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過去をやたら話すな

 人間関係を円滑にするために、守るべきことがある。

 今、そしてこれからに必要ない自分の過去をやたら話さないことだ。

 やたら過去を話す人は、自分に気を使ってほしい。

 黙っていたらしてもらえないことを、要求している。

 笑い話にしてみんなを楽しませたいわけではない。
 自分の過去に配慮して「私の過去に適応する努力をしろ」ということだ。

 しかし、人は気を使わなくてはならないことは避けたい。
 配慮などしなくてはならない人は面倒くさい。

 今その人がどうかだけならば楽なのに、今に関係ない過去の何かに配慮して扱わなくてはならない。
 それだけで、人は避けたがる。

 自由を奪われる。

 知らなければなんともないことも、知ってしまったら遠慮する。

 だからやたら過去は話さないほうがいい。

 過去の未練を断ち切るには、過去を利用しないことだ。

 過去に思い残しや恨みがある人は、過去を利用して未来の人間関係を作ろうとする。

 過去のためにこれからの人生を使ってしまう。

 「過去にあれこれしたかった、してほしかった」

 これを今からの時間で叶えようとしてはいけない。

 今は今で、人間には必ず何かの欲求が生まれているから。

 今の欲求を今満たせば満足するが、過去に叶えたかった欲求を今満たしても、満足はしないから。

 まず、今の結果を受け入れることだ。

 できなかった。

 思った通りにならなかった。

 「どうしたら思い通りになるか」を考えるのではなく、まず「できなかった」という事実を受け入れる。

 そして、これからどうしたいのか考える。

 例えば、結婚を失敗した人が何度でも同じことを繰り返す。
 今度こそ、と繰り返すことはチャレンジ精神旺盛だと言えない。

 なぜならば、その結婚自体後ろ向きな恋愛から生まれたものだからだ。

 今の自分で生きようとしない人は、過去を利用する。

 そして人に気に入られるために「将来の期待値」を上げようとする。

 現実に今何かできるわけでも、結果を出せるわけでもなんでもない。

 説明によって未来の期待値を上げようとする。

 実際の自分より高値で人に売りつけようとする。

 たった今の自分こそ、最も大切な価値だ。

 たった今の自分の価値で生きることこそ、大切なことだ。

 今の自分が、今の自分自身だけで今を生きる。

 それが全員にとって当たり前のことなのだ。

 自分と同じことをする人がいたら、ぜひ選びたい。

 そんな自分であることだ。

 過去は一度利用して味を占めると手放せなくなる。

 過去を手放せなくなったら、今を生きられなくなる。

 「今、ここにある自分」をそのまま受け入れる。

 そこに是非など必要ないのだ。

 そうなのだから。

 理由はどうあれ、そうなのだから。

 そして他人には理由など関係なく、今どうなのかだけしか必要ないのだから。

 過去を語らなくなれば、人は自分に対して勝手な想像で接してくる。

 その勝手な想像の中身に、相手の人格が出る。

 だが、過去を利用せず、自分の価値を底上げせず、ただそこに今ある自分として接してもらえた時、人は「受け入れられた」と感じるのだ。

 どんなに相手が受け入れてくれる人であっても、自分が今の自分で勝負できない限り、受け入れられたとは感じない。

 自分として生きている人をいくら受け入れることができても、自分を今のまま出せなければ、今の自分の意思を伝えられなければ、受け入れられたと感じることはない。

 理解しあうということは思うより遥かに難しく、一方的に受け入れるだけではだめなのだ。

 互いが自分の自然な姿を出していて、初めて成り立つものだ。

 今の自分じゃなくて、これからの自分を見て接してほしい。

 今の自分は過去のせいだから、今の自分だと思わないでほしい。

 そのようにして、今の自分を存在させないならば、誰も受け入れることはできない。

 自分が受け入れない限り、誰にも受け入れてはもらえないのだ。

 そこにまず自分が存在することが必要なのだ。

 過去を語り過ぎれば、相手のすることがいちいち許せなくなる。

 知らなければ許せたものも、許せなくなる。

 だからやたら過去は語らないほうがいい。

 過去は今の自分に必ず関係している。

 過去があって今があるのだから、いちいち語らなくとも今の自分でいればいいのだ。

 それが現実の結果なのだから。

 絶対に何があっても受け入れる他人がいない人が、他人に絶対の安心など求めるものではない。

 出会った時からが勝負だ。

 過去は決して変えられないし、消せない。

 だからこそ、黒歴史の過去など残さないことだ。

 自分の人生でやり直しは聞いても、相手との人間関係に「やりなおし」はないから。

 一度経験したら、二度と忘れないから。

 今の関係があることも、過去があるからだ。

 過去にあったものを無いものにするために努力することは不毛だ。

 無いものにしたい過去ならば、自分が作らなければいい。

 言い訳したいような過去ならば、やらなければいい。

 しかし、その時はそれしかできなかったのだ。

 それが、自分の実力なのだと受け入れることだ。

 過去の失敗は、失敗であっても自分にとっては最大限の自分だ。

 後悔はいくらでもできるが、実際にやったことはひとつなのだ。

 言ったこともやったことも、ひとつなのだ。今はひとつしか残せないから。

 そのたったひとつの今を、どう生きたか。

 それこそが、自分の価値だ。

 それが自分なのだ。

 あらゆる理由があったうえで、どうしたかなのだ。

 過去をこれから作るなんてことはあり得ない。

 たったひとつの今にそれを選んだことそのものが、自分にとっては意味あることなのだ。

