生まれ変われた理由、あんまり「いい話」ではないのです ~無料記事~

 今の僕があるのはその結果でしかありません。

 だから、本当に虐待されて生きる希望もなかったことが、幸いしたのだと思います。

 何もなければ何かがあるものです。

 どうしようもない環境に育った子は、どうしようもない人間になります。

 よって性格も悪くなり、傲慢になり、人間関係もダメになり、家の中で与えられなかったものを与える人間になどならないのです。

 それでも人間なので「ほしいもの」はあるから、自力で変わって行けるのです。

 はじめて死を考えたのは五歳の頃です。その時は「死にそう」になったからです。

 十歳の頃は自ら死ぬことを考えました。生きる苦痛に耐えられなかったからです。

 生きてていいことが何もないならば、これ以上生きようとはしません。

 どうしようもない人生だからこそ、他人より真剣に考える必要性があったし、このままでも夢見ているだけでいいやなんて思えなかったのです。

 何よりも孤独。

 家の中でまともに話をしてくれる、聞いてくれる人がいないのですから。

 いつもいつも、心の中で考えているだけでした。

 心の中にいる自分は、「人間のふり」をして生きていました。

 心の中では違うことを考えていました。

 その、心の中にいる僕、だと思っている人間の人生なのに、家の継続で外に出てもまだ同じように「心の中で周りの様子を見て適当なことを口走っているだけ」を続けていました。

 家の中の体験が原因で、人が怖くなっていたのです。

 だから「まずは相手の様子を見ながら問題なさそうなことを口にする」を続けていたのです。

 僕はこの世に存在していない人間でした。

 他人が見ているのは僕がお芝居で生み出した僕であって、心の中にいる本当の僕は誰とも会話していません。

 僕の時間は止まったままで、周りがどんどん動いてくれれば人生が進むと思っていました。

 単に臆病なだけですが、だからといって、自分だけその状態で人生が進むわけがありません。

 「何が起きるかわからないから、とりあえず問題なさそうなことを言ってやり過ごす」

 僕は、自分だけが存在したりしなかったりしながら、人生を生きられる、見た目だけ存在させていればそれで大丈夫だと思っていたのです。

 自分だけが、心の中と外を出たり入ったりできるのです。

 心の中にいる僕が本物なら、その僕で生きていくしかないのに、「安心できるまでは他人が喜びそう、僕を好きになりそうなことを言っていればいい」と思っていたのです。

 裏表のどちらも自分だから、好きになってくれたら「本当のこと」を言っても大丈夫だと思っていました。

 それは詐欺です。怖いとか怖くないとか、そんなことは関係ありません。

 騙しているのですから、好かれてから本当のことを言ったら「騙されていたんだ」と相手が傷ついて終わりです。

 その調子で生きていて自殺したくなるのは自業自得です。

 相手のことなんて微塵も考えていないのです。

 自分の心だけは安心な場所に生きるために、他人を騙していたのですから。

 自分の言葉に反応してくれるから、他人は表面に反応しているだけだと思っていたのです。

 僕がバカだからです。

 ただのバカなのです。

 しかし、それがわかったら現実が待っています。

 「本気で死にたい環境」があるのです。

 友達の家では、本当に明るく楽しい時間を過ごさせてもらいました。

 しかし僕はその時間を大事にせず、当たり前のように考えていました。

 神のつもりで生きていたので、「この子はいい子、この家族はいい人たち」だから大丈夫、と、自分の道具として捉えていたのです。

 絶望だけが待っていました。

 だから死ぬことにしたのです。

 人間死ぬ気になればなんでもできる、なんて言いますけど、僕もそう思っています。

 実際に死ぬわけでもないのに死ぬ気の努力ができるのは、それだけ辛い環境に身を置いているからです。

 気分的なものではなく、現実的にです。

 努力してもしても安心できる日などやってこないのです。

 自分が生きていて外の世界でそんな状態に陥ったならば、自分の行いに原因はあるでしょう。

 しかし、子供の頃は本当に自分では何も選べませんから、逃げ場もありません。

 児相を頼ることはできたでしょうし、僕は恐らくあの状況なら保護されていたと思います。

 しかし、施設で育ち、それからの人生をと考えても、到底明るい未来が思い描けませんでした。

 「今生の最期に全力を出し切る」と決めたのは、嘆いている割には自分が余裕で生活していたからです。

 「こんなに頑張っているのに」と思ってはいましたが、実際には一日のうち1時間や2時間程度は、漫画を読んだり絵を描いたり、家の中で遊んでいたのです。

 まだそこまで切羽詰まっていなかったのです。

 まだ全力ではなかったのです。

 他人に可哀想がられようなんて期待する人間が、微塵でも努力を怠っているわけにはいきません。

 「本当にこれ以上頑張れない」わけではないからです。

 だから全力を出しました。

 全部諦めて死ぬためですから。

 いい年になっているのになんですが、今まで生きてきてあの頃ほど努力したことはありません。

 それまでの僕は人生を舐めていました。

 自分が全力を尽くさなくても、誰かが僕の気持ちや状況をわかってくれたら、僕にない力を持つ人が僕を助けてくれる、と甘えた姿勢で生きていました。

 そして「はじめて出会った本当に心優しい子とその家族」との縁を自ら無駄にしてしまったのです。

 これはただの自分の過ちです。

 後悔してもしきれないほど後悔しました。

 生きるために変わろうとする人は沢山います。

 僕は死ぬために変わろうとしていました。

 全部終わりにするためです。

 そして全部終わらせたのです。

 これが今生最期、と全力で、まさになりふり構わずやり切った結果、いつの間にか自分も、そして他人との関わりも、変わっていたのです。

 僕が今教えている殆どのことは、当時どうしたのか具体的なやり方や考え方、そしてその後自分が反省して覚りの道を進んでから体得してきたことなどです。

 第一の人生は、散々たるものでした。

 それはそのままです。

 つまり母や姉は変わらず、相変わらず「恵まれない境遇」を基盤に生きています。

 しかし第一の人生は僕が用意したものではなく、勝手に用意されていたものです。

 終わりにすることに未練など無くなり、終わらせることができました。

 しがみついて「変わってもらいたい」と思えるほど期待できない母で、寧ろ良かったです。

 生きることは苦。

 お釈迦様が言ったとおりだったと痛感するだけの知識を与えられていてよかったです。