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茂木健一郎先生に学ぶ「天才」の話

 僕はこの先生は面白くて賢いので好きです。

 茂木健一郎先生。

 彼が「天才」についての研究、既にわかっている「天才の共通点」について、また心理学のはじまりについて説明してくださった動画を発見したのでここで紹介します。

 僕も茂木先生の話を引用させていただきつつ、今回は続記事にて天才が「天才」について、「幸福になる」ことについてお話したいと思います。

 とってもためになる話ですので、茂木先生のお話を是非聞いてください。

 更に、「クオリア」について別の動画で茂木先生が説明していた部分をご覧ください。

 茂木先生任せで申し訳ないですが、学術的な解説が欲しい方にもわかりやすいと思います。僕が散々述べていた「第六感」や「共感覚」の説明は、要はこういうことを言いたいのだとわかっていただければ幸いです。

 そして動画内でも茂木先生が仰っていますが、この問題について学術世界で解決する見込みはありません。

庶民の方が善良で騙されてしまう、政治の悪

 選挙なので、僕たちは思うより遥かに騙されて生きていることを少し書いておく

 この話はあまりしたくないが、僕はかつて明治に入るころ、国家を一強独裁体制にするために社会から抹殺された一族の末裔だ

 こう書いた方が、まだ書いている人間の立場は想像がつきそうなので、武家氏族というよりマシだろう

 子供の頃からずっと疑問に思って一人で答えを求めていたが、幕臣の末裔たる苫米地英人博士が著書に書いていた「自民党の前身は明治新政府」の一言で、すっかり目が覚めた。

 今の世の中が一体どうやって作られたのか、この社会が一体なんなのかは、その一文で全て理解できた。
 僕の家では江戸までのことはよく教えられたので、それ以降のことが全くわからなかったが、納得できた。

 ある自民党御用学者の先生は、内と外で全く言うことが違う。

 本人が自分で言っている。

 一般の人たちは左翼に洗脳されているから、そう言っておいた方がいいのだと。

 政策で嘘を言うのは彼らにとっては当たり前なのだ。

 「あいつらは正しいことがわかってないから、言うだけ無駄」だと思っている。

 「あの人たちは正しい日本人じゃない」と言いながら「正しい日本人を育てる」と言って若者を教育しているが、そば近くにいる若者たちはみなうつ病者なのだろうと思える異様な様子だった。
 洗脳されギラギラした目をしているか、うつろな目をして生気のない顔をしている。

 内側に入れば本当の考え方を聞くことになる。

 共産主義を忌み嫌い、全ては共産主義のせいだと言う。

 普通に考えても完全に頭がおかしいと言えるくらいの極端な考え方をしていて、「アイヌ民族は架空の民族」「私は左翼のせいで大学教授になれなかった」と言い張る。

 とにかく、なんでも左翼と共産主義、中国のせいにする。

 中国共産党にさえ勝てばうまくいくと信じていて、そのためにこれから日本は核武装をするべきだと言う。

 表向きは言っていないが、とにかく戦争をしたがっている。

 戦争がしたくてしたくてしょうがないのだ。

 戦争は正義だと思っているし、「憧れの聖戦」をやりたいようなのだ。

 勿論、大東亜戦争なるもので戦った日本軍を崇拝していて、ある先生は「美しい戦争がありました」と遠い目をして、またある先生は涙を流して語る。

 当時、殆ど記憶にもないほど幼かったはずなのに。

 この国は「神が作ったのだ」と言う。そんなわけがない。

 神などこの世にいない。神は見えない存在として心の中にいるだけだ。

 そしてこの国はもともとひとつのまとまった民族が千年を超えて続けてきたわけでもない。

 東北は侵略戦争で元々あった国を滅ぼし、吸収している。

 坂上田村麻呂の時代に。その末裔たちが今も生きているのだ。

 最初からひとつなんかじゃない。

 それが気に入らないようだが、それでもひとつにまとまってきたところにこの国のすごさがあったのだ。
 それを、何を勘違いしたのか形の上で一つだったことにしたくなったのだ。 

 彼らは中国を叩かせることで日本の士気を上げたがっているが、彼らの思想は西洋貴族の悪しき時代と似た、極端で独善的なものだった。
 そして実際には、存分に中国と繋がっている人たちはいるし、どうも様子を見るに、庶民を動かすために言っているだけのようで、大衆を動かすことで「金が動く」から、その流れを作って儲けたいようなのだ。

 細かいところは知らないが、大衆はとにかく「すごそうなこと」を言えばカッコよく見えそうなことをやる。何かと戦っていることに自己陶酔できるから、喜んでやる。

 そのような連中を飼いならしておいて、自分たちはどこかと手を結んでいる。

 何か、儲けになるのだ。御用学者たちは勉学に長けた商売人でしかない。権威の言うことならなんでも従うし、権威に求められた答えをなんとかして導き出すためにでっちあげてでも理屈をつけてくれる。