 自分がそのたったひとつを選んだのだから、結果がどうあっても過去の自分を責めないことだ。

 そして他人を責めないことだ。

 誰が悪いかなんてどうでもいいし、決められない。

 ただ、「そうだったのだ」という事実があるのだ。

 過去を繰り返そうとせず、完璧に叶うまで何度でも同じ夢を追わず生きることだ。

 失敗した過去も、今を生きればやがては輝く軌跡となる。

 振り返った時に、過去が輝く軌跡に見えるような今を生きることだ。

 今を生きるしかないのだから。

「矛盾してない?」「してるよ」

千田先生の著書にあった文句だ。

「矛盾してない?」

「してるよ」

自己実現している人は正反対の視点を持っている。故に、視点がひとつしかない神経症者には矛盾していると思えるのだ。

神経症者は自己実現している人と会話していると、混乱する。

ひとつの世界しかないからだ。全部同じ視点の話に聞こえている。

「あなたは矛盾している!」

「常識的に考えておかしい!」

必死になって僕の視点をひとつにしようと、何時間でも僕がどんなにおかしいか怒りを撒き散らして説得にあたる人がいた。

おかしい!おかしい!

そう言い続けながら、二年。

普通の人でも、他人が何を言っていても間違っていると思っても、それを正には行かない。

自分が正しいと認めさせるため、自分と違う人を排除に回っている人だ。

が、それは突如起きた。

僕も瞬間を目の前で見たのは、まだ二度目だ。

神経症が治ったのだ。

気付いた。

何を言っているのか。

世界をふたつに分けた。

教えられた正しい世界に囚われていた彼女は、私の実際の世界を取り戻した。

気付くと、驚きに涙を溢れさせた。

二年間、散々「きちんと説明してちょうだい。あなたの言っていることはおかしい!」と繰り返してきた。

これだけでも、権利無視の行為である。

わからないから教えろ!私は納得出来ない!

別にこっちは納得してくれと頼みに言っていない。向こうからやってきた。

母親でもない、保護者でもない、指導者でもない。権利はない。他人には他人の自由がある。

彼女はパニックだった。

心理的に混乱するので、僕に安心させてもらいたいのだ。

自分のこれまでと一致しないと、安心できない。一時はブログを見張っていたと言う。

私生活を費やして、二年。

僕は脱力したが、彼女は一気に開けた視界に涙して、言葉も無かった。

脳内で記憶のドミノ倒しが始まった。

一気に記憶が塗り変わる。

「初めから…」と過去の記憶を振り返りながら彼女は言った。

「私はずっと勘違いしてた。」

泣きながら僕に詫び、ありがとうと言った。

世界は拓けた。

自分の世界を取り戻した。

普通は時間も手間もかかりすぎるから、完治を目指さない。

だが、僕は常に完治を目的にしている。

自分の知る世界と一致しないと、自分のこれまでの生き方を肯定するべく違うものを排除しに行く生き方。

本人の世界は既に無く、最初に親に取り込まれているので親の正しいとする世界の生き方を守っている。

守ると安心。

彼女は世間では!常識では!みんなは!と連呼していた。

「あなた、今、すごく重大なこと言った。私は常識的である事が第一なんかじゃない。私にとって一番大事なのは…私がどうしたいかだった…。」

正しい人生をしっかりと歩んだ。

正しいと言われることをするために、ひとつの視点しか無く、他人と理解し合えず、誰とも心を通わせず。

時間の流れは彼女には無く。変化しないし、今は、もない。

人はその時の状況や、経験により考え方も言うことも変わっていく。

だが、決められたものを守り続けるため、成長の変化を拒んだ。

何も変わらないまま、人生は半分以上進んだ。

時が止まった家族と共に。

彼女は、気付くと10分後には、別人だった。

そのくらい、大変な変化なのだ。

視点が増えた、人の話が理解出来るのだから。何を見ているのかを。

もう、安心だ。

長かった。

僕は自分の人格を奪われないよう、彼女がどこかであったのと同じ目に合わされ続けた。

社会で「間違っている」 と思う人をひとりひとり追いかけて自分が支配できるまで戦っていたら、キリがない。

キリがないが、自分の変化を捨てた人に出来ることは、世界を自分のために変化させる事なのだ。

彼女はもうしない。

今は僕も過去を思い出し、言葉もない。

ただ、良かったと思う。

ラッキー、華、他のみんなも、ありがとう。

君たちが見えない力を貸してくれていたよ。

ありがとう。

あの人がおかしいことにならないと、私が間違っていることになる!

私と違うことを正しいと言うから!それは間違っていることにならないと、私は正しくならない!

この視点から脱した彼女はもう戻らない。

ようこそ、こちら側の世界へ。

これからが、楽しみだ。

彼女はこれからどんどん人生が楽しくなるだろう。

最近は、みんなが上手く行き出す話を次々聞く。

春到来。

いい年になりそうだ。

今、連日出先のホテルだが、早く書きたくてしょうがない。

治る。やはり治るのだ。

今のあなたがなんのために生きているのかを知る

 最上先生占いー(嘘

 今のあなたが何を目的として生きているのか!

 誰でも今生きている目的があるので、今の自分がなんのために生きている人なのかを自分で分析してみましょう!

 思っていることではなく、実際にどんな行動をしたかで分析することができます。

 無意識90%超のあなたは、いったい今なんのためにいきているのでしょうか?

 今日を含め、ここしばらくの過去について考えてみましょう。

 自分を分析するのですから

 「誰誰がこうだったから」

 の部分はカット!

 他人の発言や他人の行動は自分の目的ではなく他人の目的です。

 それは自分とは関係ありませんので、カットで!

