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年長者の実際 ~全体向け記事~

 先日、会員向けの方に開戦時の昭和16年に発行されたメディアを紹介した記事を載せました。

 こちらには簡単に要点だけ書きます。

 僕たちに向けて、老人たち、またエリート層が「なんにもわかってない」かのように罵ってきます。

 間違いを指摘し、批判し、そして「自分の頭で考えろ!」と言い放ちます。

 その「自分の頭で考えている人たち」は一体どのような環境下で育ったのか、確認し続けております。

 やはり相手が伝えたいことを理解するためには、一体なぜそう思うのか、相手の育った時代や環境、生い立ちなどを考えねばなりません。

 想像の範囲から外れているならば、想像可能になるようによく調べて知っていく必要があります。

 そんなわけで、確認し続けていてよく分かったことがあります。

 老人たちが言っていることも、「権威の話を鵜呑みにしただけ」です。

 かつて発行された「写真週報」(内閣情報部発行の雑誌)に書かれていることと同じ内容を、「本当に正しい日本人とは」と言いながら話している人たちが沢山いました。

 要は、やられたことを真似しているだけなのです。

 当時の権威の言うことを確認もせずに鵜呑みにし、「自分の頭で考えることなく」偉い人たちに従って生き続けている人たちが、今の若い世代を「堕落した」と決めつけて、自分たちが教わってきた「正しいこと」を自分がそうであるように鵜呑みにして生きさせようとしているだけです。

 自分が自分の頭で考えていると勘違いしているのです。

 権威ある方にも率直に意見してきて良かったです。おかしなことを言うので疑問を持つようになりましたが、僕が「偉い人」に合わせて意見しなかったらなんにも気づかなかったでしょう。

 皆さんもやたら強気で拷問してくる人に対して、感情的に押し負けて意味もわからないまま自分を悪者にしないように気をつけてください。

 本当に自分の頭で考えている人は、自分がそうであるから相手の考えたことを知ろうとします。

 自分で考えている人は、人の考えを聞いては否定して「本当に正しいこと」を言わせるようにしたり、物を言わせない状況を作り出しません。

 権威に従うだけの人は言っていることは立派ですが、その立派なものを誇示して威張っていられるのは「自分で考えてはいないから」です。

 内容の立派さの前に、威張るとか、責め立てるとか、バカにするとか、人として劣る行為をしないものです。

 皆さんは、自分で全て考えて結論を出した時、他人に対して「これが絶対に正しい!」と言い切れるでしょうか?

 自分で考えただけで、他人には一人も同じことを言う人がいないのです。

 それでも、自分一人で考えたことが他人にとっても正しいことだと言い切れるでしょうか?

 自分はそう思うけども、他の人がどう思うかはわからない、と思うでしょう。

 それが本当に「自分で考えている人」です。

 自分の意思がある人は、他人を評価して是非を判定しません。それができるのは「先にこれが正しいと教えられたこと」を言っている人だけです。

 他人から見てどうなのか?