 そのような先生たちに意見してきて、その反応から真実を知った。

 「何も知らずに信じて真面目にやってきた、領民たちの子孫が可哀想だ」と僕は述べた。

 更に、今、権威に群がり自分たちは偉いと思っているエリート諸々について

 「勉強ができたら偉いのだと勘違いした、一代限りの算術番」

 「今の権威は人の治め方を知らない」

 と批判した。

 藩政時代は藩により政治が異なったが、僕が言う「算術番」は武家の人間ではなくても、算術ができることで器用され一代限り武士として登用された人たちのことだ。

 武家教育を受けて育ったわけではない。
 商人の子などがそれに当たるが、算術番は武家の人間もやっているので必ず一代限りなわけではない。
 優秀な人は試験に合格した場合、登用されたのだ。そして彼らを愚弄しているわけではない。彼らは試験に合格して算術番になっても、自分は町人より偉い!なんて勘違いしていなかった。
 武士となっても、町人をいじめて回ったわけではない。

 僕は意見するにあたり、自分がどのような家の人間かを説明した。世の中でなぜこんな嘘が言われているのか知らないが、と前置きし「武士が農民をいじめたりしているわけがない理由」についても説明した。

 それについては、苫米地博士も書いていたが、そんなこと少し考えればわかることだ。

 「自由に意見してほしい」と言っておきながら、僕が率直に意見すると猛烈に叩きにかかってきた。
 これが正体だ。洗脳教育をしたいだけの人であることは明白になった。

 権威にべったりの老先生たちが群がって、必死になって僕をバカにしてきた。

 人前でなんとか笑い者にしようとしてきたのだが、僕の言っていることは当然まともなのだから、次々ボロが出てきた。

 そのようなボロから「本当は何をしているのか」を探ることができる。

 「自分が大臣になったら、身内に要職を任せるのは人として当然の人情。誰だって身内を大事にするものだ。もし身内を差し置いて他人を採用するならば、その人は人間としてどうかしている。情があったらそんなことはできない。」

 これが、僕の意見に反発した御用学者が言ったことだ。

 かつて苫米地英人博士も経済政策を提案しに行ったそうだが、なしのつぶてだったと書いていた。
 そして出馬すると自民党に邪魔されまくった。それについてはあまりにもひどかったということで、その内容を細かく本に書いていた。

 彼らは、既に「本当にうまくいく正しいやり方」など求めていないのだ。自分たちの思い通りにさえできればどうでもいいのだ。

 今の自民党がどういう考え方で完全な身内固めをし、それを自分たちの内輪で肯定し合っているのかはわかった。

 彼らは情に厚い優しい人たちだからこそ、代々政治家をやり、身内には優先して要職を任せている、と自分たちでは思っているのだ。国民を無視して、内輪だけで褒めたたえあっているのだ。
 集団ナルシシズムだ。

 公職を、私物化しているのだ。

 そして、その御用学者の先生たちと共に群がる人たちは、自分たちも甘い汁を吸わせてもらえる。
 だから彼らを守り、彼らが正しくなるように「敵」を作っているのだ。

 表向きは大衆が好むようなことを言い、支持を集める。

 しかし、実際に当選してしまえば、本当にやりたかったことをやる。

 これを当たり前どころか、「洗脳された国民たちを救うため」だと本気で思っている。

 完全に洗脳されているのは自分たちの方だ。

 カルト教団国家だ。

 明治期に勝ち組側に残った家の人の話では、最初は武家の人間もそれなりにいたのだが、武士は元々誠実さを大事にしていたので、卑怯な真似を止めようとするものだから商人政治家たちにどんどん追いだされていったらしい。