 案外気づかないのが、自分がいじめをするために生きている場合です。

 正義のために、良いことのために、生きていると勘違いしている場合がよくあります。

 例えば

 「この人が良くないことをしていたので、いけないことだと自ら言いに言った」

 これ、良いことだと思いがちですが、違いますよ。

 「相手に指導すべき立場」かどうかが問題です。

 個別化に失敗している人は、立場お構いなしで考えます。状況も何もかもお構いなしです。

 だからこそ、人生おかしくなるのですから。

 「これこれしたから、こういうもの」

 目先の何かを見て、これまでに体験した、聞いた何かにあてはめます。

 つまり、過去の体験にすべての知識と経験が詰まっていて、この世に知らないものはない人間だと思い込んでいるのです。

 親がこの世のすべてを教えてくれた。
 親の教えることは宇宙の真理くらい大きなものだと加藤諦三先生は著書に書いておられました。

 親子関係の経験、そして親から教わった知識、それをすべての理として、世の中に出た人です。

 親子の関係が間違っていたり、親の知識や経験が歪んで認識されていたら大変なことになりますね!

 「断言したから、正しいのだ。」

 これも間違った解釈です。自信のない人ほど強く人に断言してきます。

 自分のことはあやふやです。

 現実の自分の目的を知るためには、現実の自分の行動を振り返ることが一番早いです。

 「誰誰が」部分はとにかく「カットで」考えるのです。

 他人に連動したつもりでも、同じ場面で人は違う反応をしますからそれは自分だけの反応なのです。

 「あの人がよくないことをしたから」と人は自分の行動を正当化するためによく言いますが、それは違います。

 「だから私は~した」とあとの行動を正当化するためです。

 要は、「気に入らないやつがいたから、嫌がらせしていい気味だと喜びたかった」です。

 そうなんです。

 気に入らない人に嫌がらせして、相手が傷ついたり困ったり、苦しんだりすると気分がいいんですよね。

 いじめっ子なのにそれが気分よくないならば、いじめっ子失格です。

 いじめをするために生きているのです!

 いじめるために生を受けたのです!

 心から喜ばなくてどうする!

 そのくらい堂々とやっても構いません。
 どうせやるのですから。

 きっと、子供のころからの夢が今の自分なんですよ。

 大人になったら、あちこちで気に入らない人を見つけてはたたきたい。

 人の嫌がる顔を見るのが生きがい。

 みんなが自分を見て嫌な顔をしてくれると自分はうれしい!

 そう、自分ではわかっていないのですが、単に自分が嫌がられているだけなんですよ。

 こんなことを書いていたら、これが気に入らないと思う真のいじめっ子は僕にいやがらせに来るでしょう。

 生きがいですから。そのために生きているのですから。

 その自分の存在そのものが、他人にとって嫌がらせになっているのです。

 「気に入らないやつがいた」ではなく、本人そのものが、人にとって嫌な存在となっています。

 実際には、自覚なくやっています。

 ナルシストは本人は自分が正義だと思い込んでいますから。

 ただ、正義とは何かを考えればいじめなのは一目瞭然なのです。

 本当に正しい人は、常日頃どうしたらいいのか体現してみんなに見せています。

 本人の存在がお手本なのです。

 どうすればよいのかは、本人の行動を見ればわかるのです。

 正しいと豪語しているだけの人を見習うと、

 「よし!自分もダメなやつを見つけてたたいてやろう!」

 と思います。

 そもそも、「自分が面白いか面白くないか」しか考えていません。

 そして本人が面白いと思う状況は

 「なんでも許してなんでもほめてくれること」

 です。

 ちなみに、僕ならば嫌です。

 現実に大した結果も出ていないのに、自分が頑張ったなんて理由でやたら褒められたら馬鹿にされているとしか思えません。

 現に、それなりの結果を出せる、それなりの能力を備えていないのに、社会で他人にやたら褒められたら馬鹿にされています。

 どうして他人が社会の人と比べずに甘い判定をしてくるのか。

 人は相手に期待するほど高いハードルを設けます。

 どう考えても、「こいつはこの程度」と思われている人です。

 退行に向かう人と、成長に向かう人では根本的に喜ぶことが違います。

 ですから、僕の話も耳が痛い話ばかりなわけですが、それが痛くても必要だと思う人と、痛いので消したい人に分かれるのです。

 今も研究は盛んですから、まずフロイドがいた過去を消してしまわないことには、どこからともなく同じことを言う人が現れるでしょう。

 そこから始まっていますから、精神分析の研究は。

 今目の前に出てきたものは、相手の側の過去に原因があるのですから、相手の側の過去ごと消してしまわなくてはなりません。

 相手が死にますね。

 だから死んでいるんですよ。

 過去を消して生きている人がいますから。

 自分が本当はどうだったのかを、消して曲げて人に合わせて生きている人がいますから。

 今の自分が何をしているのか、なんのために生きているのかを分析すること。

 そして「なんのためにそれを成し遂げようとしているのか、成し遂げると何が満たされて何が失われるのか」を考えること。

 最初にやり始めた原因を、探すこと。

 そして、それが今と今後のために必要かどうかを考え、判断して実行するかどうか決めること。

 現実的に考えること。

 自分の脳内で言い訳して都合のいいほうにもっていこうとする自分と戦って勝つこと。

 です!

 (・Θ・)でしゅ!

