ニューヨーク大学の教授を務める社会心理学者、ジョナサン・ハイトは、メンタルが悪化する家庭の子とそうでない子の家庭には違いがあることを発見した、と話しています。
ここでひとつうちの長い会員には朗報です。
内容的には今まで僕が発見したと言っていることと同じです。随分前から系譜や道徳性について話してきました。僕自身が各地に出向いて確認してきましたが、ハイトが発見したと言っている内容も同じようなことです。
そして、メンタルに悪影響を及ぼさない対策についても、僕が考えて取ってきた方法で間違いないと僕自身も確認することができました。
いちいち遠くから何十年もかけて形になってやってくるのを待っていたらキリがないから、自分で発見して編み出した方が早いというのが僕の持論ですが、他人が信じる信じないは別としてこれについては変わらぬ考えです。
事実自分でやった方が早かったと思うことがよくありますが、今回も同じでした。
とはいえ、僕が言ったところで肩書の話を聞く人には意味がないので、他所から同じことを言っている人を見つけてきては紹介しないと効果がないと思っています。
そうでない人は、いち早く話を聞いて取り入れて、自分で生かしてほしいと思います。
今回の話について、家庭の違いについてはこうです。
メンタルが悪化する子は、世俗的で無信仰な家庭の子。逆に悪化しない子は保守的で信仰心が厚い家庭の子。
ハイトの表現の翻訳から引用しているので、このままだと誤解が生じるかもしれません。
つまりどういうことかと言うと、日本の場合であれば、昔ながらの信仰心の元、高い道徳性を持つ保守的な家庭ということです。
僕たちはキリスト教圏の人間ではないのですから、本質的なことを理解した上で置き換えて理解しなくてはなりません。
日本で言うところの信仰は自然崇拝です。特定の宗教ではなく、漠然とした形の道徳的教えです。
それがお釈迦様がという話であっても、宗教の信仰のようなものではなく、どこまでも「お天道様が見てる」に代表されるような漠然とした何かなのです。
はっきりとした戒律はありませんが、自然の道理に沿っているのでなんら問題ないのです。
この道徳性の高さで、福井県は毎年幸福度がナンバーワンです。
僕の出身のお隣ですが、まだ実際に出向いたことはありません。そのうち行かねばと思っている場所のひとつです。
とはいえ、故郷の人たちはわかると思いますが、北陸3県は元々の道徳性、信仰心はかなり厚い方です。僕もそこで救われたと思っています。
ご存知の方はご存知ですが、僕の家は相当保守的です。母はすっかりそれに背いて東京に出て生きた人ですが、僕はかつてからの教えを守り一族のひとりとして生きています。
僕が以前から話していることで言うならば、外から入ってきたものを羨ましがっていくら手に入れたところで他人のものは育てていくことができませんから、やはり今まで自分たちが育ててきたものを「守る」姿勢で生きた方が結果的には功を奏すのです。
最近、加藤諦三先生のことについては意見を覆していますが、別に考え方が変わったわけではなく僕自身の考えに基づいて自分の先生である加藤諦三先生に配慮してきただけなので、根本的に教える内容も変わりません。
先日、ある生徒は、僕の話を聞き「テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老が全く同じことを言っている」と言いました。
人格を向上させていけば、たどり着くところはみな同じです。
形の上でどんなことをしているどんな人であっても、本質的な考えは同じになっていきます。それは単に自然の摂理を理解しているからであって、個性の違いとは別のものです。
今回引用している社会心理学者ハイトにしても、彼は道徳性心理を研究している人なので似たようなことを発見しても不思議はありません。
僕自身も、実際に相談に来る人たちを見ていて気付きました。
僕の場合は自分自身が心理的に成長が早く適応能力が高い人格だと既に知っていたので、自分自身と僕が本当に親しくなった友人や家族たちを比較対象として本質的な考え方の違いについて確認してきました。
今まで述べてきた通りのことしか言いませんが、とにかく自分たちの根源を失ってしまうと取り返しはつきません。
西洋や欧米の真似をしたところで、彼らのようにそれに続くものを自分で育てることはできません。
今に根拠がないからです。自分の子が今いる子であるのは理由があるのに、あっちの子の真似をさせたところでその先が続かないのと同じです。
宗教にしても、大人になって宗教を信仰し始める場合はまず大抵救いを求めた場合です。
しかしハイトが述べる信仰心は、僕たちの場合は「お天道様が見ている」に代表されるような道徳性を育て守るための考え方の方です。
以前から、悩んで生きている人たちはみな著しく道徳性が低いと思っていました。
世俗的なものに左右され、信仰についても本質的なことは守ることなく、「人には~すべき」と他人に強要するための材料のひとつとしているだけに過ぎないのです。