 最初から、背後で口出ししている商人たちがいたのだ。
 権力の座にも元々庄屋の人間がついている。

 明治新政府は借金だらけの貧乏政府で、中央に税金を集中させると共に、すぐさま戦争もやらねばならなかった。彼らには戦争しなくてはならない理由があった。

 最初から、借金だらけで作られた政府だ。
 幕末には、どう考えても既に異国の手が内部に入っている。

 殆どの人にはわからないかもしれないが、「武士の常識」というものがあり、あのやり方、また流れはどう考えてもおかしい。

 どこの武士もそんなことは絶対にしない、あるまじき行いが実行された。

  そのあるまじき人たちが、今の自民党の前身を作った。

 最初から、金のため、権力を握るために一部の人間が作った「ファンタジー歴史」の上に成り立つ国だ。

 「天皇家なんてものはなかった」

 苫米地博士がそう書いていた。その勇気を称えたい。
 僕は「あの人たちは誰なんだろう」と思っていたが、やはりあれも作られたものなのだ。

 そんなものはない。帝はいたが、あそこは家ではない。

 家そのものが血筋で代々頂点に立つやり方は、西洋貴族のものだ。

 あのやり方は独裁政治を作ってしまう。そして政治を腐敗させる。

 江戸ならば、八代将軍吉宗公の頃から始まった、と僕は思っている。

 あろうことか、紀州の下に更に御三家を作った。権力を身内で独占しようとした。そして腐敗は進んだ。

 本当に、そのくらいの時期から江戸も内部で腐敗が進んで行った。

 葉隠にもある通り、賢人たる武士は内部から身を引き、苦言を呈した。

 今、権力を握る人たち、そしてそれを持ち上げる人たちは幻を見ている。

 自分たちに都合のいいことをやり続けるため、その理由にかつての戦争を利用している。

 大東亜戦争では、若者たちが国や家族を守るため、喜んで戦地に行った、とある先生は語る。

 「彼らは国を守れることに誇りを持って、笑顔で戦地に行った。」

 と語りながら、自分の話に自分で感涙する。

 そのような話をする人たちは、明治以降から、ただの庶民として生きてきた人たちではない。

 それを区別しない国民が多いから、今のようになる。

 自分たち側の視点で語っている話ではないのに、自分たちの話だと思って聞いてしまう。

 それが「他人と自分の区別がない人たち」だ。

 自分の答えを他人に聞くのが、どれだけ危険かわかっていただけただろうか。

 そして僕が、「差別をなくすため」に「現実を直視する目」を育てさせたい理由も少しは理解いただけると有難い。

 僕の家もかつて恨みを抱いて生きてきた。

 その恨みは晴れたし、恨みはしないが、元々「なんでもない家」の武士がどう生きていたかも知らない御用学者の言った言葉は決して忘れることはない。

 「まだこんな家の人間が生き残っていたか」

 この一言は、死ぬまで忘れないだろう。

 やはり、こいつらに僕たちは消されたのだなと、確信を持った。

 意図的に排除して、名乗ることも形を残すこともさせなかった。

 まだ生き残っていて悪かったな。

 そして、更に「嫌がらせ」として、意図的に排除されていった一族が持っていた力を、「なんでもない家の人たち」に分け与えていくのだ。

 目を醒ますためには、どう考えても今ある概念を破壊するのが先だろう。

 僕自身はそんな洗脳はされずに生きてきたから、一般の人たちが自分とは全く違う世界だと思って生きているとは知らなかった。

 最も大事なことは、「人の魂」を見ることだ。

 僕はれいわの太郎さんを応援する。

 現地で本当に困っている庶民の声を直に聞き、演説の時には思い出して言葉を詰まらせたあの姿は

 「間違いなく本物」

 だとわかる。

 みんなのことを本当に案じているのがよくわかる。

 思い出したら涙が溢れそうになって、言葉を詰まらせ、しばらく無言になった。

 人には知らないこともある。

 だから「言っていること」は間違っていたとしてもいい。

 間違っていると知った時に、すぐに修正してくれるかどうか。

 根本的に、何をするために政治をやるのか、その「本当の動機」が最も大切なのだ。

 やはり僕は、非力ながら、毒針を刺すように急所を狙いたい。

 普通の人は、大衆に向けて色々教えている偉い先生のところに行っても、僕のように意見して情報を引き出してくることはできないだろう。

 武家の作法。

 本当に筋の通ったやり方を知っているから、それに沿って行動する限り、紛い物はわかるようになっているのだ。

 そして、彼らが権力を握り年貢を納めさせながら、能登の人たちを置き去りにしている現実を見過ごすつもりはない。

 信頼など微塵もできないと、150年遡っても断言できる。

 ここまで裏表がある人々が政をして、この国が「良くなる」わけがないのだ。

うつ病者の危険、やたら押し付けられまくる

 加藤諦三先生のことを前回の記事に書いて、メランコリー型のうつ病者の危険についてひとつ注意しておきます

 本人が気づいていないのは

 「利用されている」

 という点です

 加藤諦三先生もそうでした

 周りにいる人たちは、ちやほやして賛辞しているけれど、結局利用している

 一般の方も裏表があるなと思いましたが、なぜこうも周りにいけ好かない感じの人たちがいるのか

 利用されていても「自分がやるしかないんだ」と思ってしまうのが、メランコリー型の人だと思います

 やたら色んなことを引き受けているようでしたが、どう考えても押し付けられている

 結局責任があることをやらされている

 バカにされても、煽てられていても、都合がいいと思っていても

 それでも、「責任を持って正しいこと」をしてしまう

 無責任になって「やーめた!」とはならない

 ちなみに、僕もこの親和型うつ病になったことがあります

 驚かれるのですが、不思議はないですよ

 生まれた時から精神的に病気の人はいないです

 後からなったり治ったりするのが病気でしょう

 どうも「うつ病であっても」という考え方は、治らないという前提で考えているような気がします

 最初は違ったのだから、治るのが普通でしょう

 治りますよ

 妄想でなるものですから

 元の考え方には必ず自分に都合のいい部分があるので、それを叩きなおしていくのです

 恐らく、人と争わない押し付けられ型の人は、そのやり方の方が楽だと思いますよ

 都合のいい「美化」をそのままにしているから、いつまでも利用されるのです

 ブッダの説いた通りにしていれば治りますよ