 ぜひ、誰にも言わずに行動しないままでやったほうがいいですよ。

 感情に合わせて行動すると、後から行動の結果が次々出てきますから。

 明確な目的や志あっての行動ならば、困難として乗り越えるだけです。

 しかし、達成したときに「あの困難を乗り越えてきてよかった」と思えないならばやめたほうがいいです。

 あと、個人的に「ざまあみろ」と喜ぶだけのようなことは、ぜひ女子にしてほしくないです。

 あれほど醜い顔はない、と思えるほど、百年の恋もほのかな恋も一瞬にして覚めるような顔をします。

 心根は表情に必ず出ますから、心根を大事にしたほうがいいのです。

 分析する際は、「~と言った」「~をした」の表面上ではなく、

 どんな気持ちがそこに込められていたのか、を考慮すること。

 その時込められているなあと感じた気持ちを思い出して、正確に分析してください。

名古屋講座を終えて

 名古屋講座にお集まりくださった皆さんに、心よりお礼申し上げます。

 お忙しい中お時間を取ってお越しいただき、ありがとうございました。

 とても嬉しいプレゼントをいただきました。
 帰ってから開けてみて、胸の熱くなる思いでした。
 本当にありがとうございました。

 今回は他に用事があり、せっかく行くのだからと急遽用意した場でした。

 採算度外視で行いましたが、そのお陰で東京までは来ることができない方に来ていただけたこと、本当に良かったと思いました。

 どうしてもその場で実験したかったので、待つことが大嫌いな僕が並んで手に入れたお土産を持参しました。

 想像力が働かないならば、今体験させるまで。

 くじ引きをして、一人にだけゴディバのチョコレートをプレゼントしました。
 他の皆さんには、行列ができる店のお菓子を、箱からひとつずつ配りました。

 社会的価値と、心理的価値の違いを体験させるために行いました。

 社会的価値、つまりブランド力や値段。
 心理的価値、手に入りにくい、人気の、流行りの、そして「みんながもらった」という価値です。

 僕は社会の理想を追い求めるこの価値観をなんとかしたいので、どうにかして立場の違う人たちが仲良くしようとできないものかと考えています。

 人の物を欲しがる人は、自分が持たない時期があったにも関らず、金や物を持てばそれを使って「自分だって持ってるんだぞ!」と優越感に浸ろうとします。劣等感の解消をしたいのです。
 悔しいから同じものを得て、「こんなものあったって何にもならない!」と今度は新たな自分を馬鹿にする、とにかく今の自分を馬鹿にすることの繰り返しです。

 最初の自分が気に入らないだけです。

 最初から社会的には価値あるとされる、そこしかなかった人たちとの決定的な違いです。
 他人が得ていることが悔しい人は得れば見返せると思っていますが、実際には過去の自分と同じような人たちだけが悔しがります。

 成金と呼べば聞こえは悪いですが、少し手に入れれば人を見下してこれまでの自分の価値を更に下げにかかる人もいます。

 持つことのできない人の最大の敵だと言えます。
 最初は自分たちと同じところから始まり、自分だけが得ようとした人。
 得たら今度は過去の自分と同じ人たちを顧みることがありません。

 最初からそこしかなかった人は、反対側にあるものが欲しいのだと教えました。

 相手と自分は違うと受け入れることで、相手が欲しているものを渡し、自分が欲しているものももらうことが可能なのだと理解してほしいと思いました。

 「あれさえ手に入れば!」と他人の持ち物を集めても意味がないのです。

 最初から持っていた人たちは、それを持つべき役目も同時に持たされるからです。

 苦労も背負わなくては、物だけ持ってもなんの意味もないのです。

 最初から持っていてその意味がわからなくなった人たちは、中島誠之助さんのような目利きの天誅を食らって目を覚ました方が良いでしょう。

 何か意味があるから、そこにあるのだと忘れてはいけません。

 かくいう僕も、この年になって三代目仲田錦玉の作品を実際に手に取った時には感動して涙が出ました。何が素晴らしいところなのか、それを知らない者は持つ意味もありません。

 豚に真珠というやつです。

 意味や価値がわからない人は、持ったところで同じように嬉しいと思うこともないし、価値も感じない。そしてそれを使うことはできない。

 金や物に意味がないのではなく、持つべき人が持たないと意味がないのです。
 自分に相応しくないものは、いくら社会的にすごいものでも持ったところで無駄遣いにしかなりません。

 自分にふさわしいものがあるのです。

 憧れは見ている方がよく、手に入れたら憧れは消えてしまうのです。

 芥川の芋粥です。
 憧れているから憧れがいつまでも外側で輝いていてくれるのです。

 憧れは自分が持つことのできないものだから美しく素晴らしく見えるのであって、持ってしまったらもう憧れは無くなってしまうのです。

 人のものはなににせよ賛辞し尊敬する姿勢で生きていれば、外側には素敵なものが沢山あるように思えるでしょう。

 何を手に入れたら人を見下して他人を不幸にできるか考えていたら、外側のものを如何に奪うかしか考えなくなります。

 自分が何かを手に入れることで、悔しがったり傷ついたり落ち込んだりしてくれる人がいれば幸せだなと思う。それが、人を妬む人です。

 物や金は奪えます。努力で手に入れることもある程度はできます。

 ただ、人格だけは奪えません。

 人格破綻者だが、権力も金も名声も持つ人がいます。
 そんな人になりたいのが、支配的な人です。

 素晴らしいものを沢山持っていても、人格が愛されないならば孤独な支配者です。

 何を選ぶかどうなりたいのかは本人次第ということです。
 自分にだけは目がいかない。他人の持ち物と比べてそれを集めたらあの人と同じになれると勘違いした。

 そんなことは案外多くあるものです。


 僕は何も持っていなかったので、幸せでした。

 何も持っていないから幸せなのです。
 自分一人の力で他人に張り合って身につけたかったら、一生かかっても大したものを手に入れることも体験することもできなかったでしょう。


 素直に頭を下げることこそ、誇り高い人間がすること。

 「知らないんだからしょうがないだろう!」と威張って足りない部分をなんとかしてもらうのが泥棒です。

 「こんなに大変なんです」と惨めに見せて、人が心配して向こうから「じゃあこれをしてあげる」と言われて喜んでいるのが、乞食の子です。


 そのどちらも現代日本では必要ありません。
 する必要が無くなりました。良かったですね。

 僕は子供のころからずっと、狭く汚いアパート暮らしで貧しさに耐えながら生きてきましたが、家に残された教育が身を救ってくれました。
 馬鹿にされても笑われても、本当に持っていないのだからしょうがないと思えたのは自分が泥棒の子でも乞食の子でもない、と思っていたからです。

