月: 2025年4月
今は信じた通りになる ~無料記事~
自分が何を信じているか、それにより未来が変わります
あり得ないことは信じているつもりでも、心から信じていません
自分に都合がいい願望は信じているのではなく、思い込もうとしているだけです
信じられないから思い込みたいだけの時は、信じられる形を外側に作らねばなりません
現実逃避をするために、他人を動かさなくてはならないのです
しかし、他人に言う事を聞かせても、誘導して望んだ形の行動をとらせても、どこまで行っても信じていないものは信じられません
「こんなに頑張っているのに!」
他人が思い通りにならないから嘆くのは、自分がどこまで何をしてもらっても今も未来も信じることができないからです
常に疑っているのです
信じていないからです
信じていれば、形の上で何が起きても信じていられます
信じるとは、わからないものをわからないままで信じることです
「絶対にこうなる!」と思い込もうとしている時は、今は疑いです
どうなるか見張っていなくてはなりません
形の上でどんなことが起きるかにより
「ダメだった!」
と嘆かなくてはなりません
疑っていれば、常にこれから何が起きるか他人を監視しなくてはなりません
信じたいけど信じられない、だから私が私の望んだことを信じられるように、他人が信じられることをしてくれ
こんな滅茶苦茶なことを望みます
信じられないのは自分のせいです
思い込もうとしていることを「信じている」と勘違いしている人がいます
信じるとは、結果によって左右されるものではありません
最初は親を信じなくてはなりません
今更言いにくい話なのですが、僕は母を裏切ってもいないし、母の敵にもなっていません
僕の母なので必ず何か理由があるはずだ、こんなことをしたくてしているわけがないのだ、と信じました
信じていたので、その通りになりました
現実を生きる道は、どうなるかわからない未来に向かって走り続ける道です
常に未来はわかりません
わからなくても、確信を持って信じればその通りになります
「毒親の子」は、親を信じられないようですが、それは「自分の思い通りに動けば愛されているのだ」と思っているからです
子供が好きでも、子供が心の中で望んだとおりのことなど親にはできません
望んだことが起きなくても、自分が理由で動いているわけではありません
親も他の人も、自分を理由に動いている他人はひとりもいません
自分が何をしても、自分を理由に動いているわけではありません
自分が動かせている他人はひとりもいません
自分が動かしているのは自分一人です
最初からです
子供はそれがわからないため、自分が他人を動かせていると勘違いしています
自分が何かすると動くから、自分が動かしているのだという感覚で生きています
勿論そんなことはありません
親は親で、他人は他人で、それぞれ自分とは関係のない過去や理由があって動いています
自分が説得したり装ったりすることで動いたと勘違いしているのは、他人の存在を認めていないからです
自分が何も思わなくても他人は存在しています
何も求めなくても、何も考えなくても、自分などいなくても、他人は存在しています
まず先に他人全てをそのまま存在させてから、何が起きているのか把握しなくてはなりません
周りを確認する前に、願望を押し付けていくのは幼児の常です
しかしそれでは他人も自分の面倒を見切れません
自分に何をしてもらったところで、相手が相手のやりたいことをやったわけではないのですから、他人を操作するために何かをしても無駄なのです
自分が他人を喜ばせることをしたら、それは自分の行動です
相手が相手自身のやりたいことをやったわけではないのです
相手が相手の意思でやりたいことをやるターンが存在していないのが、「他人がいない世界に生きている人」です
確実なことがあるので、覚えておいてください
親を恨むとバカになります
生まれて最初に「表裏を知る存在」が親ですから、自分とは関係のない理由があるのだと考え親を信じて存在を排除せずに始めなくては、「自分として生まれて来られない」のです
親を信じられない人は、人間そのものを信じられません
どんなに自分に好意的で善良な人に出会っても、必ず疑います
最初から疑っていて、信じるために相手を操作しようとします
信じられないから、「信用するために望んだことをしろ」と要求しているのです
