自分自身にとって一番必要ない人ってどんな人だと思いますか?
いない方がいい人です。
いたら成長できない人と言った方がいいでしょうか。
親しい間柄にいない方がいい人です。
それは
「自分と同じ人」
です。
自分の中で喧嘩している人がよくやります。
自分と自分の喧嘩を他人とするのが、無意識に問題を抱えている人です。
どういうことをするのか。
またしても例が異性関係なのですが、異性でありながらと考えると更に不要なのです。
自分を親代わりにされてしまった時によくあるんですよ。
僕も今まで何度となく経験してきました。
自分の真似をするんですね。
「私も!」と同じことをする。
自分と同じことをしていたら、真似に使った分だけ相手の価値は自分にとっては下がりますよね。
魅力がなくなっていきます。
他人は違うからいいし、異性ならば猶更です。
趣味も同じことをしたがったり、心理を始めてからは何人同じように心理をやり出す人に出会ったかと思います。
本気で目指しているわけではありませんが、とにかく張り合ってくるんですよ。
僕が相手と張り合うためにやっているわけではない全ては、なんの意味もありません。
どうしても僕と同じことをして、僕より上になったり正しくなったりしたいんですね。
それが「自分との喧嘩を誰かとやっている人」です。
勿論いいことはありませんよ。
相手を言い負かしたり、自分が正しいことになれたらどうなると思いますか?
心理的危機を回避できたのです。
酷い罵りをすれば、相手は安心するのです。
相手に自分を投影してやっつけていますから。
勿論、自分に思っていることを他人に言うわけですから、それも実際にそうであるとして言うわけですから、実際に相手が自分の言っている通りでない場合、また内容如何によってはもう取り返しはつきません。
少なくとも、相手が不快な体験に感じたならば、嫌われますよね。
自分自身の代わりとして、誰かを選ぶのです。
ですから、その罵りの内容は誰を相手にしても同じです。
男はみんな同じだ。と言い出す人もいるし、「誰と付き合っても同じにしかならない」と言う人もいます。
そして、当然他人を自分にしてそこまでやっつけたいのですから、本人はこうです。
「私は間違ってない!」
「私は正しい!みんなそういう!」
あの
うちの母が先日亡くなりましたが、この調子で本当に人生終わりました!
すごいですね。本当に「私は間違ってない、皆がお前の方が間違ってると言う。」と言い続け、そのため僕は家を出て行き、自分は一人で死ぬまで働き、
「あの人、一体本当は何がしたかったんだろうね。」
と親族にまで言われている始末です。
やってくるのは職場の人たちです。
仕事にしか精魂込めず、仕事命でした。
老後を考えて、今から何十年と計算して、とにかく働いて働いていくことだけ、金を貯めていくことだけを考えて、本当に死にましたね。そのまま死にました。
だから職場の人たちはやってきましたが、当然他人の死ですからね。
皆さん、明るいものでしたね。
母の性格ですからね。
自分では目立ってすごいことをしていたつもりでも、本人が自分の人格を間違えていますから、本人が言っていた通りになど皆さん思っていなかったんですね。
現実が残ります。あと骨ですね。
骨になったら言い訳する人も言い張る人もいません。
本人が親しいと称している「一番わかってくれる人」も、実際にはたまに電話で連絡する程度。
わからないと思って自分に都合のいいことを言いますから、結局のところ誰とも親しくはありませんでした。
誰一人母のことを知る人はいません。
何がしたかったのか、誰にもわかりません。
人を信用しない人だったから、誰にも本当のことは言わなかったね、というような話をしたくらいです。
よくわからない人が死んでもそんなに悲しくないんですよ。
感動することも無かったですからね。
嬉しいなんてそんなに意味ないんですよ。
人を喜ばせる病気でもある母でしたが、いいことを言っても感動はしていませんから、その場かぎりですぐ忘れるんですよね。