 母の力は大きいとも思います。

 学校に持っていくものも買えないと、学校で馬鹿にされました。
 それも、「うちのお母さんがお前のことこう言ってた」と馬鹿にしてきた成金の子もいました。
 お家の教育です。お里が知れると言われるのは、こういう時です。
 まともな家では外で人様の持ち物を馬鹿にするように育てません。

 思うだけで、口に出すこともありません。
 この行為に口出しもしません。とにかくその家の教育がその人を作りますから。

 母は僕が八歳のころに、馬鹿にされたことを話すと泣いていました。
 「お前は貧しくともその辺の町民風情に馬鹿にされるような家の子ではない」と泣きながら言いました。
 母も、馬鹿にされてはいけないと躍起になって働いていました。
 自分の外での働きが家の格を上げたり下げたりするのだから、当然です。

 ただ、現代社会ではそもそも上にいる人にただ自分がより私腹を肥やしたいような人がいるのだと思います。誰でもなれるようになりましたからね。
 上に立つべき教育を受けることもなく、上に立つことも可能になりました。金さえ稼げれば。

 お前は武士の子なんだ、今は貧しくとも他の家とは違うんだ、とよく言われました。
 心の中では「もうそんなの関係ないのに」といつも不満でしたが、それは必要だったと思います。

 誇りを捨ててしまったかもしれませんから。 
 

 「知らないの?おかしい!」と笑われることが本当によくありました。
 面白いから笑っているのではなく、馬鹿にして笑っているのです。

 そんなときも「知らないので教えてほしい」とお願いすれば教えてもらえました。

 恥じることはありません。最初だけですから。
 知らないまま生きることの方が恥なのです。

 今では彼らの方が僕よりずっと持つ人たちなのだから、僕の方こそ謙虚に頭を下げて教えていただくべき、と思いました。

 「好きにしていい」の意味が、ひとつも好きにできなかった僕には全く理解できませんでしたが、自分で判断して、適当にということが「存在するのだ」と教えてくれたのも、家族で大皿をつつく食事をしていた人たちでした。

 僕は彼らに感謝しているので、僕が先に知っていたことは彼らにも分けていかねばと考えています。

 必要とされることは無かったので、僕より持っている人たちに教える必要もないと思っていました。

 僕は特に人に言えたほどのものは何も持ちません。
 実際に必要となって現場を体験しながら、必要となるものを身に着け、学んでいきました。
 なので人に言えることは何もありません。

 同じことをすれば僕でなくともわかります。
 もし、遊興に使う時間があるならばその時間に知らないことを知るために本を読めばいいし、勉強すればいいし、訓練すればいいし、特に難しいことは何もありません。

 誰でもできることが、ほとんどです。
 誰にでもできないことをする人が、本当にすごい人なのです。

 金や物があって、時間があれば努力して誰にでもできることは、すごいと呼びません。

 自分以外にも持っている人がいるものを持っても、なんでもないことです。

 「金さえあれば」と言う人が昔いましたが、それで何をするのかの方が重要です。

 金があれば色んなことができるでしょう。

 しかし、それを使って何をするのか。
 人に見せびらかす何かを得たいのか、人々に貢献するために何かしたいのか。

 根っこのところで考えている動機が、人生を決めます。

 ある程度のお金持ち以上は、自分を金持ちだと思わないと言います。
 調査するとそのような結果が出てくるそうです。

 上には上がいると知っているからです。

 僕はあえて「間抜け」と呼びたい部類の人がいます。

 人を羨んで自分の持つものをくだらないと全て捨てて、人の物を持っても持つべき自分がなく自分の首を絞め、なりたくないものになろうなろうとした結果、欲しくもないものに囲まれて「自分はこれで満足している!」と豪語して過去の失敗を認めないために生きる人です。

 僕の身内の話です。

 親を恨んだ罰です。

 目に見えないものまで捨てた時、人生が終わったのだと思います。
 生きているうちに伝授してもらっていて、良かったです。

 魂さえあれば、たとえ生まれ変わって違う時代に違う体で生まれても、同じような人生を歩ますから。

 名古屋で配ったものは、当りの方を何にするのか結構考えたんですよ(笑)

 知っていた方がいた、人気のキャラメルサンドの店のものにしようかという案もありました。
 しかし、必要なものは「誰もが知るブランド力」なので流行り物はやめようということになりました。
 そのキャラメルサンドは、先生が持って帰りました。
 おいしかったです。これが今人気なのですね。

