愛や幸福は、感じられる人と感じられない人がいるだけで、不遇だから可哀想とか、幸運だから幸せになっているとか、そのような違いではありません。
自己中で他人のことなど心配もしない、自分が安心させてもらって喜ばせてもらうしか考えられない幼児から始まり、発達していくことで幸せを感じることができるのです。
誰のせい、などという問題ではありません。
かくいう僕も、殆どの人からすればいいところなどひとつもない生い立ちです。今も殆どの人よりろくなことがありません。
しかしそれは幸福とは関係ありません。
愛や幸せは、発達によって感じられるようになるものです。
現実の想像力があるかなしかです。
欲しいものをもらうだけ、のうちは、何をしてもらっても喜ぶだけで、「よし、じゃあ次は…」とまた次の欲を満たそうとします。
仏教ではこれを「餓鬼」と呼びます。
何かもらったら、もっともらおうとする。
この生き方をしていると、いつもいつも何がない、あれが欲しい、と苦しんで生きねばならなくなります。
あなたの周りにもそんな人がいるはずです。
人のものを妬み、他人のものを欲しがってばかりで、今あるものに感謝できない人です。
他人と比較しては「こんなもので感謝できるわけがない」と、何か「良くないこと」を挙げてくるでしょう。
完璧に嫌なことがひとつもなくなるまで、何にも感謝しないのです。
全てが嫌なことで埋め尽くされているわけではないのに、「完璧が当たり前」だと思っているので、良いことについては「まあこれはいいだろう」と傲慢な態度で許すだけなのです。
この態度。
「完璧でなければ許せない」
だから、良いことについては「まあいいだろう。これは認めてやる。」という態度なのです。
そして、「それはいいけどあっちは…」と、足りない方に目を向けます。
あれが足りない、これが足りない。
餓鬼ですから、腹を空かせてばかりです。
そのくせ、自分がなにか人にしてあげた時には「自分から減った!」と損した気分でいるので、見返りがないと許せません。
あげたものは戻ってくる。足りないところは誰かがくれる。
つまり、「誰にも与えない姿勢」なのです。
一方的に与えてくれる人が欲しい、と望みながら、自分は一方的に与えることなど決してしません。
既にあるものに対して、感謝の念がひとつもありません。
感謝できないのです。
なぜならば、傲慢だからです。
「感謝している」と上から目線の態度で認めてやることしかできないのです。
「うむ、まあこれはなかなか良いぞ。」
この態度で生きているのに、本人は一人で全てをなんとかする力もありません。
人を認めてやるという態度で生きているならば、他人が困っている時はパッと何かしてやれるでしょう。
人を助けてやれないのに、自分が足りない足りないと嘆き怒るのです。
一方、幸せな人は感謝できます。
愛を感じられる人は、一方的に与えて幸せになれます。
他人が幸せになることが自分の望みだからです。
「人のために何かをする」ということは、「一方通行で与えることができる」ということです。
子供に対して一方通行で与えることができない親ならば、「こんなにしてあげたのに!」と見返りを求めて腹を立てなくてはなりません。
子供が感謝していないと、「あの子は親に感謝もしない!」と怒ったり嘆いたりしなくてはなりません。
本当に幸福になれる人は
既に自分は与えられていた
と気づける人です。
贅沢を言う人間からは、誰もが去っていきます。
話し相手だって、いつでもいるわけではありません。
「すごい人だと認められる」など、傲慢な願望を持ち、「自分が特別楽できるようにしてくれる誰か」を選別しようとしている人がいます。
いつかは、完璧な幸せに、と贅沢な願望を持ちます。
全てから解放され、なんの苦もなく「生きて行ける」ことを望みます。
幸福な人は、生きることは苦であると受け入れています。
自分だけではない、他人も苦労があるのです。
自分が楽をさせてもらえば、その分誰かが苦を背負う。
だから自分のことはできるだけ自分でやり、何かしてもらう時は感謝するのです。
誰かがいてくれないと叶わないことばかりです。
しかし、完璧を望む人は、恋人にしても「完全に自分の理想を叶えてくれる人」以外は気に入らないのです。
あれこれしてあげたら、最終的には自分の願望を叶えてくれるのが恋人だと思うのです。
これは幼稚な夢です。
シンデレラ症候群の人は、パッと今の生活から掬い上げるように別世界に連れて行ってくれて、何の苦労もない人生を用意してくれる人を求めています。
「幸せになりましたとさ」でおしまいの人生です。
しかし、人生は死ぬまで続きますから、楽園に行って完結ということはありません。
いつか、ではなく、いま、幸せになれる。
それが「他人に感謝できる人」です。
念のため言っておきますが、人格は装うことなどできません。
内面的な自分など隠せるわけがありません。
心の中では上から目線で人を見ている人が、他人に謙虚になろうとしても卑屈になるか取って付けたように形だけの体裁を繕うかしかありません。
そもそも、自分を隠して他人に気に入られようとしている時点で、そんなものは他人に損にしかならないのだから人のことは考えていないのです。