他人を思い通りに動かすためではなく、自分自身を向上させるために使うのが道徳的な教えです。
自分を心の中で戒めることはできますが、それを他人にやれば強要になります。
他人を変えることはできないのですから、自分自身を向上させるしかありません。
しかし、どんな教えを知ったところでメンタル的に悪化していく家庭の子は、その教義を使い他人を悪者にしたり自分を持ち上げたり、結局は自分自身を優遇させるために使ってしまうのです。
それをやると真の道徳の教えの元ではどうなるか、そこを恐れる気持ちがないのが「信仰心がない人」です。
どこかで神仏が見ていて、罰が当たる、とは全く思わないのです。見えない存在を信じていないということです。
そして念の為ここで言っておきますが、仏教における「自我」と心理学における「自我」は言葉は全く同じですが、意味は全く異なります。正反対と言ってもいい内容の違いがありますので、言葉はそのまま同じものを表さないということを覚えておいてください。
単語は同じであっても、話の内容や流れ、そして相手の人間性を見て何を言わんとしているかを判断するのがコミュニケーションです。
他人の揚げ足を取りたい人などは、間違いであると分かっている時さえ「言い間違い」の責任を取らせようとしますね。あれは本人自身が低い道徳性の元、動物のように生きているからそうなるのです。
しかし、考えて生きている「人間」になるためには、気分で動き欲望を満たすためだけに生きるものではありません。その先に平和も信頼も、楽しく仲良く生きる日々も何もありません。
やはり自分の人格を高めるため道徳性を育てること、そして奪うためではなく守るために生きることは大切なことなのです。
僕のところで学んでくれている特に若い人たちには、これが僕の思うカッコいいなのだと教えておきます。
漫画が本物になるような展開を信じる人に期待していると言ってきましたが、こうしてなんでもないところに遥か遠くにいる天才の呼び声高い学者と同じことを発見し、小さな世界で既に実践している人間もいます。
世界最速でと言ってきた通り、いちいち「偉い人」を神様扱いして待っていなくても、自分の力でやることは可能なのです。
世間が知らないうちからやっていて、世間が知るようになった時には既に実践を続けてもっと先まで進んでいる。
それが僕の思う本当の意味での「見返す」です。
金や地位、学歴や社会的成功についてひがむ人が多いです。ひがんでいるということは、既に他人に負けていると思っているのです。
本人が負けたということにして、ひがむようになればおしまいです。
彼らは勝ちです。私は負けです。と認めているのですからそれ以上にはなりません。
しかし、例えば「金や学歴、地位があることがすべてだ」という考えに賛同できない、それでは自分に都合が悪いのならば、そうではないということを証明して見せればいいのです。
人間は生まれてから死ぬまでの間に、何かを証明して生きているようなものです。
自分自身の生き方によって何を証明して見せるかは自分が決められます。
どうあっても「世間が認めてくれないと成功だと思えない人」は、その考え方こそ真の負け組だと自覚することです。
いつかはきっと、「世間に認めてもらえる」という発想では、どこまでいっても今あるものを大事にして楽しく生きていくことはできないでしょう。
それはかつてで言えば、農民をバカにしている生き方です。
僕は全く賛同できません。
そして、僕自身は偉くなったり有名になったりの道を自ら退けてきていますが、それでも一般的には誰も信じない守らない、しかし真理に続く道を進むことにより、時に僕など足元にも及ばないところにいる人たちから声をかけられます。
結果、これしかないところにたどり着くならば、それでいいのです。
今既に、加藤諦三先生が「親を恨むと地獄に落ちる」を証明してくれています。
もう隠す必要もないので言いますが、彼は人の話をちっとも聞かない上に、人を駒のように扱います。彼の中での理想の世界がはっきりあるようで、あれだけの権威があるので周りの人たちもそうそう蔑ろにできません。
死んだらどうなるのかなと思っていたので、昔からの教え通りになるか死ぬまで見ていたいと思っていました。
ちなみに僕はただ大学に彼の教える精神分析学を教わりにいった生徒です。その時点で自分が考案しているものや知りたいことがあり、それについて「教授」に教わりたかったのですが、そこについての質問は全くさせてもらえず、なぜか僕の意見を聞き僕の能力を使いたいと思ったようです。
他でも似たようなことがありました。
みな自分の望んだ通りにしてくれないとなると、怒りました。
望んだ通りになる人間だけを集めている「偉いおじいちゃんたち」は沢山いましたが、彼らは自分に同意して持ち上げてくれる人たちに囲まれていました。
それを囲んでいる人たちは、彼らの持つものに吸い付きたいだけです。