 その場で食べてもらう、をする必要があったので、お茶を用意したかったですね…。


 この時間のない現代社会において、常に「呑気にしていたい」のでいつもいつも時間を長くとっていてすいません。

 言っていることよりも、形よりも、魂が伝わりますようにと念じています。


 感覚で感じるものが、人にはあります。

 それが伝わるようにと願っています。


 きちんと、ちゃんと、というものが皆さん好きです。

 そうなりたいとか、そうなれるようにとか、考えているようです。

 僕はもういいです。そういうのもういいです。

 そんなものより、自由に、それぞれの発想で生み出せることが素晴らしいと思っています。

 画期的というものに惹かれます。

 しかし、そこには原点として自分自身の持つ歴史がなくては最高のものになりません。

 自分の過去や歴史なくして、本当に人と違うものは生み出せませんから。


 親子でも対立することはあると思います。

 僕の母は家も歴史も捨てましたが、僕は捨てませんでした。

 お陰で対立して生きてきましたが、僕は自分を失いませんでした。

 最初にどこから始まったのかを忘れた人間に、行くべき道などわかりません。


 どこからきてここにいるのか知らない人が、目指したい場所などありません。


 何よりも、「もう自分は何をしても無理」とあきらめたならば、終わりです。


 諦めは仏教では執着から離れる言葉。この場合は「放棄」と言った方が正確でしょう。


 僕は生きている限り、親を恨むことはできません。

 生きる苦痛から逃げたい人が、親を恨むのです。

 僕はまだ生きたいです。やりたいことも見たいものも知りたいことも沢山あります。

 だから恨めません。

 親がいかに嫌でも、いなければ生きることもできなかった時期がありますから。


 他の人はそうは思わなくてもいいし、実際一般的には子供には何もできないのだから仕方ないと言われてはいます。そして他人についてはそうだと思います。

 ただ、僕は違います。
 僕はそうは思わないし、親がいけないんだからしょうがないと僕は僕にだけは思いません。

 皆さんが、親の虐待に耐えてきた人ならばそんな不幸なことはないと思います。
 そして何ができなくても親が愛を注げなかったせいだと思うし、そのせいでどうにもできないのは仕方ないことだと思います。
 当たり前にあるものがなかったのだから、どうにもできなくなっていても仕方ないと思います。
 嘆くのも当然だし、自暴自棄になることも仕方ないです。
 人を羨むことも仕方ないと思います。

 ただ、僕はそんなに自分に優しくする必要がない人間なので、そこを理由にはできません。
 僕は自分自身の原因があってうまくいかないのであって、親の仕打ちや選べなかった生まれのせいにして自分が生きることを放棄する権利がありません。
 生まれたこと自体僕の力ではないので、思い通りにしてもらえないと恨めるほど親も楽はしていません。
 僕の親や祖父母は、少なくとも自分たちも楽な生き方などできなかった人たちなので、この一族に生まれた全員が耐えなくてはならないことであって、僕だけ親を恨んで暴れることもできません。

 嫌なら死ぬこともできたのに、現世に執着して生きようとしたのは自分自身ですから。

 僕は母にもそして祖母にも感謝しています。
 とても良い人だとは思いませんが、感謝はしています。
 僕なら耐えられない、できないことを継続していた人たちなので、そこから得る恩恵について感謝しています。
 過去には過去の、今には今の苦労があります。
 違う時代の苦労を両親や祖父母は担っていたので、僕が今の辛さから逃げ出す限り、親に文句も言えません。
 自分の問題を片付けもしないで、人に役目を果たせなど到底言えないことですから。

 少なくとも親に諫言するからには、自分自身のことについてはきちんと方法を見つけて解決している必要があります。
 「自分のこともできないくせに、人のことをとやかく言うな」とよく言われたものです。

 最低限、自分のことは自分で努力し、考え、なんとかしている必要があります。
 そうでなくては諫言することは許されませんから、躍起になって自分の目の前の問題はなんとかしていたなと子供のころを思い出します。

 ちょっと理解できないと思いますが、両親と祖母は僕とは違う家の人なので、感謝しています。
 魂の入れ物となる人間が必要だったのだなと、厳しい教育を思い出します。

 僕は怠け者なので、強制されなければあれもこれもやらないままだったと思います。
 今でもそうですが、意思が弱く強制的に行うように自分で自分を追い詰めなくてはならないことがあります。

 僕よりも僕の生徒たちの方が余程強いと思います。

 「人にすぐに教えてもらおうとするな」
 「見せびらかすんじゃない」
 「人のことをとやかく言うな、黙って自分のことだけしろ」

 こうした当たり前のことを何度も言われていたことが、今ではありがたいと思えます。
 親に言われたからこそ、不満でも耐えるしかなかったのですから。

 優しさはないが、教えていることは正しい。

 そして僕は優しくしてくれないなら言うことを聞かないと甘えたいほど、親に親近感を持っていません。

 時々、もう僕一人なのかと思うことがあります。
 奇妙なことで、親族はいるのにもう僕一人だと感じます。

 もう教える番。もう誰にも教えてもらえないし、守ってももらえない。

 責任を持つ恐怖に耐える番。
 みながやってきたのだから、僕もやらねばなりません。


 「なんでも順ぐりなんや。自分だけやない。なんでも順ぐりや。」

 幼児のころに、親がいないころ祖母に言われました。

 自分だけが辛いと思うな、みんな順番にやっていることなのだという意味です。

 親を憎んでいましたが、だからこそ僕はやるまで。

 「あなたはできなかったんですか?僕は耐えましたよ。」と。

 生まれた時から、それぞれが背負う責任があり、それぞれがそれと戦っています。

 僕は甘えていていい人間ではなかったので、親の優しさにしろすべてなかったものは「必要ないからなかった」と思っています。

 他の人たちには気にしないでほしいと思っています。

 実際、優しくされてもできる人間ならばともかく、僕は甘やかされていたら必要なこともきちんとやらない子供だったと思います。
 わがままだったので、勉強もしないで遊んでばかりいたでしょう。

 きっと後になって後悔したと思います。
 今過去の自分に感謝しているくらいですから。

 不満だったのに、意地になって頑張ってくれていてありがとうと。

 何かに張り合うと意地になって頑張りますよね。
 どんな理由でも頑張ったことは無駄にはなりません。

 だから親を恨んでいる時期も必要です。
 親を憎めば必ず躍起になって努力しますから。

 見返したいと思うからこそ、必死になって努力するのですから。

 実力を備えなくてはならないからこそ、必死になるのですから。


 そして今でも大した実力はなく、見えないものなど信じる人の役にしかたちません。

 この物質的なものを得るためだけに生きる現代社会においては、ほとんど意味がないでしょう。

 幸せが欲しいと言いながら、実際には形あるものを集めたいだけ。

 「不幸を生み出すんです。大衆は可哀想なんて言いながらも、人の不幸は蜜の味で人の不幸を見るためには金を出すんですから。」

 忘れられない言葉です。ある仕事で指示された内容です。若いころに、そうやって作られた不幸で大衆を動かしていくものなのだ、それが商売なのだと知ってよかったと思います。

