。

 いきなり特別扱いされたいのも、なんでもない人として一から始められないのも、何もかも「自分が特別な存在であるという気分」をぶち壊しにしたくないだけなのだ。

 そこには、本人しか知らない幸せがある。

 それは全ての人にとって同じだ。

 幸せなど本人しか感じない。

 本人しか感じられない幸せがあり、どんな幸せを得たかは本人次第だ。

 人間はなにひとつ喜びがないならば生きていけない。

 自分に可能な幸せを得て、それを幸福感だと思って生きているだけなのだ。

 先ほど、ペテン師、という呼び方をしたが、それは殆どの人にとっては間違いだ。

 それは僕が思い込んでいた「正しい教えを説く人」を基準にした場合の話でしかないし、殆どの人にとっては自分が可哀想だという理由づけをしてくれる人は神なのだ。

 最終的には、信じた人にも救いはある。

 親を超える立派な祖父母を讃えればいいのだ。

 それで最後まで「自分は正しい人間だった、勝った!」と満足して死んで行けるのだろう。

 間違っているのは他人で、悪人も他人で、自分は正しく、良い人間だった。

 という確認をする人生を送っているのだなと、納得した。

 ハスの花から生まれてくることは、まずないのだろう。

 残念ながら、僕はもう敵がいない。

 全ての人が自分の妄想で敵を作っているだけで、知らないまま知った気になって生きているから争いが堪えないだけなのだ。

 と、瞬時に気づいた三十代のある時から、「神は世を愛された」と心から思えるようになった。

 この穏やかな心は、もう二度と侵略されることはない。

 僕は、それを「幸福」と呼んでいる。

 そして僕は自力でそこにたどり着いたわけではなく、かつて生きた「ゴータマさん」の力によって、幼い頃から導いてもらっただけなのだ。

 僕自身には、最初からなんにもないのだ。

クイズ 「なぜ、家訓が必要なのか」

 YouTubeに、うちの教育の一部を、恐らく最も大事な基本だと思われることを少し紹介しました。

 武家の幼児教育です。

 僕も三歳から六歳くらいのうちは今回紹介しているような教育を受け、まだ幼児なので甘くもしてもらえますが、叱られる時も大変厳しく叱られ、泣いても喚いても「言うことを聞いてもらえる」なんてことはありませんでした。

 子供を餓鬼にしないためには、親が餓鬼になっていない、人の道を生きている必要があります。まあ当然か、と思えますよね。

 餓鬼が育てて人の子が育ったら逆におかしいですからね。鬼の子は鬼の子です。

 そして自分を教育するのは自分です。

 他人に教育してもらい、面倒を見てもらおうとするのが餓鬼です。

 餓鬼は他人に取りついてきます。

 本当に。

 この人、と決めた人にとりついて、その人からもらうために、その人を「使って」生きようとします。

 それが人の道にいない人の発想なのです。人は「使うもの」であり、仲間ではないのです。

 今回の動画で最後に「家訓を生み出せ」という話をしています。

 ではなぜ、家訓がないと一族は崩壊するのでしょうか。

 勿論、普通の家族でもですよ。特別武士だから、歴史ある家だからなんて関係ありません。

 家訓がないと、どうなるのか。あるとどうなるのか。考えてみてください。

 今回は投稿を受け付けますので、思いついた方は是非投稿してください。

 今の世ではなんでも説明して答えまで教えてしまいますが、それ自体「できないようにする教育」ですので、僕も今回全て説明しておりませんが、皆さんはなぜなのだろうかと考えてみてください。

 記事の最後にフォームを用意しておきます。

 投稿は内容が意味不明でない限り、後日動画で紹介させていただきます。