その場かぎりでもその反応を見て「母が安心していた」ので続けていたのです。
一人で決めつけては、相手にひとつひとつ言いたいことを言わせて、その流れで現実の流れまで作っていこうとする人でしたね。
バカバカしい話ですが、母は大人になって、親となっても
「それはお前だ!」
なんてでかい声で言っていた人です。呆れますよね。
まともに相手にしたくない人には、人は優しいです。
僕もそこまで母に真剣に接してきませんでしたから、意思を持って反抗したことも子供の頃くらいです。相手の性格がわかれば、後は面倒なことを言われないように、適当に話を合わせて相手のやりたいことを邪魔しないだけです。
そして自分はできるだけ「関わらない」で済むように、言い訳を用意します。
「私は仕事人間だから」
と言いきっていましたが、仕事人間も社会に名を遺すことができるほどではなかったので、忘れられていくのも早いですね。
孫である娘もびっくりしていました。
「ばーちゃんの言う事を聞いていたことばっかりだから、死んだのに悲しくもない。なんの思い出も蘇らない。全然いい思い出なんかなかったんだなって、よくわかった。」
それを聞いて、さもあらんと納得し
「怖いなあ。自分だけの世界を生きるとこうなるんだなあ。死んだっていうのに、本人は恩着せがましくあれこれやっていたのに、こっちは何にも思い出さないんだから。」
としみじみと述べ、自分たちはこうはならないように生きようなとくっついていました。
母は人間が怖くて、誰とも近づけない人でした。
人に弱点を見せられないのは、人に勝ちたいからです。
劣等感が強すぎるので、誰にも弱さを見せられません。
弱さを見せられない人は、人をあまり近づけられません。
近づくと、こっちが罵られます。
自分が触れられたくないところまで踏み込まれると、自分が恐れていることを他人がやっているような疑いを持ってしまうのです。
最後まで「金を貯めることが大事だ」と言い続けていました。
病院で、死の数日前までそんなことを言っていました。
若い頃からそうでしたね。
離婚して一人になって、自分の弱さと向き合えず、夫の悪口を言って夫のせいにして、「私は何も悪くないのに」と優越して乗り越えたので、もうその時に人生は決まりました。
悪いとか悪くないを言いたい時点で、もう終わってましたね。
勝ちたいということです。
どっちが正しいなんて、恋愛や結婚にあるわけないのに、どうにかして相手の行為をやり玉に挙げて、みんなで叩きたい人でした。
離婚した後、数年は本当にうんざりするほど父の悪口と思い出話をして、同意して味方をしてあげないと
「私が悪いっていうのか!お母さんを裏切るのか!」
と怒鳴りましたね。
そしてそのあと、「なんて酷いことを言われたんだろう、傷ついた私を見て」というナルシストっぷりで、一人どこ見てんだか、という目線で、さめざめと泣くんです。
こういう時、本人は恐らく「今の私を見て反省しているな、驚いているな」と思えているんですよ。
こっちは「面倒くさいなー」「早く終わらないかなーやりたいことあるのになー」と思っていましたね。
しつこいんですよね。
自分の気が済むまで人を罵ってきて、翌日になったら平気な顔をしているんですよ。
好き勝手やって、自分の気が済んだら明日は元気だから大丈夫。
わかりますか?僕がどこにもいませんよね。
「僕は?」ともし聞いたならば、「じゃあお母さんはどうなる!」と怒るでしょうね。
いいんですよ。子供が優先です。一人の世界を生きているしかないのです。
「お前さえ無事ならいいんだよ」という姿勢で接しているしかないのです。
思い通りのことしか起きてないよ、悪いことは何も起きてないから大丈夫だよ、とあやしてあげなくてはならないのです。
こっちは思い通りのことなんか何一つ起きていませんが、現実に生きていたいので別に構わないのです。
「私を責めてるんだろ!」
これが最もよく言われたセリフだと思います。
「そんなことない」と言っても無駄ですよ。
「いいや!そんなことはある!」と言い返されます。
本当にすごくすごいしつこいんですよ!