 ブッダは心のお医者さんと言った人がいましたが、うまく言ったものです

 ただ、押し付けられ傾向が強いことは自分でもわかっていますから、その辺は程度をわきまえていくしかないのです

 それについては過去の経験があってのものだと思いますが、無理をして何度も失敗して、段々学んでいきます

 そのためには、身近な人達との体験が大事です

 乗り越えるにはやはり慈悲です

 人の身を思う心があれば、自分の中に憎しみを携えないことを第一に考えるようになれます

 道理についてはブッダが正しいとしても、世界については本人の人格が観ている世界の話です

 教授は、全部自分のことを言われていると勘違いする人でしたが、それもよくいる人です

 その勘違いから生まれた世界の話をしているのです

 うつ病者の見る世界です

 ですから、自分が病んでいる時には賛同できるところが沢山あると思います

 それもまた必要です

 部分部分に必要な人がいますからね

 その人でなくてはできないこともあるんですよ

 人間は色んな人が沢山いなくてはならないんですよ

 この人、という正しい人ひとりいればいいわけではありません

 大体、そんなこと無理ですから

 父と母も、全く違う人がふたりいてバランスが取れるのです

 自分が色々な側面に移動するように変化しながら体験を積み、そして色んな側面から見られるようになるだけです

 たまたまその時期にある人が、たまたま丁度タイミングが合った人の助けになるだけで、変化しながらそれぞれ進んでいくものですが、停滞しているとそうはいきません

 人に押し付ける人は、無責任です

 加藤諦三先生のように人一倍責任を背負う人は、責任感は強く、破綻や破滅を恐れている人です

 大変なことになってしまう!

 そんな事態で、自分だけ取り残される

 すると「なんとかしなきゃ!」と頑張ってしまう

 こういう方、いると思います

 「え!誰もやってくれないの?!でもこのままじゃ…」

 どうにかしなくてはならないことだから、誰かがやらなくては

 そこで「私がやらねば」になってしまう

 つぶれかかった家の屋根を一人で支えるような真似をしてしまう

 そこに手伝うこともなく平気でいる人たちがいるのに

 手伝うこともしない人たちは、言い訳しながらやってくれない

 でも、家がつぶれたら困るじゃないか!と思うでしょう

 押し付けられる人はそう思うのです

 自分も困るけど、皆だって困ると

 僕が病んでいた頃はその状態で一人で支えていました

 ここで、違う答えを出すのです

 「つぶれてしまえ」

 みんなで支えられなくなったものは、既に必要ないのです

 一度破綻して、再生する時なのです

 一人で支えていると、それを認めてもらいたくなりますから

 我慢していると、どうしても自分の方が偉いすごいと誰かに認めて欲しくなります

 だからやめてしまうのです

 もう、いらないものなんですよ

 他に行かねばならない時なのです

 自分の生きる世界の視界から消えたら、そのうち気にもならなくなります

 どうせいつか死にます

 死ぬまで持っていけるものなんて何もありません

 頑張って支えてきた人にとっては、これからに期待したいものかもしれません

 しかし、なにひとつ頑張って支えずに得てきた人たちにとっては、どうでもいいものなのです

 残念に思うかもしれませんが、そうなんですよ

 「タダじゃないならいいや!」

 この程度なんですよ

 人間は自分が頑張って力を尽くしているからそれが大事になるのであって、そうでない人たちから見たらそんな感覚は湧いてこないのです

 それどころか、支えなくなった人間に文句を言う輩もいるでしょう

 そのくらい「人任せでいいや」という代物なのです

 その事実を受け入れ、諦め、無駄な努力はしないことです

 最初からきちんと目的を同じくして、心をひとつにして頑張れる仲間もいます

 そのためにも、他人と心をひとつにできる自分である方が先なのです

 もうひとつ気づいたことがあります

 「意見が違うと味方ではない」と自分の世界に引きこもる人は思うようですね

 意見が違わないならば、他人じゃないです

 相手の意見が自分と一致しないから敵になるわけではないです

 意見が違っても味方は味方です

 同じことをしなくても、味方は味方です

 自分を理解してくれた=意見が一致、同意してくれる

 これはあまりにも安易で愚かな結論です

 僕は相棒が犯罪を犯しても味方です

 いいことをしているから味方になるなんて人は、最初から味方でもなんでもないです

 お互いに「頭おかしい、お前はバカだ」と言っていても、無二の親友は変わらず親友です

 そして

 人間の味方になることをそんなにごちゃごちゃ考えて決める方が、僕には理解できません

 味方は助けてくれます、相手が相手の力を使って自分を助けてくれるから

 相手のものを奪いに行く必要がないのです

 それが仲間というものです

 相手が損したら自分が損したも同じこと

 一蓮托生、共同体です

 人間だからという理由だけで、助けたり味方したりするのは普通のことだと思います

 考えるまでもなく、そう判断するものではないでしょうか

神経症者の末路はこうなる ~心眼術~

 普段は有料会員向けの心眼術なのですけども、今回は皆さん読める形で書きます。

 これから読む内容を、決して人に話さないでください。言葉にして人に伝えるなという意味です。

 一人で考えること、また僕に質問してくることは問題ありません。決して他に出さないこと。わからないことはわからないまま、考え続けて保持してください。無理やり判断はしなくていいので、覚えておいてください。

 現在進行形なのであまり言葉にしない方がいいかなと思ったのですが、約束を守っていただくことを必須として読んでください。

 ちなみに、僕が言う「こうした方がいい」という「悪行」を犯さないためのアドバイスは、別に僕が怒るとか責めるとか、間違いを指摘するという話ではないんですよ。

 因果なので、それをやると、取り返しがつかない変化が起きるよ、というだけです。内面の変化のことなので、取り返しはつかないですよ。

 十悪を犯さないように生きるためです。

 一度紡ぎ出した因果は終わりがないし、それを転じていくためにはまた紡ぎ直しになります。大変な時間がかかるので、最初からやめておいた方がいいんです。いきなりパッと変えることはできないんですよ。