 自分で考えた時は、わからないので気になりますよね。

 そうなると「他人はどう考えるのかな?」と気になるのが当たり前なのです。

 人に意見をさせては、それを批判する。拒否して黙らせる。

 それが「権威に従って生きている人」です。

 人間は自分自身がやっていることを他人に投影します。無自覚の場合は猛烈に人を批判して攻撃します。

 そこに自分が間違っているかも、知らないことがあるのかも、と受け入れる余地がありません。

 何を言っても無駄。何を言われても「自分が正しい」としか言う気がない。

 ただ「これは良くない!」と言い切り、「それは間違ってる!」と人を黙らせに行く、怯えさせに行く。

 自分自身が他人を受け入れる気がないのです。新しいこと、知らないことに興味はなく、なんでも知っていてなんでもわかると勘違いしているのです。

 「問題ある人たちが正しい人に変われば、世の中は良くなる」

 この姿勢で国民全体を教育していた明治以降の軍国主義時代。

 過去を遡り、当時の国民が何を当たり前として目に入れて生きていたのか確認してみると、面白いことがわかります。

 「なんだよ!自分たちだって言われたこと鵜呑みにしてるだけじゃないか!」

 と憤慨したくなる人もいるかもしれません。

 目上の人に責められるので罪悪感を持ち、間違っている自分を恥ずかしいと思ったかもしれません。

 全く問題はありません。

 全員ただの人間です。

 日本人は全体が権威に従いやすいです。

 かつて九割が農民でしたから、よくわからないのでそうするしかなかったのです。

 僕は前々から言う通り、九割に入らない家の人間です。

 没落したとはいえ家の中では外から言われることを鵜呑みにして生きる人間はいませんでした。

 振り返って確認してみても、「なんて可哀想なことをしたのか」と善良な農民たちを憂うばかりです。

 みんなが権威の言う事を信じ、真面目に頑張った結果が今なのだとよくわかります。

 国家のため、他国に勝つため、最終的には皆の為だから…という理由で、一般的理想を用いては「日本国民ならばこうあるべき」と繰り返し調教したのです。

 明治以降「日本男児ならば」「日本女性ならば」などと言われるようになり、「恥ずかしい日本人、または男女になりたくない」と思った人達は真面目にその教えに従いました。

 そこだけ見ていると特に疑問がわかないのですが、ふと、それは関係なく江戸の世のことを思い出すと不思議なことに気づきます。

 「そんなこと、昔は言われていなかった」

 それぞれが住み分けしていました。そもそも藩は国と同じように別々の法律で動いていましたから、他藩がどうなのかは知る由もない部分もあります。

 「各自やっている」地方自治の時代でした。

 確かに後半は江戸の世も段々と堕落してきたのですが、それでも全体が「こうあるべき」なんて理想の姿になるよう教育されていたことはありません。

 そんなことは全く気にしていない時代でした。

 「この時期から、初めて「正しい日本人」なる偶像が作られたのだな」と思いました。

 僕はたまたま、大多数の人とは全く違う教育を受ける家に生まれました。

 なんにも偉くはないのですが、偉い人にもビビりません。

 外から見ればうちも昔は「偉い人の家」でしたから。

 しかし、ほとんどの人は「想像がつかない」ので、それっぽく言われたことは素直に信じてしまいました。

 今や自分たちでもよく分かっていないのに、権威に許可してもらえたから自分は正しいとか、偉いのだとか思い込んで生きている人たちがエリート層に沢山いることになりました。

 本当に弱者の立場にある人たちに優越感を持ち、見下しているのです。

 しかし、大多数の庶民の皆さんはそんなことを気にすることはありません。傷ついてバカにする必要もありません。

 自分で考えて好きにしていいのだと知り、おかしな呪縛から解放されることです。

 社会的に正しいと言われることはあります。昔と違い「農民だからこれが普通」なんて違いを考慮する寛容な目も無くなり、「日本国民なら誰もが」なんて馬鹿げたことを言うようになりました。

 別に犯罪を犯したわけでもないし、寧ろ公務員や政治家や、医師や弁護士、果ては警察官までもが犯罪を犯して捕まっているくらいです。

 国のために悪事を犯すことが「立派なことだ」と勘違いしている人がいると最近になり知りました。精神的に向上することなく、権力だけ持った人間は欲望のままに生きる他ありません。

