まだ見ぬ友人へ, 非会員向け

勝ちも負けも 負け

まだ見ぬ友人へ

 やあ、元気か?
 久しいな。

 このところ僕も、やる気がないんだ。
 否、やりたいことはあるんだが、どうも今やっていることに意欲を感じられない。平たく言うと、飽きた。

 「わかっている人だけがわかっていても、ダメなんだ」

 と師に言われたのだった…と思い出した。

 なぜ?
 なぜ駄目なのか?

 僕が苦しませているわけではない。

 そして、他に言っている人たちがいる。

 僕も教えてはきた。

 今の勝ち組も負け組も、負け組だ。

 この基準がどう作られたのか、なぜそんなものを目指しているのか、教えてきた。

 ・本当の歴史を知らない
 ・神仏の教えを知らない
 ・社会の仕組みについて考えていない
 ・自分について考えていない

 これらが大きな原因だとして

 ・本当の歴史を知る
 ・神仏の教えにある普遍的道徳精神を身に着ける
 ・社会の仕組みについて考える
 ・自分について、つまり人間の仕組みについて考える

 これでいい。

 本当の歴史は僕より年配で経験ある人たちの方がよく知っている。
 神仏の教えは誰でもどこからでも知ることができる。
 社会の仕組みはこれもどこからでも一人で学べる。
 自分についてはいつでも子供でも考えられる。

 実行あるのみ。
 それだけ。

 この社会は勝ち組と称される人と、負け組と称される人が作っている。

 つまり、その昔作られた基準を自分の物として生きた人々が作った。

 神仏の教えは、この作られた基準に背くものだ。
 だから神仏を信仰した人は取り込まれて行かなかった。

 一般的に言う宗教のことではない。
 普遍的道徳精神を重んじた人のことだ。

 そして親を大事にした人。
 そこから真実への道が開けていくから。

 この社会の基準を持たせるにおいて、実際ところ一番功を奏したものは、メディアよりも「ぬるま湯」だったのではないだろうか?

 僕たちの祖父母は、戦争を体験している。
 食うも当然だが、着るもの、住むところ、なんにも手に入らなかった。

 当たり前だが、親や祖父母に文句を言うならば、「お前たちはできていない」という不満を述べているわけで、少なくとも彼らが体験した程度の苦難は体験する覚悟がなくてはならない。

 できもしないのなら、守ってもらっているということになり、感謝しなくてはならない。

 この社会のように全員に同じ理想を持たせていけば、やがて人々は攻撃的になる。
 後は、人殺しをして正しいと思えるようになればいいのだ。

 「自分は負け組」と思っている人たちが、実際には攻撃者に丁度いい。
 勝ち組はダメだ。

 負け組の人たちはなんとかして見返したいと思っているから、お役目の名目が立派であれば、人を攻撃どころか殺すことも厭わなくなる。

 今はまだ、ネットで文句を言っている程度だが、彼らがやがて人を殺すようになっていく。

 そのように仕向けている。

 と、わかっているのによくやるな。

 なぜそんなに他人の思い通りに動いてあげるのだ。
 たどり着きたいところはひとつ。

 そして、そのために大衆を動かしているのに。

 別にやらなくてもいいのに、やる。

 他人を攻撃したら、これから自分の身を守りつつ攻撃し続けなくてはならない。

 ひとりひとりと敵を作るだけ。

 一人で身を守れないなら、権威に縋るしかない。

 これは、わかってやっているんだよな?

 と

 君に聞きたいのだ。

 自分の未来なんて想像の範囲内だ。

 周りはともかく、自分は自分の性格を知っているから、自分がこれからどうなるかなどわかり切っている。

 こうしてずっとずっと、誰かの作った想像の世界を生きていくのが人間なのだろうか…。

 と思う。

 僕も悩んでいる人と同じ、ただの人間だ。

 だから僕もどうにもしてあげないし、してあげられない。

 だから何もしない。

 

 昔からだ。
 黙っている。何か言っても「だってさあ」と人の話など聞かない。それが人間だ。

 親切心とは、本人の望んだとおりにさせてやることだ。

 僕も自分の望んだとおりにするのだから。

 責任を取ってあげられない人に対して、口出しは無用。

 僕が不思議に思うことがある。

 毒親と呼ばれる親の子たちは、親の愛の無さを知っている。

 何をされたか理解している人もいる。

 だが、そこでなぜ、不幸だ。と思うのか?

 悲しいのか?

 理想でないから親を許せない、ということか?

 親が理想的でないから、もう生きたくない、ということか?

 そんなに親が大事なのか?

 親のためでなくては、生きていく目的が持てないのだろうか?

 親は生きる理由のひとつにはなるが、生きる目的にはならない。

 目的は未来にあるのであって、過去に目的はない。

 持てない。

 

 君は誰だ?

 いや、別に知りたくはない。

 少なくとも人間の一人だろう。

 私、なんていない、と教えている。仏教の空。

 自分について考える時は「人間」として考える。

 人間にはこんなやつもいるのだなと。

 ただ事実を受け入れる。

 「僕はこうなんだな」と自覚する。

 そして「人間にはこんなやつもいるんだな」と知る。

 自分についてはそれでいい。

 だが、外については違う。

 「なぜだ」

 これに尽きる。

 なぜ親なのに子供を大事にしない。

 「酷い!」

 それは感情だ。理由にならない。

 「お母さんは酷いから、お前に優しくしないのよ。」

 これではおかしい。

 何かがあったのだ。

 子供の知らない何かが。

 