 口で何を言うか、自分が正しいとか頑張ったとか、そんなことなんにも関係ないのです。

 今回の話は、今までの経緯を知らない人は理解できないかもしれないですが、一応会員の皆さんに向けての説明として書きます。

 加藤諦三先生の新刊が出ました。

 今までの細かい説明も省き、非常に簡単に、ある意味わかりやすく表現されていて、ひとつひとつも短く書かれていました。

 より彼の感情が伝わってきました。

 わかりますかね。多分、勤勉な会員の皆さんでもわからないと思うので説明します。前回の新刊の際にお話したことを覚えている方は、思い出してください。

 これが断末魔の叫びです。

 いいのかな、これそのまま書いちゃって、という気持ちではありますが、別に特別なことではないです。

 精神世界の話なので、物質的な世界とは関係ないというか、見えないことです。殆どの方が世界をひとつにして言葉を聞くので、誤解されてしょうがないですが、精神世界で起きていることの話です。

 皆さんは彼に限らず、また僕についてもですが、他人の意見や著書を読んで、その人の「心」まで見ないと思います。

 今それを書きながらどんな気持ちか、という簡単な話ではなく、その人の中でどんな変化が起き、どのような状態になっているのか、姿を見るかのように「わかる」のが僕の言う「心眼術」です。

 今回、やはり間違いないな、と納得すると共に、良かったと思いました。

 どうしても、確認してからの方が安心しますからね。

 僕も結果を見るまでは、「道理で考えればそうなるはずだ」としか思っていません。そして結果を見て「やっぱりそうなんだな」と納得して安心しています。

 今回は教授のたまりにたまった鬱憤がよくわかりました。半世紀以上かけて人の愚癡を聞き続けた彼の怒りが強く感じられました。

 彼は頑張っている方です。凄まじく努力もしています。現実の物理的苦労は並大抵ではないです。そうなると、自分より遥かに努力していない人に対して怒りがこみ上げるのは人間として当たり前です。

 いつまでも同じことをグズグズ言い続けて人のせいにしては怒っている人の話を、延々と聞き続け、聞き続け、聞き続けて生きてきた彼です。そして本を書き、また書き、他にもあれもこれも役職を持ち、多忙で多忙で仕方ない人生を送ってきておられます。

 それも、親をはじめ間違っている人が許せなくて続けている努力や苦労なら、いい加減にしろと言いたくなる怒りがこみ上げるのは当然です。

 甘えるな!、という声が聞こえてくる気がしますが、やはり「できる人、できない人」に分けて考えておられるのだなと再確認しました。

 彼自身が、かつての自分の甘えに対して怒りを感じて「自分はもう違う!」と死ぬ気で転じてきたのだと思いますが、「もう自分は平気」という状態になると、優越した気でいますから、「できない人を自分が導いて教え諭してあげよう」という態度になります。

 簡単に言うと、自分は被害者だったけどもう大丈夫だから、強くなった自分が同じようにいじめられている人たちを助けるために、悪人と戦うぞという流れです。

 つまり、まだ終わっていないです。これが出ることのできない輪廻の輪です。

 母親が老いて尚、死に際になっても恩着せがましく「今までお前にしてやったことがこんなにあるんだぞ」とくどくどと言い聞かせてくる、なんて話があります。

 これと同じことが起きています。形はまるっきり違うのですが、精神の世界でどうなっていくのかという話では同じです。

 死の淵で、人がどうなると思いますか?

 完全な受け身になるのです。

 もう防衛するものが無くなります。

 その時の恐怖は、受け身でい続け防衛的に努力してきた人の場合はすさまじいものです。

 人を拒否して抑えつけてきたならば、死の淵の恐怖は大変なものです。

 みんなが襲い掛かってくるかのような恐れが、無自覚に生まれてきます。

 すると、先の話のように「どんなにしてやったか」または「こういう人間は良くない人間なのだ!」と善悪を自分で決めることで、自分に仕返ししてきそうな悪から身を守ろうとするのです。

 自分こそ悪人である、という自覚にたどり着かなかった人は、こうなります。

 ちなみに僕は、少し前に書きましたが教授には再三進言申し上げてきましたので、「あー間に合わないー」と焦っています。

 なんかこのやり方は間違っているんだなーと思いながら最近はスマナサーラ長老の話を聞きつつ、原因に気づきました。

 人は変えることも、間違いを指摘して改善させることもできません。

 命令はしてはいけないので、「こうしたら、こうなるよ」という道理を教えるしかないのです。

 図々しくも自分を棚に上げていたら「自分だって~したでしょう」と教える、または「そんなことしていると、こうなるよ」と想像させる。

 そこにあるものは、経緯あってそうなっているのだとわかるように、考えられるように促す。

 やはり、ブッダが最強ですね。どこまでいってもあの教えを超えるものはないですね。

 僕は前々から書いています。あんなことしてたら、死ぬのが怖くなるのにと。

 あんなことと言うては失礼かもしれませんが、形あることの方ではなく、精神世界でやっていることの方を指しています。

 「年寄りになると子供みたいになる、と言われることがあるが、そうではなくて、元々心理的には幼児だったのが年を取って直接的な言動になって現れているだけなのだ」

 これは加藤諦三先生から直接教わったことです。そしてその通りです。

 段々直接的になります。

 昨年は、自身の祖父が如何に偉大であったかを書かれていました。身を守りに入ってきた、とわかりました。

 そして、転じて攻撃に入りました。

 後は、何もかもから切り離されていくだけです。

 

 冷たいように聞こえますか?