 覚えたこと、与えれた力はなんでも欲のために使います。

 しかし、どんな立派な説明をつけようが、悪事は悪事です。

 日本人はすっかり洗脳されて騙されている!と声高に叫ぶ人たちが、「本当に正しいことは私が教える方だからね!」とまた新たに洗脳しようとしてくる。

 その人たちも、子供の頃からカルト教団じみた教育を受けて育ってきたのです。

 しかし、善悪がひっくり返って相手を敵視したのではまだまだ同じ土俵です。

 今までのことは今までのこととして正しく現実を認識する。そして同じ過ちを繰り返すことのないよう、一旦ゼロから「争いのない道とは何か」を考えねばなりません。

 争いの無い道は、一歩目から争いがない道なのです。

 勝ち組側になればいいという話ではなく、どちらが正しくなって争っても、争いの中にいることには変わりないのです。

 写真週報は国会図書館にデータがあるので、興味がある方は確認可能です。昔の印刷物なのでデータ化してもよく読めない部分がありますが、ざっと確認するだけでも新たな発見があるかもしれませんよ。

 知識や経験が増えないうちに、新しいことを確信して判断はできません。

 そして何もかもを確認していたら、必要なことをする時間が無くなってしまいます。

 こうして僕が説明していることを聞いても、少なくとも考えることなく鵜呑みにすることなく、一旦自分の頭でも想像してみて、道理が通ったならば納得するという過程を決して飛ばさないようにしてください。

 しかし、少なくとも自分自身の中にあるものは確認可能ですから、最低限「自分の中にあるものをしっかり確認する能力」だけは持つように鍛えておきましょう。

 自分の中でもよく考えて結論を出さなくては、あっちで言われたことを鵜呑みにし、今度はこっちで言われたことを鵜呑みにし、最初から最後まで人の言葉に翻弄されて、欲を満たすため苦から逃れるため、右往左往しているような人生になってしまいます。

 どうしても人間は、言葉が作り出した「脳内の概念」を存在だと勘違いして生きてしまいます。

 それが事実なのか、脳内に作っただけの幻なのか、思うより遥かに区別なく生きているものですから、やたら争いの種を生まぬよう、冷静に我に返り考えることが必要です。

 あなたが自分の頭の中で考え判断することは自分自身のためであり、自分のために考えてあげる手間暇は惜しまないことです。

君にとっての「勝ち組」とはなんだ?

まだ見ぬ友人へ

 こうしてまだ見ぬ友人に手紙を書くのは久しぶりだ。

 君は生きていたか?

 実は「先生」として話すよう求められ頑張ってきたのだが、どうにも僕は普段から口が悪いから、キャラクターを作ろうとすればするほどうまく話せなくて疲れてしまうんだ。

 なかなか簡単に新しい顔を生み出すことはできないな。それが他人に求められる顔であれば猶更だ。

 同じ話を何度も録画して、結局配信はしない。そんなことを繰り返している。

 僕にできることなどないと思えるのだ。

 僕はただ、わかるだけだから。

 ただわかるだけ。

 世間では肩書のお陰で頭がいいと思われている連中が、実際には馬鹿だと見てわかるだけ。

 誰も突っ込まないが、少し考えればわかることなんて沢山ある。

 それだけ「少しも考えない人間」が多くなったってことだ。

 題した通りだが、君にとっての勝ち組はなんだ?

 君にとっての、だ。

 人間と戦いたい人は、世間の勝ち組になりたがるだろう?

 馬鹿め。

 なれるわけがない。

 他人が決めた価値観の勝ち組になんて、なれるやつがいたら見てみたいもんだ。

 あはははは。

 (・Θ・)あはははは

 この態度だから、僕は一般社会なんて向かないのさ。

 だって、君だって今僕が言ったこと、理解できないだろう?

 聞いても理解できない。だから話す意味を感じなくなったんだ。

 自分のことを発表し合っている人たちは、順番に相手の話から連想した自分の話をしている。

 それもどうだよと思うが、僕の話に張り合って自分の意見を言うなんてことは、そうそうできない。

 知能が違い過ぎるから。

 そしてこっちはそんなこと求めていない。

 張り合っているわけではない。

 頭がいいのもいれば、力持ちのやつもいる。料理がうまいのもいれば、話すのがうまいのもいる。

 そんなものだろう。

 それで?君の欲しい物はなんだ?

 君にとっての勝ち組は、君が欲しいものを手に入れた時になれるものだろう?