疑っているなら最初から関わらなければいいのです
「証拠を見たら信じてやる」
こんな態度で人と接しても、相手にとっていいことは何もありません
無条件で自分を疑ってくる「赤の他人」に信じてもらうために証拠を見せる必要などありません
本人の思う「無条件ではない理由」が、「私の親や過去に理由がある」なのですから、他人にはとばっちりもいいところです
親も普通の人間です
子供の願望に合わせて作った極悪人のような親は、子供の心の中にだけいる存在です
親を手足のように動かせると思い込んでいるから、余計に憎たらしくなるのです
何よりも、親を裏切って親の子として生きていないから、絶望的に孤独になるのです
神経症とは餓鬼のことです
日本人が使っていた表現で言えば、簡単なことでした
餓鬼は親の子ではありません
子供として生きるのを「迷っていて親の子にならない鬼」です
生まれた子供の身体を勝手に使って、命を与えた存在を裏切っている親の敵です
餓鬼にならないように人の子として生きるよう教育するものなのですが、放置して餓鬼を育ててしまっている家が多いようです
家族は崩壊します
心の中で周りを伺っていて、いつまで経っても生きようとしない鬼が裏切るからです
家の中に悪人を作り、外に出て味方を集め家族を破綻に導きます
そんな真似は子供はやりません
しかしそれが餓鬼というものです
分け与えられた命を親を殺すために使う、一族を崩壊させる地獄に生きる鬼です
知恵がつき始めた頃に、なんでも知った気になって偉そうに周りを評価して神様の真似事をするようになりますから、その時に倒してしまわないと、一族の汚点となる存在に育つでしょう
親を信じて生きねば、自分を好きになることは不可能です
親は悪魔で自分は天使、自分の問題は親のせいで、親の問題は親のせい、祖父母は悪魔じゃない
このように矛盾したことを考えるのが、「自分が世界を回していると思っている人」です
自分を中心に全ての存在が成り立っていると思うから、このような理解になるのです
縦軸と横軸の理解ができていないのです
この餓鬼を叩きのめしてしまわないと、子供は人の道を進めません
ただ人の命を食い尽くして殺していくだけです
そして信じれば信じたなりに、思ってもみなかった人情ある未来が待っているでしょう
親が敵になっているならまだしも、子供が敵になっているのでは話は全く変わってきます
僕の母は敵のような真似をして僕をいびり倒していましたが、僕は母の敵にならなかったので人の道を往けました
そして最後には、母も後悔を口にしていました
当たり前のことです
人間ならば、その時どんなに鬼のような所業をしていても、我が子を虐待していて満足して生きているわけがないのです
してはならないことは、決してしてはならないのです
ならぬことは、ならぬものです
餓鬼になってはいけないのです
人の命を与えられたならば、生まれた命の持ち主として生きていけばいいのです
親殺しの現実に落ち込んで鬱になっています
無責任な人の話の聞き方 ~無料記事~
無責任な人の話の聞き方は、時間と立場を無視する聞き方です。
例えば、その人が今現在四十歳の母親だったとします。
子供は思春期です。
親子の関係についての話を聞いたとします。
不特定多数に向けられたもので、自分に直接言われているものではありません。
その際に、「こんな母親は良くない」という話があったとすれば、その時は自分が子供の頃の記憶を思い出して、子供の立場で聞きます。
「そうだ、私は本当にあの時辛かった」と被害者になります。
そして、「こんな子供は本当に母親を苦しめる」という話を聞けば、今度は自分が母親の立場になって「うちの子も同じことをする、私は本当に辛かった」と被害者の立場で聞くのです。
これが無責任な人です。
今の自分と、記憶の自分を混同すれば、いつだって誰だって「常に被害者」になれます。
しかし今の自分は母親なのですから、記憶は記憶、今は今として母親の立場の自分を当事者にしなくてはなりません。
前者も後者も、母親の立場で聞かねば自分が大人になったり子供になったりしていることになってしまいます。
どちらも「自分の立場」で聞かねば、自分の反省すべき点や、今後の改善のために人の話を役立てることができません。
どれもこれも被害者の立場で聞けばいいならば、なんにもしなくても人のことを責めては嘆いているだけになります。
「自分が誰か」ではなく「どんな立場になりたいか」で聞いてしまうのです。