 いいえ。

 それは皆さんが、自分の命だけ特別だと思っているからです。

 みんな同じです。誰かの命だけが特別だったり、偉い人、肩書のある人だけがなんでも許されるわけではありません。

 人間が許すかどうかなど関係ありません。

 無意識に存在している自分自身が許さないから、こうなっていくのです。

 今回、最後はメランコリー型のうつ病であったという、リンカーンを例に出していました。

 彼が如何に「他人から見て立派だったか」に注目していました。彼の偉業の方を見て、どれだけ大勢の人に恩恵を与えたかという話に焦点を当て、母親は早くに死んだが父親は感情的には死んでいた、このリンカーンの話を聞いても、それでも不幸な人と言うかと、締めくくっていました。

 遂に、人に幸せだと言わせにきてしまった、黙らせにきた、と思いました。自由を奪いに来たということは、それだけ恐れが強くなってきたという証。

 うつ病だったからこそ、人に希望を与えたのだと彼はリンカーンについて述べていました。

 しかし、人に希望を与えましょうと、僕は一番最初に彼に言われましたが、その時「なんで?」と思いました。

 結局、何も変わらなかったのだなと。

 「私は幸せだ」と言い張る。これも彼から教わったことです。

 「最終的には自分には完全に問題はない」と言い張る。こうなるともうどうにもならないと。

 うつ病であっても、人の幸福のために力を尽くす「私」という存在で生きてしまったのだなと。

 それでも、他人を幸せにするために貢献しているから、いいじゃないかという話になってきていますが、「自分自身の幸福」はどうしたのかという問題があります。

 「あなたさえ幸せなら、私はそれでいいの。」

 この母親の恩着せがましい、苦しみながらの優しさに、「もういい加減にして!そんなの要らないよ!」とキレた娘がいました。

 いつも言っている、時間のずれの話を思い出してください。

 幸せになりたいと願う決意が大事、と西洋では言うようですが、幸せは「気づくもの」です。

 今既に不幸ではない、と気づけて、不幸は消えるものです。

 幸せになろうとしているのは、今不幸だからです。

 幸せな人は、幸せになろうとしない。

 あれがないからこれがダメだから、だから今が不幸で、というスタートが間違っている。

 僕は五歳の頃に、親が自分を捨てたと気づき、祖母に「もういいことなんてないから死にたい」と言いました。

 すると祖母は言いました。

 「じゃあ死ね!」

 容赦ないですよ。甘やかしてなどもらえません。
 生きてきていいことがあると思っているその「贅沢」を叱られただけです。

 生きることは苦。それしかない。

 それしかないです。

 加藤諦三先生は、本当に「褒めてもらうため、認めてもらうため」に頑張ってきたのだなと再確認しました。最後はちょっと怖くなるくらいのものを感じました。

 しばらく前にふと気づきました。彼は「正しいことをしてきた」というところに価値があると思っているのだなと。

 仲間はそんなこと関係ないです。間違っていても、もし悪いことをしていても、仲間は仲間で、味方は味方です。

 彼はそれがわからなかったんだと思いました。

 「私を否定した!」と怒ってしまうのだなと。

 正しいことをしているから、自分に価値がある。社会的に貢献できたから、価値がある。

 そんなことを言ったら、世の中の殆どの人を「価値がない」と言っているようなものです。

 最終的には、うつ病であっても幸福なのだ、それでも頑張ったんだからいいじゃないかという結論になってしまい、矛盾しました。

 僕はその境界線を越えてきたので、自分が外に目を向けていなかっただけなのだと知っています。敵なんて最初からいないです。

 親もそうです。

 親の方が怖がっていただけなのです。今の教授のように。

 自分を批判してくる人たちがいると勘違いして、自分を心配してくる人も、違うことを言っている人も、全員敵に見えてしまった。

 親の呪縛は本当に恐ろしいものだと思います。社会もですが、親が進ませるレールにはその価値観しか存在しません。変わることは難しいのです。

 社会的に立派だったかどうかに、最終的に全人間の価値が置かれてしまい、「生きているだけで価値がある」とはならなかったのです。

 更に先に行くと、「価値も意味もない」という段階に進んでいきます。

 今回の本は非常にわかりやすかったです。

 うつ病者に自分が不幸だと「言わせない」だけの脅しが入っていました。

 一応、僕は言っておきます。

 自分は不幸だと思うならば、そうなのだからそうなのです。

 他人がどうであろうが、リンカーンがどうであろうが、自分は不幸だと嘆くならば、自分には考えねばならないことがあるのです。

 何かを見落としているのです。

 リンカーンの他にリンカーンはいません。

 加藤諦三に代わりがいないように。

 晩年になり、周りを黙らせるようなことを言い出す例は沢山あります。

 人の目を気にしていた人が、他人にどう言われるのか気にするのは「死んだあと」です。

 死んだ先のことまで心配するのが人目を気にする人です。