 世間の優劣で決められるものなのか?

 もしそうならば、君は誰かを見返したいのではないのか?

 「優越感」

 それが欲しいならば、君はどこかで悔しい思いをして、その時の恨みで生きているのではないか?

 ちょっと口は悪いけれど、はっきり言わせてもらう。

 君は馬鹿だな。

 否、殆どのやつが、バカだと僕は思っているよ。

 悔しい思いをしたから、恨みを晴らすだと?

 それでどうなる?

 それが勝ち組か?

 それが欲しかったものか?

 カッコつけているだけで、傷付いたことすら自覚できない負け犬だろう?

 復讐はカッコいいとか、傷付いても犠牲を払ってきたから可哀想だとか、そんなもの自己陶酔して思っているだけの「自己評価」だろう?

 君のことなんて、君を傷つけたやつは気にしていないさ。

 そんなこともわからないのか?

 いじめをする奴なんて、その時いい気分になったら「自分が相手にしたこと」すらすっかり忘れて、自分が意識して見せたい部分だけ覚えているものだ。

 もし、君がいじめられた悔しさで見返してやろうとしても、「見返す相手」なんてどこにもいない。

 なんせ、記憶していないんだから。

 知っているか?

 ずっと我慢して生きている「つもり」だった人が、いつか親に認めてもらうために大人しくしていた。

 よくある話さ。

 そして遂に堪忍袋の緒が切れて、親に向かってヒステリーを起こすんだ。

 昔どんな時に、どんなに辛かったかと涙ながらに訴えて。

 そんなもの対応できる相手はどこにいもいない。

 親はすっかり忘れている。そんなことを思っていたとも知らずにいた。

 そして、その事実は確実に「事実にしてしまうと親にとってマイナス」なのだから、そんなものは認めない。

 無かったことにされる。

 今更、親が「可哀想がってくれる」なんて思える方が現実を見てねえ、と僕は思うよ。

 どこに、貴様の家の中のどこに、子供の気持ちを理解して反省する親がいたんだよ。

 そんなものは「だったらいいな」と思い描いていただけの架空の親だ。

 最初から存在していない。

 現実と願望が滅茶苦茶になっているから、自覚していない。

 復讐なんて全ては無駄だよ。

 相手がいないのに一人でやっているだけなのだから。

 それで、もう一度聞く。

 君にとっての勝ち組はなんだ?

 最初に欲しいものがなかったんだろう?

 誰だってそうさ。

 欲しかったものなんてひとつもない。

 だからこそ、欲しいものがあるんだろう?

 それを手に入れることが、君の勝利じゃないのか?

 それとも、家の中に戦いがなくて面白くなかったか?

 争いたいのに、人を見下したいのに、それがないから面白くなかったのか?

 支配や服従の世界にでも憧れていたのか?