他人にとって損にしかならないことを考えている人は、他人に求められるわけがありません。
最初は騙されても、段々と自分の「目的としているところ」に誘導していくのですから、人は嫌がって去っていくでしょう。
これは良いことです。
本当に人の身を案じて生きる人は、人に恵まれる。
本心では自分が得することを考えた人からは、人は去っていく。
これが当たり前に起きるということは、喜ばしいことです。
当たり前の道理が正しいということですから。納得がいく道理の通りになるのは喜ばしいことです。
だからこそ「自分のことばかり考えて生きるものではないね」と欲深い生き物である人間は反省できるのです。
人に感謝して、愛や喜びを感じるためには「気づく」必要があります。
欲深い人は、自分が何かしてもらっても傲慢になるだけなので、もっと、もっとと欲張っていていつまで経っても満足しません。
しかし「今あるものさえ得難い」とわかる人は、即幸せになれます。
極楽浄土に生きられる人です。
誰かが自分に声をかけてくれて、良くしてくれた。
そこで「義務でもないのに自分に与えてくれた」ということで幸福になれる人はなれます。
他人がしたことを「自分の払う犠牲で相殺」してしまう人が、感謝しない人です。
いつまでもいつまでも、あれが足りない、これが足りない、と完璧を求め、自分の払った犠牲を理由に他人のしたことに感謝せず、「いつかは理想の結末を」と思って生きている人が、人様の命を蔑ろにし、罪の意識もなく生きている餓鬼です。
自分がどんなに何かをしてあげても、他人の時間が増えたわけではありません。
自分が何かしてあげるのを「見ていてくれた」だけで、時間を費やしてもらっているのです。
その何かが「相手が生きるに無くてはならないものだったかどうか」を考えれば、まず要らないものです。
無くても生きて行けます。
特別な存在ならばともかく、そこまで親しくもない相手に何かしてあげないと批難すらされる理由がありません。
僕が頑張っていても、僕の頑張りや苦労を他人は褒めてくれません。
なぜならば、僕が既に大人だからです。
褒めてもらえるのは、子供の頃だけです。
そもそも、感謝というものは未来のために何かした人がしてもらえるものです。
見えないところで気づかれずに苦労した人がしてもらうべきものであり、目に見えたところで何かして、本人が褒められて喜んでいるのでは与えたとは言えないでしょう。
幸福になれない人は、感謝しません。
よって、日ごろから大層文句が多いです。
完璧にしてくれないとケチをつける人には、みな不満を抱えます。
何をしてあげても、「自分だってしてあげた」の不満を述べては満足しません。
文句を言い続ければ、自分に認められるためにいつまでも尽くすと思っているのです。
これが地獄を生きる鬼です。
人ではありません。
仏教において、六道輪廻という思想があります。
実際、精神の世界ではそのようなことが起きています。
人間道に生まれた人は、その殆どが苦であるものの、僅かに良いこともあります。
天人道に生まれた人は、半々で良いことがあります。
そこから脱して、「幸福」を感じられる境地に辿り着きます。
これは仏教的な表現ですが、つまり「発達」です。脳の発達です。
未成熟と呼ばれる人は、未成熟なだけにその全てが「あり得ない要求と態度」で埋め尽くされています。
僕が今こうして説明をしていますが、この説明を読みながら自分の身に置き換えて理解しようとできる人は、まだかなりマシなのだと思っていいでしょう。
何を聞いても読んでも、何もかもを「自分が特別な人として存在し続けるため」に使う人もいます。
「いま、特別な人じゃない」
すると「じゃあ、これから」と思うのが傲慢な人です。
そして、「いつか」が来るまでのことには、悉く感謝しないのです。
いまあるものに感謝できる人は、「理想の願望」など叶わなくても、即幸福に至れます。
感謝できない人は、感謝したら支配されると思っています。
好きになったら負けという発想の人です。
自分が支配したがるからです。他人に言うことを聞かせて叶える望みを抱えているから恐れるのです。
感謝されたら優越感を感じてしまうのです。
素直に喜ぶことができない。素直に労わることができないのです。
そのような人から、幸福は消えていきます。
今までそこにあったものも、失われていきます。
その場で何をしてもらったのかわからない人は、親ならばいざ知らず、他人からは見放されていきます。
自分が犠牲を払ったから何かしてもらえて当然だと思っている人は、他人の苦労を蔑ろにします。
何もかも「全部自分の努力」なのです。
それが傲慢な人です。
自分は特別な存在だ!と思うのは簡単で、他人に何をしてもらっても
「でも私は~したんだし」
と人の苦労を蔑ろにし続ければいいだけです。
餓鬼は常に人を恨んでいます。
自分が払った犠牲のことばかり考え、他人のしたことは想像しません。
特に、「考える」という苦労は目に見えないので、心から思いやる、人のことを考えるという苦労がわかりません。
自分が考えたから、相手から出てきた!
