無料記事, 非会員向け

本当は不幸な世界なんて一瞬で出ていけるものなのに

 本人は勿論のこと、誰かが不幸な人をそのまま不幸なままで生かしたいのではないだろうか?

 わざとやっているとしか思えない。

 この社会が不幸なまま嘆いて生きる人を必要としているのではないだろうか。

 不幸に嘆く人が大量にいることで、大衆を使って何かを動かすことができるから。

 最近は本当にバカバカしく思っている。

 こんなくだらないことのために、特に何も持たない僕が真面目に頑張っている意味があるのかと思う。

 大きな力を持つ人たちはもっといい加減で、他人に教わったことをただ真似して口に出しながら、自分では何も考えない。

 他人なんてどうでもいいのだ。

 とにかく金や地位や名誉、自分の欲のためなのだ。

 そして個人もだが、不幸な人はいつまでも「いつか誰かが私を救ってくれる」という手の願望を捨てずにうっとりとして生きていたい。

 ただ気分を味わい続けられれば、それでいいのだ。

 「本当に存在している自分の仲間たち」なんていなくてもなんでもいいのだ。

 困った時にいきなりその辺の人に声をかけて、いきなり家族のようにしてもらえるわけではない。

 それでも、そのうち「うまくいかなかった」という結末を迎えるとわかっていても、とにかく今は「いい気分を味わいたい」のだ。

 不幸を手放さない。

 だが僕は、正直加藤諦三先生とも全く違うので、そんなことはどうでもいいのだ。

 彼を見た時に僕は「この人はまだこっちの世界にいるのか!」と驚いたが、相変わらず都合よく使われてもいて、気の毒になった。

 本当は簡単に脱することはできる。

 自分の独りよがりな世界で全て作れるほど、自分は何でも知っているわけではない。

 勝手に思い込んで世界やストーリーを作るのは勝手だが、現実にそれが可能なのかと考えればそんなわけがない。

 自分には知らないことがあるのだ。それも沢山。

 だから自分の作った言いがかりなんてものは、自分が知るごく一部のことしか存在しないと仮定して作ったものであって、自分が経験不足だったり無知だったり、何より相手の人間性がわからなかったりすれば間違いなく「間違ったもの」でしかないのだ。

 その辺は、僕は妄想に浸り続けるほどの妄想力がなかった。

 普通に考えればわかることだからだ。現実の方が気になる。

 誰かを悪者にしようとしても、言いがかりはつけられる。

 「思い通りにならなかった面白くない自分の感情」に任せて「酷いことをされている!」ということにした作り話ならいくらでもできる。

 だが、本当に悪いことをしている相手が存在しているわけではないのだから、自分が言いがかりをつけて「だから〇〇しろ」と要求して何かしてもらっているのでは、本当にどうしようもない赤ちゃんだ。