 僕は、もう勝利したんだ。

 勝ち組なんだよ。

 生れた時から欲しかったものは、手に入ったんだ。

 愛ある家庭だ。

 僕は愛し合う家族が欲しかった。

 明るく楽しく、兄弟もふざけ合ってじゃれている。

 両親は深く愛し合っていて、子供たちを心から大切に思っている。

 普段はバカなことを言っていても、大事な時は真剣になり、力を合わせられる。

 共に生きていく未来を常に考えている。

 そんな家族が欲しかった。そんな家庭に生まれたかった。

 そして生まれた。手に入った。

 だからもう僕は「可哀想な子」じゃないんだ。

 愛されて育った人間なんだよ。

 愛されずに育ったのに、なぜか前向きに成長している、と人間性心理では「例外」にされている人格だ。

 だが、違うんだよ。

 そうじゃないんだ。

 僕自身は、今のこの僕は、「愛されずに育った最初の自分」ではないんだ。

 最初から違う家に生まれた僕なんだ。

 もう勝利したんだよ。

 もう勝ち組なんだ。

 だからもう満足しているんだ。

 現実には沢山の困難があるが、僕は「愛されて育った自分」が好きなんだ。

 事実を事実として認識し、そして「常識」の発想を無視して「可能な方法」を考える。

 後は、確実に可能だと確信した方法を実行する。

 もう、最初の頃のことはよく覚えていないんだ。

 ただ「こんな人が自分の母親なんて嫌だ」と思ったのは間違いない。

 他人に「この家族の一員」だと思われたくない。そう思っていたよ。

 正直、みんなが羨ましくもある。

 そこまで執着できるほど、「この家族」を捨てたくないんだから。

 期待したい親。好きだった親。

 そんなもの、僕には最初から無い。

 認めてもらう相手が「この親」では、努力の甲斐もない。そんな親だった。

 「君は自分の過去のことを話すといいと思うよ」

 僕の才能を買ってくれた加藤諦三先生に、そう言われたんだ。

 だが、僕は話したくなかった。

 元に戻りたいわけではないから。

 僕は誰も教えていない方法を自分で編み出した。そして実行した。

 それでうまくいって、もう過去のことは本当にどうでもいいと思っているんだ。

 この今の僕の人生を生きる方が、余程大事だから。

 今になって、セラピーの方法や精神医療の治療を見ていても、自分でやってよかったと思っているよ。

 なんの後悔もしていない。自力で考え、学び、そして実行してきた。

 どこに行ってもそんなことは教えていない。

 加藤諦三先生は、その方法は知らない。ただ、僕が現実をどう考えたかを聞いて、驚いて感心していた。

 この方法しかないと思ったんだ。

 今、治療している人たちも僕は憐れに思っている。

 本人が選んでいることだし、別にそれを批判するわけでもなんでもないのだが、僕なら御免だと思うからだ。

 最初からレッテルを貼られた人生なんて、僕は御免なんだ。

 最初から、愛されて育った「普通の子」の人生が欲しかったんだから。

 親に虐げられたという不可抗力の事実のために、人生すべてを持って行かれたくなかったんだ。

 そして、武士を倒してこの社会を作っている、何者なのかもわからない連中を信じて「正しいこと」などする気もなかったんだ。

 「輪廻転生なんてあるわけがない」と言い放つアホの「専門家」の優越感になど、付き合っていられない。

 あるわけがないのは当たり前なんだから、言葉通りの意味のわけないと思わない連中。

 額面上通りにしか理解できない頭の足りない頭の連中が、社会を作っているんだ。

 社会的権威に認めてもらえたら、自分がすっかり「すごい人間」になった気になって、自分が生み出したものでもないものを覚えてはコピーして話しながらすっかり知性派気取りだ。

 弁護士に何人も関わる機会があったが、彼らの仕事ぶりは金の亡者としか思えないクズそのもので、口八丁で誤魔化しながら世間知らずの庶民を騙しているだけだった。

 あんな連中と結婚する女も、ろくな女ではないだろう。

 男同士で肩を寄せ合って、「私たち一緒にやったもんねー!」なんて二人組の中学生女子みたいな話し方をする。

 そんなのがいた。

 世の中は金ではないが、金のために生きている人間ばかりで面白くもなんともない。

 妄想を具現化することしか考えていないから、今そこにある「普通」のものには興味がない。

 だが、僕はそれでいいんだ。そっちがいいんだ。

 僕は「普通のもの」が欲しかったんだから。

 社会の負け組であることを悔しく思うならば、君はもうすっかり毒されていて幸せが何か知る日は来ないだろう。

 知らなければ欲しがることもなかったもの。

 見返してやろうとさえしなければ、やらなかったこと。

 達成しても欲しいものなんて手に入らない、無駄なもの。

 ところで君は、権威ある人たちが言う「立派なこと」が本当だと思っているか?