 そして、「俺にはそんなことはできない。いくら仕事でもできない。」と判断して、良かったと思っています。
 まだ若かったので、その程度のことでもショックでした。当たり前なんですけどね。まだ夢を見ていたころですね。

 努力して実力を備え、少しずつでも新しい世界に進んでいたから知ることができた現実が沢山あります。

 なんでも裏側がある。夢など片方から見ただけで勝手に作り上げた妄想です。

 妄想などしなくなれば、当たり前に思うことばかりになり不幸も消えるでしょう。


 いいなあと思うものなんて、全部作られたもの。

 人間が作るものは全部、作りものですから。

 本物と呼べるものだけが、後世にも残っていくでしょう。
 





 

 



 

我慢と恨みの仕組み

 恨みはどこから来るのか。

 色々な理由があるが、我慢していると本人が思った時に恨みが発生するのではないだろうか。

 個人ではなく、政治的な動きを見ながら考察している。と先に前置きしておきたい。

 正直、個人のことについて僕はそこまで気にしていない。
 大きな動きの中の一部としか捉えていない。

 個は集団になれば力を発揮するが、個のままなら大したことはできないからだ。

 我慢と恨みの連鎖が起きているのだなと現在他国間で起きる問題を見ていて思う。

 子供は親に我慢させられたと感じているが、その我慢はどこからやってきたのか。

 親は我慢していないのか。
 勿論している。子は親を恨みやすいが、恨んだらそこで終わる。

 恨んだ人は人生で最初に乗り越えるべき問題から出られないまま、終わっていく。

 親への恨みはどうでもいい。
 僕はそう考えている。
 神経症は親子関係から始まるが、別の言い方をすればそこから出ることができなかった、親を好きになることも関心を持つことも、親を大切にすることもできなかった人だとも言える。

 「最愛の人に対する最大の憎しみ」だっただろうか、そんな葛藤を乗り越えなくてはならないと言われている。

 それは確かにそうだろう。

 僕は早くにそこは乗り切ったので、人類に対しての考察として更に先を考える。

 親に~してほしかった。ここを終わらせて「なぜ親はあんなことをしたのだろうか?」と考えていく。
 最後には政治に辿り着く。

 政治は政治だが、過去のことなので一般的には歴史と呼ばれる分野まで思考を広げなくてはならない。

 兎に角、常にどこかで流れをせき止め、自分だけが得をしたい、欲を満たしたいと「自分の働き以上に欲を貪っている個体」がいる。

 自分の働きに応じたご褒美しか得ないのが当然だ。
 だが、あれこれと正当化する理由をつけては一人で何十人、何百人前と欲を満たしている個体がいる。

 一般的に贅沢と呼ばれる行為に見えても、それを必要とする人がいる。それ相応の立場にいる。それ相応の役目や働きをしている場合だ。

 必要以上に贅を尽くしている個体がいれば、他で不満が爆発するのは当然だ。

 想像力があれば、人のことを考えられれば、誰かに働かせて得をしようと思えない。
 そして何よりも、他人から奪おうと思わない。

 奪うならば、得をしている人、働き以上に贅を尽くしている人から奪おうとするだろう。

 結局は贅沢したいだけ。何もできないと低い自尊心を持つ人ほど、他人が生み出したものを欲しがり、他人のものを真似して持っては「自分にもできた!」と思い込む。

 もっともっとと物を集めたがるのだ。

 他人が持つものを持っていないから価値がないと思い込んでいる人は、他人が持つものを持った時には持たない人を見下す。

 そこに絶対的な価値があると思うから、人間を持つものと持たないもので差別するのだ。いじめる側が逆転しただけの支配関係だ。

 子供は親が好きなものかと思えば、そうでもないらしい。

 親を親として見ていない人もいる。

 親がくれたものに対して、無駄に使うことは罪悪感を伴う。

 親が犠牲となって得たものだと知っているからだ。

 他人は違う。だから他人からはいくらでも吸い上げる人がいる。

 他人からももらったら他に回していくものだ。

 次はあなたの番だよ、と教えも物も、回していくものだ。

 広げていくと言えばいいだろうか。

 お前と俺、と区別していたいのは、張り合いたい人だ。
 みんなで幸せになろうとしない。

 そうした個体は、自分だけ、と吸い上げていく人に不満は持てない。
 より社会的に上の立場になった自分がやっているのだ、と思えば、吸い上げられることにも耐えて当然だ。