立場と言っても、「被害者」という状況における特定の視点での立場です。
そもそも加害者被害者という見方は、当事者を除く人の立場からの味方です。
当事者ならば、そのどちらでもありません。外から見た人からどう見えるかという問題であって、どちらにせよ当事者にはそれぞれ理由があるはずです。
例えば虐待についても、もし僕が客観的に母のしていることが虐待だと知っても、それをそのまま「それは虐待だ!」と口にして母を責め立てるのは立場がおかしい話です。
僕は僕の立場で発言しなくてはなりませんから、「これはできない」など自分の立場から相手に対する発言をしなくてはなりません。
「これは虐待なんだぞ!」と相手を責めるのは、いじめられっ子が自分ではどうにもできなくて、誰かを味方につけて逆にいじめをやり返しに行く時のやり方です。
子供の頃ならば
「お前のしてることはいじめだってみんな言ってるぞ!」
といじめに行くようなものです。
そのような「いい子のふりしたいじめっ子」は、その時は我慢して相手に合わせておきながら、本当は嫌でもなんでも関係なくいい顔をしていて、後からどこかで「被害」を訴えて援軍を呼んでいじめにいくという、卑怯なやり方をします。
結局は、「自分がいい子ヅラしていたいだけのいじめっ子」です。
微塵も良い子ではありません。
そのように、いじめをしている側なのに常に「自分は被害者」という立場をキープしていじめをする人がいます。
ただ、冷静に頭の中で構図を思い描ける人は、相手の立場がコロコロ変わっていることがわかりますから、まともにやり合おうとはしません。
普通によくいるいじめっ子です。
いじめっ子ですが、スネ夫みたいな人です。一人では弱いけれど、どこかに行って強い味方がいれば強気になるという、寄らば大樹の陰で常に何者かに守られたい腰抜けです。
ジャイアンみたいな人を見ては「いじめする人って嫌だよね」と言いながら自分は陰湿ないじめをしています。
似たり寄ったりでタイプが違うだけです。
そもそも現実にはそれぞれに理由がありますから、漫画みたいな悪者はどこにもいません。
しかし、いじめをしながらドラマチックに被害者をやり続けたい人もいて、立場をコロコロ変えながら「浸りたい気分」に合わせた聞き方をするのです。
存在しているようで、していない人です。
なんの相手にもなりません。立場がコロコロ変わるのでは、なにかしらの関係などというものは作れません。
そんなことができたら楽ですよね。
どんな立場でも乗り越えなくてはならない場面があるのに、立場を変えて話を聞いていればいいならば「今のまんま」でも生きていけます。
しかしそんなわけがないので、実際の関係はどれもこれもダメにしていくのです。
勿論本人にリスクがないわけではなく、本物の立場だけで話を聞き受け止めることをしないため、自分が何をしたいのか、何を思っているのか自分でもわからなくなる、という人生全体を左右する弊害を生んでいるのです。
本人がどう思うのかはわかりません。
その時その時「気分に浸れればなんでもいい」だけならば、実際には何も残らなくても作られなくても、そして本物はなにも体験しなくても、一瞬その気分になれただけ、の繰り返しでいいのかもしれません。
そんな夢みたいなことができたら、生きてて最高ですよね。
いつだってなりたい立場で聞いて浸っていればいいのですから。
あっちに行ってもこっちに行っても誰かに泣きついていれば、欲しいものが得られる。他人の力で生きていける。
自分は常に「悲劇の主人公」でいればいいだけの、簡単な人生です。
「簡単なんかじゃない!酷い!私がどんなに辛いか!わかってない!」
と嘆いているだけの簡単な人生です。
この生き方をしていれば、自分のことだけ考えて、他人のことは「言ったことが思ってること」だということにして生きていけるのです。
普通はできないことですから、いい思いをしてきた分リスクがあるのは当然なのです。
コロコロ立場が変えられるならば、いくつになっても若い人の立場で話を聞いて「年を取らずにいる」ことだってできるでしょう。
その時その時、様々な新しい問題に直面するから人は成長していくのです。
払った犠牲の方が、遥かに大きいことは乗り越えていかねばわからないものです。
批判的な見解だと思うでしょうけれど、結局のところ「本人が一番損をしている」という事実には変わりありません。