 権力は人の頭をおかしくするんだぜ。

 君は知らないだろう。

 僕も今起きていることなんて、想像もつかなかったよ。

 だが、もし、権力を握っても、かつての武士のように己を高めるための精進を怠っていたらと想像すれば、どんなことになっているのか、人の心の中だけは容易に予測できる。

 僕たちは、なんでもない庶民として生きていく立場だ。

 だったら、知りもしない理想を追いかけない方がいい。

 君は君の人生においての、君が君と勝負して勝てる「勝ち組」になればいいんだ。

 そうすれば、戦いは終わる。

 自分の中の戦いを終わらせれば、戦いは終わる。

 君は何と、誰と、戦っているんだ。

 人を恨むものではない。

 恨みは、「負けた人間」が抱く感情であって、その時既に勝負はついているんだ。

 人を地獄に引きずり降ろしたいならば、「恨ませること」。

 そうすれば、放っておいても恨んだ相手のために人生をつぎ込んで、無駄な努力をし続ける。

 そして恨みを晴らしに来た時に、もう一度傷つけることができるんだ。

 「なんのために頑張ってきたのか」と。

 絶望できればまあラッキーだよ。

 絶望にすらたどり着けない人間には、もう出口などない。

 それにしても、あまりにもみな深く物事を考えないな。

 世の中はもっと深く、そしてずるくいろんなことを考えている人たちが作っているのだから、もっともっとよく考えないとな。

 「こんなに浅はかであったら、僕だって死ぬことになる」

 簡単にわかるほど、あまりにも何も考えずに生きている人が不幸だ困ったと言う。

 そして人に何かを教えてもらっては感傷に浸り、遊興に入れ込み、なんとなくぼんやり生きているのだ。

 こうなるともう社会にすら関われていない。

 なんとなく存在している「世の中のモブ」だ。

 意思がなければ、それすら本人自身がなんとも思わないんだな。

 気の毒に思うのは、僕に自分の意思があるからでしかない。

 本人にとっては、なんでもないことなのだから。

 僕はもう、勝ち組だから、他人のことは気にしていない。

 争いが目的だったわけではない。

 争うことが目的の人は「みんなに羨ましがられそうなもの」を欲しがる。

 だが、僕は「僕の欲しいもの」が欲しかっただけなんだ。

 君はどう生きる。

 君は、誰と勝負しているのか。

 君にとっての、「勝ち組」とは、一体なんなのか?

 

 君が息災で生きていくことを願っているよ。

 じゃあ、また。

 

まだ見ぬ君の友人

 最上 雄基

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無料動画「本当に自分を嫌いな人は全然いなかった」

 自分を嫌っている人は、実際には全然いなかった…。

 僕が思っていた「自分を嫌っている」とは違うものだった、というお話。

 寧ろそんな私が好き。

 全然違うじゃん!

