道理を通して生きないとわからないこと ~無料記事~

 人間性心理は学ぶことが難しいジャンルです。
 学んでいる時点で本人がどうであるかで、理解を無意識に捻じ曲げるからです。

 人格に関わることですから、自分の人格に問題があれば当然気に入らない部分は認めたくありません。
 なんとかして部分的に都合良く組み合わせて、結果自分が安心できる理解にしてしまうでしょう。

 「不安」と向き合えないのが神経症の人ですから、本人が嫌なら避けて通るでしょう。
 「理想の自我イメージ」を守るために生きるのが神経症の人なのですから。

 ただ、「ずっと同じものを叩き続ける」は成長しているならあり得ないので、何かおかしいなと思いました。

 僕はそもそも誰も憎んでいないので、彼のように正義になって誰かを叩き続けることはできません。
 人を悪者にして得たものなど、僕にとっては価値のないものですから欲しくもありません。

 あのまま乗っかって、母を敵視したまま母を死なせなくてよかったと思っています。

 「終わりよければ全て良し」に持っていきたいので、本当に良かったです。

 今、これを読んでいても、誰かと誰かの争いとして理解したい人がいると思います。

 それが「人格による解釈」です。悪者を生み出そうとしないことです。事実は事実。悪者は必要ありません。
 憎しみが生まれてくるなら必要なものは慈悲の心です。

 僕は、加藤諦三先生こそ不幸だと思うのです。
 馬車馬のように忙しく働いているのは間違いないですが、自信もないのに責任のある立場にばかりなって、人のせいにして叩くからもっと不安になってくる。人間が敵に見えて見えて仕方ないでしょう。

 父の教えにすがりついて生きていたのに、それが間違いだったとわかった時は新しいすがりどころが必要だったでしょう。

 しかし、彼の本は恨みや憎しみが多く詰まっています。恨み、憎しみ、嫉妬、そして自己憐憫です。
 その気持ちを半世紀を超えて維持し続けながら、本を書いているのです。

 明るく優しい気持ちで書ける内容ではありません。
 心の中はその内容に相応しい気持ちでいっぱいになっているのです。

 ですから、気の毒だなと思うのです。
 本人も苦労しています。ただ、見ている限り周りの方が振り回されて苦労していました。
 因果応報。他人が何かできることはありません。

 自分自身の身に何が起きるかは自分次第ですから、人のことは気にせず自分の行いについて考えるべきでょう。

 誰も彼のことを考えないのだな、と見ていて思いました。
 「あの内容を書き続けているならば、本人の心の中はどんなに陰鬱な世界になっているか」
 と誰も想像しないのだなと。

 心の中にどんな世界があるのかで、幸せは決まります。

 何が正しいか間違っているか、と敵対心を燃やし、過ぎたことをいつまでも引きずって人を恨み、そして自分自身が人を恨んでいるがために「同じような被害者を助けなくては」と自分から逃げ、結果、目を向けるのは「不幸な人」ばかりです。

 死ぬまで不幸な人を探して恨み憎しみを持ち続ける。
 それは大変な人生だと思います。

 僕も何度も怒鳴りつけられましたが、怒鳴った後はケロッとしているのです。
 自分がスッキリしたら相手のことは気にもしていないのです。

 僕はたまたま平気な方でしたが、普通の人はあれだけ偉い先生に突如怒鳴られたら、萎縮してしまうでしょう。

 返事をしたくない時は、怒鳴ったり相手を責めたりすることでやり過ごしているのです。
 自分が絶対に文句を言われたくないから、他人を黙らせるために批判し続けている、と言っていいでしょう。

 僕がこうして書いているでしょう。
 すると、自分に言われているわけでもないのに「気に入らないから文句を言うため」に投稿でただ僕をなじる内容を送ってくる人がいます。

 知らない方には「そんな人がいるんですか?!」と驚かれますが、いますいます。
 人格にも人生にも問題ある人が、普段まともな行動を取っているわけがないのですから。

 「自分の今を作るに関係のない人」であっても、自分の過去や今までに責任がある人のように扱うのです。
 だからこそ、その行動ひとつで今後も成長はない、と判断できるのです。今自分が何をしたのかもわからないのですから、会話して解決できる能力がありません。

 問題がある行動を繰り返し続けられるからこそ、人生がおかしくなっているのです。

 人を責めてスッキリしたら、後はケロッとしているのです。
 昨日は妻や子供を殴っても、翌日平気な顔をしている夫と同じ。
 昨日は子供が泣いても喚いても責め続けた母が、翌日はまるで別人のように子供が喜びそうなことをするのと同じ。
 本人の親もまずそっくりなことを子供時代からしています。だから同じことをしていてもなんの不思議もないのです。

 一貫性がないのです。気分で生きているからです。

 やられた側のこと、は最初から他人の存在を認知して配慮しながら接している人しか気にしません。
 自分のことしか考えない人の場合は「怒ったらご機嫌を取る、平気そうなら何もしない」なのです。

 自分のしたことは自分にとって正しい行いなのかどうか、それを考えて自分で判断し、自分がどうするか決められないからです。

 気に入らないものは、威嚇して遠ざける。
 気に入る態度にさせてから、つまり萎縮させてから安心して中に入っていく。

 そういうやり方です。

 「自分自身の行いは、自分自身の道徳性に従い、自分で考えて決めるもの」

 これができないのです。そしてそれを「誰かが指示してやらせてくれる」と思っているのです。

 これ以上は長くなるのでここに書きませんが、このような問題の原因として既に脳の使い方が問題視されています。
 現代社会が生んだ問題と言えるのですが、それを説明したところで「既に聞けない人もいる」ので自分の力で脱する人もいれば、社会が変わるまでどうにもならない人もいるでしょう。

 社会が変わってくれるのを待つよりも、自力で自分だけ考えて変わってしまったほうが確実で早いでしょう。

 しかし、問題の内容からして「芸術系に力を注いで来た人」は助かりやすいと思います。

 それはまた次回。