いじめている相手にもいい人だと思われたい、人を病気にする人 ~無料記事~

 なんでもわかるしなんでも知っている。

 それでは「自分がどうするか」を考える必要が無くなります。

 相手のことがなんでもわかる、見えないものまで断言できるなら「自分がどうすべきか」など考える必要がありません。

 なんでもわかる人には、やることなどありません。

 自分がすべきことを決断する必要がありません。

 知らないことがないのだから、好奇心など生まれてきません。

 新しい発見もありません。

 なんでも知っていますから。

 誰かが何かをした途端に、「あの人はこうだ」と簡単に「わかる」のであれば、人間なんて表面だけでパッとわかるのだから、いちいち知っていく必要も自分が考える必要もないでしょう。

 「きっとこうに違いない」と妄想してその通りかのように生きて許されるのは子供の頃までです。

 他人も本当に生きている人間なのだから、相手を尊重するならばわかりもしないことを勝手にわかったかのように決めつけるのはいじめです。

 私は神、そしてお前は人間。という扱いですから、人を見下すにしても桁違いの見下し方です。

 同じ生き物として扱ってもいないのです。冷酷無比にもほどがあるほど、酷い扱いです。

 そして神である本人自身にとっても、なんでもわかるのだから本当につまらない人生です。

 なんでも知った気になっているから、人のことも裁いていじめて、罪悪感すら感じないのです。

 神は人間として生きない代わりに、特別な人として生きた分特別な扱いが待っていると勘違いしています。

 「本物のいじめっ子」は、既に、自分が相手に嫌がられることをしてしまったとしても、相手の態度や結果を見てから「まずい」と思ったら、今からご機嫌をとりにいくのです。

 嫌な目にあったのに、素直に嫌がることも許さないのです。

 人の自由や健全な心を許さない。他人を病気にして回る人です。

 何をしても嫌われない人なんているわけないです。

 「勝手に自分の好き嫌いを善悪に変えて決めつけてくるやつ」がいるのだから、誰でもどこにいても嫌われることはあります。

 自分の好みで人の善悪を推し量るのですから。ご機嫌を取らないとどんな酷い仕打ちを受けるかわかったものではありません。

 神は絶対なので、自分の感情が全てなのです。

 自分が望むことが起きている、ということにならないと、いつまでも許しません。

 自分を嫌う人間がいたらその相手は「社会的に悪」ということにされてしまいます。

 恋人同士が別れても、相手が気に入らないと相手が悪者にされます。

 私が望まないことをした相手は、世界の敵、社会の悪、人間として価値がない、と見做し、無関係な人にも言って回る。

 相手は何もしていない人に対しても悪者として扱われなくてはならないのです。

 一緒にいる時にはいいことだってあったはずなのに、何もかも完璧でなければ許せないのです。

 恐ろしく冷酷で、人の努力や気持ちをなんとも思わない人の道を踏み外した神もどきです。

 こんな恐ろしい人間、僕なら絶対にお断りです。

 どんなにいいことをしてくれたとしても、人間であることを許さない傲慢な神もどきになど関わりたくないです。

 そのくせ、ただの人間だから神ほど役に立つわけでもなく、努力したとしても完璧ではないのです。

 人間の方が余程自由です。

 人間はお互いにわからないことばかりだからこそ、勝手に決めつけることもなく、相手に配慮もし、自分が間違っている可能性があると知った上で慎重に言動を選ぶことができるのです。

 そして望まない結果に終わることがあっても、自分が常に最善を尽くし後ろ暗いこともなく、相手を尊重して生きているならば、嫌われても仕方ないと心から諦められるのです。

 悲しいことがあっても、良い思い出と共に恨みなど残さず未来に行けるのです。

 起きたこと、やったことは取り消せません。

 自分がいい人になった時、この世のいい人の基準はどうなるのか?

 利己的な人はそんなことすら考えず、ただ自分が望む結果だけを作らせたがるのです。

 現実に可能かどうかも考えずです。