 「自分が死んだら」と想像したことがある人もいるでしょう。みんなはどうなるかと。

 それです。でも知ることはできないと、本当に死ぬときになればわかります。どうなるかわからない不安です。

 今回はすごい人の名を出してきたなと思いましたが、彼はどうしても自分で語らないですね。

 本人は自覚がないと思いますが、僕は見ていてこの人は話の才能があるんだなと思っていました。落語のように楽しい話をして聞かせたら、すごい才能を発揮しそうだと思いましたが、彼が人の価値を感じる分野や内容は、そんなものではなかったでしょう。

 すごい能力があるのに、社会的価値にばかり目を向けるのだなと不思議でした。

 常に他人の名を借りて身を守ると、段々怖くなってきます。

 神経症の人にはよく見られます。率直にいって、元々生まれ育ちのいい人たちは持っている知識と教養が違いますから、いくらでもなんでも例に出して話ができます。

 なんとなくその「すごい話」「難しい高度な内容」に気を取られる人が多いと思います。

 僕はそんなことどうでもいいのです。

 教授は大丈夫かなと。精神の世界の方です。

 怖くなるのに、と思っていました。社会的には押しも押されもせぬ功績があるのは分かっていますが、安心感があるかなしかで言えば、全然ないのは一緒にいてわかりましたから。

 感じることで言葉にしなくてもわかる力。それがある人はわかります。

 思い込みではないんですよ。お互いに、人間同士はテレパシーのように感じているもので感じ合うことができます。

 うちに来た生徒の中で、僕と目が合って自然とにっこり笑った人がいます。

 その瞬間に起きたそれです。

 会った一度目に起きた人もいました。がぶちゃん、君だ。

 僕は頭の中に妄想が全くないので、いつも皆さんを見ています。

 精神の存在を見ています。

 スマナサーラ長老がブッダの教えについて「信じるではなく、確信ができる」と説明していました。

 本当に覚醒し体得した人は、それが本当かどうか疑う余地など持ちません。

 「ほんとだ!」

 実感するからです。それが本当にわかるようになる時です。

 僕は加藤諦三先生は怖くないんです。正しいかどうかで誰とも争っていないし、できるかできないかで人の価値が変わるとは思っていません。

 彼自身が、何かに追いつめられているなと思いました。

 どうしたらその精神の苦しみから救えるだろうかと思っていましたが、この考えが間違いなのだなと僕も気づきました。

 さすがに、自分の母親にしたようにはうまくいかないですね。

 僕の母は最期には泣いて詫びてきましたが、あれで僕の気が済んだのではなく、母の気持ちが楽になったのです。

 それでいいのです。

 ただ、こっちの話はもう遅いですね。

 皆さんも、自分が間違っていると言われるのではないか、とビビっているかもしれません。

 ならば、正しいかどうかを気にして周りを見ないことです。

 それが気になっている人は、それ以前に「今まで自分で考えて決めてこなかった」でしょう。

 それが原因です。ですから、間違っていたとしても、間違っていたことではなく「自分の頭で考えて、納得した道を来なかったこと」を悔いてください。

 そして、これからはきちんと自分自身で考え、決意して、覚悟を決めてしっかり選んだ道を進んでください。小さなことから、大きなことまでです。

 加藤諦三先生は「愛された人」という夢みたいな人生を送っている人がいると勘違いしているなと思いました。

 そんな人はいないです。
 僕も「祖母に引き取られて」と一言言っただけで「やはり代理母か」とすぐに知った気になられていました。

 心の中では「いや、血のつながりもないし、そういう感じではないけど」と思いましたけど、そう思いたくなるのがこの人なのだと思って、そのままにしていました。

 教授は、ビビり過ぎだと思いました。

 深刻に考えすぎ。

 彼の功績を後から罵る人はいないです。

 そして今も思います。当時彼に直接言ったのと同じことを思います。

 そんなことより、奥さんや家族と一緒に、ゆっくりお茶を楽しむような時間を設けてくださいと。

 どうしても、社会で起きている問題に心を乱されることがあります。

 なんとかしなくては、と周りに合わせて動いてしまいます。

 しかし、そうならないのは「自分なんてそんなに大それた人間じゃない」と受け入れている人です。

 自分なんて価値がないと思っている人は、そもそも「自分は特別だ」と思っているからそんなことで落ち込むのです。

 自分に価値があるかなしかなど、考える必要もない。

 自己執着が強すぎると、身を滅ぼします。

 僕はできることでもやりたくないとやめてしまいます。

 どんなに才能があるとか言われても、やめてしまいます。

 自分という存在がそこまで特別ではないと思っているからです。

 いくらでも代わりはいます。

 しかし、僕の人生において僕の代わりはいないのです。

 僕の大事な人達にとって、僕の代わりはいないのです。

 だから僕は僕にしかできないことを最優先にします。

 それにしても。

 不思議!