 それで、実際、あった。

 僕は母の弔いのために生きてきたが、無念であった。

 間に合わないどころか、周りからの邪魔が入った。

 僕がそんなに酷いことを根拠なく考えないのだから、母にだって理由があるに決まっている。

 僕は母に似ている。母の子だ。母の一族の精神を受け継いでいる。
 父は違う。完全に対立していて、価値観も違った。

 やはり、子は母を思った方がいいのだと思う。

 母を大事に思えば、真実は見えてくる。
 弱い者の味方になった方が、いいのだと思う。

 そもそも、仲間であるはずの個々が対立しているのは「おかしい」のだ。

 何かがあるのだ。

 そして最後にたどり着いたのは、やはり社会や歴史だ。

 支配は必ず、もっと大きな力からやってくるのだ。

 人間は詰まるところ、自由か服従かの二択になるのだ。

 「自由からの逃走」という本は、フロムの著だったと思う。

 自由を獲得するためには、戦わなくてはならない。

 自分一人なら服従してしまうかもしれない。

 自分を虐めるのは最も楽だ。

 だが、子供、更に弱い存在がそこにいた時、人は守るために自分を捨てて戦うのではないだろうか。

 僕の家族は家族を虐げる人々だった。
 だが、僕は家族を虐げることは良くないと思っている。

 なので、僕はそうしない。

 いじめない、いじめられない。

 「いじめさせない」をやろうとするから、支配が逆転するだけになるのだ。

 「いじめられない」が必要なのだ。

 

 いじめをする人を「守ってあげよう」とするから、支配されるのだ。

 いじめてくる人とも、喧嘩にならずに仲良くしたい。

 それは、「いじめてくる人がいる限り、無理」というものだ。

 だから「いじめないようにしてくれ」ではない。

 「いじめたい」人には、いじめたい理由があるのだ。その理由を知るしかないのだ。

 その人とは仲良くできない。
 体裁を繕って我慢し続けるのが関の山。

 そんなことはどうでもいいのだ。

 もっと視野を広くした方がいい。

 例えば僕がどんな目に遭ってきたとしても、社会から見ればただの親子間の小競り合い、僕の家の現実が社会も歴史も変えない。

 力は外からやってくる。

 関係は同等でないと続かない。
 つまり、優劣争いも同じ価値基準と常識を共有しているから続くのだ。

 その内容について自分のものとしたいのか、吟味してから自分のものにするものだ。嫌なら捨てればいい。

 また、親の言うとおりにしていると思っている人も、実は言うとおりにしてはいない。

 「親がしていた通りに、真似している」のだ。

 大人になっても、無意識の判断は殆ど親のモノマネ。

 喧嘩になる時だけではない。人との接し方、表現の仕方、生き方、考え方、全部親のモノマネ。

 親を恨む子の親もまた、親を恨んでいる。

 その生き方そのものを、そっくり真似ているのだ。

 強者が勝者になるには、敗者となってくれる人が必要なのだ。

 優劣なんて生きるに必要もないものを持って勝者となるためには、同じものを優れたものとしてくれる多数が必要なのだ。

 劣等となった人は一人では悩んでいられるが、そんなもの基準を作った人どころか家族さえ見ていない。

 聞いて欲しくても見て欲しくても、誰も見ていない。

 「作られた理想」をみんなで見ているのだから。

 

 僕はテレビを二十年近く前に捨てた。

 君がもし、テレビを二十年見なかったとしたら、知り得なかったことはなんだ?

 体験しかなかったとしたら、知らなかったことは、なんだ?

 区別できるか?君がテレビを見て知ったのか、体験で知ったのか、その区別ができているか?

 「司馬史観」という言葉がある。
 司馬遼太郎氏の大河ドラマを観て、創作の世界なのに歴史を知っている気になってしまうという話だ。
 あれが現実であるかのように錯覚してしまう、というのが「司馬史観」だ。

 現実とファンタジーがごっちゃになっていて、学者の間でも議論になりよくよく話し合っていくと「それはドラマの話だった」なんてことがあると聞く。

 そのくらい、テレビの世界は人の脳内を洗脳する。

 そこで、君はテレビで見たことなのか、それが現実なのか、区別しているか?

 聞いただけの話なのか、実際に確認したのか、脳内で区別しているか?

 テレビで知ったことはなんだったか、覚えているか?

 

 僕はテレビから得る情報を、殆ど知らない人間だ。
 そこから取り込んだ価値観も持っていない。知らないから。

 だから思うのだ。

 バカにしたとか、これが良いとか悪いとか、あの人たちは良くないとか、それら全てが差別主義。

 そんなものは知らん。

 ただ、「そうである」というだけだ。

 とりあえず、大多数の人は他人も自分と同じ差別主義だということを前提に人と接し始めている、ということはよくわかった。

 勝ち組も負け組も、みんな凄まじく差別的な発想をしている。

 

 僕は不良だった。
 だから優等なんてものは知らない。

 君たちが一喜一憂しているような「良いもの」なんて、知らねえよ。

 ただ、僕たちは自分で考えただけだ。
 相棒も不良だったが、彼は国語教師の子で大変賢く、本を山ほど読んでいた。

 何よりも、僕たちは自分たちで考えた。
 議論しながら考えた。

 自分たちの人生だからだ。 

 

 遥か昔、幼い頃にまだ少しだけ垣間見ることのできた親の姿に、ヒントは隠されている。

 まだ夢を諦めきっていなかった頃の両親の姿に、真実のヒントは必ずあるのだ。

 親を信じた方がいい。

 「自分の親はこんな人であるわけがない。」

 と。

 「一体どうしたんだ、何があったんだ、しっかりしてくれ!」

 と、妄想の世界から出られなくなっている親を、信じた方がいい。

 子供は真実を見抜く目を持って、謎を解くのだから。

 

最上 雄基