 同じ言葉を使っても、まったく違うことを言っていることがあるものです。

 長いお話ですが、新しい環境で作ってみた動画なので試しに皆さん視聴できる形で配信します。

 動画 約57分

奴隷を育てる洗脳教育

 神経症の原因は親子関係にあった

 そのような発見をしたのはフロイドですが、何が原因なのかそれでははっきりしません。

 僕の怠惰のせいで気づくのが遅くなりましたが、大変な教育の間違いを発見しました。

 洗脳教育されている人は、「いいこと」を教えられている。

 善行について言葉で教えられています。

 何をするのが良い子なのか。何をするのがいい人なのか。

 そのように「いいこと」を散々教えられています。

 「ありがとう」はお礼の言葉ですが、「ありがとうって 言いなさい」と調教されます。

 「いいことを言わされる」のです。

 この教育、表面上はきちんと「いいこと」をやるようになるでしょうけれど、内面的に、人格としては悪人を育てるだけになります。

 重大なことに気づかせてくれた方がいました。

 原点のブッダの教えを一切曲げずに伝える、テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老です。

 彼は日本人ではありませんから、僕たちが考えもしない角度から考えたこともないことについて率直に事実を述べてくれています。

 彼の話を聞いていて、重大なことに気づきました。

 ブッダの教えには「十悪」というものがあります。人間の悪事について説いたものです。

 それと対を成すように、後に日本の宗教の開祖が「十善戒」というものを説いています。

 僕は名前も内容も知っていましたが、自分自身は既にわかっていることなので深く考えていませんでした。

 十悪と十善戒は、正反対の代物です。

 例えば、ブッダの説いた十悪ならば「殺生」。生き物を殺すこと。

 十善戒になると「生き物を殺してはいけません」になります。

 十善戒は、悪事を犯すなという命令です。

 この教えを元とした集団の中では、支配や迫害が起きるでしょう。

 恐らく、これを説いた人はブッダの教えを知っても反省はできなかった人です。

 親が外で失敗してもそれを謙虚に認められない場合、傲慢さ故に怒りが起きて、子供に対して「こういうことはしてはいけないんだぞ」と厳しく責めるようになることがあります。

 失敗を認められない。そして「みんなもやっちゃダメだからね」と他人を巻き込んでいくのです。

 自分ができない癖に、ではなく、自分自身ができないからこそそのようなやり方になるのです。

 ブッダの教えは、ただの事実。自然科学です。

 「これは悪い行いだ」

 それだけです。なぜ悪い行いなのかは、他の教えと共に道理や因果関係を考えていけば納得できるようになっています。

 僕も日本人なので、根拠なく空海などを有難い存在のように思っています。しかし、スマナサーラ長老ははっきり言います。

 「かっこつけただけでしょ」

 そんなことを言う人は日本では見当たりません。本物の「ブッダの教えだけ」を学び実践するからこそ、自分で勝手に解釈して教えを変えて宗教を作るということについて批判的です。

 「宗教の目的は騙すことだから」と彼ははっきり言います。

 これについては認知科学者の苫米地英人博士も同じ意見でした。彼の場合は認知科学の専門家なので、摩訶不思議なことなど信じないのです。あくまでも現実的という点においては共通点があります。