 こんな風に浮き彫りになっていくのだなと、改めて思いました。

 生も死も同じこと。

 苦しんでも楽しんでも、ただ生きているだけです。

 僕はそんなに勇気がないのですが、スマナサーラ長老に倣いストレートな表現をするならば、彼は格好つけすぎてしまいました。

 彼の良さは、親しみやすさは、そこではないのに…と思います。

 意外な愛嬌のような部分を、皆さん親しみやすさとして見ていたのに。

 学びに行っていた皆さんに聞いたことがあるのです。

 「彼自身のダメな部分の方が知りたい」

 自分たちと同じように苦しんでいるならば、ダメなところがあるはずなのにという話なのです。

 何が正しいとか、どうしなくてはならないとか、それではなく。

 「私はこんな風にダメなんだけどな」と思う部分がある。

 そこで、それをどうしたらいいかとか、親のせいかどうかではなく、自分たちと同じであるはずの、加藤諦三先生はどうなのかなと、それが気になると皆さん言っていました。

 「あの人はもう何もないのかな」「私たちとは違うんじゃない」

 そんな風に思えるのです。

 あるというなら、その内容を聞きたい。

 その気持ちはわかります。

 ただ、僕が知る限り「今が完璧」でありたい人は、常に「今は平気」なので、それが出てくることはないでしょう。

 彼は間違うことを愛嬌だとは考えていないので、矛盾していてもそれを笑えないと思います。

 失敗がおいしいとは思えないでしょうし、指摘されたらバカにされたとか笑い者にされたとか、そんな風にしか思えないであろうと思いました。

 しかし、今回は反対意見を言わねばならないと思いました。

 このままでは、うつ病に苦しんでいても幸せ、みんなの幸せを願って社会的に功績を残せたから価値がある、という話になってしまいます。

 自分を全肯定しにきたなあと思いましたが、僕はまだ可能性は捨ててはいないです。人のことは本当にはわからないですから。

 もし、僕が彼の立場ならば、敢えて今回のように矛盾した話をすることにより、自分が叩かれ役になっても人を反対側に進ませたい、と考えるだろうと思います。

 何十年も間違った方向にもしひた走ってきたら、誰から見てもわかるように反発を生む形にしなくては収拾がつかないのではないかと。

 間違いとか、正しいことに、「良いかどうか」の「許可」があると思っている。

 この本質的な勘違いは、解けない人は解けないのだと思います。

 あるがまま。一切の解釈を加えない。

 恰好をつけない。

 僕も悪いことをしてしまいました、最初はわからなかったので、彼を信じて寧ろ追いつめてしまうようなことを言ってしまったと思います。形の上では全く問題ないことですが、形の上で肯定的なつもりが相手を苦しめてしまう、それが矛盾した人を相手にするとどうしても起きることですから。

 そんなわけで、今回は特によく考えている生徒たちに確認したいと思います。

 今回の僕の話はわかりましたか?

 人の心は「気持ち」のことではなく「存在そのもの」だと思ってください。

 精神の自分、精神の相手。姿形には見えないし、この世に存在していない「私」ですが、その「私」という存在を見ることなのです。

 精神の中では他人の様子を伺いながら、「こう動かせばいいのかな…」と人の話を聞きつつ、自分の身体を二人羽織のように動かしている人が殆どです。

 怖くないから、大丈夫ですよ。

 人間しかいません。表面を見ないことです。

 心の中の存在がそのまま喋るのではありません。

 自分で形に変えて出てきても大丈夫ですよ。

 ちゃんと自分で考えて存在しましょう。自分の人生です。自分自身だけは自分で考えて動かせますからね。

 大きなことは考えずともいいのです。長く内側にこもって生きていると、すごいことをしなくてはならない気がしてきます。

 目の前に人がいるならば、その人に話しかけてまず仲良くなってみましょう。

 そのくらいの気持ちでいいのです。

 今回は書くのを憚ろうかと思いましたが、ここは勇気を出して投稿しておきましょう。

 皆さんが恐れているものは何も起きないので、大丈夫です。

 

 加藤諦三先生にもお伝えしたいところです。

 自分自身が、うつ病である自分に価値は無い、と思っているから、これでもかというほど「それでもいいのだ」と言わせたくなるのでしょう。

 うつ病も神経症も変化する流れの中の一部であり、今を切り取って良し悪しを決定づけるものではありません。

 本当に「それでも幸福だ」と思っている人は、既にそんなことを考えずに生きています。

 どうしてもそう思えないからこそ、人に言い続けなくてはならないのだ。

 とわかるようになったのも、教授のお陰なので僕は感謝し続けています。

 そして、教授はリンカーンではありません。

 加藤諦三は、加藤諦三であるから価値がある。

 もし、加藤諦三が自分では素直になれず偽の自分で生きてしまっても、実在した加藤諦三はその人ひとりしかいないから、やはり価値は同じです。

 それら全て含めて「加藤諦三」なのですから。