それが幼稚な人です。
自分の考えがわかったから、相手が出してくれたと思うのです。
この発達段階の人は、何をしてあげても幸福にはなりません。
「既に今までもらい続けていた」
それに気づいて、自分が贅沢であり、他人を蔑ろにしてきたとわかります。
まだ足りない、こんなものじゃない。
既にもらったものに感謝することなく、完全に満足する日まで傲慢な態度でい続ける。
この態度の人から、人が去っていくのも、協力して仲良くしている輪になっていないのも、当たり前の道理なのです。
感謝したい時には親はいないものだと言われています。
本当にその通りです。
しかし、どこまで行っても「感謝したくならない人」もいます。
生きていることに感謝できなかった人です。
生きて感謝することは誰もができることですが、それができないまま生きている人が一番不幸です。
「私は感謝してますよ!」
と人に報告して認めさせようとする傲慢な人は、感謝などできません。
何をしてあげても無駄。
と感じさせる人。
それは、何かをしてもらっても、いつまでも人を妬んで文句ばかり言っている人です。
あなたが困っている様子の誰かに何かをしてあげます。
すると、あなたには「どうも有難う!」と感謝の言葉を述べたものの、またすぐに「あなたはいいんだけど、あの人がね」と文句を言い始めます。
何をしても何をしても、いつまでも一向に不満が無くならない。
「あの人」が何をしているかはあなたのすることに関係ありません。
ですから、文句ばかり言っていると、親切にしてくれていた人も去っていくのです。
「このままじゃいなくなるかも」と損を恐れて慌ててご機嫌を取りにいくようなことしかしないのです。
無くなるのは嫌。でもあるのは当り前。
この態度で生きてきた人は、何をしてあげても「文句を言われる」という事態に遭遇するでしょう。
例えば、僕は母に感謝しています。恨んでもいません。
それは、僕が生きていてよかったと思うことが沢山あるからです。
外に出てそのような体験ができるかどうかは、自分次第です。
親を恨んで地獄に落ちるより、感謝して送り出したいと思っていました。
次は僕の番ですから。恨まれて死んでいきたくないです。
自分がされたくないことは、人にもしない。
自分が他人にしたことは、いつか自分に戻ってくる。
それが道理です。
与えられたもので幸せになれるよう、自分の力で「生まれてきた甲斐」を見つけなくてはならない。
努力なく、何もしなくても幸せに「してもらえる」と思うのは赤ん坊の頃だけで十分です。
幸せはしてもらうものではありません。
自らがその「境地」に達するものです。
僕に教わる人は、真実を確認する時は体感を確認してください。
自分に嘘をつくと、必要なものもわからなくなります。
「私は幸せです!」
と言葉で述べたならば、今の体感を確認してください。
「これが幸福という感覚だろうか?」
初めて生まれてきたのですから、言葉だけ覚えて「これがそうだな」と確認する段階で失敗したら、得ているのか得ていないのかわからなくなります。
僕も毎回、「わからないが、これではない」と確認しては、今やるべきことをやれていない、何かが間違っていると気づきます。
頭だけで考えているとうまくいきません。
事実を直視し、体感を受け入れる勇気を持ちましょう。
そして、人に感謝することなく不幸に生きている人からは、幸福は逃げていくと覚えておきましょう。
なぜならば、既に幸せになっている人たちは「有難い」と本心から感謝できるので、してあげた人も嬉しくなり、文句を言う人から離れてそっちに行ってしまうからです。
人が嫌がっていなくなってからでは、何もかも遅いのです。
もらえないものばかりではなかったはずです。
何もなければ生きていないのだから。
「これは感謝すべきことか、しなくてもいいか」
そんな風に考えるものではありません。
たとえ全員がもらえるものでも、感謝できる。
それが幸福に至れる人です。
贅沢を言えばキリがないのです。
皆さんはそのような貪り食う精神を強くしようとせず、今あるものに感謝すると良いでしょう。
もう十二分に、みなもらえています。
「もう十分もらってきたから、これで満足します。」
人の頑張りを認めてあげて、苦労に感謝する。
僕の母はそれができない人でしたが、僕はその感謝ができたので、幸福になることができました。
幸福になれたのも生まれてきたからなので、母には感謝しています。
そして、僕は僕が生きるために生まれてきたのであって、他人が何をしてくれるか評価するために生まれてきたのではありません。
僕自身が生きて行くことが人生なので、何をしたら他人が何をするかなど、この世の枠外に立って断罪している人生は送らないのです。
生きているのは僕であり、この全てが人生ですから。
皆さんは、もう生きているでしょうか?
人類を評価するために、生まれることをやめているのではないでしょうか?
もしそうならば、あなたは人間だということに気づくことが、まず何よりも先です。