 僕も現実的です。根拠のないことは信じません。

 ただし、瞑想や一般的におまじないと呼ばれるようなものの中には、意識に効果がある方法がありますから、それは「現実的」に採用しています。

 危険な洗脳教育は、「立派な人」の話を聞かせます。

 教える本人がいい気分になるような立派な教えを述べます。

 しかし、聞いている方は立派な話をしている人を見ると、「その人が立派に見える」のです。

 いい人だなあー、とその行いを見て感じ入った人ではなく「いい言葉を言っている人」「いい話をしている人」。

 立派だなあとその行いを見て自分が尊敬した人ではなく、「立派なことを言っている人」。

 「人には親切にしましょう」

 これはいいことだと万人が思うでしょう。

 しかし、言葉にして「親切な人はこうする」と教えれば、人間はできるだけ「理想的になりたい」というエゴがありますから、進んで「いいこと」をするようになるのです。

 自分で自分がいいことをしていると思い込んで傲慢になり、結果「見返りを待つ」姿勢になるのです。

 更に、「あの人は親切にしていない」と仲間を摘発するようになります。

 「優しい人は~をする」と聞けば、自分も真似をして同じことをしようとします。愛も慈悲も無いのに、自分は優しい良い人だと勘違いします。

 本当の善行は、善意があって生まれるものです。

 その形に決まりはありません。善意や慈悲があったかどうかが重要なのであって、その心を持ってどのような形でどんな行動を取るかは状況や人により違います。

 そしてその心を見ることができる人しか、善意に気づきません。

 本物の善意を生み出すには、「十悪」を知る必要があります。

 もし、「善い行いをしなくては」と思っていたら、人目が気になりだします。

 「不親切だと思われたくない」

 そのように自己執着を強くするので、「他人に親切だと思ってもらえればいい」という姿勢を生み出します。

 盲点でした。

 今回は自分の怠惰を反省しました。

 僕自身ができてもわかっても困っていなくても、わからない人にどう教えるかを考えているのですから、その立場になってみて考えるべきでした。

 そして、そこまで深く考えていませんでしたが、スマナサーラ長老の言う通りブッダの教えはやはり完璧で、曲げてはいけないものだとよくわかりました。

 十善戒を作った人は、自分を見つめることができなかったんでしょうね。

 「私もやったけど、あなたもやったよね。どっちも悪かったよね。」

 自分が反省して詫びなくてはならない場面で、そんなことを言う人がいます。

 どうしても自分が罪を犯したと認められない人。往生際の悪い人です。

 今まで、特に有料会員向けでは話してきましたが、頂点が下に続く人たちの方向性や人格を決めてしまいます。

 少なくとも奴隷のように従っている限り、その下にいる人たちはみな間違った方向性で傲慢さを高めていくでしょう。

 教育においても、「褒められたい盛り」の幼い頃から「良いこと」を教えていけば、傲慢で自己執着の強い人間になっていくでしょう。

 念の為言いますが、細かい言葉の話ではないのです。

 一言似たようなことを言っても「あの人はいいことを教えている!」と摘発するなんて真似はしないでください。その行いをする人自身が問題なのだという話ですから。

 僕は加藤諦三先生を崇拝しないようにと言い続けていますが、彼がどうこうという話ではなく、崇拝は危険なのです。

 ですから、彼も人間なんだとわかる話をし続けています。

 そこでがっかりするのは彼に対して失礼なことなのです。勝手に理想を投影しているのですから。

 人に褒められる人になりなさい、と教える人もいます。

 それではどうしようもない人間性の人が育ちます。

 自分自身で「いいことをしているぞ」と自分の行動が終わっただけで思っているならば、既にいいことなんて何もしていないのだとすらわからない愚か者が、すっかり勘違いして悠々と人を見下してしまうでしょう。

 それがいいことなのかどうかは、まだわからないことです。

 人に感謝されることなのか尊敬されることなのかは、事実どうなるか結果を見てからでなくては「なんとも言えないわからないこと」です。

 ただ、自分自身の中に善意があったか、思いやりがあったか、それはわかることです。

 本物の善意を持って行動しても、結果どうなるかはわかりません。

 どんなに愛や思いやりを持って行動しても「私はこんなものが欲しいわけじゃない」と傲慢に拒否して、注文を付けて望むようにやり直しさせる人もいます。

 それでも、そこに本物の心があったならば、残念に思っても傷ついても、自分を嫌うことはないのです。

 本当に人のために尽くそうとしている人は、頭を下げてお願いしています。

 十悪のひとつ。綺語。飾り立てた立派な言葉を言いながら人を洗脳している人は、「いいことを言っている自分」に酔いしれて、人を見下しています。

 本当に、今回は僕の落ち度であったと怠惰になっていたことに後悔しています。

 こんなところに「考えれば易々とわかる大問題」が潜んでいるとは思いませんでした。

 これもまた「思い込み」です。

 良いものとして広まっているものだから、大それた間違いなどないという思い込みです。

 大それた間違いがありましたね。

 よくよく考えてみれば、「当たり前じゃないか」と自分でも思います。

 善行を言葉にして命じてしまえば、「評価を待つ奴隷の群れ」になります。

 それも「傲慢な奴隷の群れ」です。

 このような教えの元で育った人が、「できる人とできない人」に仲間をより分けていき、分断をさせてしまうのです。

 当然、片方が片方をバカにしたり迫害したり「天罰」を下していいという姿勢の集団になります。

 「悪いことをしているのだから、当然だ」と思うのです。

 こうして、結果「本物の悪人」が生まれてくるのが洗脳教育です。

 本当に盲点でした。反省と共に、とりあえず簡単に皆さんにお伝えしたいと思った次第です。

 皆さんもよく考えてみてください。

 「良いこと」だと思ってやっている行いは、善行ではありません。