どう考えても相手が面白いわけがないことを何時間でも述べて、しかも酔っぱらっています。
それで翌日「相手が自分をどう思っているか」も気にならないのがすごいですよね。
段々と恨んでいくに決まっていますね。
黙っているのは、どんどん嫌いになるからです。
どんどん嫌になるから、そのうち「この人自体、親であっても関わりたくない」と思えるのです。
母が亡くなったので言いますが
ばっかじゃねえの
と思っています。
自分一人で説明して思い通りのことなんか起こせるわけねえだろ。
精々、目の前の子供に我慢させて、言いたいことを聞いてもらって、赤ちゃんがうんちをしたみたいにスッキリしたら、相手の気持ちも考えずにご機嫌になって今まで通りの世界だと一人で勘違いして生きているのが関の山。
そして、実際それが関の山だったので、びっくりするくらいみんなに思い出してもらえません。
なんの感動も生み出さずに、ただ嫌な思いだけさせ続けた人。
ただその場その場言い訳の代わりに喜ばせたり、恩着せがましくしてきた人。
目立ったことをしたいんですよね。
仰々しいことって相手に親切にする人ってしないものです。
孫にもよくあれこれ聞いていました。
あれをしてやるこれをしてやる。
よく断られていました。
「親切にしてやってんだぞ。」
という姿勢。勿論、感謝されたくて無理していますから、相手の態度が望み通りでないと恨んできますよ。
自分で「こうしてやる」と言いながら、後から「限度がある」とか「もうこれ以上できない」とか、いきなり言い出す子供です。
そんなもの、自分で先に言うものです。だったら実力よりできるヅラでいなければいいのです。
人を母親だと思っているので、「そんなことは普通はわかる」と言うのです。
僕なら言いません。わかるわけないと思います。
自分の様子を見て全部悟ってもらおうとし、「自己申告する」という意思が無くてはできない行為を避けて通ったのです。
普通、相手に文句を言いたいほどになるほど、我慢しません。
そこまでいい顔なんてしませんよ。
自分の限界もわからない大人なのです。
それを棚に上げて「人の限界を考えろ」と言いたいのです。
確かに、こっちが親なのだから、こっちが相手のことを全部考えてあげなくてはなりません。
そして子供が喜ばせようとして「こんなにしてあげるんだぞ!」と言っているのですから、ありがたくなくても役目を作ってやり、感謝してやらねばなりません。
それで本当に自分は役に立ったと威張る人でしたね。
あのですね。
死んだらすごいですよ。
今生きている人たちも、母と同じように鷹を括っているとは思います。
でもガンになる時なんて選べません。いきなりですよ。
なったが最後の時もあります。
今六十だから、あと二十年は…なんて考えていたら、数年で死ですよ。
あの母が、老後とか何度となく語り、八十を計算して仕事をして節約して生きていたのだから、片腹痛いと僕は思っています。
老後は老後はと、老後のことを不安に思うようになったらおしまいなのだなと思いました。
そんなことを聞いたこともあったなと思い出しました。
六十を過ぎたらますます老後老後と言っていました。なかったです。老後なんて。心配する必要なかったですね。
あと五年で死ぬ、とわかっていたら生き方が変わったのかどうなのか…。
でも皆さんも僕も、いずれ死ぬことをわかってやっているわけですから、母のようにあのままでも平気な人もいるのだと思います。
あの人でも、死ぬのが怖かったのだなあと最後に思うことがありました。
「ずっと一緒にいてあげるって言ってたけど、もう一緒にいてあげられないかもしれない」
孫に言ったのです。孫は無言でした。
そして後で僕に言ってきました。
「ばーちゃんは一緒にいてあげるって小さい頃から言ってたけど、ばーちゃんが一緒にいてもらいたかっただけで、私と一緒にいてくれる気なんか最初から無かったんだよ。私の将来のことなんか考えてくれてなかったんだよ。自分が寂しいから一緒にいてもらいたいだけだったんだ。」
ばーちゃんのその一言を聞いて、悟ったようでした。
傷ついたのだなとわかりました。
信じたいけど、実際にそうではないのだから仕方ない。
嘘なんかつかないで欲しいですよね。いいことなんか言わないで欲しいですよね。
好きであって欲しい人、大事にしてもらいたい人に、嘘で好きなんて言われたくないですよね。
好きだと言いながら何かを要求。
そんなの嘘に決まっています。
好きだと思うならば何かを求める願望はありますが、好きだからこそ嫌われたくないので言えないものです。
「この人が好きだからこの人になんかしてほしい」
それでは本当に幼児です。
人は商品ではありません。
「なんかしてくれる人」というロボットではありません。
人を道具みたいに考えている人がいますね。
思い通りのことを言ったりやったりしないと、途端に許せなくなるんですよ。
自分の存在意義って考えないんですかね。
自分自身の行動や発言や様子が、相手から見てそんなにいて欲しいほどの人間に見えているんですかね。
母はとにかく一般的にとか常識的にが好きな人でした。
我々団塊世代はなんてよく言っていました。
母にとっては、一般的な人って一緒にいて嬉しい、幸せな人だったんでしょう。
自分が正しいと主張する時、自分も同じ主張をする人に憧れていないとおかしいですからね。
自分はこれができるから正しいが、お前はそれをしないから頭がおかしいとよく言っていましたね。
本当にこの母親、大嫌いでした。
あんなに最低なのに、人前でだけいい顔をして陰で子供をバカにしているような人、尊敬に値しないどころか見たくもない。
社会や他人に媚びに媚びて、人真似をしては優越感に浸り、外で褒められたことを子供相手に自慢して子供を支配して「言う事を聞かせよう」とする。
最低です。
罵って謝らせて、言う事を聞かせようとするんですよ?