 そこまで落ちぶれてもいなかった。

 ただ当たり前のことをしただけなのだ。

 敵でもない人を悪者にしない。

 友達を悪者に仕立て上げない。

 思い通りにいかなかった=相手が悪い

 これは「自分は可哀想ないい子」という設定に基づいて作り出した僕が主人公の妄想世界の出来事だ。

 だが僕はこの世の主人公ではないので、実際の世界の方で何が起きていたのかは知っておかねばならない。

 安心して気分に浸りたいならば、現実の世界で起きている方も同時に理解し続ける必要があるだろう。

 実際、僕と違って人のことを考えている人はまるで違った。

 僕が思いつきもしない、考えもしないことを考えている。そしてそれは僕にとっても悪い話ではない。

 相手は仲間と共に仲良くしていける子なのだから、当たり前だ。僕とは違う。

 自分がしたいことより、相手がやろうとしていることをよく知っていく方が何倍もマシだ。

 自分はみんなで生きていくための未来なんて、考えもしていないのだから。

 独りよがりな世界は出て行こうとすれば簡単に出ていける。

 独りよがりな世界の気分に浸りきっている時は、外からやってくる「いい話」さえ、自分を邪魔するものに感じられて怒りが湧いてくる。

 そこで「今ひとりでいい気分に浸ってるんだから!邪魔しないでよ!」と怒りをぶつけて他人を追っ払うどうかの違いだ。

 僕は追い払わなかった。

 他人は一度追い払う真似をしたら、もう二度と普通の仲間にはなれない。

 これだけ数がいるのだから、自分にチャンスは無くなる。

 だから僕はそんな真似をするわけにはいかなかった。

 とてもいい子がいて、その家族がとてもいい家族だったからだ。

 別になくなっても困らない人たちが、何をしていても「どうでもいいじゃないか」と僕は思っている。

 なんだかんだ言いながら、独りよがりな世界を楽しんでいても、その時その時周りに人がいて、生きていけるのだから。

 その場その場で構わないからやっていることだ。

 別に長く付き合いを続けて、本当に信頼関係を作りたいなんて思わないのだろう。

 それでもいいじゃないか。

 ただ、僕の仲間たちも、僕も、それを知らなかった。

 「神経症者」という人達を知らなかった。自分たちとは違うから。

 だから、僕は自分の仲間たちに「こんな人たちがいるから、気をつけて」と声をかけたいくらいなのだ。

 彼らは人に寛容だから、なんとかしようなんて思わない。

 本人が言う通り「まともな親がいなかったという気の毒な過去」があるから、放っておいてくれるだろう。

 手出しをするのは病んでいる人がすることだ。

 人の自由を許すのは寛容な人達の常だ。

 独りよがりでも放っておいてくれる。

 邪魔しないように「他で仲間とワイワイやってくれる」のだ。

 どうしても、自分の親との関係から始まったストーリーの続きを生きたいのだからしょうがない。

 親離れしないと言われてはいるが、そこまでしたい親がいる方が幸せではないだろうか。

 そのうち親は亡くなるのに、それでも親子の関係をぴったり寄り添うように中心に据えて、その中に参加してくれる他人だけを集めようとするのだ。

 優しい人やいい人がいても、親しくなれないのだから独りよがりな人には全く関係ないことだ。

 「私の親子のストーリーに参加すること」それが一番なのだから。

 僕も二十年以上付き合いのある友人と疎遠になった。

 この年になってはじめて、ここまではっきり浮き彫りになってくるものなのだと知った。

 「私は友達いないから(笑)」と自己卑下して笑う。

 昔から変わらず、オタク趣味やアイドルなどに注目して、救いの王子様を待っている。

 実の子もどうでもいいし、友達も「別に悪い人ではなくても」周りにいる部外者なのだ。

 そして関係の中心には母親がいる。

 こんなに深くつながりを持つものなのだなと思う。

 母親の独りよがりに「母親が亡くなった後も」付き合って生きているのだ。

 余程大事な関係なのだろう。

 不幸でも嫌なら手放す。嫌いな人が相手なら。

 だが親は違うのだ。僕にはわからないが、そこまで執着するのが本当の親子らしい。

 現実に出ていく時には、実際なんでもない「普通の世界」の始まりでしかない。

 まあそれが当たり前だ。

 だが僕は「普通」が良かったのだ。特別なんてものは不安しかないから、そんなものは欲しくない。

 当たり前のことが起きる、普通の世界。その方がいい。

 そして好意的に人間に接する人もいて、その人たちとは「普通」の関係が作られていく。

 僕も卑屈になることなく、普通に仲間を大事にして仲間のことを考えて、みんなで一緒に生きていく未来のために何かをする方が気分が良かった。

 自分に向いている方を選ぶものだ。苦痛なことは選ばない。

 苦痛でも選ぶ時は、どうしても欲しい何かがあるからだ。

 僕自身もやはり自分でしかないので、「後ろ向きな人の身になる」がどうしてもできない。

 加藤諦三先生には「もっと神経症について勉強したまえ」と言われたが、勉強して理解できるものではない。

 そして本当にその人たちの気持ちになるためには、自分も同じになるしかない。

 親の気持ちを理解するために親にそっくりになっていくのと同じで、そうなりたい相手でないなら同じにはなりたくない。

 僕自身も母に構ってもらいたかったが、そんなことより僕自身が嫌な人間になる方が将来のためにもマイナスだとわかったので、僕は「生きる上でこの方がいい」と思える人たちと同じになろうとした。

 それでよかったと思っている。

 卑屈な僕のことをわかってくれる人は、やはり卑屈だ。

 同意してくれても同情してくれても、一緒に悪口を言ってくれてもその人は本当に優しい人たちと同じように、たった今僕を楽しませる何かや安心できる場を用意してくれるわけではない。

 僕のために安心できる場を用意して迎え入れてくれた人たちに僕は感謝しているし、言葉の上で僕に同意する人が必ずしも僕を迎え入れてくれる何かを用意してくれる明るい人たちなわけではない。

 どちらを選ぶかだ。

 僕に同意して親を一緒に貶す人ならば、明るく楽しい場は絶対に用意してくれない。

 自分が欲しいものが殆どの人は「同意」の方だったから、今に至っているのだ。

 争いの方が優先だったのだ。非常に好戦的な人達なのだ。

 だからと言って、この人類がそこまで進化していないとわかった今、たかが百年程度のことで大騒ぎしてもしょうがない。

 自分と、そして本当に力を合わせてくれる僅かな仲間たちと、そこだけでも仲良く楽しく生きていけばいいと思っている。

 うちの母は、卑屈で意地悪な人だった。だが、それは人格ではなく、酷い目に遭ったせいだと言い張りたい人だった。

 陰気で、ネチネチと人の粗さがしをしてはいびり、なんでも疑って優しさの欠片もない人だった。

 だがそんなことより「どんなひどい目にあったか」の話を聞いて、目の前でしくしくと泣いている姿を観て、「なんて可哀想なお母さん!」と同情して楽をさせてくれる人が欲しかったのだ。

 まるで三歳児の演技だ。

 その相手をしてやるもよし。してやらないもよし。全部自分が決めることだ。

 僕は母の他人への文句を聞いているより、他人に何かしてあげようと話している家族の方が好きだった。

 一緒にいて気分がいいから、そっちに行ったまでだ。

 そして怒りを感じた時にそれを制して仲間の話をきちんと聞くのは当り前のことで、思い通りにしようなどと画策しているから余計に怒りを感じるのであって相手を悪者にするのはお門違いもいいところだ。

 そのまま相手を黙らせて言う事を聞かせ続ける人は、「自分の家庭から想像がつく世界」だけを生きることになる。

 僕のようにそれでは絶望的だとわかれば新しい世界を開いていく。

 何もかも、なるようになっている。必要な時に必要なものは手に入るようになっているだけなのだ。