 非常に、低レベルな戦いを世界的にやっていると思う。

 しかしながら日本は侍の国。
 我が身を捨てて志に生き、仲間と共に切磋琢磨し自己鍛錬に励む国民の国だ。

 このままでよいわけがない。

 生きていけるのに人を見て羨み、より贅を尽くしたいなど凡そ侍の持つ感覚ではない。

 他人と比較して他人の持ち物を羨む人が実際には沢山いるというが、本当にそうだろうか。僕は信じない。

 何か深い考えあり、人に見えないところで精進しているのが日本人だ。

 それが侍と言うものだ。

 一見して遊んでいるように見えても、それには深い意味がある。
 敵を欺くにはまず味方から。
 いい年をして本当にただ遊んでいる人がいるわけがない。

 実際には、誰にも知られないように何かをしているものだ。

 誰にも知られないようにするものだから、誰も知らないのが当然だ。そのような人は、おそらく五年、十年経った時に成果を見せてくれるだろう。

 だから一見してわからないことをしている人も、気にすることはない。

 精神分析はともかく、個人的にはそう考えている。
 なぜならば、精神分析を含む心理学はドイツが先陣を切ってくれたと言える分野だが、僕は日本人だからだ。

 日本は島国で、鎖国をしていた。彼らとは違う。

 サイコパスなんて言われるが、実際にはそんな人がいるのかどうかと僕は思う。

 ただ個人的に恨みがあった人が、誰かをひどい悪魔にしたかっただけではないだろうか。

 僕個人の考え方と、精神分析学的な結論はだいぶ違う。

 一応どちらも書かなくてはならないし、引き合いには出すが、実際に日本人の中にそんな人はいないだろうと僕は思っている。

 どうせ確認などできないのだから、好きに考えていたほうがいい。

 心の中は恨みや憎しみでいっぱい。
 人を見張っては他人の持ち物を羨んだり奪いたがったり、気に入らないやつを傷つけて喜んだり。

 そんな人間がいるわけがない。それでは悪魔だ。
 人間の中にそんな部分があっても、それが全部ならば人間ではない。だから人間の中にはいない。

 だからこそ、全体の動きを見ていて考える。

 この国全体が我慢しているならば、この国が何かに屈して我慢しているということだ。

 また、この国の中に自分だけと吸い上げている個体がいるということだ。

 なぜだ、と考える。
 何か理由がある。すべてに。

 何が起きているのか、常に考えている。

 「お前が悪いんだからなんとかしろ!」

 という意見が論外なのは当然だとして、そうした個体が多く発生していることについて、原因を考えている。

 僕はとにかく、黒船来航したとき実際には何があったのかを考えている。
 おかしい、と思えることがあるからだ。

 物差しとして自分の一族という確認可能なものを持っている。
 事実あったとわかっているものがあるのだから、そこを基準に考える。

 この物差しを持つ人を確認する方法を、一部だが知った。
 照らし合わせて集めていく必要がある。

 言われていることは言われていることでしかない。

 実際に社会に出ると、社会の裏側を知る。

 僕など大したものではない。社会の多くを知らない。
 誰もが学ぼうとすれば学べるものすら知らない。

 経済学者、社会学者、政治学者、様々な分野の学者に加え、実際に体験している人、政治家になったわけではない。

 表向きと実際のところが違うのだから、表面に出している部分から考察していかねばならない。

 少なくとも、実際の歴史と残される歴史が違うことは、子供のころから知っている。

 沖縄の人たちなどは、それを痛いほどよく知っているので最も社会の正しいなど信じないだろう。

 日本人は急に正しいと思うことが変わった。

 なぜ?

 それぞれが自分の親に、またその親に聞けばいい。

 誰かのところで、いきなり変わったのだ。

 元々、日本は世界的に見れば様々なものにおいて弱小。
 自分たちが持つものを手放せば最悪なことになる。

 僕も過去に、自分たちの誇る伝統技術を古臭いと馬鹿にして西洋のものばかり欲しがってはいた。

 今になって、それが間違いだったとよくわかった。

 目に見えたものではない、とよくわかった。

 日本だからこそ発達できた部分があるのだ。
 それを手放してはならない。

 真実が簡単にメディアで公表などされない。
 何かが伝えられたら、実際には何があったのかと考える必要がある。

 そしてなぜ、今これが流れてきたのかを。

 心の仕組みがわかっていれば、見当はつく。
 だが、わかっただけではどうにもならない。

 どうするか方法を考え、実行する必要があるのだ。

 おそらくは、まだ自分では考えたことがない人もいるのだろう。
 他人に言われたことの寄せ集めで生きているというか、背景があり結論があるとわからないというか。

 「どうしてこうしたの?」
 「だって誰誰がこう言ったから。」

 自分の考えは何もなく、「他人が自分の一部だ」と思っている。

 自分以外の人たちで自分の今後を決めるのだから、気に入る人だけ残す方に躍起になるだろう。

 このような状態のまま、大統領にだって上り詰めるのだから人間は恐ろしいものでもあるし、面白いものでもある。

 「大統領がこんなに大変だと思わなかった。」

 と就任後のトランプ氏。

 だが、素直な日本人は他人が言ったことには不満があっても従うし、自分たちのためを思って権威は何かを決めていると信じている。

 親も信じないのに、なぜ他人がそこまでしてくれると思うのか。不思議でならないがそれもまた良い子の条件なのだろう。

 素直に自分の気持ちを認めないものだとは聞くが、そんなに長い間我慢はできるものだろうか。

 自分でも自分がカッコ悪いとかみっともないとか、情けないと思う発想は勝手に出てくるものだ。

 そんなものが止められるわけがないのに。

 自分が自分の気持ちを評価すれば、都合のいいことしか見なくなるだろう。

 感じているものを言語化せず、いつまでも「私は私がわからない」を続けていくしかない。

 望ましい自分しかいない!と思い込むためには、我慢して実際とは異なる自分のふりをして生きるしかないだろう。

 なるほど、自分に我慢させ、自分への憎しみを他人への恨みに変えるのだろう。

 その恨みを利用して、大きなものを動かし、より大きな力で恨みを晴らしたい人の力になるのか。

 どっちもどっちと言うか、やはり同じ方向性の人たちしか一緒にはなれないのだ。

 個の恨みは集まり、もつと上にいる個の恨みのために使われる。

 エネルギーの流れを考えると、やはり人間はたった二人なのだろう。

 物質的にはたった二人の一部なのだろう。面白い。

 家族の時点で、右手と左手が喧嘩して体をばらばらにしていくようなことが起きているのだから。

 天の父はどう見ているのだろうか、などと考えてしまう。