いじめている相手にもいい人だと思われたい、人を病気にする人 ~無料記事~

 自分が人を好きになるためには、望んだことをしてもらわなくてはならない。

 だから相手の嫌がることもしないと、相手が我慢して望みを叶え続けないと、「仲良くなれない」のです。

 本当に我儘な人はそうです。

 相手が我慢して望んだことをやり続けてくれるのが、幸せなのです。

 まともな人は「相手が我慢しなくてはならない、普通なら嫌だとわかることは望んでいない」のです。

 いじめをする人は「普通なら許してくれないから、できるだけ寛容な人を探してその人にやってもらおう」とするのです。

 自分が自分の目的を変える気がないのです。

 しかし、心は自由ですから、どんなに表面を取り繕っても離れていく心までは引き止められないのです。

 自分がしたことに応じた結果が出てきた。ならばそれでいいのです。

 もう一回、なんてことはできないから、現実は素晴らしいのです。

 二度と戻らないから、今に価値があるのです。

 「これから望むことをしてもらうために」なんて考えて過ごした今は、なんの価値もありません。

 何が起きても良い思い出にしていくためには、自分自身が今を悔いのない自分として生きているしかないのです。

 「普通なら許されないことをしても、許してくれる人」

 そんなものを求めている時点で、自分自身がどんな人間かを気にした方がいいのです。

 探しているのはなんでも許してくれる人だとしても、それを確認するために「普通なら嫌がること」をやり続け、それをやることで望みを叶えさせ続け、相手が我慢できなくなって離れていけば嘆くのです。

 無理やりやらせていることならば、「起きていない」とわかるのが現実が分かる人です。

 言われてからやった、では遅いです。

 自分が何も言わなくても、相手を誘導しなくても、相手が自発的に考えてやった事以外は「起きた」とは言わないです。

 無理やりやらせても、何も言わなくても向こうからしてくれても、どっちも「同じ」なら誰でも人を支配して幸せになれますよ。

 他人を思い通りに動かそうとする人は、そもそもうまくいってもそれは全部「起きていない」のだから、ある時突然無くなるだけで、相手がつきあってくれているうちだけのごっこ遊びだとわからないのです。

 本当に嬉しいことが起きた時は、まず自分が驚きます。

 他人がすることには自分は驚くのが当たり前です。

 「やった!思い通りになった!」と喜ぶのが、現実の喜びを捨てた人です。

 頭の中に「自分しか思っていない世界」が広がっている。

 つまり、誰とも同じ世界を生きていないのです。

 他人と共存するためには、「頭の中に神として作った妄想を生み出さない」は必須です。

 感情に合わせて生まれた自分の妄想なんて現実なわけがないのに、そんなものを起きていることと同一視されたのでは、一緒にいる人はたまったものではありませんね。

 それで仲良くしたいとか、平和に生きていきたいとか、どの面下げて言えるのかと不思議に思うばかりです。

 自分こそが悪である、と自覚し、悔い改めて妄想を捨て、神をやめて人になる日など死ぬまで来ない人もいるのでしょう。

 感情任せに生まれた想像が「本物である」かのように振る舞っていれば、自分がどれだけ弱いかに合わせて世界は酷いものになっていくでしょう。

 起きたことは見ればわかる。

 だからそれ以外のことなど、人間がいちいち考える必要はないのです。

 こうかもしれない、ああかもしれない。

 人間は恐れから様々な想像を生み出しますが、それはただ感情が生まれているだけの話です。

 わからないうちにわかったことにする。つまり自分は神だと信じて生きている。

 恐らく、生まれた時から自分が神と同じことができると思いこんで生きていることすら気づいていないと思います。

 神の真似事をする人には罰があたるのです。

 そんな楽な人生なら、恐れも不安も乗り越えずただ怒ったり嘆いたり我慢したりしていればいいのですから、確かに安心でしょう。

 しかし神のようになんでもわかるわけではないから、人間は不安を乗り越え恐れを乗り越え生きていかねばならないのです。