誰かを悪者にして持ち上げられている人たちは、いずれ滅びます。
加藤諦三先生が、彼の祖父を讃える本を出した時、「末路が来た」と確信しました。
その祖父が育てた息子である父親をあれだけ批判しておいて、祖父がいかに立派だったのかを説明する。
矛盾しています。そして彼のように勲章をもらった祖父など一般の人にはいません。
真似して親を叩いては被害者であり続けた人は、その行いに応じた末路がこれからやってくることを覚悟するしかないでしょう。
学術に縋りついて社会の権威を崇拝してきたならば、最後までその教えだけに縋り生きていけばいいのです。
その生き様が、そうしない人たちの教訓となり必ず生きます。
僕も幼い頃に、そのような昔話を散々聞かされました。
地獄の末路というものがありますので、そんな時はどんなに小さな力を持った人たちの集まりであっても、笑顔や思いやりの溢れる場所にいた方がいいのです。
人は金や権力など、何かの力を持つと途端に動物のように横暴になり、雑になり、力技で欲しいものを得ようとしがちです。
小さな集団では、それは父親の暴力のようなものです。
または経済力で言うことを聞かせる父親です。父親だけではありません。道徳性を利用して被害者になり言うことを聞かせようとする母親も同じことです。
とにかく、「これさえあれば人に言うことを聞かせられる」と思った時、自分が楽をして他人に苦難を強いることをよく人間がやります。
ですから、そうしなくても生きていける人間であるよう、人間性の向上をやめてはならないのです。
スマナサーラ長老は、世間は学術や科学の力にばかり傾いていて、彼のように社会的成功など説かない人の話をちっとも聞いてくれないのだと嘆いていますが、それについては僕も同感です。
しかし、かつてブッダがどうであったかを考えれば、どんどん脱落していく弟子たちの中でも少ない弟子たちを連れ修業をし続けていたのですから、それでいいのではないかとも思うのです。
天才の言うことが理解できる人は、滅多にいないです。
理解できる人が滅多にいないから、天才なのですから。
本当に賢い人は、世間ではよく叩かれています。それも悪い人のように叩かれています。
しかし叩かれている方は飄々としたもので、自分が言ったことが理解されていないこともよく理解しています。
道徳性を重んじる社会心理学者ハイトをなんとか叩きたい経済学者との対談の記事を読みましたが、道徳性なんてものが大事にされてしまうと、都合が悪い人も世の中には沢山います。
金や地位や肩書が神様の力にならないと困る人は、世界中に沢山います。
しかし、当然そんなものが正しくなって欲しい人たちは既にそれを持っている人たちであり、そんなものを持った試しもない庶民が信じたところでいいことはなにひとつないのです。
僕たちは言葉や、最近では映像でよく洗脳されます。
見たとこもない聞いたこともない、そんなものを信じます。そして洗脳する側に都合のいい人間となり生きて、彼らを喜ばせて見下されながら死んでいくのです。
毒親の子たちは、殆どの場合自分が親の敵となって生きています。
少なくとも本人が幸せに生きることは可能ですが、そうなるともう親の不幸を望むばかりになり、地獄に落ちていくほかないのです。
今自分がどのような世界にいるのか。心の中を見ればわかることです。
今、地獄にいるならば、地獄に落ちるに相応しい行いをしてきただけです。
バカな話だと思うのです。
自分が体験していることだけは間違いなく自分がわかるのだから、自分の心もそうですが実際に目の前にいる人が危険かどうかなど自分にはわかることです。
目の前で体験しても「こうに違いない」「そうかもしれない」なんてあやふやな妄想をする人は、一体どうなったら「わかる」ことができるのでしょうか。
感覚機能さえ全く失われてしまった妄想の世界の人に、救いの道があるとすればそれは洗脳しかないのです。
「きっといつかは、こうなるに、違いない」
それを夢みて崇拝して、気分だけ盛り上げて最後には人に身向きもされなくなり、捕まえられる人を捕まえては自分に注目してもらおうとするほかないのです。
今回は、メンタルが悪化する子とそうでない子の「家庭の違い」ということで話を始めましたが、メンタルは元々防御力を高めて守りながら育てるものなので、自分が苦しんでいるのに救いを求めてパッと楽になろうとする人はまるっきりやり方を間違っているのです。
自分を守ってもらうための集団を求める人が、自分以外の人たちも病んでいく集団を作ります。
自分自身がまずバランスを保つよう、バランスを保てる人になんとかしてもらおうとしないことが大切なのです。
「自分に適応させようとする人」が、人の精神を病ませます。
自分が今のままでも居心地のいい環境を作りたいのは、成長を断念し母の胎内に戻ろうとする行いなのです。
本人自身が、自分が適応するために変化していくと決意しなくては、何も始まらないのです。