道理を通して生きないとわからないこと ~無料記事~
自分が元々道理を通して、今を幸せに生きていないとわからないことがあります。
「不幸への入口に出会った時」
入口で気づくことが大事なんですよ。
元々道理が通った道を生きていれば、矛盾している時は体感でわかるんですよ。
説明はできないんです。でもわかるんです。それまで道理が通っていて自分が清々しい気持ちで生きていたのに、それまではなかったものが生まれてくるからです。
元々気分良く生きていたのに段々気分が悪くなる———
だとしたら、避けていくのは当然ですよね。
説明できなければ、言葉で答えを出せなければ、我慢する。それが不幸な道をそのまま行く人の思考です。
正しいか、間違っているか。そんなことばかり考えるからです。
「自分がしていることは正しい!」
社会的に保証される正しさで、自分の幸せを作ろうとします。しかしそれは不安な人が得たい安心感でしかありません。正しいことを言っていても、今やっていることが間違っているならば、道理が通らない時は必ず嫌な気分になります。
自分が不幸な人は、他人を幸せになど導きません。
自分のために他人を使おうとするので、それだけで他人を不幸にします。
他人を自分のために使おうとするならば、それなりに理由が必要ですよね。
そこでよく使われるのが「社会的に正しいとされるもの」です。支配するために利用しているだけです。
不幸な人はみな似たりよったりです。
正しいか、間違っているか、誰が可哀想か、誰が悪者か。そんなことばかり気にしています。
「自分が可哀想な人だと思われたら、他人に何かしてもらえる」
こんな発想で生きている人もいます。
可哀想な人=優遇してもらえる
という発想です。乞食の発想です。
必然的に惨めな人として生きていかねばなりません。
本当に気の毒だなと思う目に遭っていなくても、本人が惨めさを誇示して得したいならば惨めなキャラを続けなくてはなりません。
正しい人、になりたい人も同じです。
とにかく「こういう人」になったら得できる、欲しいものがもらえる、と思うのです。