自分が何か相手を批難して相手が必死で謝ってきたり、泣いてしまったりしたら自分でも怖くなりませんか?
やってるの自分なんですよ。そんな酷いことしてよく生きていられたねと思っています。
謝っても泣いても、怒りのままなんですよ。
人の心なんて無いのです。
自分が傷つけた自覚もないし、傷ついている相手を見てもなんとも思わない。
人の痛みが微塵もわからないので、道具としてしか役立たないロボット人間でした。
それも派手にでかく言うわりには、実際に目の前にいたら大した能力値は無いんですよ。
自分が如何にすごいか、自分で説明する馬鹿がどこにいますか?
自分が如何に正しいかを、自ら説明してわからせようとする馬鹿がどこにいますか?
お前が如何に悪いかを、自分で解説してわからせる馬鹿がどこにいますか?
自分が気に入らないことがあったからという理由で、相手を罵る馬鹿がどこにいますか?
大人なんですよ。親だったんですよ。
僕の親だったんですよ。
こんな親が自分の親で、生きていくのが嫌にならないわけがありません。
最低でした。
平気な顔で翌日も生きているから、子供の頃に本当に殺してやろうかと思っていたことがありました。
こっちの気持ちは考えてもくれず、ただ自分が悪者になったらとか嫌われたらとか「いい母親だと思われなかったら」なんて心配する母親でした。
いい母親ならいい母親なんだから、言われなくてもそう思われています。
評判が気になるなら、実際にそれなりの人になればいいだけです。
死んでくれてせいせいした。
さよならお母さん。
あなたが死んでくれて僕はせいせいしたよ。
どうせ変わらないんだから、死んだ方がマシだよ。
と思えるほど酷い母親でした。
あの人格とこれ以上付き合っていくならば、いっそ死んでくれた方がマシ。
酷いと思いますか?
子供にそこまで思われるほど、本当にどうしようもない親もいるんですよ。
そして僕の家では昔からこの手のことをハッキリ言う人が身内にいたので、僕も言っても平気だと思っています。
なによりも、言わなくてもどうせ思ってはいますから。
言った言葉に反応しては「酷い!可哀想!」と言う人がいるでしょう。
亡くなった時にわんさかやってきました。
ほんの数回しか会ったこともないのに、大変親しかったように母の半生を語る人。
泣いて大袈裟に悲しむ人。
茶番もいいところです。
パッと別の話に変わったり、すぐにまた笑っていたりするのですから。
気持ちなんてないのです。
それも仕方ないのです。
本人がやったことです。
自業自得です。
本人が目の前で自分一人いい気分になることしか考えなかったのだから、死んだらこうなって当然です。
似たような人たちに囲まれて、死んでからも地獄を彷徨うのでしょう。
自分にとって一番要らない人は、この母のような人です。
食うために必要な人は、「自分に必要な人」ではありません。
「人間が生きるために必要な人」です。
その人個人でなくとも、誰でもいいのです。
道具扱いなんかしなくても、本人が道具として生きています。
道具として自分を扱わない人は、他人にも道具扱いされません。道具ではありませんから。
自分を商品のように思い、価値を高くして人から評価されたい、そんな馬鹿者はこうなるのです。
人はいつか死ぬ。
それはわかっていますが、こんな人生に意味があるのかと思いました。
「ばーちゃんって生きた意味あったのかな。」
と病院を去る時に、孫は言いましたとさ。